信長の夢と野望!幻の城「安土城」はこうして生まれた

安土城といえば、戦国時代に織田信長が天下統一のための拠点として築いた城。”安土桃山時代”という時代の名称に用いられるほど、その後の日本の城のあり方に多大な影響を与えた名城と言われています。前代未聞、黄金の瓦で覆われた五層七重の巨大城郭。日本の城の歴史を大きく変え、石垣城郭の始祖と言われながら、未だ謎のベールに包まれている安土城。天下統一に動いていた信長が城に託した、もうひとつの”野望”にせまります。

天下人の城・安土城

言わずと知れた信長の城

言わずと知れた信長の城

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「安土城とは織田信長の城である」

歴史にはそれほど詳しくないが、それくらいは知っている。
そういう方も多いでしょう。
安土城とは、織田信長が1576年(天正4年)に現在の滋賀県近江八幡市安土町にある安土山という山に、当時の技術の粋を集め、数千人の労働力を投入して作らせた巨大な平山城です。
平山城とは日本の城の分類のひとつで、平野の中にある山や丘を利用して作られたものの総称。
安土山は琵琶湖のほとりにある標高198mの小高いで周囲は平坦。
山城の好条件を満たしていると言える山です。
現在は、安土城址として城址は国の特別史跡に指定されていて、日々、多くの観光客が、信長が愛でた景色を見ようと山頂を目指しています。

しかし、山頂に残っているのは石垣と礎石だけ。
天守閣はおろか、建物は何一つ残っていません。
実は安土城は、築城からわずか3年、本能寺の変の直後に焼失、豊臣秀吉が天下統一を推し進める過程で廃城となってしまい、詳しい資料や文献もほとんど残っていないのです。

そのため、日本の城のあり方を変えた名城と言われながらも、その実態はいまだ多くの謎に包まれています。
そんなところがまた、安土城の魅力なのかもしれません。

謎多き幻の城

謎多き幻の城

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安土城は築城からわずか3年の1579年(天正7年)に天主(信長は天守のことをこう呼んでいたそうです)が完成しました。
信長はそれまで拠点としていた岐阜城と織田家の家督を長男に譲って安土城に移り住んでいます。

当時の城はあくまでも戦いのためのもので防衛が主な目的。
居住するためのものではありませんでした。
しかし信長は安土城の天主に住み、山の中に家臣たちの屋敷も建てさせています。
このような造りの城は、非常に珍しいものでした。

また、城は総石垣で、山全体に無数の石が積まれています。
どうやってこのような石垣を築きあげたのか。
現存する石垣の中にも、重機を用いても難しいだろうと思われるほどの大きさの石がそこここに見られます。
人力だけで、山の上までどうやって運び込んだのか。
石など運んでいる最中に敵襲があったら?総石垣は強固な城になりますが、築城に時間がかかり無防備になりがちです。
信長はどうしてそれにおよんだのか。

天主完成から3年後の1582年(天正10年)、本能寺の変が起き、信長は天下統一の志半ばにして死んでしまいます。
安土城は信長を討った明智光秀が城主となりますが、光秀も豊臣秀吉に敗れ、その後しばらくの間信長の息子である信雄(のぶかつ)や孫の秀信などが住んでいましたが、1585年(天正13年)に廃城されたと伝わっています。
その後は豊臣の天下。
そして徳川の時代となり政治の中心は東へと移っていきます。

時代は混迷を極めていました。
本能寺の変についても多くの謎があると言われています。
とにかく、数年の間に国中が大きく動きました。
そんな中、安土城は突如として姿を現し、瞬く間に消えていったのです。
安土城の天守閣が焼けた理由には諸説あり、これも安土城の謎のひとつとされています。

屋根は黄金?天主は八角形?

屋根は黄金?天主は八角形?

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たくさんの謎に包まれたミステリアスな城ですが、最大の謎は城の形状でしょう。
安土城は有名な城ですが、天主の具体像については、まだよくわかっていないのです。

「えっ?上の部分が八角形の、あの城でしょう?」

そう。
よく知られている安土城は、最上階が金色、その下に朱色の八角堂を備えた形をしています。
復元図やプラモデルをご覧になったことがある方も多いでしょう。
現在の安土城跡の最寄り駅、JR琵琶湖線安土駅近くにある「安土町城郭資料館」に、20分の1スケールの安土城復元模型が展示されていて、模型とわかっていても、その迫力には圧倒されます。
こんなものが突然山肌に現れたら?周辺の領民たちはさぞ驚いたことでしょう。

黄金や朱の美しさもさることながら、特筆すべきはやはり、天主の八角形の部分。
八角円堂という、奈良の法隆寺夢殿などにみられる八角形の美しい造形は、覇王信長のイメージにぴったり。
しかし、本当にこんな形をしていたのでしょうか。

こうした安土城の復元図は、信長の家臣であった太田牛一の『信長公記』(しんちょうこうき / のぶながこうき)や、宣教師ルイス・フロイスが残した『日本史』の記述を元にしています。
安土城のことを記した、数少ない貴重な文献。
安土城についての資料は数多くありますが、元をたどるとこの2つの資料いずれかにたどり着くのです。

政務で使われていれば城の形状についての資料もたくさん残っていたかもしれません。
しかし安土城は築城後数年で焼け落ちてしまっています。
その際、資料もみんな焼けてしまったか、あるいは、防衛機密の観点から工事の際に用いた図面などは、築城後に処分したのかもしれません。

残された貴重な資料の中に、天主の上のほうが八角であったことを示す記述があるとのことで、ここから安土城のイメージが作られていったと考えられています。
しかし、明確な図が残されているわけではなく、八角円堂の痕跡が遺構として発見されたわけでもありません。
城の上の方にあのような複雑なデザインを施すのは、相当な技術を要したはず。
そのようなことが可能だったのか?”八角”とはどのような形を指すのか?今なお研究が続けられています。

安土山を選んだ理由は?

信長は尾張の国(現在の愛知県)の武将。
現在の愛知県には織田家ゆかりの城がいくつも残されています。
信長の活動の地盤は愛知県であったと考えるのが自然ですが、信長の城として広く定着している安土城は滋賀県に建てられました。
信長はなぜ、お膝元の愛知ではなく滋賀に城を築いたのでしょう。

安土城を建て始めた1576年というと信長は43歳。
天下統一へ王手をかけた時期です。
前の年に長篠の戦いで武田の軍勢を破り、北や東方面の脅威がなくなったことで、信長の目は西方面へ向けられたと思われます。
そうなると、活動拠点は愛知や岐阜より西、京都に近いところの方がよかったのでしょう。
信長は天下布武(信長の天下統一事業)を掲げ、より精力的な活動を続けていました。
西方面へ睨みをきかせるためにも、安土山は良い場所だったのかもしれません。

現在の安土山は琵琶湖から数㎞離れていますが、築城当時は三方を琵琶湖の内湖に囲まれていて、城からすぐ、琵琶湖に出ることができました。

内湖とは、琵琶湖から切り離されるようにしてできた湖のことで、昔は琵琶湖の周りにはたくさんの内湖があったのです(内湖は水深が浅いため、戦中戦後に耕作地確保のため干拓された)。
安土城は山城でありながらすぐ琵琶湖に出ることができる、水運を活かした城でした。

琵琶湖に近いということは、水路でそのまま、京都へ出ることができます。
信長は安土城築城の数年前から、家臣たちに琵琶湖のほとりに坂本城や大溝城などいくつか城を築かせており、それらを結んで天下布武を成し遂げようとしていたことが伺えます。

琵琶湖の水運と京都への利便性、東西を結ぶ場所として近江が重要な場所であったこと、家臣たちが築いた城を結ぶ水路と陸路の要の地であること。
これらの理由から、信長が安土山を選んだのだと考えられています。

安土城築城までの道のり

信長の城遍歴(1)

信長の城遍歴(1)

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戦国武将には必ず領地があり、領地内には居城を築いていました。
敵の領地近くまで攻め込み陣をはることはあっても、城を移すということはなかったと考えられています。
しかし信長は、一箇所にこだわることなく、次々に城を移っていきました。

信長生誕の城は、おそらく勝幡城(しょばたじょう)であったろうと言われています。
現在の愛知県愛西市に石碑や木碑が残るだけですが、二重の堀で囲まれた館城(やかたじろ:邸宅としての機能を重視した、周囲を土塁や堀で囲んだ程度の建物)で、信長の父、織田信秀が居城としていました。
信長はここで幼少期を過ごしたと考えられています。

信長が9歳の頃、信秀は駿府の今川氏が居住していた那古野城(なごやじょう)を奪取し、信長は那古野城に移ります。
ところが信秀は信長を那古野城において、周辺に古渡城(ふるわたりじょう)や末森城(すえもりじょう、末盛と書くこともある)を築城。
信秀は今川氏との戦いに力を注いでおり、そのための移転であったと思われます。
しかし、志半ばにして夢叶わず、信秀は病死してしまいます。
暗殺とも言われており、とにかく信長は、身内にも外にも、四方を敵に囲まれた状態で、18歳で織田家の家督を継ぎました。

話は少し横道にそれますが、この当時の那古野城は後に廃城となります。
そして徳川幕府に入ってから同じ場所に別の城が建てられました。
それが今の名古屋城。
そのため、名古屋城の二之丸内に、那古野城の石碑が建てられているのみで、当時の那古野城を知る遺構はほとんど残されていません。
那古野という地名が名古屋城の近くに残ってはいますが、”なごの”と読むのだそうです。

信長の城遍歴(2)

話を信長の城の移り変わりに戻しましょう。

父信秀は、城の場所には特にこだわりを持っていなかったようでした。
今川氏との戦いのため、よりよい場所に移動し続けていたのです。
信長はそんな父の影響を強く受けていたのかもしれません。
信長も戦局に合わせるかのように、城をいくつも変えています。

1555年、信長は伯父の信光と共に策をめぐらせ、清州城を奪取。
信長は那古野城から清州へと移り、尾張の国を平定します。
また、ここを拠点として今川氏と対峙。
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)にて今川の大軍を退けます。

もともとは応永12年(1405年)頃に室町時代の武将斯波義重(しばよししげ)によって建てらたもので、織田信長の居城になってから後もたびたび歴史の大舞台に登場する重要な城でした。
しかし、現在は本丸の土塁の一部分が残るのみで、天守閣の形などは資料がなく、どんな城だったのか詳しいことは不明。
安土城と同じように現在も発掘・調査が精力的に続けられていて、少しずついろいろなことがわかってきています。

ここまで、勝幡城、那古野城、清州城と、いずれも既にあった城へ移っていしたが、1563年、信長はついに自分で城を築城。
その視線は既に美濃国(現在の岐阜県)の斎藤氏へと向けられていました。
美濃国とは美濃のマムシと恐れられていた斎藤道三(さいとうどうさん)の国。
その頃は道三の孫の龍興(たつおき)が家督を継いでいました。

信長は現在の愛知県小牧市にある標高86mの山の上に美濃攻めのための城を建てたのです。
小牧山の北側は当時はまだ沼地。
守りは万全です。
南側には大工事を施して堀を造ったと考えられています。

美濃の斎藤を攻略した信長は、さっさと小牧山城を出て稲葉山城へ移っていきました。
信長も、父信秀も、過去に何度か試みて攻め落とせなかった稲葉山城を、斎藤氏から奪い取ったのです。
信長はこの城の名を岐阜城と改名。
この頃から信長は「天下布武」の朱印を使うようになっており、天下統一を強く意識するようになったことが伺えます。

新しい城のあり方を問う

新しい城のあり方を問う

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安土城は石垣城郭の始祖である、と、冒頭で少し触れさせていただきました。
石積みや石垣、瓦などを用いたのは、安土城が最初だと、ずっと考えられていたのです。
しかし近年の調査で、この小牧山城の中から石垣と思われる痕跡が発見されました。
同様に岐阜城でも石垣の跡が見つかっています。

信長が小牧山にいたのは、斎藤氏を討つまでの4年と少しの間だけ。
しかし信長はこの山に塁濠を5段も設け、井戸を掘り、重臣たちの邸宅を作らせました。
また、山の南側を整備して、城下町の建設も行ったと考えられています。
城下町というものを発展させていったのも信長の功績のひとつと言われており、この小牧山城の城下町は信長が始めて築いた城下町ではないか、との見方も。
信長は小牧山城を美濃攻略のためだけでなく、本格的な街づくりのための城にするつもりだったのかもしれません。
東西南北1kmにもなる範囲を区画整理しており、油屋、鍛冶屋、紺屋など数多くの商工業者が移り住んで生活していたと考えられています。
しかし、信長が稲葉山城改め岐阜城に移ると、小牧山城は廃城となり、城下町も徐々に衰退していきました。

岐阜城は現在の金華山(当時は稲葉山)に築かれた山城。
標高329mの山の上に建てられており、斎藤氏の時代にはまだ、天守閣らしき建物はなく、戦闘の際に籠城するための典型的な守りの砦であったと考えれています。
築城の時代は古く、鎌倉時代。
急峻な山の形状から難攻不落の山城と呼ばれていましたが、水の確保が難しいことなどから長期戦には不向きだったようで、過去に何度か、落城の憂き目にあっていました。
この山に、信長は天主および居住空間となる建物を建て、小牧山城と同様に城下町の建設にも着手しています。
近年の調査で石垣と思われる石積み跡が見つかっていて、ここにも、信長の新しい城造りの面影が。
金華山は長良川にほど近く、北側は山、南側は広く平地が広がっています。
山の上に高い天守閣を建てたとすれば眺望は抜群。
信長は天主から遥か彼方まで見渡していたに違いありません。

宣教師フロイスが見た信長の城

近年の発掘調査の他にもうひとつ、岐阜城を知る資料が残されています。
前述の宣教師ルイス・フロイスによる記録です。
彼は京都での布教の許可を得るために、1569年、岐阜城に信長を訪ねています。
その際の様子を細かく記しているのです。

フロイスは、山頂に主となる城があること、加工されていない巨大な石を使った壁がまわりを取り囲んでいること、絵画や屏風などで飾られた部屋がたくさんあったことなど、記述から城の内部の様子がよくわかります。
これらの記述内容と発掘によって発見された遺構とは合致することろが多いのだそうです。

また、フロイスは岐阜城訪問の際、600人ほどの貴人は外で待った、とも記録していました。
このことから、多くの人間が城の中に詰めていたことがわかります。
さらに、信長と柴田勝家ら重臣たちとののやり取りについても、その様子を、偏見のないまっすぐな表現で記しているのです。
信長に用事を言いつけられた者たちはみな素早く小走りに行動しなければならず、報告は頭を地面につけて行い、決して目を合わせることはない、など、信長が家臣たちに対して絶対的な影響力を持っていたことなども書き残しています。
今日、私たちが抱いている信長のイメージは、フロイスの記録によるところが大きいのかもしれません。

信長が異教徒であるフロイスたちの訪問を好意的に受け入れたのは、当時の寺院のあり方に手を焼いていたという背景があったのかもしれません。
その頃の寺は今と異なり、かなりの力を持っていて、あちこちで通行料をとったり年貢を巻き上げたり、好き放題をしていました。
信長は仏教を嫌っていたのではなく、仏教をかさにきて横暴を続けている寺と対立していたのです。
そうしたところから、キリスト教の布教に理解をしめしたのかもしれません。
もっとも、信長にとっては宗教は二の次で、おそらく、キリスト教と共に入ってくる異国の文化や技術に興味があったのでしょう。

しかしそのおかげで、フロイスたちは信長の城を訪れることができ、彼らの残した記録から、私たちは信長の城の様子を知ることができたのです。
この後、フロイスは安土城の建築現場へも招かれていて、その様子も詳しく書き記しています。

安土城跡を歩く

大手門からの道は広くてまっすぐ

大手門からの道は広くてまっすぐ

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安土城の正正面玄関である大手門から山頂部の天主・本丸へ続く道は大手道(おおてみち)と呼ばれています。
安土城跡の見どころのひとつです。

門から城内(安土山)に入ると、横幅6m、長さ180mのなだらかな石段がまっすぐ続いています。
門の手前にも、人の身体ほどある大きな石を積んだ石垣があり、大手門の前に立って石垣と大手道を見ただけでも、信長の権力の大きさがどれほどであったか容易に想像がつくというものです。

しかし、門の前が、以前は琵琶湖の沼地であったとはいえ、城の正面の道がこれほど広くなだらかで、しかも直線というのは、少々無防備ではないでしょうか。
現在であれば、観光客にとってみたら山頂までの道で迷うこともなくありがたいですが、普通、石垣造りの城であれば、道を途中で曲げて先が見えないようにしたり、敵の侵入を阻む工夫がなされているものです。
安土城はどちらかというと、来訪者を歓迎するような印象があります。
もしかしたら、大きな門と門扉があって、普段は固く閉ざしていたのかもしれません。
また、直線の部分は一般に開放されていた(行幸道)という説も。
確かに、これほどの石積みを見せつけられたら、信長にひれ伏すより他にない、と、ここを訪れた人に感じさせることができたかもしれません。

それにしても、古代の山城でもあるまいし、門柱の礎くらい残っていてもよさそうな気がしますが、調査の過程で、石段や石垣の多くは掘り起こされ、修復・復元されていきましたが、その際も、門はおろか、建物は何も残っていなかったのだそうです。
焼けてしまった建物も多かったのかもしれませんが、豊臣秀次が近くに八幡山城を建てる際、安土城の中の建物を移築していったとも伝わっています。
秀次は安土城から門柱も持っていってしまったのでしょうか。

昼夜山も谷も動くばかり

昼夜山も谷も動くばかり

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安土城が史跡として指定されたのは1926年(大正15年)。
明治に入ってから今日に至るまでの間に、発掘・調査が繰り返し行われてきました。
安土山は長く摠見寺(そうけんじ)という寺によって守られてきましたが、長い月日を経て遺構の上にはかなり土が積もっていたのだそうです。
月日の流れを感じざるを得ません。

まっすぐな大手道は180mほど続いた後、90度直角に曲がっていて(七曲)、その後は山頂まで急な斜面が続き、ジグザグに折れ曲がっています。
山城の道としてはこちらの方が正しい。
石段の奥幅が広く、上っていると息が上がります。
行けども行けどもひたすら石段。
両側も、まわりも、無数の石によって石垣が作られています。
山頂に近付くにつれて、大きな石が増えていくような気がします。
安土城の石は、近くの山々から切り出した石を運びこんで積み上げたのだとか。
復元されて新しく積みなおされた箇所も多いとのことですが、それでも、これだけの数の巨石がここに運び込まれたことは確かです。
これも、覇王の権力の象徴ということなのでしょうか。

『信長公記』の中に、大石を引き出すための集められた人足たちの様子を記した箇所があります。
切り出された石の中から大石を選でいたようですが、中でも「蛇石」と呼ばれる石は特別であったとの記述が。
運び込む前から有名な石であったようです。
羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀といった重臣たちが集めてきた助っ人の人足およそ一万人が昼夜三日がかりで運び込んだ。
石を引く際の声が響き渡り、昼夜山も谷も動くばかり(昼夜を問わず山も谷も動かんばかりの勢い)であった。
『信長公記』にはそのような記述が残っています。
この作業の現場には信長も現れ、人足たちを囃し立てて運ばせたのだそうです。

また、宣教師フロイスも、特別な大きな石を6,7千人で引き上げようとして石がずり落ち、150人以上が下敷きになって死んだ、と書き記しています。
これが「蛇石」である可能性は高いと思われます。

これほど詳しく書かれている「蛇石」ですが、安土城のどこに運び込まれたのでしょう。
石垣を見上げると、2mはあろうかという息をのむほど大きな石が随所に見られますが、一万人の人足によって運ばれた石かというと、違うような気もします。
まだ発見されていないだけで、この山のどこかに「蛇石」が眠っているのでしょうか。
これも、安土城のミステリーのひとつなのです。

高層建築に住んだ最初のお殿様

高層建築に住んだ最初のお殿様

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人足たちの歌声を思い浮かべつつ、延々と連なる無数の巨石にため息を漏らしつつ、石段を上り続けていくと、少し開けた場所に出ます。
いよいよ、本丸・天主跡への入り口のひとつとされる「黒金門」に到着です。
このあたりの石垣の石は、また一段と大きなものに。
積み方も野趣あふれるもので、信長時代のまま残っている石垣ではないかと想像できます。

門といいますが、ここも、門柱らしきものはなく、ただ石垣が残るだけです。

そこからさらに石段を上り続けて、ようやく天主台に到着します。
もちろん、建物は何もありません。
まわりをぐるりと石垣に囲まれた広い場所。
地面には礎石(柱を支える石)が埋まっているだけですが、柱の数を数えただけでも、かなり大きな建物が建っていたことがわかります。
ここに、5層6階地下1階の高層建築物が建っていたのです。
高さは30mを超えていたと考えられています。
日本で木造の高層建築に居住したのは信長が最初だったとも言われていますが、ここからならあたりを一望することができたでしょうし、また、周辺の領民たちからも、安土城はよく見えたでしょう。

戦いのための山城なら、そんな目立つ建物など建てたら返って目立ってしまいます。
石垣の運び出しや積み上げ作業もそうですが、そんな建物を建てている間に敵に攻め込まれたらひとたまりもありません。
なぜ、あえて目立つ城を建てたのでしょう。

残念ながら、信長がどういう思いで安土城を建てたのか、それを記す文献は見つかっていません。
遺構や文献から、思いを感じ取るしかありませんが、おそらく信長は「守る城」ではなく「見せる城」を築きたかったのではないか、と考えられています。
領民たちに自分が住んでいる城を見せ、自分は領民たちを見守ることができる。
領民たちは田畑を耕しながら山を見上げて、自分たちが納める年貢はあの城に行くのだと理解できる。
荘園や地方豪族や寺など、どこの誰が年貢を持っていってるかわからないような時代は終わるのだと、そう告げたかったのかもしれません。

しかし、時代はまだ戦乱の世。
信長はどうしてそんなことを思いついたのでしょう?単なる偶然?ただ大きな城を建てて力を見せつけたかっただけなのか?

これも、安土城のミステリーのひとつと考えてよいのではないでしょうか。

時代を変えた安土城

城が地域を変える

城が地域を変える

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戦国時代、16世紀半ば頃の日本は、大きな混乱期でありました。
城もたくさんありましたが、あくまでもそれらは戦の拠点であり防衛施設であって、居住するためのものではなく、まわりに町ができるといったこともありませんでした。
城が戦のためのものである、ということもありますが、町というものは主に寺社が管轄する門前町や寺内町のことであって、武士が経済や商工業を掌握することができない時代だったようです。

そんな時代に、信長は小牧山に城を築き、城下町を作りました。
関所も取り払い、物が流通しやすいような仕組みづくりをします。
安土城築城の際は、城下の道を整備して主要な街道と町をつなげ、あらゆる物流が安土を経由するようにしていったのです。
今では当たり前の町づくりも、当時は非常に難しいものだったと考えられています。
信長は城を築くだけでなく、城下町中心にまわっていく経済や社会の仕組みを、地域そのものを形成しようとしていった。
そのために時に寺社と対立し、大胆な改革を積極的に行っていきました。

宣教師フロイスは、信長が安土城の天主や御殿を民衆に開放し、誰でも見学できるようにしていたと記しています。
絢爛豪華な城を一目見ようと、多くの人が押し寄せたとの記述も。
まるでテーマパークのよう。
信長は安土城を軍事目的ではなく、平和の象徴として人々に見せつけたかったのではないか、とも考えられています。
戦乱はまだ続きますが、そこに暮らす人々に、自分が天下を統一したあかつきには平和な時代がやってくる、ということを知らしめたかったのかもしれんせん。

西洋にその名を轟かせ

宣教師ルイス・フロイスは、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、視察に同行しており、1581年(天正9年)に安土城で信長に拝謁をしています。
そのとき信長は、狩野永徳(かのうえいとく:安土桃山時代の絵師。
日本美術史上もっとも有名な画人のひとり)に描かせた安土城の屏風『安土城之図』を送っており、その屏風はヴァリニャーノから第226代ローマ教皇グレゴリウス13世に献上されたと伝わっているのです。
もしその屏風があれば、安土城がどのような形をしていたか、はっきりと知ることができると考えられているのですが、現在、その屏風の所在は分かっておらず、行方不明のまま。
少なくとも7年間はバチカンで保管されていたとの記録があるそうですが、改築した際に持ちだされた可能性もあるとか。
NHKが調査を行ったこともあり、また、数年前にTBS系列で特集番組が組まれたこともありましたが、簡単には捜索できない場所ということもあって、未だ所在は明らかになっていないようです。

何とも残念。
信長は屏風絵について、少しでも実際の城と異なる箇所があったら何度も書き直しをさせたとの話も残っているため、その屏風があれば安土城の形がはっきりわかるはずと大きな期待を寄せられています。
屋根は黄金なのか、6階建てなのか、八角円堂はあるのか。
屏風絵にはどんな安土城が描かれていたのでしょうか。

フロイスは安土城を見たときのことを「信長は山の頂に宮殿と城を築いたが、その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それはヨーロッパのもっとも壮大な城に匹敵するものである」と記し、造形についての説明や感想をかなり詳しく残しています。
フロイスの記述から、信長と安土城の多くを知ることができましたが、一方で、フロイスがヴァリニャーノと安土城を訪れなければ、ヴァリニャーノに屏風絵が渡ることもなかったのかもしれません。
異国の要人に、安土城の素晴らしさを伝えたかった、そんな思いがあったのでしょうか。

そのとき信長はまだ、天下統一の途中にありましたが、視線は既に統一後のことを見据えていたのかもしれません。

守る城から見せる城へ

守る城から見せる城へ

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安土城跡の近くにある「安土城天主 信長の館」という施設には、1992年の「スペイン・セビリア万国博覧会」の日本館のメイン展示であった安土城天主の最上部5階6階部分(原寸大)が展示されています。
八角形をしていて、内部には信長が狩野永徳に命じて描かせた「金壁障壁画」も再現。
当時わかっていた資料情報を元にした復元で、天主も壁画も絢爛豪華。
柱は赤、天井は金。
内装も金色に輝いていて、眩いばかりです。

安土城築城開始の頃、信長は43歳。
領地を広げたとはいえ、信長に賛同しない大名もおり、天下統一への道はまだ途中。
険しいものだったと思われます。
一方で、復元された安土城は、どう見ても戦う城とは言えず、ランドマークタワーのよう。
城を見せつけてまわりを従わせようとしたのかもしれませんが、もしかしたら、自分の夢が叶う日はそう遠くないと感じていたのかもしれません。
しかしその夢は、1582年、本能寺の変で命を奪われ、潰えてしまいます。
信長の”天下統一”という意志は豊臣秀吉によって受け継がれていきますが、秀吉が遂げた天下統一が信長の描いていたものと一致するのかどうか。
それは、誰にもわからないのです。

秀吉も、大坂城を始め、壮大な城を築いています。
大きな石垣、巨大な壕、高い天守閣、豪華な装飾。
安土城に通じるところが多い。
しかし、天守閣が八角形の城はありません。
そのほかの大名が築いた城も、濠や石垣は豪華でも、八角円堂の天守を持つ城は見当たらないのです。
秀吉あたりが真似して、もっと豪華な造形を作っていてもよさそうなものですが、信長にしかできなかったことなのか、それとも、安土城の天主も本当は八角形ではなかったのか。
少なくとも現在、天守閣が残っている12の城(弘前、松本、丸岡、姫路、備中松山、松江、犬山、彦根、丸亀、高知、松山、宇和島)は朱でも漆でもなく、八角の造形も見られません。

天守閣を城の象徴として最初に築いたのは織田信長であると言われています。
城を開放して多くの人に見物させていたのだから、誰かしら、真似をしてもよさそうなものです。
安土城を多くの人の記憶に焼きつけようとしていたであろう信長が、21世紀の人間たちが安土城の姿を模索していると知ったら。
どう思うでしょう。

信長の野望・ここに極まれり!

戦乱の世に生き、戦うことで天下統一を成し遂げようとする「野望」と、戦いのない平和で活力ある世の中にしようという「野望」。
一見、相反するように見えますが、信長にとっては同じことだったのかもしれません。
信長の「野望」が形になった安土城。
いつかその姿をはっきり示した資料や絵画が発見されて、多くの謎から解き放たれる日が来ることを祈りたいと思います。
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