『水滸伝』の舞台となっている北宋時代をざっくり知る

中国の読み物の代表は?と聞かれたら、『三国志』『西遊記』『水滸伝(すいこでん)』の3つ挙げる人が多いのではないでしょうか。いずれも小説やコミック、ゲーム、TVドラマなど、様々な形で愛され続けている、不動の人気を誇る傑作活劇です。特に『水滸伝』は近年人気が増しているようで、2011年に中国で巨額の制作費を投じたテレビドラマが放送され、大いに話題となりました。この物語の舞台は今から約1000年ほど前の、北宋という統一王朝の時代。政治は腐り、国は荒廃していました。水のほとりに集いし108人の英傑たちが躍動した北宋時代とはどのような時代だったのでしょう。

悪政を正す英傑たちの熱き物語

愉快痛快!『水滸伝』とは?

北宋という時代を描いた『水滸伝』。

日本でいうところの『忠臣蔵』や『水戸黄門』のように、庶民の間で語り継がれ、講談や芝居、読み物など題材として長きに渡って愛され続けてきた、弱きを助け強きをくじく、英雄譚ともいえる長編小説です。
もちろん完全な創作で登場人物も架空の存在ですが、11世紀頃の中国大陸、北宋王朝に実在した徽宗(きそう)という皇帝や家臣たちが登場していることなどから、読んで史実と見まがう人もいるほど。
登場人物たちは時に強く荒々しく、時に人間臭く、実に生き生きと描かれています。

舞台は今から1000年ほど前の中国大陸。
北宋王朝の政治は腐り、不正や汚職がはびこって、世の中は大変乱れていました。
そんな時代に大志を抱き、正義を貫こうとして世間からはじき出されてしまった好漢たちが、紆余曲折を経て梁山泊に集まってきます。
彼らは一致団結。
多くの弊害を乗り越えつつ、悪徳役人たちを倒していくのです。

梁山泊には数万、数十万の有志が続々と集まりますが、彼らを束ねる頭領は全部で108人。
そのひとりひとりにスポットライトをあてながら物語が進んでいきます。
戦う相手は政府や悪徳役人なのですが、やり過ぎ感満載で、こらしめられた役人たちに同情したくなることもしばしば。
超人か魔術師のような登場人物もいて、歴史小説でありながらSFファンタジーのような不思議な世界観。
こうした一面も、『水滸伝』が長く愛される要因のひとつと言えるのかもしれません。

作者不明?謎に包まれた長編小説

中国には「四大奇書」と呼ばれている4つの長編小説(『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅(きんぺいばい)』)があります。
奇書とは、唯一無二の珍しい本、という意味で、奇想天外なストーリーは多くの人々の注目を集めました。
この4つはどれも長編大作であり、中国内外に広く知れ渡った名著であると同時に、作者がよくわかっていない、という共通点があります。

『水滸伝』も、世界中にファンがいるほど有名な物語ではありますが、誰が書いたものなのか、作者についてはよくわかっていません。
もともと庶民の間で語り継がれてきた講談や演劇などの内容が少しずつまとまってきて、明代中期(16世紀半)頃に長編小説としての形が整ったとされています。
しかし、作者についてはいくつかの説があって、はっきりしていないのです。

実際の『水滸伝』は長編小説というよりテレビドラマの脚本のような形で、100本の話がまとまったもの。
人気が出てきたことで途中に別のエピソードが添えられるようになったり、人気のある部分だけ残して切り捨てて出版するようになったりしていて、「どれが本来の水滸伝なのか」について意見が分かれることもあります。

そんな『水滸伝』は日本にも、江戸時代中期には入ってきていて、大変な人気となりました。
浮世絵の題材になったり、一部和訳されて広まって、日本文学にも大きな影響を与えています。
その代表が滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』。
そのほかにも、『水滸伝』の影響を受けて書かれた小説戯曲はたくさんあります。
著者やその成り立ちは謎に包まれていますが、それでも面白いものは面白い。
英雄たちの物語は海を渡り、日本の庶民文化にも受け入れられていったのです。

”水滸”とは?「水のほとりの物語」

 

”水滸”とは?「水のほとりの物語」

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”滸”とは「ほとり」という意味の言葉。
『水滸伝』とは端的に約すと「水のほとりの物語」ということになります。

中国の山東省済寧市梁山県に実在したと言われている「梁山泊(りょうざんぱく)」(梁山湖と呼ぶこともあり)という大きな沼が『水滸伝』の舞台です。
”つわものたちが集う場所”の代名詞ともなっている梁山泊。
108人の英雄とその仲間たちが未来を語り合った砦は、どんなところだったのでしょうか。

黄河は昔から頻繁に氾濫しており、そのたびに周辺には無数の沼や水路ができていました。
10世紀半ば頃、山東省西部付近で起きた氾濫によって黄河の水が流れ込み、一帯の丘陵地が島となって入り組んだ複雑な地形を作り上げていたのです。
近くに梁山という名前の山があったことから、”梁山泊”という名前が誕生しました。
その後も度重なる氾濫で水量が増し、11世紀にはかなり大きな湖になっていたと考えられています。
『水滸伝』でも、108人の英雄たちは湖の中にある大きな島を本拠地としていました。
実際、このあたりは、盗賊や国に刃向かうアウトローたちの巣窟となっていたようで、宋の正史にもそのような記録が残っています。

そんな、水に囲まれた天然の要害ともいえる実在する場所と、当時の世相、混迷する政治への不信感などが相まって、「水のほとりの物語」が作られていったのでしょう。

その後も、黄河はたびたび氾濫を繰り返し、堆積した土砂の影響で次第に河の道筋が変わっていきます。
正確な時期はわかりませんが、まるで英雄たちに別れを告げるかのように黄河は別の方向へ。
梁山泊は干上がり、消失したものと考えられています。

天命に導かれし108人の英傑たち

<水滸伝・あらすじ1>百八の魔星と蹴鞠の達人

北宋のお話に入る前に、『水滸伝』の概要についてざっくりと触れてまいりましょう。

今から1000年ほど前、北宋に疫病が蔓延してしまい、祈祷を行うため竜虎山に住む仙人を呼びに、洪信という将軍が派遣されます。
洪信は興味本位から厳重に封印された「伏魔殿」の扉を開けてしまい、唐の時代より封印されていた108の魔星を解き放ってしまいました。

祈祷の甲斐あってか疫病はおさまり、数十年が過ぎて洪信も亡くなって、魔星のことを知る者もいなくなった頃。
八代皇帝徽宗が即位しますが、徽宗は政治にはまったく関心がなく、絵や書に明け暮れていました。
これをいいことに家臣たちは好き放題。
私腹を肥やしていきます。
その筆頭が、蹴鞠の達人というだけで徽宗のお気に入りとなったゴロツキあがりの高キュウ(ニンベンに求)という男。
『水滸伝』最大の悪役で、大した能力もないのに皇帝のそばで権力を振るい、気に入らない人物を陥れてどんどん追い出し、王朝はますます腐っていきます。
梁山泊は終始このゴロツキの陰湿な手口に振りまわされることになるのですが、その最たるが禁軍師範で槍の達人林冲(りんちゅう)。
無実の罪をきせられて流罪となり、命をも狙われますが、意気投合して義兄弟の契りを交わした魯智深(ろちしん)和尚や大富豪の柴進(さいしん)らの助けで生き延び、梁山泊へと向かいます。

一方、政治の腐敗を憂いでいた地方の名主晁蓋(ちょうがい)は呉用(ごよう)、公孫勝(こうそんしょう)らと共に組織を形成。
政府から目を付けられますが、地方役人の宋江(そうこう)の手助けで難を逃れ、梁山泊へ。
晁蓋はリーダーとしての資質とカリスマ性を備えた大人物。
宋江は見た目は小役人ですが義に厚い人格者。
二人を慕って多くの英傑たちが梁山泊に集まってきます。
やがて梁山泊は晁蓋を頭領とする大きな組織へと変貌。
民を助け、悪をこらしめ、梁山泊は次第に、宋王朝の脅威へとなっていくのです。

<水滸伝・あらすじ2>激闘の梁山泊・百八星は天に帰す

そんなとき、突如として晁蓋が死んでしまいます。
梁山泊は悲しみにくれていました。

あるとき宋江は夢の中で、自分たちが、この世に解き放たれた108の魔星の生まれ変わりであることを知ります。
魔星たちは、いったんは自由の身になったものの、天界に戻るために、このまま残ってしばらく民のために戦うことにしたとか。
自分たち108人がこの地に集まったのは偶然ではなく必然であったと知った宋江は梁山泊の頭領となり、晁蓋の意志を継いでいきます。
こうして梁山泊はますます力を強めていくのでした。

梁山泊に手を焼いていた宋王朝は一計を案じ、押さえつけるのではなく取り込んでしまおうと考えます。
北方の異民族や南方の反乱軍など、国にたてつく連中を梁山泊に討たせようとしたのです。
宋江はもとは役人。
対峙する相手は悪政であって、宋という国にはずっと忠義を感じていました。
宋江の鶴の一声で、梁山泊は一転、朝廷に仕える身となり、あちこちの反乱分子を一掃する活躍を見せます。
あまりの強さに、利用しつつも梁山泊に脅威を感じていた朝廷は労をねぎらうこともせず、報酬も渡さずで、梁山泊は疲弊。
朝廷から離れるべきだという仲間の進言も宋江の耳には届かず、108人の英傑たちは戦いの中で次々に命を落としていきます。
ついに宋江の命も潰え、梁山泊は終焉の時。
108人のうち生き残ったのはたった27人。
それぞれ異なる道を進み、余生を送ります。

これが『水滸伝』全100回の大まかなあらすじです。
ひとりの英傑がとある出来事の中で別の英傑と出会い、その英傑がまた別の仲間と巡り合う……という具合に、次々に話が続いて、梁山泊に108人全員が集結するところまでで70回。
その後、北宋王朝に仕え、異民族や反乱分子との戦いが30回(途中20回分のストーリーが追加された120回で構成される場合もあり)。
長編である、ということもありますが、登場人物がとにかく多い。
108人ひとりひとりに個性があり、生き生きと描かれている。
それこそが『水滸伝』の一番の人気の理由かもしれません。

史実?虚構?宋江は実在した?

『水滸伝』は架空の物語であり史実ではない、と書きましたが、冒頭でも触れた通りで、北宋という国が非常に荒れていたことは事実です。
また、物語の後半で梁山泊が討伐した北方異民族や南方の反乱分子も実在しており、実際、北宋はその対応に手を焼いていました。
徽宗皇帝が民衆を顧みず贅沢な暮しをしており、役人たちの不正が絶えなかったことも事実です。
徽宗の取り巻きとして登場する蔡京や童貫といった重臣たちも実在の人物。
徽宗の贅沢の影で金品を懐に入れ私腹を肥やしていました。
もちろん、梁山泊と呼ばれる大きな湖も、物語の中の架空の土地ではなく、現在の山東省に存在していました。

そして、架空の人物であるはずの、『水滸伝』の中心人物宋江も実在していたと考えられています。

宋の歴史書『宋史』に「36人の部下を率いた宋江は数万の軍隊に匹敵する力を持っている」とあり、1121年に現在の山東省で反乱を起こしたという記録が残っているのです。
宋江たちは悪政を繰り返す朝廷にひと泡吹かせてやろうと各地で大暴れし、北宋王朝は彼らの討伐に振りまわされました。
この宋江と36人の盗賊は後に捉えられ降伏しますが、この一連の騒動が『水滸伝』のもとになったと考えられています。

ただ、宋江と36人の盗賊が梁山泊を拠点にしていたという記述はなく、残念ながら、実在した宋江と梁山泊との間に接点はないようです。
しかしこれらのことから、『水滸伝』は当時実際に起きた出来事や話題になった人物をモデルに描かれているということがわかります。
そう言われてみれば、梁山泊の英傑たちはみな強いですが清廉潔白というよりはむしろ、はみ出し者お尋ね者たちばかり。
しかも魔星の生まれ変わりときています。
荒唐無稽な内容であっても、史実を取り入れ時代背景がしっかり描かれているため説得力がある。
このあたりのことも『水滸伝』の人気の要因と言えそうです。

なぜ荒れた?北宋王朝の政治とは

北宋時代の幕開け

北宋時代の幕開け

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『水滸伝』の話が長くなってしまいましたが、ここからがいよいよ本題です。
このような物語が生まれた背景には、腐敗した政治があることは明白。
後の世まで語り継がれる英雄たちの敵役になるほど、なぜ北宋王朝はそんなにも乱れてしまったのでしょうか。

北宋が誕生したのは10世紀半ば。
長きに渡って全土を統一していた唐王朝が滅び、節度使と呼ばれる地方集団が打ち立てた国が互いに争い合う「五代十国時代」という時代が終わりを告げようとしていました。
およそ50年に渡って、いくつもの国が誕生しましたが、どの国も中国全土を掌握するほどの力はなく、国同士の争いが絶えず混乱。
また、北方の契丹という民族の存在も忘れてはなりません。
この頃に、国の名を遼と改め、さらに勢力を伸ばし続けていた時代です。

この争いを鎮め、再び中国統一を成し遂げたのが、五代十国のうちのひとつ、後周という国の将軍であった趙匡胤(ちょうきょういん)、後の太祖(たいそ)。
後周の都であった開封府という町に入り、国の名前を宋と改めました。
宋という名は、太祖が節度使だった頃に治めていた土地「宋州」にちなんだものと言われています。
960年のことでした。

宋はこの後300年以上続きますが、途中、異民族に侵攻され都を追われ、南に移動します。
そのため、都を追われるまでの間を北宋、追われた後を南宋と、区別して呼ぶことが多いのです。
そして、南へ追われる結果を招いたのが、『水滸伝』にも登場する8代皇帝徽宗。
この頃にはもう立ち直れないほど、宋という国は傾いていたのですが、悪政は徽宗の時代に突然始まったわけではありません。
宋建国当時には既に、その兆候があったのです。

文治主義と中国統一

宋を建国し、五代十国時代を終わらせるべく、中国統一に動きだした太祖。
唐が滅びてからの間、5つの国が興っては滅び、争いが絶えず、乱世が続きました。
宋を短命に終わらせたくない、その一心で、文治主義を推し進めていきます。
5つの国が短命に終わったのは、軍人の力が強すぎたためと考えたのです。

そこで太祖は、それまで地方を治めていた節度使から軍事や財政に関わる権利を取り上げ、代わりに中央から文官を派遣していきます。
科挙制度(隋の時代に始まった官僚登用試験)を重要視して、武人より文人を育てることに力を注いだのです。

一方で、統一のための体制固めも推し進めます。
南のほうに散らばっていた、五代十国のうちの”十国”を次々に征服し、あと一歩、というところで太祖が突然崩御。
暗殺説もある中、その弟が太宗(たいそう)となって後を継ぎます。
太宗は兄太祖の意志を継いで文治主義を進め、残った国々を滅ぼして中国統一を果たしました。

太宗亡き後、その子供の真宗の時代に、文治主義はほぼ完成したと考えられています。
新しい官僚制度が整えられ、科挙を通過した優秀な官僚たちが政治を動かしていました。
都である開封府も、水路や道路が整備されて大変栄えていきます。

文治主義の確立によって皇帝に刃向かう勢力はなくなり、宋は安定したように見えましたが、問題がなかったわけではありません。

軍事力の低下と北方民族の勢力

軍事力の低下と北方民族の勢力

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この頃、中国大陸の北方には、大変強大な力を持つ異民族の国が誕生していました。

まず、契丹族が打ち立てた遼。
北部中央に大変広い領土を構えており、宋を脅かす存在となっていきます。
西方に目を向ければチベット系タングート族の西夏(せいか)が勢力を伸ばしつつあり、そして女真族が打ち立てた金(きん)が、北東部一帯を牛耳っていました。

五代十国時代から何度となく南下し、各国の脅威となっていた遼は、宋王朝にもたびたび侵攻を行います。
しかし、文治主義を推し進めてきた宋に、強大な北方民族に抗う力はありません。
敵の軍勢およそ20万。
黄河の北岸まで攻め込んできた遼に対し、宋は予想外にも善戦抵抗。
両軍は盟約を結びます。
表向きは、遼が宋を”兄”として礼節を払うものでしたが、実際には、遼が攻めてこないように宋が遼に金品を支払うという内容。
それから宋は毎年遼に「絹織物20万匹と銀10万両」を払うこととなりました(絹は2反で「1匹」と数えていたようです)。
もっともぎ取られると思っていたのか、これまで契丹族の侵攻に備えていた莫大な軍事費のことを思えば安いものだと、宋はこの盟約に前向きに署名。
その後も、遼との間に小競り合いは多少ありましたが、大きな戦にはならず、両国の関係は安定していたものと思われます。

遼から攻められる心配がなくなった開封府は栄え、多くの民衆文化が花開いていきました。

しかし一方で、軍事力の低下には拍車がかかり、西方の西夏が攻め込んできたときにはもう、太刀打ちできなくなっていました。
宋はやむを得ず、遼のときと同じように金品を送ることで講和を結ぶことに。
当然、財政は逼迫していきます。
宋は表向きは平和を保っていましたが、軍事力の低下と財政難、ふたつの問題を背負うことになってしまったのです。

財政難と王安石の改革

講和のために遼と西夏に毎年支払う莫大な金品の他にも、宋の財政を圧迫しているものがありました。
増えすぎた官僚たちの給料です。

宋建国当時、文治主義を進める前は200人程度だった官僚の数が、4代仁宗(じんそう)の頃には10,000人を超えていたと言われています。
また、文治主義を進めているわりには軍事費も増えていました。
皇帝を守るための正規軍、いわゆる禁軍の数が、建国当初の4倍にも膨れ上がっていたのです。
お金がなければ遼や西夏が盟約を破棄して攻め込んでくるかもしれません。
かといって、これ以上税金を上げたら、農民たちは田畑を捨てて逃げてしまうでしょう。
宋は深刻な財政難に陥ってしまいました。

そんな頃に、ひとりの官僚が改革案を進言します。
名前は王安石(おうあんせき)。
農民や小商人たちの保護なくして国の繁栄や利益はあり得ないとして声を上げ続け、6代神宗に取り立てられて本格的な改革に着手します。

王安石は、大地主や大商人たちから税金を徴収し、小作人たちに安い利子で種もみなどを貸付けるなど、国力の底上げを徹底的に推し進めました。
文治主義は宋という国を安定させてはいましたが、官僚になれば楽ができると考えた輩が増え、科挙試験にも不正が横行。
詩や道徳など唱えることはできても実務ができない役人が増えていたのです。
王安石は科挙試験の見直しも行い、きちんと仕事ができる官僚を増やそうとしました。

農民が作物を作らなければ徴税もできません。
こうして王安石の改革は着々と進んでいきましたが、当然、多くの官僚たちから睨まれることになります。
王安石は数々の改革を行いましたが、1074年に起きた大干ばつの後、反対派の圧力が一層強まったことで一線を退き隠遁。
しかし、王安石亡き後も、改革派と反対派の派閥抗争が続き、宋の政治はますます混乱していきました。

徽宗時代と北宋王朝の末期

新法・旧法の争い

王安石が打ち出した改革案と、従来のやり方で政治を行うべきだと唱える反対派。
それぞれの考えを新法、旧法と呼び、双方の争いを「新法・旧法の争い」と言い表します。
新法は農民や中小規模の商人たちを救済し国力を底上げするためのもの。
弱い者の味方となる考え方です。
そう考えると、新法に反対する連中は私利私欲に走り楽をしたいだけの官僚たちばかりなんだろうと思いがちですが、決してそういうわけではありません。
もちろん、反対派の大多数は、地主や大商人など金持ち層や腐った役人たちだったと思われますが、新法の問題点を指摘し、国のことを考えている旧法派の官僚もいました。
考え方は違えど、どちらも、宋という国の将来を思っていたことには変わりないのです。

そのため、王安石が死んだ後も、この論争がおさまることはありませんでした。

神宗が亡くなった後、皇太子が即位して哲宗(てつそう)となりましたが、まだ幼少。
代わりに政治を執り行ったのが哲宗の祖母にあたる宣仁太后(せんじんこうごう)で、この人が旧法派だったため、一時的に新法は姿を消すことになります。

しかし宣仁太后が亡くなると哲宗は再び新法を採用するように。
新法派の官僚が復権、旧法派の役人たちが数多く失脚。
この頃には、新旧双方共にかなり大きな派閥となっており、もう、政治の在り方を問うというより、敵派閥を潰すことばかり考える風潮が広まっていたのではないかとの見方もあります。

軍事力の低下と異民族の脅威、和平の代償に支払う巨額の付け届け、都への人口集中、皇帝への権力集中を進めるため強化した禁軍の膨張と跳ね上がる軍事費、官僚の人数増加と質の低下……。
どれも、宋という国が未来永劫続くよう始めたことなのに、今や宋の財政は火の車。
何とかしなければ、と熱心になるあまり激化したと思われる新法・旧法の争いが逆に拍車をかけることになり、宋王朝の終わりの時は刻一刻と近づいていました。

8代皇帝徽宗

哲宗には子がなかったため、亡くなった後、弟の徽宗が即位します。

問題は山積です。
国を治めていくためには、まず、新法・旧法の争いを鎮めなければなりません。
それぞれの派閥から皇帝の側近を選抜するなど、新法・旧法両方の融和を目指しましたが、うまくいきませんでした。
結果的には新法派が台頭し、政治はますます混乱していきます。

ここで徽宗に取り入り実権を握ったのが、悪名高き蔡京です。
新法旧法の間を姑息に行き来してずる賢く生き残ってきた蔡京は、国のための政治をする気などこれっぽっちもありませんでしたが、妙に頭がよく、私財を貯める能力だけは持ち合わせていました。
また、書の世界では大変有名な人物だったので、芸術に傾倒していた徽宗に気に入られていたのです。

徽宗は一切、政治に関心を示しませんでした。
政務は全て重臣たちに任せ、自身は絵を描いたり焼き物を集めたりして、優雅な生活を送っていたようです。
それをいいことに、蔡京たちは好き放題。
反対勢力の旧法派の役人を追放し、書物をすべて焼いてしまいます。
また、徽宗は造園にも力を注いでおり、国中から珍しい樹木や庭石などを集めて都へ運ばせていました。
こうして運ばせていた珍しい石を花石綱(かせきこう)と呼んでいましたが、次第に、徽宗のために調達された宝物を運ぶ船団そのものを花石綱と呼ぶように。
大きな石を都へ運び込むために、運河にかかっていた橋を取り壊させたり、民家を破壊したりと、花石綱のせいで開封府の道にまで影響が出る始末。
庶民の生活に影響が出るまでになりました。

さらに悪いことに、これらの荷物の運搬は、私腹を肥やす悪役人たちの絶好の隠れ蓑になったのです。
蔡京や、同じく徽宗に取り入っていた童貫は、積み荷を横流ししたり、商人たちからわいろを受け取ったり、私腹を肥やすことにばかり精を出していました。

徽宗自身が強烈な暴君というわけではなかったのかもしれません。
しかし、自身は何もせず、ただ自分のしたいことだけしていたため、結果的に悪政を招くことになってしまったのです。

金の建国と北宋の終わり

この頃、北方の異民族にも大きな動きがありました。
長年、遼に服属していた女真族が独立して金国を建国。
遼を圧倒します。
これに乗ったのが宋王朝。
金と手を結び遼を倒してしまおうと考えたのです。
宋は遼の討伐に大軍を送りだしました。

また、時期を同じくして江南地方では、徽宗の政治に異議を唱えた方臘(ほうろう)という人物が起こした反乱が激化。
重い税と地主の悪政に苦しむ農民たちが立ち上がったのです。
反乱はたちまち広がり、100万人以上の農民がこれに加わったとされています。
また、『水滸伝』のモデルと言われている宋江と36人の盗賊たちの台頭もこの時期のこと。
国外だけでなく国内でも争いが起こり、遼へ出陣した軍は呼び戻され、反乱の制圧にあたらせることとなります。
このとき、騒動のどさくさにまぎれて童貫率いる禁軍が農村で略奪を繰り返し、江南地方はすっかり荒れ果ててしまいました。

そんなことをしているうちに金国が遼を占拠。
ついに遼は滅びます。
すっかり出遅れた宋は、金国をだまして、以前遼にとられてしまった領地の一部をかすめ取ろうとしましたが失敗。
今度は金国の脅威に怯えることなります。
徽宗は急に皇帝を辞めると言い出し、息子の欽宗が即位することになりました。
欽宗は北宋最後の皇帝です。
欽宗は金国との間に講和を結ぼうとしましたが、突き付けられた講和の条件は厳しく、賠償金の額は過去に遼や西夏とかわした盟約と比べ物にならないほど巨額であったため、講和は破談。
1127年、徽宗・欽宗は捉えられ、金国に連行され幽閉されてしまいます。
こうして北宋は滅びていきました。

欽宗の弟の趙構(ちょうこう)は南へ逃れ、現在の河南省南京に都をおいて再び宋王朝を建国します。
ここからが南宋。
南宋はこの後、開封府へ戻ることを夢見ながら、南の地で1279年まで続きます。
”蒼き狼”と呼ばれるモンゴル族の青年が征服王朝「元」を打ち立てるまで。

芸術家としてなら超一流!徽宗皇帝が残したもの

政治を行う力はまったくなかった徽宗でしたが、絵画や書、音楽など、芸術の分野では非常に優れた才能を発揮していました。
皇帝ではなく文人として生まれたなら大成したであろうと言われている人物です。

徽宗は宮廷内に「画院」という絵画の学校を設け、写実的な「院体画」と呼ばれる画風の絵を教えていました。
院体画とは花鳥や山水などを精密に描くのが特徴の画法で、徽宗はこの画法の第一人者として知られています。
また、書の世界でも、「痩金体(そうきんたい)」と呼ばれる楷書体の一種を考案。
この書体は今でも、日本や中国で使われています。
現在、徽宗の作品は貴重な文化財とされていて、日本にある『桃鳩図』(現在は個人蔵)は国宝にしていされています。

また、徽宗は陶磁器を好み、朝廷公認の窯を設けさせて新しい青磁をたくさん生産させました。

徽宗の在位期間は1100年~1126年。
25年も皇帝として在位していたことになります。
その間ずっと、芸術に没頭していたわけですが、芸術家として称賛を浴びたのは徽宗本人であって、徽宗時代に新たな芸術文化が花開いたわけではありません。
民衆はずっと疲弊していました。

皇帝が贅を好み、芸術や信仰に傾倒することは、決して悪いことではありません。
そこから新しい文化が生まれ、産業が発展することもあるからです。
徽宗の趣味はどうだったのでしょうか。

もしかしたら自身の知的好奇心を満たすというより、北方民族の脅威や内政から、単に現実から逃れるためだけのものだったのかもしれません。

『水滸伝』の魅力を語る

庶民に愛された長編小説

事実は小説よりも奇なり、と申しますが、北宋時代はまさに「小説より奇だった時代」と言えるのではないでしょうか。

『水滸伝』を読むと、わいろを手にして領民をいたぶる小役人がたくさん出てきます。
そいつらを相手に剣を振るう梁山泊の英傑たちに、読者は一喜一憂するわけなのですが、現実の北宋時代の政治はもっともっと荒れていたのかもしれません。
武力ばかりが増すのも争いのもとになりがちですが、役人の数が増えすぎるのも悪政に陥る可能性が高くなる。
かといって何もせず成行きに任せるのはもっと悪い。
臨機応変に対応しようとしても混乱が増す。
『水滸伝』は王朝の政治や国家統一の争いの物語ではありませんが、背景には、中国大陸という広い領土を統一することの難しさが見え隠れしている。
そんな気がしてなりません。

そして、王族や政治家たちの争いの犠牲になるのは、いつの時代も、農民や力の弱い者たちです。

宋王朝の後も、元、明、清と、巨大な統一王朝が誕生します。
遠い昔の、徽宗皇帝の時代の政治の腐敗と財政難、そこに忽然と現れた、雲の上の存在であるはずの朝廷を脅かした名もなき無法者たち。
苦しい生活の中で、庶民たちは心躍らせながら、胸すく英傑たちの話を語り継いでいったのでしょう。

100本にも及ぶ長編小説『水滸伝』は、そうした庶民たちの思いが作り上げたものなのです。

『三国志』との違いは?

中国の代表的な歴史読み物である『三国志(三国志演義)』と『水滸伝』は、比較されることが多いのですが、双方の違いをおさらいしておきたいと思います。

まず、描かれた時代が異なります。
『三国志』は184年頃から280年頃までの約100年間。
『水滸伝』は1100年頃から1120年頃までのおよそ20年間。
1000年ほどの開きがあります。

次に物語の中核。
『三国志』は基本的には正史であり歴史の記録そのもののこと。
内容は「○○年に大雨が降った」とか「○○年に××が攻めてきた」とか、日々の出来事が綴られているだけで、書き手の思いや感情は記されていません。
ただ、この時代の、3つの国の興亡が劇的なので、演劇や小説などその後のエンターテイメントの題材として長く愛され続けてきました。
『三国志演義』もそのひとつで、現在よく知られている『三国志』の物語のほとんどは『三国志演義』をもとにしたものです。

一方の『水滸伝』は、108人の魔星の生まれ変わりたちが梁山泊を砦にして、庶民を苦しめる悪役人や朝廷たちと戦っていくという活劇。
モデルになる人物はいますが、架空の物語です。

さらに登場人物について。
『三国志』は正史ですので出て来る人々は全部実在の人物。
『三国志演義』も実在した人物によって物語が進みます。
主役は劉備、曹操、孫権の3人の覇王と、彼らを支える軍師や将軍たち。
対する『水滸伝』は108人の英傑とその部下たち、そして北宋の朝廷に仕える役人たちで、実在の人物もいますが、基本的にはみんな架空の人物です。

最後に本編の長さ。
『三国志演義』は120回、『水滸伝』は100回(または120回)。
どちらも大作です。
きっと、多くの読者が、続編を求め続けたのでしょう。

108人で誰が最強?最も人気のある好漢は?

梁山泊の英傑の中で一番強いのは誰?

『水滸伝』を読んでいくと、ふと、そんなことを考えたくなります。

実は、梁山泊に集った有志108人全員が武人というわけではありません。
医者や鍛冶屋、居酒屋店主、飛脚、文官など様々な職業の人間たちがいて裏を支えています。

しかし最強となると……。
まず頭に浮かぶのは、豹子頭林冲でしょう。
槍の達人で向かうところ負けなしの武将です。
エピソードで選ぶなら行者武松。
拳法の使い手で、虎を殴り殺したことがあるという武勇伝を持っています。
さらに九紋龍史進。
この人も大変人気があるキャラクターで、刃が三叉に分かれた大刀を武器に暴れ回ります。

変わり種が入雲龍公孫勝。
龍を召喚したり雷を落としたり、妖術のようなことをやってのけるため、この人の強さは別格、という感じがします。
そして忘れてはならないのが浪子燕青。
小柄で細身な美青年ながら体術の達人で、武術の他にも音楽や舞踊、頭の良さなども際立って描かれています。

他にも、宋の軍隊で活躍していた武将たちが大勢梁山泊に加わっていて、つわものぞろい。
関勝、秦明、呼延灼、花栄、楊志、徐寧、索超……。
みんな、強すぎるがゆえに高キュウらに目を付けられたり、前職を追われる身となった武人たちばかりです。
もし彼らが立ち合ったらどちらが勝つのだろう。
そんなことを考えながら読むと、より一層、面白さが増します。

ところで、頭領となる宋江の腕前はというと、この人、梁山泊のトップでありながら、武術は今ひとつ。
度胸もないし頭が切れるわけでもないし、典型的な小役人といった感じの風体。
風采の上がらない男ですが義に厚く、多くの英傑たちに慕われています。
しかしよく考えてみたら、頭領であるこの人が強くてかっこよかったら、108人も好漢を集める必要はなくなるのかもしれません。

最強は誰か?と聞かて、宋江を挙げる読者はいないでしょう。
でももし、108人のうちの誰かになれるとしたら?と聞かれたら……。
平凡な男ながら多くの豪傑から慕われる宋江の名を挙げる読者が多いのではないかと思います。

不動の人気!『水滸伝』を読むならこれだ!

日本でも多くの作家によって描かれ出版されている『水滸伝』。
その中から特におすすめしたい『水滸伝』を3つ、ご紹介いたします。
是非、北宋時代の混乱を思いつつ、読んでみてください。

●「水滸伝」 上・中・下 全3巻 (松枝 茂夫 翻訳・岩波少年文庫)

長編を駆け足で、という印象ですが、ストーリーを知るには十分すぎるほど。
わかりやすく面白く描かれていますので「水滸伝は読んでみたいけど、長編だし、ちょっと……」という人に是非読んでいただきたいです。

●「新・水滸伝」全4巻(吉川英治・講談社 吉川英治歴史時代文庫)

長編も読んでみたい、というなら、こちらをおすすめしないわけにはいきません。
1960年に書かれたものなので、若い人には少し、読みづらい文章もあるかもしれませんが、原点に忠実に、軽快な文章で描かれています。
残念ながら途中で作者が亡くなってしまっており、未完。
しかし108人が梁山泊に集結するところまでは書かれていますので、十分楽しめると思います。

●「水滸伝」全19巻(北方謙三・集英社文庫)

1999年から2005年に連載された小説。
原典とはかなり内容が異なります。
「これが水滸伝なのか?」と思いながら、不覚にも涙が。
読み出すと止まりません。
108星の生まれ変わりのくだりや妖術使いなどの要素は薄く、革命戦記の様相が色濃く出ている大河小説です。

なぜ今、『水滸伝』なのか?

 

混迷極めた北宋時代のように、現代でも、貧富の格差が世界中に拡大し、人々は不安と不審の中で暮らしています。
そんなときに求められるのが弱きを助け強きをくじくヒーローなのではないでしょうか。
1000年以上前のことではありますが、北宋時代の迷走ぶりを現代の政治に照らし合わせた方も多いはず。
民衆は梁山泊を求めている。
それは、今も昔も変わらないのかもしれません。
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