意外と知らない?遣唐使にまつわる18の疑問!

社会科・歴史の授業の、比較的始めの頃に登場する「遣唐使」。誰でも一度は耳にしているはずなのに、その実態は?と聞かれると、答えられる人は非常に少ないのが現状のようです。”使”と付くからには、日本を代表して外国へ赴く重要な役目であったはずですが、残されている文献は非常に少なく、多くの謎に包まれている「遣唐使」。どんな船で海を渡ったの?彼らが日本に及ぼした影響とは?「遣唐使」にまつわる様々な疑問を徹底解明します!

今さら聞けない!「遣唐使」の基礎知識

1.ひとことで言うと「遣唐使」とは?

遣唐使とは、日本が中国に送った使者のこと。
630年から894年までの200余年の間、時代で言うと飛鳥時代~奈良時代~平安時代にかけて、数年~数十年間隔で派遣されています。
この時代、中国大陸を統一していたのは唐(という王朝であったため「遣唐使」という名がつきました。

630年というと、日本初の女帝、推古天皇(すいこてんのう)が亡くなったすぐ後、舒明天皇(じょめいてんのう)が即位して2年の頃のこと。
聖徳太子が政治のトップに立っていた時代の、数年後。
今から1400年近くも昔のことです。

遣唐使は200年もの間に、中止になった回も含めると合計20回、計画・任命されています(中止になったものなどを省くと15回)。
その役割・目的は、朝貢(ちょうこう)、つまり、日本が唐の皇帝に貢物を差し出し、唐の皇帝に日本という国の存在を認めてもらうためだったようです。
当時の唐王朝は大変強大な力を持っており、日本だけでなく、朝鮮半島の国々も頻繁に朝貢を行っていました。
日本側の記録では、唐との立場は対等であったとの認識だったようですが、唐は日本を冊封国(さくほうこく)として迎え入れていたようです。

派遣の目的は朝貢であったようですが、日本側にはそれ以外にも、交易、世界の情勢を知るための情報収集、政治制度や文化の習得・吸収、仏教の経典の収集などが大きな目的であったと考えられています。
そのため、遣唐使の一団の中に、留学生や僧侶も大勢含まれていました。

2.「唐」とはどんな国?

2.「唐」とはどんな国?

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は618年~907年まで中国大陸を統一していた王朝。
7世紀中盤ごろには大陸の西方の砂漠地帯まで支配していたとされる大国で、軍事力だけでなく、政治や文化面でも大きな影響力を持っていました。
都は長安(現在の西安市)。
当時既に100万人以上の人々が暮らしていたと伝わっており、日本の平城京や平安京のお手本となったとされる大都市でしたが、海(渤海)からするとかなり遠く、かなり西の方にありました。
遣唐使たちは大陸に上陸した後、数千キロにも及ぶ旅を経て、長安へ向かったのです。

大変強大な力を持っていた唐ですが、ずっと順風であったというわけではありません。
内部でいざこざが起きて混乱し、政治に影響が出た時期もありました。
国土を広げ過ぎたことも一因だったのかもしれません。
地方豪族や役人たちが力を持つようになり、8世紀半ば頃になると唐は西方一帯から退かざるを得なくなって、国土はどんどん小さくなっていきます。

ところで、唐という時代には、日本でもよく知られた有名な女性が2人います。
ひとりは、中国史上唯一といわれる女帝、武則天(ぶそくてん・則天武后とも呼ばれる:624年~705年)。
もうひとりは第9代皇帝玄宗(げんそう)の妃、世界三大美女のひとりでもある楊貴妃(ようきひ:719年~756年)。
武則天が夫の高宗に変わって即位し無理やり周王朝を建てたり(690年~705年)、楊貴妃に骨抜きにされた玄宗皇帝が政治への意欲を失ったり、この2人の女性が唐に与えた影響は測り知れません。

やがて10世紀に入ると、力を持った地方役人たちが次々と国を打ち立て始め、唐は衰退・滅亡してしまいます。

3.「遣隋使」とどう違うの?

中国大陸を統一していた王朝への朝貢使、技術や文化などを学ぶための派遣、という意味では、遣唐使も遣隋使(けんずいし)も同じです。
ただ、派遣先の国が、遣隋使の場合は隋(ずい:581年~618年)という王朝であったところに違いがあります。

隋は唐の前に権勢を振るっていた大国でしたが、2代目皇帝の贅沢や無謀な土木工事などの悪政で早くも国が傾き、国内のあちこちで反乱が頻発。
反乱軍のひとつであった李氏が起こした唐に取って代わられ、滅亡してしまいます。
この2代目皇帝の煬帝(ようてい・ようだい)に遣隋使として派遣されたのが、聖徳太子の命を受けた小野妹子(おののいもこ)です。
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」との太子からの書簡を出し、煬帝を怒らせた(隋のほうがずっと立場が上のはずなのに、対等な立場で物を申すのは無礼だ)のは有名な話。
607年のことでした。
ちなみに小野妹子の遣隋使は第2回目で、初回は600年なのですがなぜか日本書紀に記載がなく、詳しいことはよくわかっていません。

遣隋使はその後も18年間で5回、派遣されました。
最後の遣隋使は614年~615年で、618年には隋は滅びてしまいます。

隋は短命でしたが、6世紀後半まで300年以上もの間、国同士の争いや分裂が絶えなかった中国大陸をひとつにまとめた強大な国家でした。
煬帝の、庶民を省みない強硬な姿勢は隋を滅亡へと導いてしまいましたが、政治や文化、経済、制度など、様々な分野で非常に進んだ国でもあったのです。
日本は大国・隋に使者を送ることで、友好関係を築き、様々な文化や技術を学ぼうとし、その考え方は遣唐使へと受け継がれていきます。

遣唐使はどうやって海を渡ったのか

4.遣唐使船はどんな船だった?

4.遣唐使船はどんな船だった?

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現代なら、日本から中国への渡航はさほど大変なことではありません。

例えば大阪や神戸から上海までフェリーで行こうとしたら、だいたい2日間くらいの日程で到着するようです。
しかし遣唐使が大陸に渡ったのは今から1000年以上も昔のこと。
舟もそれほど大きくはなかったでしょうし、航海技術も、航路に関する知識や経験も未熟であったはず。
まさに命がけの旅路であったと考えられます。

残念ながら、遣唐使船がどのような船であったかについては、ほとんど資料が残っていません。
そんな中、平成22年に開催された平城遷都1300年祭では、会場内に原寸大の遣唐使船が復元され、大変話題を呼びました。
記録に残っている渡航人数や船の数、当時の造船技術などから大きさなどを割り出し、見た目は平安時代に描かれたと思われる「吉備大臣入唐絵詞」という絵巻物の絵の中に描かれている船を参考にしたそうです。
この絵はアメリカのボストン美術館が所蔵しています。

こうした、イベント展示用の復元作業や、現存する美術品などから推定される遣唐使船の大きさは(史料に基づくものではなくあくまでも推測であるとの前提で)長さが約30m、幅は8mほど。
帆柱の高さは18mほどの2本立て平底箱型で、色は白と朱で美しく塗られています。
ただ、構造としては単に箱が水に浮いているようなもので、強風や波浪に弱く、遭難することも多々あったようです。

5.一度に何人くらい?

5.一度に何人くらい?

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そんな遣唐使船に、どれくらいの人が乗っていたのでしょうか。

遣唐使200年余りの歴史の中で、実際に渡航したのは15回であったと言われています。
残りの5回は天候不良や他国との緊張状態などの理由で、実際には出発していません。
また、その15回の中にも、前回、大陸に渡った遣唐使たちを迎えに行った船であったり、厳密には遣唐使が乗っていない回もあったと考えられていて、どのようにカウントするか、見解が分かれるところではあるようです。

遣唐使開始当初、630年から、660年年頃までの数回は、上記のような船2隻編成であったと考えられています。
そして、気になる渡航人数ですが、1隻におよそ100人ほど乗っていたようです。
これが、700年頃から船の数が4隻になり、人数も多いときで600人ほど、1隻に160人ほどが乗っていたこともあったとか。
全長30mほどの、決して丈夫とは言えない造りの船に、大の男が100人以上乗り込んで大海原に出ていったと考えると、やや無謀な気もします。
甲板は人で溢れんばかりであったでしょう。
前述の「吉備大臣入唐絵詞」を見ると、小さな船から身を乗り出して海に落ちそうになっている人々が描かれているのですが、これはあながち誇張ではないのかもしれません。

これだけの人を乗せ、海を渡ったとなると、逆に、航海技術は優れていたのではないか、との考えも浮かびます。
しかし残念ながら、渡航時の詳細な記録は残されていないため、遣唐使たちの航海技術がいかほどであったかは、想像するより他にないのです。

6.どのあたりを通っていったの?

200年の遣唐使の歴史は、その目的や役割、時代背景などから、大きく「前期」と「後期」に分けることができます。

前期は630年から659年(第4回)まで。
2隻編成であったとされる時期で、遣唐使船は朝鮮半島の海岸線に沿って航海し、中国大陸に上陸したものと考えられています。
一見、遠周りで効率の悪いルートのように見えますが、この航路なら半島の沖合を航海することができるため、万が一の天候不良や不具合の場合でも安心・安全。
海の真ん中で道に迷うこともありません。
一行は都を出た後、船で瀬戸内を通って那大津(現在の博多)から壱岐、対馬を経て朝鮮半島の南から岸沿いに北上し、山東半島付近から上陸して都(長安)を目指したようです。

その後の665年~669年、第5回、6回、7回の遣唐使が計画されますが、長安へは行かなかったと考えられています。
それもそのはず、この時期、遣朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の争いから緊迫した状況に。
そして663年に起きた白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で、日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍に敗れ、朝鮮半島はおろか唐との関係も危ぶまれるようになってしまうのです。
遣唐使も廃止かと思いきや、遣唐使船は唐との関係修復のため、交渉に赴く役目を果たしていたと考えられています。

そして、702年の第8回遣唐使からは、朝鮮半島を通らない航路がとられました。
博多から五島列島へ渡り、東シナ海を横断。
期よりずっと南方の蘇州や明州といった町に流れ着いていたようです。
半島岸を航海していた前期と比べると、危険度は増したものと思われます。
それでも、その後も遣唐使船は10~20年ごとに1回くらいのペースで出航し、何とか大陸にたどり着いていました。

7.みんな無事に帰ってきたの?

7.みんな無事に帰ってきたの?

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半島沿いに進むことができた前期の航路と違って、後期の航路の場合は風や波次第の文字通り”風まかせ”な航海であったと考えられています。
何日間くらいでどの港に接岸できるかまったくわからない状態での船旅であったようです。

航海日誌などが残されていませんのではっきりしたことはわかりませんが、もし、東シナ海を帆走で渡ったとすると、順調に風を受け続けることができたとして7~8日。
しかし、風のない日や荒れた日もあったでしょうし、風向きが変わればもっと南へ流されて、なかなか陸地にたどり着けない可能性もあります。
それでも遣唐使たちは大陸のどこかの海沿いの町にたどり着き、そこからさらに数か月かけて長安を目指したのです。

むしろ大変だったのは、おそらく復路でしょう。
苦難の道とはいえ、往路の目標は中国大陸。
広いので、大陸のどこかに漂着できる確率は高かったはずです。
しかし帰りは、何の道しるべもない東シナ海を渡って、五島列島や博多を目指さなければなりません。
潮の流れに乗り損ねたら、南の方へどんどん流されてしまう危険性もあったはずです。
沖縄やフィリピンなどにうまく漂着できればまだよいですが、太平洋に押し出されてしまっては成す術もありません。

残念ながら、4隻全て無事に帰国できるということは稀だったそうです。

遣唐使たちが見たものは?

8.遣唐使たちはどこで何をしていたの?

8.遣唐使たちはどこで何をしていたの?

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1隻の船に100人以上が乗っていたとお話ししましたが、どんな人々が含まれていたのでしょうか。

まず、大使がひとりと、副使がひとりかふたり。
判官4人、記録官4人、その下に下級官人や技術者、船を操る乗組員、そのほかに、学業修得や経典の収集などの目的で大陸を目指す留学生や僧侶が乗り込んでいました。

まるでひとつの役所のような人員構成の遣唐使一行でしたが、唐に到着してからの遣唐使たちの行動についての記録は、ほとんど残されていないようです。
渡航日誌などの記録をとる余裕がなかったのか、記録はとっていたが消失してしまったのかわかりませんが、『日本書紀』『続日本書紀』に簡単な記述が載っています。

後期の遣唐使のほとんどは(事故や漂流といった状況に陥らなければ)長江河口にたどり着いています。
しかも、4隻とも同じ場所にたどり着けるわけではなく、バラバラに、数カ所に分かれての漂着。
無事、陸地に着いた後も、まだまだ困難が続いていました。

中国大陸にたどり着いた一行は、まず、たどり着いた町で日本からの船であることを名乗り、どのあたりに漂着したかを確認。
その地域の役所へ赴き、長江という大河沿いの都市へ移動します。
そこから長安を目指すわけですが、勝手に向かってよいわけではありません。
地方都市の役人が人数などを確認し、長安へ使者を出してお伺いを立て、様々な書類を作成。
その間、1~2ヶ月かかることも。
しかも、全員が長安入りできたわけではなかったようで、3~40人くらいが長安へ移動し、残りのメンバーは地方都市で彼らの帰りを待っていました。
日本を出発した数百人の遣唐使のうち、都へ入ることができるのはごくわずか、ということだったようです。

長安は、長江の沿岸都市からかなり離れている西方の都市。
選抜された遣唐使たちは、海路より長い距離を移動して長安を目指しました。
一方、残りの遣唐使たちは、揚州や明州といった長江流域の都市で見分を広めていたものと思われます。

9.どんな貢物を持っていったの?

長安へ向かう目的は「皇帝への拝謁」。
お土産の品々を持参して向かいます。

どんなものを持っていったか詳しい記録はほとんど残っていないのですが、10世紀に入ってから編纂された『延喜式』という法令集に、717年の第9回遣唐使が持参した朝貢品の目録と思われる記述がありました。
それによると、

 ・銀:大五百両

 ・水織絁(みずおりあしぎぬ):二百疋(一疋=二反分)

 ・美濃絁(みのあしぎぬ):二百疋

 ・細絁・黄絁(ほそあしぎぬ・きあしぎぬ):各三百疋

 ・黄糸(きのいと):五百絢

 ・細屯綿(ほそつみのわた):一千屯

このほかにも、綿製品や瑪瑙(めのう)、火打石、椿油、甘葛(あまづら・甘味料)といった品々がリストアップされています。
どうやら、繊維や織物が多かったようです。
絁(あしぎぬ)とはどんな織物だったのか、はっきりとはわかっていないのですが、おそらく絹織物の一種であったろうと考えられています。

これらの品々にどれほどの価値があったのか知る術はありませんが、かなりの数を揃えて持参したということは確か。
遣唐使たちはこれらの品を持って、1万キロ以上もの陸路を経て、長安へと向かったのです。

10.生活費は?

『延喜式』には、遣唐使たちのお手当てについての記述もありました。
支給されるものはお金ではなく、布や綿など繊維品だったようです。
大使には、絁60疋、絹150屯、布150端。
やはり一番多いです。
副使には絁40疋、絹100屯、布100端で、その下の判官は絁10疋、絹60屯、布40端。
船の船長には絁5疋、絹40屯、布16端と、役職や職種によって支給される数が異なっています。
船員、雑用係、通訳、医師や絵師などの面々も、船長とだいたい同じくらいか、少し少ない程度の支給品を受けていました。
現代でいうなら、社長と平社員の給料の差、といったところでしょうか。

ただ、中には、高い役職ではありませんが、たくさんの支給品を受けていた人物たちもいました。
留学生や僧侶たちです。
彼らは副使と同じくらい(絁40疋、絹100屯、布80端)を受けていました。

留学は長期に渡りますので、支給品の数も多かったのかもしれません。

遣唐使船には、大陸で多くを学びたいという、優秀で志の高い者が乗船していたと考えられています。
唐で多くを学んで帰国し、日本のために役立ってくれるであろう者たち。
日本の朝廷は彼らに希望を託していたのかもしれません。

11.どれくらいの期間、滞在していたの?

そうそう簡単に行き来できないのが遣唐使時代の航海。
帰りたいときに帰れるわけではありません。
船が出なければ帰ることはできませんし、国の事情や季節(天候)によっても、滞在期間は大きく左右されていました。

第1回の遣唐使では、出発が630年、帰国は632年となっています。
第2回は653年発、654年帰国。
だいたい、出発して1~2年で帰国していたようです。
思い通りのスケジュールで移動できるわけではありませんので、非常にざっくりとしていますが、だいたい、1~2年滞在していた、と考えてよいでしょう。

広い大陸。
移動に相当な時間を費やしたであろうと思われます。
1~2年を長いと思うか短いと感じるか、遣唐使たちそれぞれの役割によって、違っていたかもしれません。

また、中には残留する留学生もありました。
残った者は次の遣唐使船で帰国するか、さらに残って唐で研鑽を積み、10年、20年と長い期間を唐で過ごした例もあったようです。
そのまま唐に残って一生を終えた者もありました。

『旧唐書』(くとうじょ)という中国の歴史書には、遣唐使たちがたくさんの書物を買い込んで帰国していったとの記述があるそうです。
書物のほかにも、楽器やスパイス、発酵食品、作物など、様々なものを持ち帰っています。
通常なら、技術や情報の流出など懸念する動きがあってもおかしくありませんが、唐は文明国を自負しており、諸外国の使節団が文化的なものを持ち帰ることに対して、寛容であったと考えられています。
遣唐使たちも、長安や長江沿岸の都市で、知的好奇心を満たす有意義な時間を過ごしていたのでしょう。

この人知ってる?教科書にも載っている遣唐使たち

12.阿倍仲麻呂とはどんな人?

12.阿倍仲麻呂とはどんな人?

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阿倍仲麻呂(あべのなかまろ:698年~770年)は第9回遣唐使(717年)に同行して長安へ入った留学生。
まだ10代。
若くして学才に恵まれ、唐で学問を続け、時の皇帝玄宗に仕えました。
中国の国家試験である科挙に合格したとの話も伝わっている秀才で、李白(りはく)や王維(おうい)など著名な詩人との親交もあったといいます。

第9回遣唐使が帰国の途に着く際、仲麻呂は残留を希望しました。
第10回遣唐使がやってきたときも、唐でのさらなる精進を希望し船には乗りませんでした。

第11回遣唐使は途中で中止となり、次の第12回遣唐使(752年)がやってきたときは、初上陸から35年が過ぎていました。
既に皇帝の下で高い地位を授けられていた仲麻呂でしたが、帰国を決意します。
このときの船に、鑑真(がんじん)が乗って日本に行くことになっていたため、鑑真に同行することにしたのです。
このとき詠んだ歌が、百人一首にも入っている「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」。
あの月は日本で見た月と同じなんだなぁ、と、日本を懐かしんで詠んだものです。

しかし、何の運命の悪戯か。
仲麻呂が乗った船は暴風雨に巻き込まれ、流されてしまいます。
彼らが流れ着いたのはずっと南の方、現在のベトナムのあたり(鑑真を乗せた船も嵐にあいますが、こちらは何とか鹿児島に上陸)。
仲麻呂は帰国を断念。
長安へ戻ります。

その後、様々な官職に就き、770年、73歳の生涯を閉じます。
阿倍仲麻呂が日本の地を踏むことはありませんでした。

13.吉備真備とはどんな人?

吉備真備(きびのまきび:695年~775年)は奈良時代の学者。
父親は吉備地方の有力な豪族である吉備氏の一族であったと考えられています。
囲碁の達人としてもよく知られている人物です。

22歳のとき、717年の第9回遣唐使に加わり、阿倍仲麻呂たちと共に唐へ渡っています。

吉備真備はなんと、第9回の後、第12回(752年)にも、2度も遣唐使として唐へ渡っています。
1度目のときは留学生として加わっていましたが、残留を希望し、第10回の遣唐使が到着するまでの十数年間、学び続けました。
優秀であったがために、玄宗皇帝に目をかけられたとも言われています。

2度目の遣唐使のときは吉備真備57歳。
今度は副使として加わっており、鑑真を日本へ連れてくるという重責を担っていたようです。
一説には、吉備が優秀すぎたため、追い出すよう画策した者がいるのではとも言われていますが、とにかく吉備真備は2度目の遣唐使も無事務め上げ、帰国後も、出世街道をひた走ります。

大変聡明で温厚な人物だったと考えられており、学者でありながら右大臣まで努めたという、異色の経歴の持ち主です。
学者で右大臣までのぼりつめた人物は吉備真備と菅原道真の二人だけ。
大変な偉業です。

かなり高齢になるまで要職を務めていましたが、晩年の活動については不明。
81歳で没。
奈良教育大学の構内にある吉備塚古墳は、吉備真備の墓ではないかと言われています。

14.最澄、空海、円仁も遣唐使だったの?

14.最澄、空海、円仁も遣唐使だったの?

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遣唐使の目的のひとつに「仏教伝来」があります。
各回共に、数多くの僧侶が、危険を顧みず、果敢にも大海原に乗り出していきました。
日本の仏教界をリードする高名な二人の僧侶も、自ら遣唐使船に乗り込み、唐へと赴いています。
最澄(767~822:後の伝教大師)と空海(774~835:後の弘法大師)です。

この二人が加わったのは第18回遣唐使(804年)。
最澄は台州の天台山というところに赴き、天台宗を学びます。
長安へは行かなかったようで、2年の滞在の後、帰国しています。
一方の空海は福州というところでしばらく過ごした後、長安へ入り、玄宗皇帝にも拝謁。
実は空海は、出発当初、20年の留学を許されていましたが、それを2年で切り上げて帰国。
そのため、帰国後もしばらくは都に戻れず、大宰府にいたと伝えられています。
帰国後、最澄は比叡山で天台宗を、空海は高野山で真言宗を開き、その後の日本の仏教をけん引し続けました。

もうひとり、遣唐使を語る上で欠かせない僧侶がいます。
最澄の弟子、円仁(えんにん)です。
実質、最後の遣唐使となる第19回(838年)に同乗し、唐へ入りました。
博多を出たときからつけていた円仁の旅行記『入唐求法巡礼行記』(にっとうぐほうじゅんれいこうき)は、遣唐使の様子を知る数少ない文献として、また、9世紀の中国の様子を知る史料としても、大変価値あるものとされているのです。
あのマルコポーロの『東方見聞録』、唐僧玄奘の『大唐西域記』と並んで”東アジアの三大旅行記”とも呼ばれるほど、円仁の功績は大きなものとなっています。

15.他にはどんな人がいたの?

・犬上御田鍬

第5回遣隋使(最後の遣隋使・615年)および(第1回遣唐使(663年)の大使を務めたのが、大和朝廷の中級官吏であった犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)です。
今でいうところの外交官のような仕事をしていました。

・山上憶良

『万葉集』に数多く詩が選ばれている、奈良時代を代表する歌人、山上憶良(やまのうえのおくら)。
国文学がお好きな方ならよくご存知の名前でしょう。
この人も、702年の第8回遣唐使に、学者や留学生としてではなく、少録という役職の役人として唐に渡っています。
唐では儒教や仏教をはじめ、数々の学問を修めました。

・井真成

717年の第9回遣唐使に、阿倍仲麻呂や吉備真備と共に留学生として加わっていた井真成(いのまなり・せいしんせい)。
日本からの留学生ではあるのですが、日本名は不明で、21世紀に入ってから、西安(長安)で発見された墓誌に、日本人留学生としてその名が記されていました。

遣唐使たちの運命

16.大使の名前が知られていないのはなぜ?

16.大使の名前が知られていないのはなぜ?

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遣唐使は小学校の教科書にも登場します。
日本人なら誰でも知っているはずの遣唐使ですが、中国へ渡った人物として有名なのは、留学生や総僧侶たちが多い。
吉備真備も、2度目は副使として赴いていますが、最初は文人として参加しています。
大使の名前をそらんじることができる人は、そうそういないと思います。

また、史料や文献についても、大使の仕事ぶりや日程を記したものは皆無に等しい。
日本国を代表する使節団なのですから、日本側にもっと詳細な記録が残っていてもよさそうなものですが、『族日本書紀』の記述も淡白なものです。

唐や朝鮮半島の国々との関係は危なげで、微妙なものでした。
外交に求められるものは大きかったはず。
大使は相当な重責を担っていたものと思われます。
大使の活躍は、後世にもっと伝わっていてもよいように思いますが、名前が浮かぶのは犬上御田鍬くらい。
日誌や書簡などは書き残さなかったのでしょうか。

渡航するだけで精一杯で記録を残す余裕がなかったのか、記録はとっていたが途中で消失してしまったのか、記録をとる紙さえも手放して書物や経典を買い求めたのか。
それとも、その当時は、公務であったとしても記録を残すような習慣がなかったか。
あまりに危険な旅路であったため、みんな行きたがらなかったという説もあります。
一方で、留学生や僧侶たちは勉学のため、こぞって船に乗りたがったとか。

歴史とはそういうものなのかもしれませんが、遣唐使にまつわる様々な文書を読んでみて、大使の活躍ぶりをもっと知りたい、と感じました。

17.遣唐使はなぜ廃止になったの?

円仁が渡航した第19回遣唐使の後、年月は流れ、894年に第20回遣唐使が計画されます。
大使として任命されたのが、学問の神様として有名な菅原道真です。
任命された後、道真は、唐の情勢が不安定で危険だという理由で、中止を進言します。
確かに当時、唐は内乱が続いており、国力も落ちて傾きかけていました。
ただでさえ危険な航海。
過去の派遣でも、何隻もの船が漂流、沈没していて、無事に帰ってこれるとは限らない。
そんなリスクをおかしてまで派遣する必要はないでしょう、というのが、道真の考えだったようです。

第19回と20回の間は、半世紀以上もあいています。
なぜそんなに間隔があいてしまった理由は定かではありませんが、とにかく50年ぶりともなると前回のノウハウもだいぶ失われてしまっていて、何もかも仕切り直さなければなりません。
長い年月が過ぎて、「そこまでして出かける意味はないのでは?」という風潮に変わっていたのでしょうか。

「自分が行きたくないから中止にしたんだろう」という見方もありますが、とにかく道真の発案で、第20回の遣唐使の中止が決まりました。

しかしこのとき、第20回の派遣は中止になりましたが、道真の大使としての任は解かれてはいなかったのです。
中止にしたのは20回の遣唐使の派遣だけで、遣唐使自体はまだ継続していた可能性が高い。
道真はこの後、901年に藤原時平との争いに負けて大宰府へと飛ばされてしまい、大使としての役割もうやむやになってしまいます。

道真は、停止を提案しましたが廃止をしたわけではないのかもしれません。
ということで、最近の教科書では、遣唐使は廃止されたのではなく、停止しているうちに唐が滅びてしまった(遣唐使は廃止されていない)というニュアンスに変わってきているようです。

18.遣唐使たちが日本にもたらしたものとは

遣唐使には、まず朝貢、そして外交、海外情勢に関する情報収集、学問の修得、政治体制や儀式などの修得、医療や天文などの技術の習得、仏教の経典や各種書物の収集、仏教の伝来など、様々な目的や役割がありました。

朝貢とは本来、支配的なものではなく、「中国皇帝の徳を慕って周辺諸国が集まってくる」というもの。
貢物も、ただ巻き上げるだけでなく、皇帝側からも「徳」を誇示するがごとく、豪華な品々が下賜されていました。
返礼の品は陶磁器・金銀・絹製品など、貢物の数十倍にもなるような宝物を返していたようで、どちらかというと唐側のほうが費用面での負担が大きかったとも考えられています。
しかし、周辺諸国へ権力を示すことにもなり、莫大な費用をかけつつも、唐はこの朝貢を長きに渡って続けてきました。

唐の正史には、そんな遣唐使たちが皇帝からの賜り物を全部売って金に替え、町で書物や経典を買い漁っていた、との記述があるとか。
遣唐使の一存でそんなことができるとも思えませんが、真相はともかく、書物を大量に持ち帰っていたことは事実のようです。

遣唐使が終わり、唐が滅亡した後、日本の朝廷は許可なく海外に渡ることを禁じます。
平安時代は日本独特の文化が花開いたとされていますが、貴族や寺院の間では依然として中国の品物(唐物)への憧れが強く、何かと理由を付けては大陸との行き来は続いていました。

海の向こうへの、異国・異文化へのあくなき探究心。
それこそ、遣唐使が日本にもたらしたものなのかもしれません。

遣唐使はなぜ海を渡ったのか

平城遷都1300年祭にあたって造られた復元遣唐使船。
2010年、上海万博のイベントに参観するため、五島列島を経由して当時の航路を通り、1ヶ月ほどかけて上海万博会場へ入港という壮大なプロジェクトが行われました。
朱と白の美しい船体は万博会場でも大変話題になったとか。
遣唐使たちもきっと、港で大きくて美しい船を見て、深いため息を漏らしたに違いありません。
そして、航海への不安など、どこかへ吹き飛んでしまったのでしょう。
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