ローマ帝国の栄光を再び!皇帝が紡いだ「ローマ法大全」と東ローマ帝国

「ローマ法大全」と聞いても、名称からローマの法律なのはわかるけど、中身はよくわからないという方も多いかと思います。
歴史の教科書で太字で書いてあったような、聞いたことあるような。

そんな「ローマ法大全」には、私たちが普段何気なく常識と思ってるお買物のルールとか、裁判のルールの原点が記載されているのです。
古代ローマは法律がたくさんあって、そのルールの元に統治されていた法治国家でした。

ちょっと堅苦しいお話ですが、その古代ローマ時代の法律をまとめた「ローマ法大全」がどこでどうやって生まれたのか。歴史をひも解きながら、私たちの時代にどんな影響があるのかご一緒に見ていきましょう。

そもそも「ローマ法大全」ってなんでしょう

そもそも「ローマ法大全」ってなんでしょう

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今回ご紹介する「ローマ法大全」は古代ローマ時代に発令された法律を編纂して、さらに新たに補足した勅法を合わせた法典です。

528年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝ユスティニアヌスが編纂を命じ、533年から534年にかけて公布され実施された古代ローマ時代の法律をまとめた4つの構成からなる法典のことを指します。

別名「ユスティニアヌス法典」とも呼ばれています。

構成は「勅法彙纂(ちょくほういさん)」「学説彙纂(がくせついさん)」「法学提要(ほうがくていよう)」「新勅法(しんちょくほう)」になります。

古代ローマ時代に出された膨大な量の法律を体系的にまとめ、またその法の解釈もまとめられたものですが、なぜこのようなことが必要だったのでしょうか。

そこには長い歴史とともに積もった法律と、さまざまな時代背景とひとりの男の夢が詰まっていたのです。

古代ローマの法律の形はとても複雑

古代ローマの法律の形はとても複雑

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ローマ法大全を知るには時代をぐぐっとさかのぼり、古代ローマの時代を知る必要があります。

まずは古代ローマ時代の共和政政治組織について簡単にご紹介しましょう。

古代ローマは最初は小さな都市国家でしたが、周辺の民族たちを掌握していき、次第に国として大きくなっていきます。

小さな国だった頃は民から選ばれた王が国を治める王政でした。
次第に王政に対する不満が募り、共和政に移行します。

共和政ローマの政治機関としては、任期のある最高指導者が2人選ばれて互いを監視しながら統治していきます。
これを執政官(コンスル)と呼びます。
そして、執政官が結託して暴走しないよう、法案や国の決定についての承認と拒否権を持つ元老院によって公正な政治が運用されるように設けられていました。

しかし、この元老院も執政官も有力貴族たちによって締められていたのです。

共和政の内情としては一部の有力貴族によって治められていたため、時代とともに貴族と平民の対立が強まっていったのが紀元前5世紀ごろでした。

ローマ法の基本の法律・十二表法

ローマの法律で最も古く基盤であると考えられているのが「十二表法」。

これはもともと運用していた法律が貴族に独占されていることに不満を持った平民たちから成文化するように要求があり、生まれたものです。

法のもとに平等と言いながらも、平民たちは裁判をどのように起こしたらいいかもわからず、その手続きは複雑で、一度手続きに失敗した訴えは二度と訴えることができなかったため、実質的に平民たちが裁判を起こすことができない状態でした。

裁判権を貴族が独占しているのを解消するために、今の法を成文化するように訴えたのです。

その結果452年に12枚の銅板に刻んで公布されたとされており、この銅板は政治の中心地であるフォロ・ロマーノに設置されたと言われています。

この十二表法はローマ人の教養として暗記されるほどだったようで、ローマ市民であればこの法を知っていたと考えられます。

紀元前4世紀にガリア人の襲来によって銅板は失われたとされていますが、当時の著作の中には十二表法について部分的に引用されているものも多く、それらを元にほぼ当時の内容が復元されて現在に伝わっています。

ミルフィーユのような法の重なり

ミルフィーユのような法の重なり

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この十二表法は当時の慣習や法の内容を元にアテネの法学者の意見を足して作ったという体ですが、内実は貴族たちに有利なものでした。

特に内容を理解し活用するにはより広く深い知識があり、時間的余裕のある貴族たちの方が有利で、法を活用することができたのです。

この明確になった法の中には裁判で訴えるルールや債務に関すること以外にも殺人や相続などの幅広い内容が書かれています。

しかし、十二表法しかないので、時代によっては合わない内容や不足していく内容が出てきます。

それを補足するためにどんどん新しい法律が公布され施行されていきます。

例えば十二表法では貴族と平民の婚姻は禁止されていましたが、紀元前445年のカヌレイウス法によって認められるようになります。

その他、紀元前367年に公布された「リキニウス・セクステウス法」では執政官2人のうち1人を平民から選出すること、公有地の占有面積を1人最大500ゲラ(約125ヘクタール)に制定し、債務の返却に関する新しい法を定めました。

さらに紀元前287年に制定された「ホルテンシウス法」では平民会で決められた決定は元老院を通さず、すぐにローマの法とすることになります。

カヌレイウス法のように、十二表法では禁止されていることを認める法が制定されると、その事例について上書きされる方式で、十二表法が書き換えられることはないシステムで法を強化していったのです。

法律家を生みだし、法文化が定着していく古代ローマ

このようにどんどんと新しく足され、訂正されたため時代を経るごとにどんどんと複雑になっていきます。

さらに、ローマの法では判例や審議で認められた内容は法と同じ効力があるため、法律だけでなくその審判の結果も法律と同じでした。

そのうちに十二表法は使われなくなり、民事に関する市民法や法務官が発令した法務官法など時代に合った法律が確立していきました。

帝政になっても変わらす、内容を整理して再編したものを改めて出すことはなく、どんどんと法と実例がたまっていくなかでローマの法は運用されていったのです。

過去には1世紀にハドリアヌス帝が、4世紀にはテオドシウス帝が一度ローマ法を編纂したとの記録もありますが、時代に合わせた箇所を部分的に編纂し勅令を出して補てんしている形態は変わりませんでした。

どれだけの人間が全体を把握していたのでしょう。

このような複雑な法体系でしたので、ローマには法律家がたくさんおり、独自の解釈を書籍にしたり、裁判のたびに法律家として相談に乗っていたようです。

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の背景

東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の背景

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東ローマ帝国の誕生

ローマ法大全を編纂した時代は6世紀。
そのころには地中海全体を掌握していたかつてのローマ帝国の姿はありませんでした。

3世紀の終わりごろ、ローマ帝国があまりに広大な領地だったため、ひとりの皇帝が統治することが難しくなっていました。

そのため正帝と副帝による複数の君主で分割統治したのです。

313年のミラノの勅令によってキリスト教が公認され、330年にコンスタティヌス1世が永遠の都ローマからコンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)へ遷都したことで、ローマの中心地が大きく東に移ります。

そして392年、テオドシウス帝の時代にキリスト教がローマの国教となり、その他の信仰は禁止されるようになります。
このときに1200年続いたオリンピアの祭典(オリンピック)を異教の祭典として禁止しました。

そのテオドシウス帝は395年に亡くなる際に、長男アルカディウスにローマ東の地域を、次男ホノリウスにローマ西の地域を分割統治させました。

それがきっかけで東西は再統一されずそれぞれの道を歩くことになります。

東ローマ帝国をビザンツ帝国と記すことがありますが、ビザンツ帝国は後年の研究者がビザンティウム(コンスタンティノポリスの旧称)を中心に発展した国として古代ローマ帝国と神聖ローマ帝国と区別するため付けた呼称になります。

周辺民族との戦いの時代

東ローマ帝国ができた時から、ヨーロッパ全体がとても不安定な時期に入ったときでもありました。

西アジア一帯にいた遊牧騎馬民族・フン族が西へ移動してきたことをきっかけに、西ゴート族や東ゴート族・フランク族などのゲルマン民族が西に押しだされて移動してきたのです。

「ゲルマン民族の大移動」皆さんも一度は聞いたことあるのではないでしょうか。

4世紀半ばにはゲルマン人やスラブ系民族が目に見えて動き始め、ギリシャ半島の北側から西のローマはもちろんガリア地域にまで移動・略奪していったのです。

東ローマ帝国領土は主にギリシア半島と現在のトルコやシリアの地域になります。

4世紀の終わりごろは周辺でも北のスラブ系民族も移動してきており、東のシリアからはササン朝ペルシアの勢いが増してきており、南のエジプトではヴァンダル王国がにらみを利かせている状態でした。

常に周辺地域に警戒をする必要があり、フン族の侵入などに備えて首都コンスタンティノポリスに難攻不落の城壁(テオドシウスの城壁)を築いたほどでした。

また、武力だけでなくフン族のアッティラ王が生きているときは献金による外交で侵入を防ぐことも行っていました。

どちらが正統なローマ帝国なのか

どちらが正統なローマ帝国なのか

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西ローマ帝国はゲルマン人の侵入で弱体化を早め、476年に滅亡しました。
ゲルマン人であった傭兵隊長オドアケルによって西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスは退位し、その帝位を東ローマ帝国の皇帝へ譲渡しました。

実質的な征服者であるオドアケルは、東ローマ帝国の皇帝から任命された統治者としてイタリア半島を統治したのです。

多くのゲルマン諸国は東ローマ帝国をローマ帝国の後継として認識し、表向きは任命された統治者として統治をしました。

その一方で、ローマ教会は自分を庇護してくれるゲルマンの王にローマ帝国皇帝の称号を授けたため、フランク族の王による神聖ローマ帝国が生まれました。

東ローマ帝国の皇帝とローマ教会の間は互いの教義の解釈が異なることから常に対立していたことから、ローマ帝国の後継を名乗る国が並立することになります。
東ローマ帝国こそが正当なローマ帝国の後継と自負していたため、ローマ教会だけでなく西諸国との対立も生じていたのです。

ユスティニアヌス大帝が夢見たもの

ユスティニアヌス大帝が夢見たもの

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皇帝へ一気に大出世

それでは続いてローマ法大全を編纂したユスティニアヌスがどのようにして東ローマ帝国皇帝になり統治していったのかを見ていきましょう。

ユスティニアヌスは483年に現在のマケドニア共和国付近で農民の子として生まれました。

彼の叔父であるユスティヌスが軍隊で出世して、近衛隊に属するようになり、ユスティニアヌスを養子としてコンスタンティノポリスに呼び寄せ、養育しました。

この時に法学と神学そしてローマ史について高い知識を身につけたのです。

外見はあまり大きくはなく、巻き髪で丸顔だったと言われています。
彼のモザイク画がいくつか残っていますが、巻き髪で丸顔なのを感じることができます。

518年アナスタシウス1世が死去すると叔父のユスティヌスがユスティニアヌスの助けを借りて、新帝として即位します。
ここから叔父の腹心となり、政治の実務的な役割をしてたと言われています。

ユスティヌスが老衰により統治が難しくなると、ユスティニアヌスは事実上の統治者となります。
521年に執政官に任命され、軍の司令官にもなります。

ユスティヌスが亡くなる直前に共同統治者として正式に副帝に任命され、527年に叔父が崩御すると単独の統治者としてユスティニアヌス1世になりました。

ユスティニアヌス帝の実績

おじさんのコネでとんとん拍子に出世し皇帝にまで上り詰めたユスティニアヌスとはどんな人物だったのでしょうか。

彼はとてもよく働いたようで、「眠らぬ皇帝」と呼ばれていたほど精力的に政務に当たっていたようです。
その一方で人当たりがよく、忠告などに耳を傾けて受け入れる人物でもあったといわれています。

彼の政治的な実績としてはローマ帝国の再興を実現するために、西ローマ帝国の失われた領土の回復がそのひとつとしてあげられます。

また、古代ローマ帝国への思い入れが強く、領土の回復だけでなく、宗教面でも西方に配慮しつつもギリシア正教会での領内統一をはかったり、今回ご紹介するローマの法律を編纂し、その後継であることを意識した政策をとりました。

特に異教徒に対する姿勢は一貫しており、ギリシアの地に根付く多神教やユダヤ教に対する厳しい姿勢は信念に基づくものだったと感じられます。

建築面でも今も残るハギア・ソフィア大聖堂(聖ソフィア大聖堂)をはじめたくさんの建築と地下貯水槽の建築などを行っており、初期のビザンティン様式を確立したともいえます。

産業としては、中国で極秘にされていた養蚕を自国に持ち込み、絹産業で経済を発展させました。

皇帝になったら反乱にあった!

皇帝になったら反乱にあった!

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古代ローマの帝政の時代から行われていた「パンとサーカス」の風習はここ東ローマ帝国にもありました。
人気取りと不満を逸らすのに大変効果があり、民衆にとっては皇帝に物言える機会でもありました。

ユスティニアヌスが即位して5年後の532年に行われた戦車レースでそれは起こったのです。

彼の古代ローマ帝国の復興の征服遠征と建築政策に、ササン朝ペルシアへの遠征がながびいているときでした。
これらの費用のために重税を課しており、民衆だけでなくその税負担は貴族にまで及んでいました。
その不満が年々溜まっており、毎回戦車レースの後は暴動につながっていた頃の出来事です。

宮殿の横で行われた戦車レースは序盤からユスティニアヌスへの不満の声が叫ばれる不穏な空気の中ですすみ、最終レースでは民衆の応援する声が「ニカ!(勝つまたは征服の意)」となり、バルコニーから観戦していたユスティニアヌスへ押し寄せてきたのです。

この民衆の勢いに乗じて、以前からユスティニアヌスの政策に不満のあった元老院や貴族が加わり、皇帝の退位と重心の罷免、先先代の皇帝の甥の戴冠を求めてきました。
これを「ニカの反乱」といいます。

宮殿は丸5日包囲され、もはやここまでとあきらめたユスティニアヌスは帝位を捨てて国外逃亡を図ろうとします。
そこに立ちふさがったのが20歳年下の皇妃テオドラでした。
彼女は「紫衣は最高の死に装束です」と言う言葉で踏みとどまるよう説得したと言われています。
(紫衣は古代より高貴な皇帝と近しい親族のみが身につけることが許された衣です。)

大帝と言われるようになったのは周りのおかげ

大帝と言われるようになったのは周りのおかげ

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先の皇妃テオドラに支えられ、この反乱に立ち向かったユスティニアヌスは将軍のベリサリウスとムンダスに反乱の鎮圧を命令します。

ベリサリウスは3千人という少ない手勢で3万人の暴徒を競技場に追い詰めて殺害し反乱を無事に鎮圧しました。

この際、テオドラの主張により、擁立された先生帝の甥も処刑し憂いが残らないようにしています。

ユスティニアヌスは人材を登用する際には出自や宗派などにはこだわらず、有能であるかどうかで決めていたと言われています。

皇妃テオドラは部下ではありませんが、もともとは踊り子(または娼婦の説もあります)で、20歳年下でこの結婚には法的に身分違いのため周囲から大反対されていました。
しかし先帝に身分違いの結婚を認める勅法を制定してもらい、強引に結婚したのです。

周囲の反対をよそに、彼女は大変頭のよい聡明な女性であったことから、このニカの反乱の際の説得をはじめ彼女はユスティニアヌスにとって強力な助言者として国政を支える存在になります。

その他にも少ない手勢で見事に反乱を鎮圧したベリサリウスはまだ20代と若い将軍でしたが、その後皇帝の夢であるローマ帝国の再建に向けての遠征を任され、北エジプトやイタリアへ遠征しローマを奪還する活躍をします。

あまりに優秀な将軍であったため、晩年はその戦勝に嫉妬したと言われるほどでした。

その他にもローマ法大全の編纂を命じられた法務長官トリボニアヌスは異教徒であったと言われていますが、その法のスペシャリストである能力が買われて抜擢。
無事にローマ法大全を完成させ、公正に残すことができたのです。

このようにローマ帝国の再建を具体的に進め実際に成功を収めていったことから彼は「大帝」と言われるようになります。

ローマ法大全

ローマ法大全

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今回のテーマである「ローマ法大全」の内容についてみていきましょう。

#1 勅法彙纂

529年に「旧勅法彙纂」を公布。
古代ローマ時代に公布された勅令などを編纂し、体系化したものです。
その一部がパピルスで残っているだけで現存はしていません。

その後、訂正する必要が出てきたため再編纂されます。
534年に公布された12巻に及ぶ編纂されたのが「勅法彙纂」で、こちらは現存しており、6世紀に公用語として使われていたギリシャ語で書かれています。

#2 学説彙纂

533年に施行。
帝政の初期から500年代までの有名な法学者の学説を編纂しました。
全部で1528巻あるため、先行資料として50巻にまとめられている。
この編纂方式は「バンデクテン方式」として後の各国の民法や法律の編纂に影響を与えています。

#3 法学提要

533年に施行。
法学を学ぶ初学者のための書物で、教科書でした。

#4 新勅法

勅法彙纂完成後にユスティニアヌスが発布した158の勅令を指します。
ユスティニアヌスはこの法典をローマ帝国全土だけでなく、現在はゲルマンに支配されているかつての帝国にも浸透させたいと考えていました。

西ゴート帝国もフランク王国も表向きはローマ帝国の提督として任命されているため、正当な継承者である東ローマ帝国が先導をとって法の順守を求めたのです。

結果としてはローマ法大全が施行されることはなく、実際に運用されたのは東ローマ帝国内だけでした。

このローマ法大全は古代ローマに憧れただけで編纂されたのではなく、実際に運用するために編纂されておりユスティニアヌスの時代に合わせた法典になっています。

ローマ法大全が後世に残したもの

ローマ法大全が後世に残したもの

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古代ローマの法律は当初は市民法だったものが、帝国が大きくなっていくにつれて外国籍や異なる地域の民衆のための万民法が加わり、時代に合わせてそれぞれを改定していったとても複雑なものでした。

それらを6世紀の時点で万民に適応できるよう編纂し、成文化したことで後の時代に伝わり、ナポレオン法典や大陸法と言われるドイツを中心とした国の民法などの基盤となりました。

また、その編纂された写本が11世紀にイタリアのボローニャでみつかり、ヨーロッパ初の大学と法学部の設立へのきっかけになったのです。
ボローニャ大学からローマ法大全は西ヨーロッパに伝わっていきました。

現代でもヨーロッパの大学法学部ではローマ法大全は必須科目となっています。

壮大な夢で紡いだ法典は今も生きています

農民から皇帝まで上り詰めたユスティニアヌスが古代ローマ帝国の栄光を再建しようとした中で生まれたローマ法大全。

彼の時代にヨーロッパの各国で施行されることはありませんでしたが、ローマという限られた国と時代だけに適応する法をまとめただけでなく、地域や時代を越えても適応できるよう編纂されている法典です。

時代を越えて違う形で私たちの生活にさりげなく影響しています。

ネットショッピングで購入した際の保障期間や不良品の返品の制度は、現代に考えられた気がしますよね。

しかしその考え方はローマ法の中に記載があります。
庭の木が隣の家にはみ出ているときに実った果実の所有はどちらのものになるのかなどもローマ法では決められています。

現代の最高裁判所などもローマ法を参照することがあるといいます。

古代の時代から社会生活で生じるもめ事は同じなのかもしれません。

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