お花見で訪れたい!末っ子大名が作った「津山城」とは?

津山城に残っている石塁と、再建された備中櫓、衆楽園はどんなもので、また江戸時代の天守閣と津山の城下町はどんな姿をしていたのでしょうか?

また津山城を建てた森忠政はどんな人物で、どういう経緯で森家の家督を継ぎ、どのように美作に来て、なぜ津山に城を建てることにしたのか?また、森家の刃傷事件とはどんなものだったのか?また森家と松平家の歴代藩主は何をしたのか?

そして、津山を訪れた時はどんな周り方をすれば楽しめるのか?

それらについて見ていきたいと思います。

津山城にはどんな建物が残っている?どんな建物があった?

津山城はどこにある?どんな城?

津山城はどこにある?どんな城?

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津山城は岡山県の北東部にあり、新幹線の止まる岡山駅から津山駅までJR津山線に乗り1時間10分ほど。
大阪や広島方面から車だと中国自動車道を通って、岡山市を通らずに直接アクセスすることもでき、津山駅から津山城まで徒歩10分、中国自動車道津山ICからは車で10分です。

津山城は森忠政によって慶長9年(1604年)から元和2年(1616年)の12年間をかけて築城された平山城。
明治の初年に天守閣をはじめとする全ての建物は取り壊され、現在は築城当初の原型をほぼ残している石塁とその縄張り、地元をはじめ各地に収蔵されている数点の城絵図によってのみ、往時の面影をしのぶことができます。

迷路のように入り組んだ石垣は高さ10mもあり、遠くからでも石垣を見渡すことができ、登るのがしんどいほど。
2005年に備中櫓が再建され、また津山城のある鶴山公園(かくざんこうえん)は「日本のさくら名所100選」にも選ばれるお花見スポットで、石垣をバックに桜が乱れ咲く姿は圧巻です。

では、津山城には石垣と備中櫓の他にどんな建物があったのでしょうか?まずそこを見ていきたいと思います。

津山の城下町はどんなものだった?

まずは江戸時代の津山の城下町の姿を説明します。
総曲輪の南・西・北の3方に堀が巡らされ、さらに城下町を広く取り巻いて東を宮川、南を吉井川、西を藺田川(いだがわ)が巡り、天然の河川の流れが外堀の役目を果たし、3方の堀が内堀の役目を担っています。

城下の南を東西に出雲往来が通り、往来の両側には町屋を配置。
出雲往来は城下に入るといくつもの道に分かれ、他兵の侵入に備えて鍵の手に屈折して道の見通しを遮っています。

藩士の屋敷は城の西北部の田町・城代町(じょうだいまち)・椿高下(つばきこうげ)・御北(おきた)に集中し、他は東の林田(はいだ)丘陵の丹後山南麓の上之町、南西部の吉井川畔の東鉄炮町などの要衝に置かれ、さらに西部に西寺町、丹後山南麓に東寺町を造り寺院を集め、東西の防備に備えました。

津山城は慶長9年(1604年)から元和2年(1616年)の、13年をかけて完成しましたが、城下町の完成には半世紀もかかったそうです。
津山の町は結構広いですから、堀を作ったり地面をならしたり、たくさんの家を建てることに時間がかかったのでしょうね。

津山城の石段と石塁はどんなもの?

津山城の石段と石塁はどんなもの?

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現在、津山城には石塁と2005年に復元された備中櫓、大名庭園である衆楽園などが残っているのですが、残っているものを説明しようと思います。

三の丸の表中門があったところから二の丸に登る石段は、城内の石段の中でも最も幅が広く段数も多く、豪壮さのある石段。
石段から正面を見上げると、本丸の長局の石塁が覆いかぶさる様に迫ってきます。

大手口の冠木門の上辺りから三の丸・二の丸・本丸の石塁を望むと、3本の線が3列に並行していて、石というものは自然のもので、決して直線を作りやすいものではないのに、直線的な美を感じ取ることができます。
これは中世末期から近世にかけて各地の城郭の石塁構築に携わっていた、近江の穴生衆(あのうしゅう)という石工の集団によるものだったそう。
石材は吉井川右岸の、現在石山と呼ばれる久米南郡八伏村の谷奥や金屋山(ともに今は津山市)から切り出されたといいます。

津山城には石塁が細かくたくさん残っているのですが、それらの石塁の上に櫓などが建っているのを想像すると、江戸時代の城の雰囲気が想像しやすいのではないでしょうか。
津山城には櫓が35棟もあったそうです。

本丸から三の丸にかけてのすべての側壁は石塁で構築され、特に二の丸から本丸を見上げる石塁の表面は「扇の勾配」と言われる曲線美。
石塁と石段で構成される通路はいくつもの鍵の手に曲げられ、要所には武者溜(むしゃだまり)と呼ばれる兵の待機所も設けられていました。

再建された備中櫓とは?

2005年に再建された二重櫓の備中櫓は南面の張り出した石塁上にあり、城下を見渡すことができる津山城の代表的な櫓の一つです。
「築城400年記念行事」として復元されたもので、その名は鳥取城主池田備中守長幸(ながよし)に由来するとされています。
美作の国なのに「備中」とついているのは、お隣の国ではありますけど変な感じがしますもんね。

忠政は長女の於松(おまつ)を長幸に嫁がせていて、長幸が津山城を訪れた際に完成したのが備中櫓であったと考えられ、池田家の紋の付いた瓦が見つかるなど、池田家と関係が深かったことが分かっています。

内部は御座之間や茶室などを備え、建具には「唐紙(からかみ)」を用いるなど、完全に御殿建築であり、なおかつ女性的な繊細な仕上げで、本丸御殿の再奥部であったことから、城主に近い間柄の女性もしくは城主自身の生活空間の一部として用いられたと考えられています。

私も備中櫓に行ったことがあるのですが、南側を見渡せて、景色も内部も立派なので、再建したいと思った津山市民の思いがわかる気がします。

大名庭園「衆楽園」とは?

大名庭園「衆楽園」とは?

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2代目藩主森長継は津山城の北の山北村に北屋敷を建て、北の山々を借景として取り入れ、中央に広く泉水を巡らせた庭園を作りました。
これが衆楽園で、その景色は京の仙洞御所の庭を模したそう。
北屋敷に至る道筋の両側には松並木が並べられ、近年まで「御北の松並木」として市民に親しまれていました。

明暦3年(1657年)には完成され、その後も増築が行われ、延宝3年(1675年)長継の側室のお貝が北屋敷に隠居し、長継の88歳の祝賀が行われたり、松平時代も藩主一族や重臣たちの清遊の場であったそう。

明治3年、最後の藩主・松平慶倫(よしとも)が庭園に付属する座敷に衆楽園の額を掲げ、庭園での曲水の宴が催されました。
それまではただ「北屋敷の庭園」という感じでそれ自体の名前はなく、ここで初めて「衆楽園」という名前が付けられたことになるでしょうか。

明治4年、衆楽園は松平家から北条県に引き継がれ、偕楽園と名称を変更。
水戸の偕楽園と同じで紛らわしいですね。
やがて管理は北条県から岡山県に移りましたが、この間の管理は不充分で、松平家が園地存続のため管理費用を負担したこともあったそう。
松平家からしてみれば、「市民の公園にしたんだから、ちゃんと管理してくれよ」っていう感じですよね。

松平家の熱意もあり、明治18年には岡山県立「津山公園」となり、大正14年には津山町に移管され、再び衆楽園の名が蘇りました。

天守閣とその回りの建物

文字だけで書いてもイメージがし辛いとは思うのですが、天守閣が往時にどんな姿をしていたか、説明してみようと思います。
津山城には5層の天守閣が石塁の上にあったとされ、下層から上層へ三角錐状に小さいものになっていくもの。
姫路城などのように、一般に天守閣の屋根は千鳥破風(はふ)や唐破風の様式施され、外見上の装飾美を一切排除誇るものが多いのですが、津山城の天守閣はそうした装飾美を一切排除したというのが特徴だったそう。
この型は津山城が参考にしたという豊前(福岡県)の小倉城の天守閣と同一です。

最上部の5層目は高欄が付いた廻縁(まわりぶち)が4方に巡らされていたそうで、遠望すれば4層の天守に見え、最上部に高欄(欄干、手すりのようなもの)付きの建物が乗った形に。
上層部に変化を持たせることにより単純な姿になるのを防ぐためという美的感覚的なものからそうなったそうです。
やはり、お城って「カッコつける」必要があるのですね。
大名の力を示すものですから。
言ってみれば、東京タワーやスカイツリーも日本という国の力を示すものですしね。

天守閣の南・西・北の3方は強固な石塁を築き、その上に平櫓をこしらえ、特に西側には長屋状の多聞(たもん)櫓を据えられていました。
多聞櫓は内部が廊下状の走櫓(はしりやぐら)で両側に二重櫓。
多聞櫓下の二の丸には南北一列に櫓が置かれ、南から昇櫓(のぼりやぐら)・塩櫓・白土櫓。
天守を守りやすい方角にたくさんの櫓が据えられてあったのですね。

森忠政とは?

森氏は信長の元でどんな仕事をした?

森氏は信長の元でどんな仕事をした?

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森忠政の先祖は清和源氏から出たと言われ、森氏は忠政の4代前の可秀(よしひで)・可行(よしゆき)のころから明らかになり、この頃美濃国(岐阜県)の在地領主で、戦国時代の前期、守護の土岐氏の被官でした。

16世紀の中頃、守護・土岐氏が家臣の斎藤道三に追われた後、忠政の父可成(よしなり)は一時斎藤氏の舎弟の長井氏のもとに身を寄せていましたが、やがて尾張の織田信長の配下に。
信長の元で可成は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いをはじめ、美濃の斎藤攻めに参加し、同8年可児郡(かにぐん)金山村鳳ヶ峰城(おおとりがみねじょう)を預かり、この城を金山城と改め移り、忠政はこの金山城で生まれました。

信長はその後近江(滋賀県)を制圧、可成は近江の支配にあたって奉行となり、元亀元年(1570年)信長は兵を湖北に進め、越前(福井県)の朝倉氏、近江の浅井氏と対峙。
4月、越前敦賀の手筒山(たづつやま)の戦いで可成は嫡子・可隆(よしたか)を失い、9月、宇佐山城で浅井勢のため48歳で戦死しました。

可成には長可(ながよし)・長定(蘭丸、本能寺の変で信長と一緒に死んだことで有名ですね)と忠政などがいて、いずれも信長に仕えました。

末っ子忠政が森氏を継いだのはなぜ?

可成の後は長可が継ぎ、天正10年(1582年)の武田攻めで功をあげ武田氏の遺領の信濃国(長野県)と旧領合わせた20万7900余石が与えられ、長定には金山5万石が与えられました。
しかし、同年6月、信長が京都の本能寺で明智光秀に殺され、信長の側近だった長定(蘭丸)など3兄弟も戦死。

その後長可は羽柴秀吉に従い、賤ヶ岳の合戦や小牧・長久手の戦いに参戦し、天正11年(1583年)4月に戦死。
可成の息子6人のうち5人が死んだことになり、なんと末っ子の忠政が跡を継ぐことになるのです。

忠政は父の可成が戦死した日に美濃金山で生まれ、織田信孝の岐阜城へ人質として預けられ、賤ヶ岳の合戦の際に救出され、小牧・長久手の戦いで兄の長可が死んだ後、跡を継ぎ、秀吉は忠政に金山6万石だけを与えて信濃の領地は没収。
これは長可が小牧・長久手の戦いの前に秀吉に「味方するから駿河・遠江・甲斐の3カ国をください」と無理な要求をし、この戦いの敗因が長可らの暴走にあったとされた報復ということで、後の関ヶ原の戦いで森氏が徳川方に付ける遠因となったそうです。
無理な要求と暴走をした方が良くないんじゃないか?と思ってしまいますが、当人達にとっては秀吉を恨む原因にもなるでしょうか。

忠政はどんな経緯で美作に来ることになった?

忠政はどんな経緯で美作に来ることになった?

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天正13年(1585年)忠政は16歳で越前の佐々内蔵助(さっさくらのすけ、成政)との合戦で初陣。
このころ秀吉から羽柴姓を与えられ、名前も忠政と改めたと言われています。
天正18年(1590年)小田原の北条攻め、文禄元年(1592年)秀吉の朝鮮出兵にあたり筑前(福岡県)名護屋に赴き、名護屋城の造営、文禄3年(1593年)の伏見城の普請に出役、文禄5年(1595年)京都の大仏殿築地普請に出役。

そして、慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、忠政は急速に徳川家康に接近。
慶長5年(1600年)2月、家康は秀吉亡き後の五大老筆頭の地位を利用し、兄の長可の旧領である信濃国の4郡13万7千5百石を忠政に与え、忠政はこれにより「徳川氏への忠義を働かないといけない」と思い、美濃の金山から信濃の海津城に移りました。

関ヶ原の戦いでは徳川秀忠に従軍し、信濃の伊勢崎城に立て籠もった真田勢に対峙。
忠政は真田勢を食い止めた功により、美濃に1万石を加増されました。
慶長8年(1603年)伏見城で徳川秀忠から美作国一円18万6千5百石を与えられ、海津から美作へ入封。
慶長前後の美作は宇喜多秀家、ついで小早川秀秋の領地となり、秀秋亡き後森氏の支配に代わりました。

津山城はどんな目的をもって作られた?

忠政は美作へ入るとまず院庄(いんのしょう)に駐屯し、院庄は鎌倉時代以来、国の守護所の置かれるところで州府と呼ばれ、美作を抑えるにはまず院庄を抑えるという伝統があり、それに従ったと言われます。

忠政の築城計画では特に北から北東にかけての要害の構築が重視され、一般に北東は鬼門。
しかし、津山城としては城下町が完成し出雲往来が城下を貫通するまでは、本道は丹後山丘陵の北側を通り、椿高下丘陵を越えて院庄に出ていました。
したがって、北から北東部にかけては城の防備の上で最も重要な地帯。
忠政の当初の計画はのちに本丸のこの方角に天守閣についで高い粟積櫓(あわづみやぐら)が置かれたことによって実現。
粟積櫓は津山城の小天守と言われました。

築城前に徳守大明神の社殿が建立され、津山城下の総鎮守に。
作事奉行の薮田助太夫と宮原七郎右衛門は大工の安田惣右衛門らとともに豊前国小倉に行き、海上から細川忠興(ただおき)の小倉城を図面に写し、津山城築城の参考にしたといい、後に忠興から記念として津山に釣鐘を贈られています。
忠政は築城地の候補に院庄と日上、鶴山の3カ所を候補地とし、畿内にいた伯父の森対馬守可政(つしまのかみよしまさ)を呼び寄せ相談し、最終的に鶴山に決定。
理由としては、院庄は洪水の問題があり、日上と鶴山はどちらも軍事上の要地ですが、鶴山の方が戦略的に良いということです。

鶴山は孤立した丘陵で、東の丹後山との間は深い谷となって宮川が南流。
西南から南にかけては吉井川が東流し、北は水田地帯の低湿地。
北西にかけては椿高下(つばきこうげ)丘陵の鞍部を経て中世の山城の神楽尾城跡につながり、これは万一の場合の退路と想定されていたそう。

忠政は城の北側に小丸をつけて第2天守とし、北東部の堀を掘り下げて宮川へ落とし、刎橋(はねばし)によって侵入路を遮断し、さらにその北辺一帯の広大な地域を湖沼に変えるつもりでした。
しかし、その辺りの地質が「大なめら」(「なめら」とは泥板岩状の脆い地層のこと)であったため、この計画は実現しませんでした。

森家の刃傷事件とは?

名古屋九右衛門と井戸宇右衛門の事件、睨み合いの松

名古屋九右衛門と井戸宇右衛門の事件、睨み合いの松

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忠政が築城に着手している間、宿老の対立から二つの刃傷事件が起こり、どちらも新参と譜代の家臣の対立によるもの。

第一の事件は慶長9年(1604年)5月3日、名古屋九右衛門が長年の遺恨により井戸宇右衛門ら3兄弟と相討ちになって死亡した事件。

譜代の井戸宇右衛門は忠政の母・妙向の妹婿で、森家の宿老の林一族の縁の者(余談ですが「森家の一族の林家」っておもしろいと思うのは私だけでしょうか?)。
九右衛門は姉が秀吉のすすめで忠政の室に入っことで召し抱えられた新参。
忠政は藩主の権限を強化するために、これを利用し一気に譜代の勢力を削減しようとしました。

忠政が譜代の力を弱めたかったのは、考えが古く固かったりとか、「昔から仕えているんだから、もっと領地をくれ」とか言ってきたりしたのでしょうか?

忠政は九右衛門に井戸一族への仕手を命じ、前述の通り相討ちに。
名古屋と井戸の死骸は院庄に近い出雲往来の両側に埋葬され、それぞれの塚には松が植えられ、「睨み合いの松」の伝承の起こりだそう。
通行人に対して、しばしば奇怪な事があるというので、明暦年中に、現在のように出雲往来を北に変えたといわれています。

各務四郎兵衛と小沢彦八郎・細野庄兵衛の事件

第2の事件は慶長13年(1608年)10月14日、築城の石材の切り出し場である八伏村奥谷石山で起こり、ここで各務(かがみ)四郎兵衛と小沢彦八郎・細野庄兵衛とが口論になり、小沢・細野の両名が殺害され、各務は翌日、責任を感じて切腹。
口論のきっかけは小沢の無礼を各務が咎めたことによるもの。

これも譜代と、忠政の門閥の新参の家臣の対立で、各務は藩の執権、小沢は院庄事件で死んだ名古屋九右衛門の妹婿(忠政とは義兄弟)。
細野は各務の妹と離婚し、各務との仲が不和になり、小沢に加勢したと思われます。

この二つの事件の後、忠政は家臣の統制と藩政の安定のため、幕府の許しを得て慶長17年(1612年)、伯父の可政を招きました。
可政は摂津と丹波に領地を持った旗本ですが、兄長可の補佐をしていて、なおかつ数少ない生き残りの一門(同じ血を引く者)だったから招かれたのでしょうか。
また、可政は兄で忠政の父の可成とは37歳も歳が離れていて、忠政とは10くらいしか違わないそう。
その後忠政が大坂の陣で津山を留守にした時、可政は忠政の代わりに領国経営を代行したほどだそうです。

森家の歴代藩主は津山で何をした?

忠政の跡を継いだ長継はどんなことをした?

忠政の跡を継いだ長継はどんなことをした?

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忠政は津山築城、家臣団の整備、城下町の創成、農地の総検知による農村支配の貫徹などの政策に取り組み、大坂の陣などへの出役や江戸城や名古屋城などの普請や安芸の福島正則の改易による広島城の接収も命じられたため、財政負担は増大し、津山城の築城工事は大幅に伸びました。

寛永11年(1634年)7月、津山から京都に上った忠政は7月6日の昼、藩出入りの商人・大文字屋宗味(そうまい?)の屋敷で振る舞われた食事が原因で翌7日に65歳で死去。
前半生は戦いの中の暮らしで、後半生は津山の人々の平和な暮らしを守るために尽力したわけで、充実していたのでしょうね。
私にはそういう機会があって羨ましいほどです。

忠政の男子3人のうち長男と次男は早世、三男の忠広が嗣子と決められていましたが、寛永10年(1633年)8月、30歳で死去し、忠政が死ぬと直系の男子は絶え、老中酒井忠勝のすすめもあり、外孫の関長継を嗣子と決定されます。

長継は森家一門の重臣・関成継の嫡男で津山生まれ。
藩主となると、その後の森藩政の基本とされた15か条の諸制度を制定。
年貢増収の方策を始め、開墾・移転を促進し農地を拡大。
この結果として、表高18万余石に対して24万余石の実高を得ることができました。

また関家を継いだ実弟の関長政に1万8千7百石を割いて支藩の宮川藩とし、後に備中の新見藩の祖に。
また6男の長俊に1万5千石を割いて支藩とし、のちに新田藩と呼ばれ、播磨の三日月藩の祖に。
また寛永14年(1637年)の島原の乱への出陣が藩の財政を圧迫。
長継は隠居後も長生きし、森藩改易後の元禄11年7月、江戸の芝屋敷で89歳の生涯を閉じました。

長基事件とは?

延宝2年2月、長継の嗣子忠継が38歳で病死。
忠継の嗣子の万右衛門はまだ3歳で、長継は隠居後に幕府に対して「嫡孫の万右衛門が16歳に達したら藩主に着き、それまでは長継の第3子長武(ながたけ)を後見で藩主に任ずること」の認可を得ました。

長武の時代は津山築城とたびたびの御手伝普請役と軍役、江戸藩邸での消費生活などが藩の財政を圧迫。
延宝4年(1677年)に銀札を発行し、紙の原料である楮(こうぞ)の栽培の奨励や銀鉱の開発を手掛けますが成果は上がらず。

また長武は藩主の権力を高めようとし、前藩主の長継を敬遠、宿老と対立を深め、藩を離れようとする宿老も。

貞享3年(1686年)、万右衛門が16歳になり長武は家督を譲り隠居。
万右衛門は長成(ながなり)と名乗りますが、伯父である長武とは以前から仲が悪く、原因の一つは長武が別に一家を創成し、弟の長基(ながもと)を嗣子にしたこと。

長基は長継の第21子(随分子供が多かったのですね。
といっても忠政の子がみんな早くに亡くなってしまったので、たくさん子供を作ろうとしたのでしょうか)で幼少の頃養子に出されましたが、後に長継の手元に引き取られ、宿老の森所左右衛門に預けられました。
長武はこの薄幸な長基に目をかけ、用人の娘と婚姻させましたがこれを新藩主の長成は快く思わず、そのため長基は出奔し長継の隠居領の真島郡垂水村(落合町)に隠棲。

長武は元禄9年(1696年)、幕府から長基養子の認知を得ますが、その直後に長武は死去。
長基養子の認可で津山藩に新しい支藩が誕生するかと思われましたが、実現せず。

これが御家騒動にならなかったのは宿老たちの結束が固く藩を2分する騒動にならなかったこと、大御所長継が健在で長基が主君の器でなかったからだそうです。

御手伝普請の出費に苦しめられ、森氏は改易に

御手伝普請の出費に苦しめられ、森氏は改易に

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長成の藩政の方針は長武に改変された諸政策を忠政・長継の時代のものに戻すことで、藩政全般に尽くした功績は大きいもの。
しかし幕府の御手伝普請(将軍綱吉の「生類憐みの令」による犬小屋普請など)は続き、費用は藩庫から出されましたが不足分は長継など一門からの拠金や江戸・大坂の商人からの借金、藩士の知行からの拠出、大庄屋や城下の商人からの献金からまかない、このため美作全土は疲弊。
後の松平氏入国後に起こった高倉騒動はこの時の負担に対する農民の不満が原因で、財政は破綻しました。

元禄10年(1697年)に長成は江戸で病死、跡継ぎに長継の12男の関衆利(あつとし)が内定し、幕府の承認を得るため衆利は出府しますが伊勢国で病を得て出府が不可能となり、津山森藩の断絶は必至となり、幕府は森家から美作国を召し上げ森藩は断絶。
長継には2万石の隠居領が与えられそれを継いだ長直は備中国荏原藩主となり、さらに播磨国赤穂藩主に(忠臣蔵事件で浅野家が改易になった後で入ったのですね)。
長俊は三日月藩主、関長治は備中国新見藩主となり、その子孫は明治まで続きました。

跡継ぎがいなかったため、津山森藩は存続できずに改易とされたのですね。
厳しいですが、この時代の幕府はよくやっていたことです。

一揆に苦しめられた松平家の津山藩政

元禄10年(1697年)、陸奥白河藩主松平直矩(なおのり)の三男・宣富(のぶとみ)が森氏の改易された後の美作に10万石を与えられやってきますが、年貢を高く設定したため農民一揆(高倉騒動)が発生。
津山藩が立藩したのはこの宣富の時だったそう。

宣富の後の浅五郎は11歳で病死、末期養子となった長煕(ながひろ)が後を継ぎますがまた山中騒動という農民一揆が起こり、一揆側の要求を受け入れますが長煕も16歳で死去。
次の長孝(ながたか)は庄屋制度を廃止、地方目付を置きますが、効果を見ずに38歳で死去。
跡を継いだ長男の康哉(やすちか)は父とは違い旧法による藩政改革を目指し、育児法など社会福祉政策で成功。
しかし天明3年(1783年)の天明の大飢饉での米価高騰により、領内で打ちこわしも起こりました。

康哉は松平定信に偉人と言われたこともあるそうです。
しかし、松平家になっての津山藩は一揆が起こるなど農民にあまり受け入れられていなかった様ですね。

跡を継いだ康乂(やすはる)は浮世絵師の北尾政美(まさよし)を藩のお抱えの絵師とし、北尾が得意とした俯瞰構図(ふかんこうず)と遠近法を軍事に利用しようとし、また領内に観農所を設置しますが、またもや20歳の若さで死去。
早くして死ぬ藩主が多かったのですね。

美作は楽しいところがいっぱい!

美作は楽しいところがいっぱい!

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次の斉孝(なりたか)は津山松平家が御家紋にもかかわらず冷遇されていることに不満を持ち、もとの10万石に戻すことを幕府に訴え、嫡男がいなかったため文化14年(1817年)に将軍徳川家斉(いえなり)の十四男・銀之助(後の斉民)を養子に。
これで5万石を加増され、津山藩は元の10万石に戻り、官位・家格も上昇しました。

次の斉民(なりたみ)は藩の財政再建や教育の普及に力を注ぎ、維新動乱の際には勤王か佐幕かで揺れる藩論を勤王で統一。
この人は78歳まで生き、例外的に長命だったそうです。

次の慶倫(よしとも)は藩内の尊皇攘夷派を排斥し、明治2年(1869年)6月、版籍奉還により津山藩知事に。
45歳で死去。
その後、明治6年(1873年)の廃城令により津山城は天守・櫓などの建物が破却されました。

最後に、私の個人的な津山の楽しみ方を書いておこうと思うのですが、電車でもローカル線の雰囲気を味わえますし、街の形もよくわかって良いとと思うのですが、車で来るのをオススメします。

津山城を訪れた後(ちょうど桜が見頃ですね)、津山市内で名物B級グルメのホルモンうどんを食べて、「美作三湯」と呼ばれる湯郷・湯原・奥津の温泉に車で向かうと良いと思います。

また湯郷温泉には「岡山湯郷ベル」という女子サッカーのチームもありますし、津山から近い「道の駅久米の里」には巨大なガンダムがいます。
蒜山まで行ってジンギスカンを食べるのも良いですし、少し足を伸ばせば宮本武蔵の生誕地もあり、車で移動すれば美作は楽しいところがいっぱいです!

津山城を訪れるなら、今は桜が咲いて一番良い時期!

津山城は直線的な石垣が美しく、津山の城下町は半世紀かけて作られ、備中櫓は池田氏との交流がわかるもので衆楽園は森・松平両家に親しまれた清遊の場。

森忠政は珍しく末っ子が家督を継いだ大名で、財政難に悩ませされながらも津山城を築城。
刃傷事件や農民一揆、藩主の短命に悩まされながらも、森・松平両家を通じて、津山城は明治の廃城令まで存続しました。

この記事を書く時に参考にした資料に、津山城にたくさん櫓があった時期の写真があったのですが、とても素敵の当時の雰囲気を直に見てみたいものです。

また。
ちょうど今の時期の鶴山公園は花見の時期でたくさんの花見客で賑わっているのでしょうね。
一番良い時期だと思います。

それでは、読んでいただきありがとうございます!

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