奇跡を起こさない聖人――東洋道徳の祖〈孔子〉の歴史

〈少年老いやすく学成りがたし〉〈四十にして惑わず、五十にして天命を知る〉〈遠方より友来る、また楽しからんや〉――中学校の漢文の授業で習ったなつかしい言葉。今なお強い人気と影響を誇る『論語』の一節の数々です。2500年も前の人でありながら、今なお私たちを導き教える言葉を残した孔子とは、一体どのような人物だったのでしょう?また、彼の生きたそのときの中国とは一体?奇跡を起こさず、人間を信じ続けた聖人。「君子」「道」「天」「中庸」を説き、世界に絶大な影響を与えた巨人、〈儒教〉の祖でもある〈孔子〉の歴史を今回はご紹介します。

孔子と、孔子の生きた当時の中国

孔子と、孔子の生きた当時の中国

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孔子が生まれたのは、紀元前552年(『史記』によると紀元前551年)。
西洋ではアケメネス朝ペルシャや古代ギリシャがイケイケの時期です。
中国は主要な国だけでも7ヶ国が林立する、群雄割拠の戦国時代!歴史上では〈春秋戦国時代〉に区分されます。
この混沌とした中国大陸の小国・魯(ろ)に孔子は生をうけました。
これからご紹介するのは秦の始皇帝が中国大陸を統一するよりも、もっと前の話。
ていねいに追っていきましょう。

〈春秋戦国時代〉って?「孔子以前」の道徳はどんなの?

〈春秋戦国時代〉の前は〈周〉という国が中国をおさめていました。
しかし〈周〉が2つに分裂。
〈周〉の弱体化とともに有力諸侯が乱立し、中国大陸は群雄割拠の時代に突入。
この戦国時代はなんと550年にも渡って続くのです。

この〈春秋戦国時代〉を終わらせ、中国大陸を統一する秦の始皇帝が出るのは紀元前221年。
孔子は始皇帝より300年も前の人間なのです。
〈先秦時代〉つまり「中国統一される秦以前」の巨人として、孔子は中国史に大きな足跡を残しています。

ところで気になるのは、孔子以前の「道徳」。
孔子の教えをベースに後世作られた〈儒教〉は「道徳」の代名詞です。
しかし〈孔子以前〉の中国大陸とはどのような道徳で秩序立てられていたのでしょうか?正解は〈天〉に対する敬い。
すべてを見ている〈天〉が人間に災いも喜びも与える、〈天〉に恥じないように失礼のないように生きよ、という教えです。
孔子の言行録である『論語』にも頻繁に〈天〉という言葉が登場します。
孔子はまったく新しい教えを作ったのではありません。
これまで中国の聖人たちが尊んできた考えを完璧に踏襲した上で、自分の思想を編み出していったのです。

思想の巨人、小国の貧しい家に生をうける

孔子はそんな時代の激流のただなか、中国東部、3つの大国に囲まれた小国。
魯(ろ)に生をうけます(現在の山東省南部)。
父親は70歳の軍人戦士、母親は16歳の巫女という年の差夫婦。
3歳のときに父を亡くし、17歳のときには母も鬼籍に入ります。
貧しい生活の中で孔子は孤児として苦しい暮らしをしました。
とは言うものの、孔子の幼少期について詳しい記録はあまり残っていません。

さて孔子の故郷・魯国では〈三桓氏(さんかんし)〉一族が実験を握っていました。
〈三桓氏〉の実権は強力。
政治から軍事まですべてを掌握していました。
後年、政治の舞台に乗り出す孔子もこの〈三桓氏〉相手になかなか手こずることになります。
晩年の孔子の君主・哀公(あいこう)はこの〈三桓氏〉ファミリーを除こうとして失脚しています。

この魯に孔子は36歳まで留まります。
その後、ある理由でこの小さな魯国を飛び出していくですが――それについては後に譲りましょう。

若き孔子、家庭生活と野心

若き孔子、家庭生活と野心

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聖人イメージの強い孔子。
「えっ結婚してたの?」そう、孔子は19歳のときに〈幵官氏(けんかんし)〉という女性と結婚していたのです。
孔子の息子・伯魚は『論語』でもちゃんと登場しています。
孫息子・子思は孔子の死後も、祖父や父の教えを受け継ぐ儒教学者の1人として活躍しているのです。
なんだか意外な感じですね。
ちなみに孔子の死後、「自分は孔子の子孫!」と主張する人が多く出てきました。
その数は膨大で、現在直系かどうかを問わななければ400万人を超えるとされています。
実際に孔子の末裔が生きていると考えると、ちょっと感慨深いですね。

「女と小人は扱いにくい」!?息子のネーミングで大モメ

幵官氏は19歳のときに孔子と結婚します。
彼女について詳しくは後世に残っていません。
ただ伝わっているのは「悪妻伝説」。

孔子に念願の息子が生まれます。
孔子の君主である昭公は孔子に祝いとして魚の鯉を下賜しました。
幵官氏ははじめての子供の名前をいろいろと考えていたことでしょう。
しかし孔子はすべての案を、頑として聞き入れません。
「陛下から賜った『鯉』と名付ける」

だから孔子の息子の名前は〈孔鯉〉。
ついでに字(ニックネーム)は〈伯魚〉です。
まともな神経を持ちあわせた母親なら激怒ですよね。
ソクラテスの妻と同じように常識人間だったのを、孔子のまわりの弟子たちが「先生の心も知らずに!」と解釈して伝えたのでしょう。
ちなみに一説によれば幵官氏はその後、孔子と離婚。
幵官氏の死去にあたっては、母の逝去を悲しむ伯魚を「母親の死に嘆きすぎだ」と叱責したという記録もあります。
聖人とも言われる孔子、女心がわからない人間だったのでしょう。

政変――故郷を飛びだす

息子に鯉って名前までつけて、立身出世をはかろうとした?なかなか薄情なエピソード。
しかしここで覚えておいていただきたいのは、孔子はあくまでも人間であったということです。
聖人とは周囲のつけた評価であり、孔子本人にも野望や欲望はあったことでしょう。

孔子も一般の青年らしく出世欲に燃えます。
倉庫や牧場を管理する役人などの官職を経ます。
しかし35歳のとき一度官位を返上し、孔子は周の都・洛陽へと留学の旅に出ます。
この留学と同時期にはじめての弟子を得たと記録にはあります。
その後、留学を終えて魯に帰還した孔子はふたたび士官せず、弟子をとって教育することに熱を注ぎました。
この時すでに〈師〉として〈立つ〉ことを決意したのです。

36歳孔子に転機が訪れます。
政変です。
魯国の君主・昭公は、先王が急死だったためにあわてて即位が決まった王様。
魯では〈三桓氏〉があいも変わらず大きな権勢を振るっています。
昭公はクーデターを決意。
しかし〈三桓氏〉に追い落とされてしまいました。
孔子は主君・昭公にしたがって魯国から斉国へと亡命していくのです。
その後も孔子と〈三桓氏〉はたびたび対立することになります。

孔子の主だった弟子をご紹介!

孔子の主だった弟子をご紹介!

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ここで、孔子と苦楽をともにした弟子たちのごく一部をご紹介します。
3000人いると言われる孔子の弟子。
そのうちでも非常にすぐれた10人の弟子は〈孔門十哲〉と呼ばれ、孔子と弟子の言行録『論語』にも頻繁に登場します。
しかし似たような字面、本名やあだ名が混在してややこしい!そこで数ある孔子の弟子の中でも「この3人だけおさえておけば、孔子の人生をたどる上では大丈夫!」という人をピックアップしてみました。

ヤンチャでひたむき――子路・子貢コンビ

まずは、孔子の弟子の中でも優秀な高弟〈孔門十哲〉のうちの2人、弁舌の才に長けた子貢(しこう)。
政に関して才能を発揮した子路(しろ)の2人をご紹介します。

まずは、子路。
『山月記』が代表作の日本の作家・中島敦がこの子路を題材に『弟子』という短編を書いています。
その中で中島敦の描く孔子はこう言うのです「この弟子は大きな子供のようだ」と。
この言葉が的確にあらわしているように、彼は素直に不平不満を口にし、その様子は「先生なんでですか、どうしてこんなことになるんですか」と大きな子供のよう。
孔子はときに彼をいさめ、ときに茶化しからかい、この弟子をこよなく愛しました。
言行録『論語』において孔子の次にもっとも多く登場する人物です。

子貢(しこう)はやはり〈孔門十哲〉のうちの1人。
とにかく口達者!その弁舌はときに孔子さえもしのぎます。
「あなたは孔子よりも偉大な人物ではないか」ある日そんな風に言われた子貢。
しかしこのように反駁します「私は家の塀に例えるなら、家の中が見える高さ。
中は小綺麗に見えるからそのように言われる。
しかし先生は非常に立派で高い塀でいらっしゃる。
門から見なければそのすばらしい家の中が見えない。
だからそのようにおっしゃるのでしょう」次々と亡くなっていく孔子の近親者の中でも生き残り、孔子の死を看取ります。
その後の孔子一門を取りまとめた、孔子一門の中でもとりわけ重要な人物の1人です

「彼のために泣かずして、誰にために泣くのか」完璧な弟子・顔回

顔回(がんかい)は孔子がこよなく愛した、孔子にとって最高の弟子です。
ニックネームを顔淵(がんえん)とも言い、『論語』の中ではこの2つが交錯します。
ここでは〈顔回〉で統一しましょう。

顔回は孔子に、つまり〈道〉そして〈君子〉の領域に限りなく近くたどり着いた人間でした。
出世のことは考えることなく、ただひたすら孔子の教えを実践するために一生をかけた弟子です。
孔子は彼のことを「顔回は1を聞いて10を知る」と言って褒めたたえました。
孔子の門下生になる人間の中には「孔子の弟子になっておけば、とりあえず出世の糸口になる」と期待を持ってやってくる者が多くいました。
しかし顔回は生涯士官することはなく、一介の庶民として人生を送ったという、孔子一門でも稀有な人物です。

その遁世的な姿は、このあと紹介する莊子の思想に大きな影響を与えたと言われています。
しかし顔回は  不遇のうちに赤貧をつらぬいて亡くなります。
後継者とまで考えていた顔回の死を知った時、孔子は声を上げ放って泣きました。
妻子の死にあたっても泣かなかった孔子に驚いている他の弟子たちに、孔子はこう言います「顔回の死に泣かずして、誰のために泣くというのか」

三十にして立つ――孔子、天命を発見する

三十にして立つ――孔子、天命を発見する

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36歳で君主・昭公とともに斉国へ亡命した孔子。
そしてその亡命の道中で、孔子の一生の転換点となる出来事に出くわすのです。
山中で泣く女性が孔子に言ったある衝撃的な一言とは。
そして孔子は亡命先で不遇の中にありつつも、ついに生涯の使命を発見します。
自分のやるべきこと、それは人を教え導くこと。
道を実現すること。
そのためにひたすらに学び究めること……。
〈天〉に恥じない〈道〉を実現させるにはどうすればいいか?孔子は模索していきます。

「人食い虎よりも、政治のほうがおそろしいのです」

亡命の道中、孔子は山のふもとの墓場を通りかかります。
そこで1人の女性が泣いているのに出くわしました。
事情を問うと、舅と夫、それに子供を、人食い虎に食い殺されてしまったというのです。
「それではこのようなところに住まなければよいではないか」女性はこのように言いました「ここは人食い虎は出ますが、あの苛酷でおそろしい政治の手は届きません」

孔子はこのあわれな庶民の女性の言葉を聞いて衝撃を受けます。
ここで孔子がつぶやいたと言われる言葉があります。
〈苛政は虎よりも猛し〉――苛酷な政治は、虎よりもおそろしい。
この言葉は故事となり、現代にまで残っています。
賄賂が横行し、税金は重く取り立てられ、民衆は厳罰におびえる日々。

孔子が〈立つ〉きっかけを与えたのはまさしくこの女性だったかもしれません。
孔子は思いました。
本当に〈道〉を実践するには、まずは国を善政で治めなければならない――自分が政治の実権を握る必要がある、と。

〈天〉〈道〉〈仁〉って?

それは孔子の弟子たちが、師から聞いていつだって考えこむ言葉です。
この言葉は孔子が発明したものではありません。
古代中国から連綿と続く尊い概念です。
そもそも孔子は〈ふるきをたずねて新しきを知る〉の故事のとおり、まず中国の古い聖人たちの思想をふまえて、自分の思想を編み出しました。
そのため孔子の教えはときに復古主義であると言われます。

さて『論語』を読むと、孔子はこれらに対してさまざまな解答を与えています。
しかしつきつめてしまえば〈隣の人をまず和やかな気分にさせなさい、その集落、町、ひいては国自体を穏やかにする心を持ちなさい。
人の嫌がることをしてはならない〉ということでしょう。
これらの言葉の解釈はその後の弟子、孫弟子、そのまた後世の後継者もずっと考え続けていること。
私たちはみずからに問いかけながら、孔子の言葉に耳を傾けなければならないのです。

その〈道〉は個人の倫理にとどまりません。
孔子は生涯をかけて、理想の君主すなわち〈君子〉を求めていました。
徳による治世を行う国家による政治が道を実現すると、孔子は考えていたのです。
統治者の徳によって人民を治めるべし、という孔子の教え。
――すなわち〈徳治主義〉です。

四十にして惑わず、五十にして天命を知る

四十にして惑わず、五十にして天命を知る

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孔子はようやく自分の理想を実現する機会を持ちます。
最高裁判所長官である〈大司寇(だいしこう)〉に任命されたのです。
しかしそこでも様々な妨害に遭遇。
〈道〉の政治を実現させるのに苦しむ日々が続きました。
57歳のとき、孔子は決心します。
この魯国を飛び出して、仁と徳による政治を実現させるのだと。
また理由はの1つは故国・魯での政治的失脚です。
40にして〈不惑〉すなわち迷いのない境地を得た孔子。
そこから見える景色とは?そして孔子の得た〈天命〉とは何だったのでしょう?

孔子、もっとも苦しい時期

孔子に迷いがなかったわけではありません。
30代で礼の専門家としては一流と言われ、すでに多くの弟子を得、自らでもかなりの知識をおさめていました。
そうしながら彼は〈道〉の成就のために心を砕いていたのです。

52歳のとき、孔子はついに政界・司法界デビューを果たしました。
最終的に彼は〈大司寇〉すなわち最高裁判所長官に任命されます。
孔子が実際に政治にたずさわったのは、この魯で司法関係の役人をつとめたわずか4、5年のあいだだけ。
そのあいだ非常に善い政治を行い、腐敗政治を大刷新!ついに〈道〉の実現が近づくかと思われました。

魯はどんどん善く強くなっていきます。
それがおもしろくないのが、隣国の斉。
パワーバランスの難しい戦国時代、下手に魯が強国になられては困ります。
そこでとったのが〈美女送りこみ作戦〉。
後宮に美しくみだらな美女があふれた魯国では、女狂いになった主君によりふたたび政治腐敗が起こっていきます。
また例によって〈三桓氏〉ともごたつきます。
孔子は行き詰まっていきました。

〈不惑〉の境地〈天命〉を得た孔子、そして旅へ――

このような中でも、孔子はめげません。
まだまだ知らない領域を学んでいきます。
そもそも孔子の教えは、孔子自身から自然に出たものではなく、古人・聖人の学問をとことん学び、自分の中でかみくだいた結果、あふれ出してきたもの。
その学問の領域においてまさしく〈不惑〉にたどり着いたのは、40代のとき。
それまではフラフラ迷っていたというのです。
なんだかこのようなところから、孔子は「等身大の聖人」という感じがします。

さて、50代にして実権を握った孔子でしたが、大司寇の職も行き詰まり、政争にも敗れます。
へこんだり落ちこんだりしません。
彼は言いました「私は天命を得た」

天から与えられた、生涯をかけて遂行すべき使命。
それはもちろん、彼にとって〈道〉の実行にほかなりません。
その信念が完璧に自分の存在と一体化した、自分は信念であり、信念は自分である――魯から飛び出そう。
孔子は群雄割拠の中国大陸の諸国をめぐって、理想の君主を見つけ仕え、そして弟子を啓蒙するという目的で、旅に出ることを決心します。
69歳まで、13年にも渡る旅がはじまりまるのです。
旅立つ孔子、57歳のことでした。

旅のさなか――六十にして耳順(みみしたが)う

旅のさなか――六十にして耳順(みみしたが)う

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60歳――当時の平均年齢から考えると、相当な高齢です。
しかしこのおじいちゃん、めげません。
まだまだ人生わからないことがあるとばかりに、人を教えながらも自分で学ぶことをやめません。
「ようやく他人の言うことにすなおに耳を傾けることができるようになった」それが〈六十にして耳順う〉の言葉になったのです。
13年にも渡る諸国をめぐる旅。
一体どのような旅だったのでしょう?そして、その結果やいかに?

数多の苦難、見つからない〈君子〉

孔子はその旅路でさまざまな妨害、苦難に遭遇します。
軍隊に包囲されて飢え死に寸前までいったり、人違いによって孔子が暴徒に襲われそうになったり。
戦争が起こったり、暗殺されそうにすらなりました。
しかしそのようなことより、孔子にとって何より苦しかったことは、〈君子〉を見いだせなかったことでしょう。

ところで他の〈聖人伝〉には絶対に見られない、このような事件がありました。
どの国でも、名高い孔子に対して権力者が虚勢を張ったり、召し抱えようとする動きを妨害したりということが起こりましたが、その中でも衛(えい)国の霊公はクセモノでした。
霊公というよりも、彼の寵愛する女性がです。
南子(なんし)という女性は淫乱奔放との噂、非常に評判が悪く、そのために霊公も政治をおこたっているとのこと。
しかしある日孔子は南子に謁見します。
そのとき南子が孔子を誘惑し、ハニートラップにかかった……。
と、いう説があるのです。
というのも、孔子は「何かおかしいことがあったら、天は私を見捨てるだろう」と弟子に大げさに否定。
この実態はさだかではありません。
ちなみに他の国では「せめてあなたの隣の人だけでも気分よくさせてください」と言うくらいの俗物人間が権力者だったりも。
孔子もほとほと愛想が尽きたことでしょう。

〈仁〉を行う君子がいないことを見出した孔子。
13年の歳月を経て魯の国へと帰還します。
すでに69歳。
平均年齢を大幅に上回るこの年齢、孔子はそれでも歩みを止めることはありません。

弟子たちを教えみちびく日々

孔子の宿願は〈徳治政治〉。
倫理観のすぐれた君主によって、人民をおさめ、〈天〉に恥じない世の中をつくること。
そしてみなが平和に暮すこと。

孔子は君主たちに対して失望を深めます。
しかし彼を慕ってくる弟子は日に日に増えていきました。
孔子は諸国で弟子たちを愛情を注ぎ、育てていきます。
一方で孔子の教えを出世の方便に使おうとする弟子もおり、孔子はそういう弟子を見つけるたびに、ていねいに〈道〉に向かうよう誘導するのでした。
そうすることが最終的に、善い政治や国づくりに発展していくからだと考えたからです。
孔子自身は不遇でしたが、孔子の弟子の中には士官にとりたてられて、その国の政治に貢献した人も多くいました。

孔子のすぐれた弟子、すなわち〈孔門十哲〉が誕生したのは、孔子50代のときからです。
孔子の最大の遺産は、孔子の言葉だけでなく、彼の育成した弟子たちかもしれません。
孔子亡きあとの中国大陸に、あらたな倫理と秩序をもたらしたのは、孔子がこよなく愛した弟子たちだったのですから。

「道、窮まる」――孔子、旅の果てに

「道、窮まる」――孔子、旅の果てに

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『春秋』に奇妙な記述があります。
魯で晩年をすごしていた孔子。
ある日、狩りの現場で魯国の君主・哀公はふしぎな獣が死んでいるのを見つけます。
〈麒麟〉――神獣、聖なる獣です。
それを見た孔子は、その奇形の獣の遺骸を抱きよせて嘆きました「道、窮まる」――歴史書『春秋』の記述はこの〈獲麟(かくりん)〉のエピソードをもって終わります。
長い長い旅の人生のはて、孔子のたどり着いた場所とは、どのようなところだったのでしょう。

愛弟子の死、妻子の死

老いた孔子を待ち受けていたのは、3000人にものぼる弟子、そして孤独でした。
妻・幵官氏はすでに故人。
孔子が魯国に舞い戻った69歳のとき、伯魚も50歳で亡くなっています。

子路は衛の国で士官したのち、反乱に巻きこまれて戦死します。
遺体は見せしめのため、塩漬けにされました。
この子路の死を聞いたとき孔子は、家にある塩漬けをすべて捨てさせ、死ぬまで一切塩漬けの食べ物を食べずに愛弟子の死を惜しんだといいます。
そして最愛の弟子にして最高の弟子・顔回の死。
これに孔子は妻子のためにも流さなかった涙を惜しみなく流しました。

『論語』にこのような一節があります。
『我を知ることなきかな』すなわち「私はいつだって誰にも理解されることはなかった」というのです。
それでも自分をはげますように付け加えます。
『我を知る者は其れ天かと』――しかし天だけは、私のしてきたことをご存知だと。

「哲人それ萎びんか」――七十四年の生涯を閉じる

孔子はその後自宅で、自分の思想書や歴史書などの編纂を行いました。
春秋戦国時代を代表する歴史書〈春秋〉は孔子の作であると言われています。
すべての事業を終えた孔子。
宴の席で弟子たちにこう告げたといいます。
「私の師としての仕事はすべて終わった。
あなたがたとは、これからは師弟ではなく友人だ」

七十四歳の春、巨人・孔子は弟子たちにかこまれて、その生涯の幕を閉じました。
死の七日前、孔子は一番弟子の子貢に、涙を流しながらこんな詩を歌ってきかせたと言います。
「泰山それ壊(くず)れんか 梁木(りょうぼく)それくだけんか 哲人それ萎(しな)びんか」――「聖なる山・泰山は崩壊しただろうか、家を支えるの梁(はり)の木は砕けてしまっただろうか、道を得た聖人はもう死んでしまっただろうか」

孔子の教えが

その後、孔子の言葉、そして孔子の弟子たちは発展していきます。
孔子はほとんど永遠といっていいほど人びとに慕われました。
そして、孔子を直接見たことのない孫弟子たちの世代になって編纂された言行録が不朽の名著『論語』なのです。

孔子が与えた世界への影響

孔子が与えた世界への影響

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日本の哲学者・和辻哲郎は孔子を、ソクラテス・釈迦・イエスと並べて〈人類の教師〉としています。
孔子はその生涯で、中国大陸のごくわずかな範囲で教えただけだったにもかかわらず、のちには朝鮮半島、日本をはじめとする広大なアジア世界の倫理道徳の基本となる存在となったのです。
その影響はとどまるところを知りません。
時代を越えてアジア世界、そして実はあんなところにも!孔子の教えや言葉は時空をこえて人の心に響いてくるのです。

中国はお手本!〈朱子学〉〈陽明学〉は日本史も動かした

日本に孔子の存在――つまり『論語』や〈儒教〉が渡ってきたのは、6世紀。
日本建国のごく初期から、日本人の倫理道徳に大きな影響を与えてきました。
明治までは、どんなことも日本のお手本は中国。
大切な先輩として中国にさまざまなことを学んできた日本。
その中でも〈朱子学〉〈陽明学〉の存在は近代日本史において非常に重要な役割を果たしました。

〈朱子学〉は徳川家康が採用した「御用学問」。
あえて一言で言うと「権力者に一番都合のいい」解釈をした派閥の学問です。
君主への忠誠や「正義・悪とは何か」などの思索を重視した〈朱子学〉は徳川時代の武士の思想教育に大きな役割を果たしました。
日本の大きな秩序を作ってくれたのです。

〈陽明学〉はかの〈大塩平八郎の乱〉を起こした、大阪の与力にして儒教学者・大塩平八郎がにした学問。
モットーは「知行合一」。
とにかく実践第一!どんな〈道〉でも実行しなければ意味がない、そんな〈陽明学〉は権威ガチガチの〈朱子学〉への対抗勢力として広まりました。

その後も『論語』は日本人にこよなく愛されました。
現代でも数年おきに出現する『論語』ブーム。
Wonder tripでは『論語』をベースにした小説作品、下村湖人の『論語物語』の書評を掲載中です。
そちらもぜひご覧になってみてください。

ルソーやヴォルテールもびっくりした『論語』の斬新さ

18世紀、西洋。
暗黒の中世、ルネサンスから宗教改革、絶対王政を経て、権力者の圧政から脱出しようという動きがはじまっていました。
〈啓蒙思想〉の誕生です。
権力者の圧政はすなわち、ヒエラルキーのトップにいる聖職者の圧政でもあった、西洋。
教会の束縛から逃れるためにはどうすればいいのか、そのような動きの中、啓蒙思想家たちはあるものを発見します。

それが他ならぬ『論語』でした。
大航海時代全盛期の16世紀、海外に拠点を広げていたキリスト教の修道会・イエズス会の修道士がヨーロッパに持ち帰り、フランス語に翻訳されます。

このフランス語版『論語』は17世紀になって出版されました。
これを読んだ啓蒙思想家たちは仰天します。
ここには、神によらない人と人同士の〈仁〉や〈道(道徳)〉の道が存在しています。
なんと遠い中国の孔子の教え『論語』はフランス革命を起こし、アメリカを建国した〈啓蒙思想〉に大きく影響を与えていたのです。

あくまでも人間でいつづけた、人類の教師・孔子

孔子のあらゆる記録は、彼は〈聖人〉でありながら〈神の使い〉などのようには一切書いていません。
孔子は何も奇跡を起こさず、来世をまったくといっていいほど語りませんでした。
冗談も言うし野心に燃えたりもする、ごくごくふつうの人間。
このような宗教の教祖は非常にまれです。
ひたすらに人間でありつづけ人間を信じ、迷いながらも自分の天命を探しながら、〈道〉を模索しつづけた孔子の人生。
世界の歴史を導いたほどのこの人類の教師の言葉は、2600年後を生きる私たちの行く先を今も照らしてくれます。
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