江戸幕府の基礎を作った?「生まれながらの将軍」徳川家光とは?

江戸幕府の3代目将軍の徳川家光とはどんな人で、どのような逸話があり、どんな政策を行ったのでしょうか?また、この人は初めての「生まれながらの将軍」で、江戸幕府の基本体制を作った人とされていますが、果たして有能な人だったのでしょうか?さらには弟忠長との将軍後継者争いや紫衣事件、日光東照宮造営、島原の乱の制圧と鎖国の完成など、家光の時期にたくさんの事件が起こっていますが、これらのことについて細かく説明していきたいと思います。さて、まずは家光が幼少の頃から見ていきましょう。

幼少の頃の竹千代(家光)は?

両親にはかわいがってもらえなかった竹千代

両親にはかわいがってもらえなかった竹千代

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徳川 家光(とくがわ いえみつ)は、江戸幕府の第3代将軍で、在職は1623年から1651年。
2代将軍秀忠の次男(嫡男)で、母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江(ごう、淀君の妹)で乳母は春日局(福)。

15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜と3人のみで、さらに家光のみが将軍の御内室(御台所、正室)が生んだ将軍です。

慶長9年(1604年)7月17日、江戸城西の丸に生まれ、父・秀忠には長男がいましたが早世し家光は世子として扱われ、祖父の家康と同じ幼名である「竹千代」を与えられました。
誕生に伴い、明智光秀家臣・斎藤利三(としみつ)の娘である福(小早川家家臣稲葉正成室、後の春日局)が乳母となります。

慶長10年(1605年)、家康は秀忠に将軍職を譲位して大御所に。
幼少時の家光は病弱で吃音(声が「どもる」)があり、美麗な容姿とも言えなかったと言われています。
慶長11年(1606年)に弟の国松(のちの忠長)が誕生。
家光と忠長の間で世継ぎ争いがあったとも言われ、この忠長についても後で紹介します。
『武野燭談』によれば、秀忠らは忠長を寵愛しており、竹千代が廃嫡される危機を感じた福は伊勢参りに行くと言って江戸を発ち、駿府の家康に実情を訴えました。

弟をかわいがる両親に家康はどう対処した?

家康はお福に対し、「女の了見で何を申す。
将軍家のお心をいいかげんに推し量ってはならぬ。
黙れ、黙れ」とお福を追い返しましたが、すぐにお供も少なくふらりと江戸に出かけて「急に孫の顔を見とうなってきた」と言い、秀忠は家康の宿所の西の丸に竹千代と国松を連れてきました。

すると、家康は竹千代には「竹千代や、大きくなったのう、ここへここへ」と自分の座っている上段の座に呼び寄せて座らせ、いとも丁重にもてなしましたが、国松が兄に続いて上段の間に座ろうとすると、「国は下にいよ」と下段に座らせ、また菓子を与えるにも竹千代に先に与えて嫡庶の分を立てて見せました。
これで秀忠夫妻と家臣にも家康の考えていることがわかり、竹千代を大事にするようになったそうです。

家康がこんなことをしたのは、竹千代の方が器量が優れているからではなく、徳川家のこの後のために長子相続のルールを確定しておきたかったのだと言われています。
竹千代がかわいいとかではなく、あくまで政治的な意図だったのですね。

またこれにより家光はお福こと春日局を生涯大事にし、局の子の稲葉正勝は老中となり8万5千石、その子正通(まさみち)の代には14万石となっています。
堀田正盛は母が稲葉正成が最初の妻との間に儲けた女子で、正成の2度目の妻が春日局であり直接の血縁はありませんが、家光は正盛も取り立てて老中にし、15万石の大身にしています。
家光が局をあまりに大事にするので、この時代の書物には「家光は実は局の子」と書いたものさえあるそうです。

家光の弟・徳川忠長とは?

甘やかされた忠長

甘やかされた忠長

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ここで敢えて家光の弟の忠長について見ていきたいと思います。
両親に可愛がられていた国松はこの後どのように成長するのでしょうか?忠長は秀忠の三男として生まれ、秀忠や母の江は、病弱で吃音(どもり)があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗で才気煥発な国松を寵愛しましたが、これは春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着。
しかし、秀忠より松平姓(庶子扱される)を与えられ、松平を称します。
後継ぎが家光に決まっても、父から贔屓(ひいき)にされていたのかもしれませんね。

元和2年もしくは4年(1616年/1618年、ハッキリとは分かっていません)の9月に甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主に。
信濃の小諸藩も加えられ、国末は元服前かつ幼少だったので、実際に入部することはなく、家臣団や代官衆により藩は運営。

しかし、元和4年(1618年)10月9日に国松は自ら撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳として出し最初は喜ばせたものの、西之御丸の堀で撃ち取った鴨だと秀忠が知らされると、「江戸城は父・家康が修築し、将来竹千代に渡さねばならない所。
国松の身で兄の竹千代の住む西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、天道に背き、父・家康への敬意も無いことで、たとえ悪意が無くても、将軍となる竹千代への反逆となる行為だ」と、逆に秀忠の怒りを買ってしまい、秀忠は箸を投げ捨て、退出してしまうほど。
忠長は甘やかされて育てられた感があるのですが、気を使えない人だったのでしょうか?しかし逆に言えば、秀忠も少し過敏なまでに将軍の権威を大事に思っていたのですね。

忠長はなぜ自刃することになった?

元和6年(1620年)9月に忠長は元服し、金地院崇伝の選定により諱は「忠長」に。
元和9年(1623年)7月、兄家光の将軍宣下と同時に権中納言に任官。
寛永元年(1624年)7月、駿河国と掛川藩領である遠江国の一部を加増され、駿遠甲の計55万石を知行しました(この際に小諸藩領は領地から外されています)。

しかし寛永8年(1631年)5月に、家臣を手討ちにしたという不行跡を行い、素行が荒々しいということを理由に甲府への蟄居(謹慎させること、事実上武士としての生命を絶たれるに等しいこと)を命じられます。
その際、秀忠に許しを乞いますが許されず、寛永9年(1632年)の秀忠の危篤の際に江戸入りを乞いましたがこれも許されませんでした。
秀忠は妻のお江の機嫌を取るために忠長をかわいがっていただけで、妻がなくなるとそういう気分ではなくなった様です。

秀忠死後、甲府に秀忠の供養のための寺院建立や、加藤忠広が改易された際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞(ひっそく、門を閉ざし、昼間の出入りを許さないこと)の処分に。
寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃しました。
享年28。

忠長の自刃は家光が忠長を嫌っていたからではなく、土井利勝など幕閣の判断によるもので、理由としては加藤忠広の改易に関与した、大坂城と畿内55万石の所領を求めたなど説がありますが、家臣を殺すなど側近が近づかなくなるほどの忠長の狂気が原因だとされています。

ふと思い出したのですが、豊臣秀吉の甥の秀次もこんな感じで自刃に追い込まれたんでしたね(大河ドラマ「真田丸」では良い人になっていましたが、この人も人をやたらと殺して「殺生関白」と言われていました)

家光はどんな性格だった?

「生まれながらの将軍」とは?

「生まれながらの将軍」とは?

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家光に話を戻します。
元和9年(1623年)7月に家光が20歳で将軍に就任した直後の話に最も有名な話が伝わっています。
家光は外様大名を集めて「このたび余が将軍になったについて、その方共に申し渡すことがある」と前置きして、

「前代までの将軍は、その方共と同列の大名であった時期もあるので、その方共に対する待遇にも、その含みがあったが、余は生まれながらにして天下人。
これまでとは格式をかえ、その方共を譜代大名と同じく家来として遇するから、さよう心得るよう。
もし不承知の者あらば、謀反いたすがよい。
今日より3年の猶予をつかわすゆえ、国許へ帰ってその支度を致せ」

と高飛車に宣言して、居間に引き取り、一人一人呼び出して、自分は無腰でいながら刀を与えて「抜いてよく中身を調べよ」と言ったので、外様大名全員威におされ、平服仕切りだったというのです。

個人的に「私は生まれながらの将軍」なんていう人は忠長と同じく、甘やかされて育ったんじゃないかと考えてしまいますが、度胸はある人だったのですね。

しかし、逆に家光は前述の通り言葉がどもる(吃音)癖があり、小心だったとも言われていて、家光が外様大名に大見得が切れたのは、裏に権謀家の土井利勝に「このようにやれ」と指示をされていたから、という説も。
とにかく、こうすることで幕府の力を示し、外様大名に脅しをかけて内乱など起こさせない様にできたのでしょうね。

遅くして女性に目覚めた家光

家光にはあまりイメージの良いものばかりではないのですが、多くの逸話が。

まず、家光は若い頃は女性にあまり関心がなく、美少年ばかり寵愛していたそうです(男色は当時の世間の流行りでもあったそうですが)。
36歳になって初めて女性に興味を示し、春日局を通じて気に入った尼を還俗させ、自分のものにしたという話もあります。

家光の女性関係にもう少し言及すれば、春日局が浅草観音に参詣の途中、乗り物の中からお蘭という女性を見つけ、この人が前述の尼に似ていたことから家光の妻にし、4代将軍家綱を生みました。
さらに春日局は今日からお夏という女性を連れてきて家光が手をつけ、生まれた男の子が甲府宰相の綱重となり、この綱重の子が6代将軍家宣(いえのぶ)となります。

また、気に入らないことが少しでもあると、家臣を簡単に斬り捨てようとし、その度に堀田正盛などの重臣が諌めたり、どうにかうまい様にしてその家臣を助けたという話も。

また家光は剣術が好きで柳生宗矩(やぎゅうむねのり)について学び、伝授印可(いんが)まで受けましたが、このため度々夜の街に出て歩き、自分にかかってくる辻斬りなどがいれば斬ろうとしていた様ですが、老中酒井忠勝に気づかれ、冬の晩に出ようとしたところ、自分の草履が暖かく、酒井忠勝が温めていて夜歩きを監視されていることに気付き、夜歩きをやめたといいます。
心配されているのを気遣ったのでしょうか、はたまた護衛をされているのでは興ざめした、ということでしょうか?

無茶をして意地悪な所もあった家光

無茶をして意地悪な所もあった家光

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さらに、正保元年2月9日、家光は千住に行くと言って乗り物で出かけ、浅草の鳥越橋の先の旅籠町まで行くと不意に乗り物を降り馬に乗り換え、「思い出したことがある。
余は帰るぞ」と言い捨て、鞭打って駆け出しました。

抜群の名馬で供回りも追いつくものではなく、大手門をくぐって玄関に着いた時には誰もついていなく、馬を降りようとしても口をおさえるものもいませんでした。
やっと家来が追い付いて口を取ると家光は疲れ切って馬から降りることもできなかったので、堀田正信がかかえおろして腰をおして奥へ入ったといいます。

このことは家光が供の者の体力を試したということですが、家光はこの時もう41歳で、随分と肉体的な無茶をする人だったのですね。

このように、家光には正直言って頭の良い人とは思えないようなエピソードが多くて、私も調べていて困惑しています。

また信州松代藩主の真田信之(大河ドラマ「真田丸」で大泉洋さんが演じたことでも有名ですね)が当時としては珍しく91歳まで現役の藩主を続け(現役最高齢大名)、跡取りの信政が60歳を越え信之より先に死んでも、家光は「伊豆守(信之)は天下の飾り物である」として再三の隠居願いを許さなかったといいます。

真田は関ヶ原の戦いの時に徳川を苦しめたので嫌われているのもあるかもしれませんが、少し意地悪な処置だと思ってしまいますね。
この後真田家は後継ぎを巡る争いが起きていますが、信之が死んだら真田家に後継ぎを残さず取り潰すという政治的魂胆もあったのでしょうか?

家光は政治面では何を行った?

家光を名乗り、将軍となり、公家の妻をもらった家光

家光を名乗り、将軍となり、公家の妻をもらった家光

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元和2年(1616年)5月には、酒井忠利・内藤清次・青山忠俊(この青山に家光は相当厳しく叱られたことがあったそうで、嫌われて後に改易させられています)の3人が、竹千代の守役、後の家光付けの年寄となり、9月には小姓として60数名の少年が任命され(家光の男色の相手でもあるでしょうか)、家光の年寄衆・家臣団に。
元和3年(1617年)には西の丸に移り、元和6年(1620年)に元服を済ませ、竹千代から家光に改め、従三位権大納言に任官。
「家光」の諱(いみな、身分の高い人の実名)は金地院崇伝(こんちいんすうでん、以心崇伝とも)が選定。

元和9年(1623年)には死去した内藤清次の後任として酒井忠世・酒井忠勝が年寄として付けられ、同年3月5日には、将軍家の世子として朝廷より右近衛大将(うこのえだいしょう)に任じられます。
同年6月には父である秀忠とともに上洛し、7月27日に伏見城で将軍宣下(せんげ、天皇が認めること)を受け、正二位内大臣に。
後水尾天皇や入内(じゅだい、この場合は天皇の妻になること)した妹・和子とも対面。
江戸へ戻ると、秀忠は江戸城西の丸において隠居し、家光は本丸へ移ります。
元和9年(1623年)8月には摂家鷹司家(たかつかさけ、五摂家の一つ)から鷹司孝子が江戸へ下り、12月に正式に輿入れとなりますが、結婚当初から家光との仲は非常に険悪で、夫婦生活は実質的に皆無でありもちろん子供もできず、結婚後しばらくして、家光から事実上離縁されました。

大名の改易や騒動の仲裁をし、参勤交代を定めた

秀忠は政権移譲した後も、家康と同じ様に大御所として政治的な実権は掌握し、幕政は本丸年寄と西の丸年寄の合議による二元政治に。
家光としてはやりにくい立場だったでしょうね。
寛永3年(1626年)7月には後水尾天皇の二条城行幸のために上洛しますが、将軍・家光に対して大御所・秀忠は伊達政宗・佐竹義宣(よしのぶ)ら多くの大名、旗本らを従えての上洛。
この秀忠という人はすごく将軍になりたがっていたイメージがあるのですが、将軍であることをひけらかしたい人でもあったのでしょうか。
家光は二条城で後水尾天皇に拝謁、秀忠の太政大臣に対し家光は左大臣および左近衛大将に昇格しました。

寛永9年(1632年)1月、秀忠が死去し二元政治は解消され、将軍から公方(くぼう)として親政を始めます。
また、旗本を中心とした直轄軍の再編に着手。

5月に外様大名を招集、藩内の内訌などを理由に、肥後熊本藩主・加藤忠広(加藤清正の三男)の改易を命じています。
寛永10年(1633年)福岡藩の栗山大膳事件(黒田騒動)では自ら裁定を下し黒田忠之(ただゆき)の藩側の主張を認めています。
平和な時代で軍縮の傾向があるのに逆に大船を作ったり新規に足軽を召し抱えたりしたのに所領安堵で済んだのは、福岡藩にしては幸運だったんじゃないかとは思いますが。

幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の職を置くことを定め、現職の将軍が最高権力者であるとする幕府機構を確立。
秀忠の様に隠居した人間が政治に口を挟むのをこれ以後やめさせたかったのですね。

同年9月には外祖父の浅井長政(母の江は浅井長政の三女)に権中納言を贈官。
織田信長に倒されて頭蓋骨を薄濃(はくだみ、漆塗りに金粉を施すこと)にされた外祖父を不憫に思ったのでしょうか。
寛永12年(1635年)に武家諸法度を改訂し、参勤交代を大名の義務とする規定を加えます。
参勤交代や老中などの職制など、江戸幕府の基本的な精度は家光の時に定められたのですね。

家光はなぜ日光東照宮を造営した?

家光はなぜ日光東照宮を造営した?

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家光の時に起こったこととして、忠長との確執、参勤交代や諸制度の確立、日光東照宮の造営、紫衣事件、島原の乱と鎖国の確立などがあり、順に紹介していきます。

家光にとって、家康はとてもありがたい存在で、家康がいなければ将軍になれなかったのは前述の通り。
そのため家光は祖父の廟所(びょうしょ、先祖や貴人の霊をまつってあるところ)を壮麗に営みたいと考えていましたが、秀忠がいる間にはできませんでした。
というのも、秀忠が堅実好みの人なだけでなく、一度は自分を廃嫡しようとまでした人なので「これが父に対する当て付けの様に考えられてしまうのではないか?」という心配があったと言われています。
秀忠も父・家康にコンプレックスがあったと思われていますので。

秀忠が寛永9年正月24日に死に、翌年に忠長を自殺させると、その翌年の11年には工事設計にかかり11月から着手、13年には完成。
壮麗を極めたのは現在見る通りです。

この造営は13年の長年月を費やしたとか、諸大名の財力を削ぐためにお金を出させたり、建造物を寄進させたりして、幕府自身はお金を使わなかったという説が支配的でしたが、近年の研究では工事日数は1年半、費用は幕府が全て出し、金56万8千両、銀100貫目、米5千石とのこと。

私も東照宮は好きですが、建設に13年もかかるほど巨大な建物ではない気はしますね。
東照宮に諸大名から献納している鳥居や、石灯籠、五重塔に有名な杉並木の杉などは、すべて後年の寄進だといいます。
「誰からの寄進も受けない。
私が一人でやる」という家光の意志が感じられますね。

ただこれは、ありがたくてならない存在と思っている孫が、祖父のために立派な廟所を営んだというだけのことで「家光がすごいというわけではない」という話にもなるとのこと。
たしかに、家光本人がお金を稼いで東照宮を建てたわけではないので(織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城などとは違って)、家光は「生まれながらの将軍」な分、生まれる前からある幕府の力を利用して東照宮を建て、参勤交代などを制定して幕府の権力を示しましたが、それは家光でなくともできたことなのかもしれません。

しかし、東照宮が今日立派な文化財として存在し、世界の人々を驚嘆させているのは事実。
余談ですが、私も以前に訪れたのは10年ほど前なのですが、また行きたくなってきました。

紫衣事件とは?

紫衣事件で幕府は朝廷にどう対応した?

紫衣事件で幕府は朝廷にどう対応した?

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「紫衣」(しえ)とは高官が身に付けるべき高貴な色とされ、原則として庶民や低い位の官吏は着用できませんでしたが、特別に許されることがあり、名誉とされるものでした。

元和元年7月17日に家康が出した公家法度(くげはっと)の中に「諸寺の僧に対する紫衣の勅許は幕府に相談あってなさること」という条目があり「上人号の授与なども慎重であるべし」との条目があります。

しかし、この紫衣勅許は朝廷の一つの収入源であったので、公家法度発布後も、朝廷だけの判断で勅許。
つまり神主や刀鍛冶や浄瑠璃語りに領地を与えるのと同じ様にしていたのです。

ところが、寛永4年(1627年)に幕府はこれを問題として取り上げ、当時の後水尾天皇がこれまで大徳寺、妙心寺などの僧数十人に与えていた紫衣着用の勅許・上人号などを「無効である」として取り上げました。

僧らの間にも抗論が起こり、朝廷も「公家法度に背いたのは元よりよくないが、すでに綸旨の出ていることであるから、これまでの許可した分は大目に見てくれないか。
以後は大いに慎むので」と幕府に申し入れましたが幕府は聞き入れませんでした。

紫衣事件はどのような結果に終わった?

最も強硬に抗論した大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう、吉川英治の「宮本武蔵」に出てくる僧ですね。
実際には二人は会ったことはないそうですが)、玉室宗珀(ぎょくしつそうはく)、江月宗玩(こうげつそうがん)の3人は奥羽各地へ流罪となり、天皇は激怒。

「これで十余年の数十通の綸旨が無になってしまった。
天皇の尊厳がどこにあるか。
まろは退位する」と言い、いろいろと面倒なことが重なり、幕府は春日局を上洛させることに。
後水尾天皇の中宮(天皇の妻、東福門院)は家光の妹和子で、局から中宮を通じて天皇の心をなだめようという考え。
局は京の清水寺参詣という名目で上京しました。

朝廷では、局は幕府の大奥でこそ権勢第一の女ではあるものの、無位無冠のもの。
そんな者が参内して天皇のお顔を拝した先例はないと、難しい事になりましたが、局がかたく参内を願ってやまないので、色々と詮議があり、ついに武家伝奏(ぶけてんそう、武家の奏上を朝廷に取り次ぐ公家の役職)の三条西実枝(さんじょうにしさねえだ)の妹分ということにして、緋の袴を許され参内、天顔を拝し「春日局」の称号を下賜されました。
春日局と呼ばれる様になったのはこの頃からです。

しかし、後水尾天皇は局の強引さにやむなく会いはしたものの、怒りは一層かき立てられ退位し、皇女の一ノ宮が即位。
これが女帝・明正天皇です。

紫衣事件は幕府側に全く利益はなく、後水尾天皇の言う通りに今後のことを約束して看過すれば、幕府の威も天皇の面目も立ったのですが、幕府が権威を立てるのに急だったため、この様な結果になりました。

鎖国と島原の乱

幕府はどれほど厳しく外国人を退去させた?

幕府はどれほど厳しく外国人を退去させた?

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大坂の陣の後、徳川政権の基礎が固まるとともに、幕府は積極的にキリシタン禁圧と貿易統制の両方を推進。
元和2年(1616年)の貿易制限令で明国船を除くすべてのヨーロッパ船は平戸・長崎の2港に限り、諸大名に独自で貿易をすることを禁止し、幕府の統制と独占を強め、鎖国への傾斜を一段と進めました。

家光が将軍になったのは、このような鎖国体制が整ってきたころ。
キリシタンが邪宗門だということはこの頃には一般的な固定観念となり、南蛮貿易は実質的に力を失っていたので、鎖国政策は容易に強化することができました。
元和10年(1624年)フィリピン使節を追い返し、スペインと断交。
またイギリスは日本とオランダの挟み撃ちにあってついに退去し、鎖国体制は大きく前進。
さらに元和9年にはポルトガル人の日本永住を禁じ、寛永5年には来航したマカオ船をシャム(タイ)における日西衝突事件の報復として抑留するなど強硬策を取りました。

キリシタン弾圧もいよいよ激化し、家光が将軍になって10年の間にめぼしい主要信徒らはほとんど根絶。
その間寛永7年(1630年)の禁書令をはじめ、踏絵などたくさんの方策が採用され、全国の末端に至るまで取り締まりが厳しく励行されました。
随分厳しく、しかも急に外国人の退去とキリシタンの弾圧が行われたのですね。

第一次鎖国令はどのように完成されていった?

大船破却令で大名は朱印船貿易から手を引かざるを得なくなりましたが、なお明国に投資したり、明国人名義で貿易をするものもいたので、幕府は一層厳しく貿易を取り締まる必要がありました。

その上1620年(元和6年)、平山常陳(じょうちん)が船長をつとめる朱印船が2名のキリスト教宣教師を乗せて、マニラを出航し日本に向かっていたところ、台湾近海でイギリスとオランダの船隊によってとらえられ、幕府のキリシタンへの不信感を決定づけ、元和の大殉教といわれる激しい弾圧の引き金になった事件(平山常陳事件)以来、朱印船もキリシタン布教ルートになることから、制限を厳しくする必要がありました。

そこで幕府は寛永8年(1631年)に奉書船制度を施行。
従来の朱印状の他に老中奉書を長崎奉行に提示し、出港を許可されるようになり、それまでも少数の特権商人に限られていたのを、幕府の代官的または幕吏に準ずる御用商人に限って奉書を支給したのでした。

さらにその年、糸割符制(いとわっぷせい、特定の商人集団(糸割符仲間)に生糸の独占的輸入権と国内商人への独占的卸売権を与えました)が今まで除外されていた明国船にも適用。
すでに生糸貿易の主導権はポルトガル船からオランダ・明国船に移行していて、糸割符制をポルトガル船だけに適用しても意味をなさず、また貿易統制の徹底は当然オランダ・明国船にも及ぼされるべきでした。
ただオランダには従来の関係から強力に施行できませんでしたが、それもいわゆる、寛永10年(1633年)の第一次鎖国発令後、適用されました。

こうしていわゆる鎖国に至る諸令が相次いで発令され、あとはそれらを統一的に実施するのみ。
そこで幕府はそれら諸令をまとめて、寛永10年2月28日、十七条の覚書(おぼえがき)を長崎奉行に発行。
これによって邦人の海外来往が禁止され、朱印船の活躍とともに南洋各地にあった日本人町は衰滅の一途を辿ることになり、これがいわゆる第一次鎖国令です。

島原の乱はなぜ起きた?

島原の乱はなぜ起きた?

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島原の乱の舞台となった天草の地は、キリシタン大名天草種元に次いで小西行長の所領でしたが、関ヶ原の合戦ののち背教者寺沢広高(長崎奉行時代の文禄3年(1594年)、キリシタンに改宗しましたが、慶長2年(1597年)の二十六聖人処刑を契機に棄教したため背教者と呼ばれることに)の所領となり、島原の乱ののちもまたキリシタン大名有馬晴信の所領でしたが、岡本大八事件があったのち松倉重政の所領となり、領民は悪政に苦しめられていました。

これら背教者たちは幕府への忠誠を示すためにキリシタンに激しい迫害を加え、とくに重政は築城のほか江戸城修築には所領の倍の課設を進んで望み、またルソン(フィリピン)征討計画を進めるなどして、領民に重税を課しました。

寛永7年(1630年)、子の勝家が跡を継ぎましたが暗愚でますます政治を乱し、連年打ち続く不作にもかかわらず、年貢の先取りをなし、貢租を納めない者を捕らえて「蓑踊り」と称して蓑に火をかけ、あるいは婦女を税の抵当にとるなど、手段を選ばず農民を苦しめたので、領主を恨む声が次第に高まり、忍苦服従の信仰もしだいに内攻し、終末観的狂信に。
耐え忍ぶのがキリシタンの教義ということですが、その我慢も限界に達して爆発寸前で島原の乱の爆発の火種のようなものはこうして出来上がったのでしょうね。

島原の乱はどのように終結した?

寛永14年(1637年)、将軍家光が病み、死去の風説が立ち、また連日のように空が赤く焼けて人心が動揺したのを機に、この地方に帰農して機を伺っていた小西・有馬の遺臣らは、益田時貞(天草四郎)という少年を「天人の降ったもの」として擁立し、迫害と悪政に苦しむ島原・天草領の農民を誘い、一揆を起こし、有馬氏の旧城の原城に女子供をまじえ、3万数千人が立て篭もりました。

幕府は板倉重昌を上使とし九州諸藩に命じてこれを討たせましたが、幕府軍に統制がなく、一揆はますます勢いを得て、重昌は戦死。

ここで幕府は一揆勢があなどれないと知り、老中松平信綱を上使とし、オランダ船の助けを借りて海陸から原城を砲撃し、12万の大軍をもって包囲、食糧攻めを行い、5ヶ月をかけてようやく落城させました。

この乱は本質的には領主の悪政に対する農民一揆ですが、農民にキリシタンが多く、指導者がまたキリシタン大名の遺臣たちだったので、キリシタン信仰による民心の統一・団結をはかり決起したため、宗教戦争の様相を呈しています。

農民の不満、かつての主家が取り潰されたことへの不満、そしてキリシタン弾圧への不満という三重の不満が重なって爆発した乱だったのですね。

幕府は島原の乱をどう利用した?

この乱は幕府に大きな衝撃を与えましたが、それはまた幕府の基本的政策の遂行に絶好の口実を与えることにも。
オランダ船デ・カイプ号を回航させて砲撃した上使に対して、江戸城中から「万一また急に攻めることがあれば、日本国内に溢れるほどの武士がいるのに、オランダ人の助けを乞うとはどういうことか。
理解できない」という矢文が発せられています(匿名での投書でしょうか?忠臣蔵の赤穂浪士事件の時など、江戸時代にはこういう政治を皮肉る投書や落書きなどがよくあった様ですが)。

しかし幕府は自分のことは棚に上げて、日本にいる外国人が諸悪の根源なわけでもなく、もちろん外国とのつながりも何もないこの農民一揆を「キリシタンによる国際的な陰謀」とし、すでに形成されていた侵略的邪宗門観に訴えてその証拠とし、鎖国発令を正当化したのでした。

要するに自分に都合の良い情報を流して、世間一般の考えを都合の良い方に誘導していく情報操作だったのですね。
そのため、一般には島原の乱の結果、鎖国令が敷かれたように考えられるようになったのです。

しかし、この乱によりいわば鎖国の大義名分が実際的に証せられたことになり、当局者も農民の半年に渡る頑強な抵抗の影にある恐るべきキリシタンの力を経験し、邪宗門観を強めたわけであり、いわゆる鎖国・禁教政策はますます厳しくされることになりました。

その後の家光

その後の家光

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寛永18(1641年)にはオランダ商館を出島に移転し、長崎を通じた貿易の管理・統制である「鎖国」体制を完成させ、家光の代までに取られた江戸幕府のこれらの一連の強権政策は「武断政治」と言われています。

寛永11年(1634年)、家光は上洛し、後水尾上皇が院政を行うことを認め、紫衣事件から冷え込んでいた朝幕関係を再建し、国内政治の安定を図りました。
天皇でなくともいろいろなことに力が持てることを認めて、紫衣事件での幕府に対する恨みを和らげようとしたのですね。

ところが寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生。
諸大名と百姓は大きく打撃を受け、さらに正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡し、満州族である清が進出するなど、内外に深刻な問題が出て、家光は体制を立て直す必要を迫られました。
正保元年(1644年)、全国の大名に郷帳や国絵図(正保国絵図)、城絵図(正保城絵図)の作成を命じ、農民統制のために田畑永代売買禁止令を発布。

なお、家光は江戸の繁栄を願い、江戸城を取り取り囲む形で5色の不動尊を配置。
風水の「陰陽五行説」(木・火・土・金・水)に由来するという説もあり、「目白」や「目黒」などは今でも山手線の駅名として残っていますね。

慶安3年(1650年)に病気になり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去。
享年48。
家光の死に際し、堀田正盛らが殉死。
遺骸は家光の遺言で東叡山寛永寺に移され、日光の輪王寺(りんのうじ)に葬られました。
尊敬する祖父の廟所である東照宮のすぐ近くですね。

献上品の茶碗を見ていた時、震えが突然止まらなくなり、そのまま倒れて意識が戻ることなく、翌日にそのまま亡くなったそうです。
死の直前からすでに歩行障害もあったと言われ、死因は脳卒中だったとも。

しかし、残念ながらここまで見てくる内に、家光が自分の力で何かを定めたという印象はなく、土井利勝など重臣の助けがあったからこそ、江戸幕府の基本体制や鎖国を完成させられたということになるでしょうか。
家光が優秀だったという証拠は残念ながら出てきませんでした。
しかし、この後の将軍も将軍自身の力だけでなく、家臣に助けられて力を発揮したとも言えますので、家光とその家臣団が力を合わせて幕府の元からあった力を利用して、江戸幕府の基礎を作ったといってもいいのではないかと私は思います。

家光は優秀な人ではなかったかもしれないけれど、この時に江戸幕府の基礎ができた

このように、家光は男色や、家臣を斬り捨てようしたり、歳を取っても無茶をしたりするなど、優秀とは思えない様な性格でした。
しかし、土井利勝など優秀な家臣達や乳母の春日局などに助けられ、弟との将軍後継者争いに勝ち、参勤交代、老中の職制などを定め、紫衣事件など朝廷といさかいを起こすも、尊敬する祖父のために日光東照宮を幕府の力で建て、島原の乱を鎮めて鎖国を完成させました。
「生まれながらの将軍」として幕威を高め、家光の時にたくさんの江戸幕府の基礎ができたのは事実ですね。
それではここまで読んでくれてありがとうございます!
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