群雄割拠ハンパなし!中国の春秋時代の激動ぶりをご紹介

日本に戦国時代があったように、中国にも戦国時代と呼ばれる時代がありました。しかし、大抵の場合は「春秋戦国時代」と呼ばれます。春秋時代と戦国時代が合わさっているわけですね。春秋時代の中国は、約200もの諸侯がひしめき合い、覇権をかけて争った激動の時代なんですよ。秦の始皇帝が登場するよりもはるか昔のことです。今回は春秋時代の流れをご紹介すると共に、ここで生まれた多くの故事成語についても少しずつ触れていきたいと思います。

春秋時代の前に:周(しゅう)について

春秋時代の前に:周(しゅう)について

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春秋時代についてご紹介する前に、それまでの中国の状況について少しご説明します。

中国最古の王朝とされている殷(いん)を倒した周は、現在の陝西省(せんせいしょう)付近にありました。

しかしやがて衰退し、王族の争いによって分裂します。
その一方が残り、都を鎬京(こうけい、現在の西安に当たる)から洛邑(らくゆう、現在の洛陽)に移して東周と呼ばれるようになりました。

これが前770年のことで、ここからが春秋時代の始まりとなります。

春秋時代・戦国時代の分岐点

春秋時代・戦国時代の分岐点

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中国史において、春秋時代と戦国時代はたいていセットにされて「春秋戦国時代」と呼ばれています。
これは、周が洛邑に遷都した前770年から、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が中国を統一する前221年までの期間を指します。

では、春秋時代と戦国時代の分かれ目についてご説明しましょう。

春秋時代は前770年に始まりますが、終点は一般的には前403年と言われています。
これは、各都市国家のうち有力大国だった晋(しん)が韓(かん)・魏(ぎ)・趙(ちょう)の3つに分裂したときです。
この後からが戦国時代となります。

とはいっても諸説ありまして、他にも前453年や前476年などが春秋時代の終わりとも言われているんですよ。

春秋時代の都市国家

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春秋時代に入ると、以前は力のあった周はとても弱体化しまいました。
一方、各地に点在する諸侯たちが力を付けて都市国家を形成し、勢力争いをするようになっていきます。

都市国家の数は200にも達したと言われていますが、中でも有力だったのが「春秋十二列国」と呼ばれる国々です。

晋・斉(せい)・楚(そ)・秦・魯(ろ)・宋(そう)・衛(えい)・陳(ちん)・蔡(さい)・曹(そう)・鄭(てい)・燕(えん)の12国がそれに当たります。

後、歴史書「史記(しき)」を編纂した歴史学者・司馬遷(しばせん)は、ここに周と呉(ご)を加えて十二諸侯年表というものを作っています。
また、春秋時代末期には越(えつ)という国も現れました。

国がたくさんあって複雑ですが、晋・斉・楚・秦・宋・呉・越についてはこの後よく出てくるので、少し覚えておいてくださいね。

どうして春秋時代というのか

なぜ春秋時代と呼ばれるのでしょうか。

儒教の祖であり、「論語」で有名な孔子(こうし)という人物の名前を聞いたことがある方は多いと思います。

この孔子が編纂したという説もある、春秋時代に存在した魯(ろ)という国の年代記が「春秋」という名前で、これが取り扱う年代が時代に該当するために春秋時代と呼ばれているそうですよ。

「春秋」は儒教の中で重要な書物「四書五経(ししょごきょう)」のひとつです。

ちなみに、四書は「大学・中庸(ちゅうよう)・論語・孟子(もうし)」で、五経は様々な説がありますが、戦国時代には「詩・書・礼・易・春秋」とされていました。
五経については入れ替わりがありますが、春秋は常に入っています。
それほど重要視された書物ということですね。

春秋時代初期:覇者の登場

春秋時代初期:覇者の登場

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春秋時代はおおまかに考えるとだいたい3つに分けて考えると良いかと思います。

この項目ではその初期についてご紹介しましょう。

周が都を洛邑に移す直前には、とんでもなく暗君だった当時の周王が諸侯たちに殺されてしまうという事態が起きました。
そして王の息子は鄭という国の力を借りて王位に付き、遷都することとなったわけです。

これによって周の力は弱まり、鄭が有力国として存在感を発揮するようになりました。
やがて周とは不仲になり討伐軍を差し向けられますが、それも撃退してしまいます。

このため、周の国力はさらに弱まり、鄭という一諸侯に敗れたことで、他の諸侯たちから軽んじられるようになってしまいました。
とはいっても、かつて威容を誇った王朝であることには変わりないので、それなりの尊敬は受けていたようです。

しかしやがて鄭も衰退していきます。
そこで登場したのが、中国東部、山東省付近の大国だった斉でした。

ここからが、春秋時代を代表する存在・覇者の登場となります。

春秋時代初期の大国・斉

斉は、周を建国した元勲である太公望(たいこうぼう、正式名は呂尚/りょしょう)が建てた国です。

太公望と言えば、ここ日本では釣り師の代名詞として認識されていますよね。
これは、彼が岩の上で釣りをしていた時に、主君となる周王と出会ったためなんですよ。

斉が全盛期を迎えるのは、第16代の桓公(かんこう)の時代です。
彼には管仲(かんちゅう)という超・名宰相が付いており、どんどん国力を増強していきました。

当時、南方(長江流域)にあった楚がどんどん北上して侵攻してきていましたが、本来攻め込まれた諸侯たちを助けてくれるはずの周が頼りなかったため、みなが斉を頼ったのです。

桓公は楚と対抗し、前651年に諸侯たちの盟主として会盟を開きました。
そして、彼はここで諸侯の中心:覇者となったのです。

会盟とは、盟主が主導して諸侯が一堂に会し、盟約を結ぶ会議のようなもののことで、この時に牛の耳から取った血を飲んで誓いを立てたことから、盟約を取り仕切る存在を指した「牛耳る」という言葉の語源となったとも言われているんですよ。

覇者とは?

斉の桓公は春秋時代に最初の覇者となりましたが、覇者とはいったい何を指すのでしょう。

春秋時代には、中国本土は異民族に囲まれており、たびたび攻め込まれていました。

そこで、周王に対する「尊王」の心意気と、異民族排除の「攘夷」を先頭に立って行い、諸侯を取りまとめた有力諸侯を「覇者」と呼んだのです。
力のある国はみな、覇者になることを狙っていたんですよ。

ちなみに、現代では大会などで優勝したりすると覇者と呼びますが、これはこの時代が由来なんです。

そして、日本の幕末時代の「尊王攘夷」の思想もまたこの時代から来ているんですよ。

覇者の代表:春秋五覇(しゅんじゅうごは)

春秋時代の代表的な覇者5人を「春秋五覇」と呼びます。
文献によって人選はまちまちですが、斉の桓公・晋の文公・秦の穆公(ぼくこう)・宋の襄公(じょうこう)・楚の荘王(そうおう)が代表的です。

秦の穆公と宋の襄公の代わりに、呉王の闔閭(こうりょ)と越王の勾践(こうせん)が入ることもあります。

闔閭と勾践については、春秋時代末期に欠かせない人物なのでまたご説明しますね。

この後は、春秋五覇の覇者たちを中心に時代を見ていくことにしましょう。

斉の没落、宋の台頭

斉の桓公は、宰相・管仲が亡くなると一転、人が変わったようにダメ君主となってしまい、斉は一気に没落していきました。

そこで台頭してきたのが、今の河南省付近に建国していた宋です。
斉の南西にありました。

宋は、周に滅ぼされた中国最古の王朝・殷の人々がつくった国でした。
国力は中程度で斉には及びませんでしたが、殷の血を引くということで身分は高かったのです。

宋の襄公は、斉の桓公の後を継いで覇者となる理想像を描いていました。
そのため、桓公亡き後の斉の内紛に介入し、覇者への意欲を燃やして会盟を開きます。

ところが南方の大国・楚が猛反発し、襄公は楚と戦うことを決心します。
しかし、この決戦の場で、襄公は無用の情けを楚軍にかけてしまい、大敗を喫することになってしまいました。
そして覇者への道を閉ざされてしまったんですよ。

これが、「宋襄の仁」と呼ばれる出来事です。

楚軍が河を渡り始めたため、襄公の側近がそこを攻めることを提案しますが、襄公は「彼らはまだ態勢が整っていない。
君子はこういうときにさらに困らせることはしないのだ」といってそれを退けてしまい、絶好のチャンスを逃してしまいました。
そして河を渡りきった楚は襄公率いる宋軍に攻撃を仕掛け、大いに破ることになったのです。

こうした無用の情けをかけることは、「宋襄の仁」という故事成語となって現代に伝わっているんですね。

彼こそ本当の覇者、晋の文公

次に登場する覇者は晋の文公です。

晋は現在の山西省付近にあった大国で、周の北側に位置していました。

文公は大変な苦労人でした。

父の愛人によって国内は大混乱となり、文公は国を追われて各地を放浪する生活を20年近くも続けていたのです。
しかし、ようやく国に戻り君主の座に就くと、周の王室の内紛を調停し、前632年には大国・楚との戦いに快勝したのでした。

ここで晋の力を見せつけた文公は、会盟を開いて盟主となり、覇者となります。

彼は多くの有能な家臣に恵まれ、彼らを上手に登用した英明な君主でした。

文公は斉の桓公と並び偉大な覇者として尊敬され、「斉桓晋文」と称されています。

もう一人の覇者・秦の穆公

晋の文公と相次いで登場したのが、秦の穆公です。

秦は現在の陝西省付近にあった西方の大国で、後に始皇帝を輩出する国として有名ですね。

穆公は、晋の文公が国を追い出されて流浪していたところ、帰国の手助けをしてあげています。
また、西方の異民族に打ち勝ち、他国出身者を登用するなどして国力の増強に努めました。

ところが、彼の没後に多くの有能な家臣たちが殉死してしまい、これによって秦の国力は大幅にダウンしてしまうことになったのです。

穆公の人柄が素晴らしかったのかもしれませんが、このへんは考えようよ、と思ってしまいますね…。

南方の覇者・楚の荘王

晋の文公・秦の穆公の後に満を持して登場するのが、たびたび今までも触れてきた南方の大国・楚の荘王です。

楚は現在の湖北・湖南省付近にあった国で、長江よりも南にありました。
このためいわゆる「江南」の国と呼ばれます。

楚はこれまでの国と少し毛色が異なる国でした。

江南の国である楚に対し、周を中心としたその付近の国々は「中原」と呼ばれたのです。

黄河の中・下流域(現在の河南省・山東省・河北省・山西省・陝西省など)にあり文化発祥の地でもあった中原は、権力のシンボルでした。
そのため、中原の国々は江南の楚を少し下に見ていたのです。

また、中原諸国の諸侯たちは周王から爵位を授けられていたのですが、楚は違い、独力で国をつくり上げたため、「公」ではなく「王」と称していました。
ここからも、楚のスタンスが他の国々と違うことがわかりますよね。

荘王は楚で最高の名君とされています。
王位に就いて数年間は愚かなふりをし続けて家臣を見定め、その後一気に悪臣を排除したのです。
そして見込みのある者のみを登用して国を治め、領土を北方に拡大していきました。

前597年には晋の大軍を破り、これで春秋五覇のひとりに数えられるようになります。
そして春秋時代は中期へと突入していくことになるのです。

彼についても故事成語のエピソードがありますので、次の項目でご紹介しますね。

「鳴かず飛ばず」の語源

荘王が最初は愚かなふりをしていたと少し述べましたが、ここに「鳴かず飛ばず」の語源があるんですよ。

即位して3年間、あまりに愚かな(ふりですが)行いをし続ける荘王にたまりかねた側近が、王をいさめました。

「王様、謎かけをしましょう。
1羽の鳥が3年間、まったく飛びも鳴きもしません。
この鳥を何と言うのでしょうか?」

すると荘王は答えました。

「その鳥はいちど飛べば天まで届き、いちど鳴けば人を驚かせるのだ。
お前の言いたいことはわかっている(だから今は何も言うな)」

今は「鳴かず飛ばず」と言えば「ぱっとしない」という意味ですが、本来はこういう意味合いがあったのです。

ちなみにこの後も荘王はしばらくバカなふりをしていましたが、それをいさめた他の家臣が「自分は死の覚悟をもって王をいさめている」と言うと、ついに愚かなふりをやめて本来の聡明な君主に変貌したのでした。

「鼎(かなえ)の軽重を問う」の語源

先程、楚の周に対するスタンスは他の諸侯たちとは違うということをご説明しました。

その姿勢が現れたのが、「問鼎(もんてい)=鼎の軽重を問う」の故事です。

荘王は順調に勢力を伸ばし、ついには周の都・洛邑の郊外にまで兵を進めました。

そこで彼は周から来た使者に、殷から周へ受け継がれた宝で王の象徴でもあった「九鼎(きゅうてい)」の重さをたずねたのです。

この重さをたずねるということはすなわち、これを運び去る意思もあるということを示したもので、ひいては周の王位を奪うこともできるという言外の意味を含んでいました。

結局、使者が堂々と反論したために荘王は兵を退くこととなりましたが、この故事によって、「面と向かって王位を奪う意思を見せること」が「相手の価値を面と向かって問い定めること」として、「鼎の軽重を問う」という言葉になったのです。

春秋時代中期:実力主義社会へ

春秋時代中期:実力主義社会へ

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前597年、楚の荘王が晋に大勝してその力を見せつけると、諸侯間の争いごとは減っていきました。
というのも、諸侯の家臣である中・下級貴族たちが力をつけて実権を握るようになり、国内での権力争いの方が忙しくなったからです。

斉や晋といった大国も例外ではありませんでした。
戦国時代に入ると晋は家臣たちによって3つに分裂してしまいますし、斉は家臣に乗っ取られてしまうんですよ。

そのため、今までは主君が絶対だった考え方が崩れ、時には逆らうこともありだと考えられるようになっていきました。
力はなくとも、周王を一応の王として崇めていた伝統的な身分社会や封建制度が崩れ、実力主義へと移行していったのです。

それゆえ、名門の出身でなくても実力のある人物が政治の表舞台へと出られるようになりました。
斉の名宰相・晏嬰(あんえい)や、鄭の宰相・子産(しさん)などがそうです。

子産は中国史上初めて法律を成文化するという偉業を成し遂げました。
それまでは法律もしっかりと定まってはいなかったんですよ。

また、このころに魯に孔子が生まれています。

彼はこうした社会の風潮を嘆き、周の初期に周王を奉じていた社会を理想に掲げた自らの思想を説きました。

これが儒教で、やがて彼の弟子たちによって彼の言葉をまとめた「論語」が成立するわけです。

春秋時代後期:呉と越の登場と死闘

春秋時代後期:呉と越の登場と死闘

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前500年前後になると、南方に現れた呉と越という2国が急速に力を強めていきます。

呉は現在の蘇州付近、越は浙江省付近にありました。
位置的には楚の東側に当たります。
そして、この2国から春秋五覇に数えられることもある呉王・闔閭と越王・勾践が登場し、死闘を繰り広げることになるのです。

呉王・闔閭とその息子・夫差、越王・勾践の長い戦いはとても興味深く、やはりこれも有名な故事成語の由来となっていますので、次の項目からご紹介しましょう。

父子2代にわたる復讐心

呉は闔閭の時代に全盛を迎えます。

闔閭の部下には兵法書「孫子(そんし)」の作者ともいわれる軍事の天才・孫武(そんぶ)や伍子胥(ごししょ)らがおり、彼らの力によって隣の大国・楚を滅亡寸前にまで追いつめました。

しかし、ここで隣の越が攻め込んできて、あと一歩まで楚を追いつめたのに闔閭は撤退を余儀なくされてしまいます。
その後、報復とばかりに闔閭は越を攻めますが、越王・勾践の軍に敗れ重傷を負い、その傷が元で亡くなってしまうのです。

死の間際、闔閭は息子の夫差(ふさ)に、「越の勾践がお前の父を殺したということを忘れるな」と言い残して復讐を頼みました。
夫差は「3年以内に必ずや」と約束し、闔閭の死後も毎日のように部下に亡き父の言葉を繰り返させたそうです。
また、薪の上で寝て、その痛みで父が受けた屈辱を思い返し、復讐心をたぎらせていました。

そして夫差は伍子胥らのサポートを受けて軍備を増強し、一気に越へと攻め込み、見事勝利を収めたのでした。

越王・勾践、屈辱をばねに呉を打ち破る

呉王・夫差に敗れた越王・勾践は、屈辱を承知で命乞いをしました。
夫差はそれを受け入れましたが、勾践はしばらくの間、呉で使用人として仕えなければならなくなります。
しかも、夫差の馬小屋の番をする役目でした。
これもまた大きな屈辱として勾践の心に刻みつけられたわけです。

その後、何とか越に帰国した勾践は、国力を強めることに尽力しました。
また、呉への復讐心も忘れておらず、部屋に苦い胆を吊るして毎日それを嘗め、その苦味で屈辱を忘れないようにしていたのです。

一方、呉では、夫差が右腕の伍子胥と仲違いし殺してしまうという事態が起きていました。
伍子胥はたびたび夫差に諫言することもあり、夫差はこれをうっとうしく思っていたのです。

ここには勾践の参謀だった范蠡(はんれい)の計略もあったと言われています。

うるさく言う伍子胥がいなくなったため、夫差は会盟を主宰して覇者になろうとしました。
しかしこれには晋が反発し、呉VS晋の様相を呈することになったのです。

夫差が晋との戦いに明け暮れている中、勾践はひそかに呉に進軍し、太子を殺害して都を占領してしまいました。
これが大打撃となり、やがて呉は滅亡への一途を辿ることになります。

今度は夫差が勾践に命乞いをすることになりました。
勾践はいちど夫差に助命されているので、受け入れようとしますが、ここで参謀の范蠡が反対します。
そこで、妥協案として夫差に流刑を提示しますが、夫差はこれを断りました。
そして彼は「伍子胥に合わせる顔がない」と恥じ、顔に布をかけて自ら首を切って自害したのでした。

覇者となった越王・勾践のその後

呉を滅亡させた勾践は、会盟を催して覇者となりました。
しかし徐々に讒言を信じるようになり、猜疑心の塊となっていきます。

それをすでに察していた参謀の范蠡は、ひそかに越を去りました。
一方、同じく重臣だった文種(ぶんしゅ)は自殺に追い込まれ、2人の偉大な人材を失った越もまた、衰退していくことになるのです。

戦国時代に入った前334年、越は楚によって滅ぼされました。

呉と越はそもそも南方の異民族が建てた国でした。
その王たちが力をつけて覇者となったことで、周の存在は決定的に無意味になってしまったのです。
彼らには周への勤王の意思はほぼありませんでした。

また、呉越は鉄器の生産が盛んだったため、これを武器に利用して軍備を増強しました。
これによって青銅器時代が終わりを告げ、鉄器時代へと移行していくことになります。
呉越の登場は、時代の大きな転換期ともなったわけです。

「臥薪嘗胆」と「呉越同舟」

さて、前の項目で呉王・夫差が薪の上に寝て(臥薪)屈辱を思い出し、対する越王・勾践は胆を嘗めて(嘗胆)その苦味で屈辱を忘れなかったとご紹介しました。

これが、「復讐の成就のために辛いことに耐え抜く」という意味を持つ「臥薪嘗胆」の由来となったんですよ。

また、仲の悪い両者が同じ場所に居合わせたり、もしくはそんな両者が居合わせたりしても利害が一致すれば共に戦うという意味がある「呉越同舟」という四字熟語は、死闘を繰り広げた呉と越の関係からできた言葉なんですね。

このように、呉と越の争いは時にドラマティックな展開を見せたわけです。
春秋時代末期のハイライトですね。

春秋末期の国々の動向

春秋末期の国々の動向

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南方で呉と越が争っているうちに、中原では大国の晋が分裂しました。

すでに晋は有力貴族たちによって動かされている連合政権のような感じになっていましたが、そこから趙氏・韓氏・魏氏が頭角を現し、この三者によって分けられてそれぞれが独立したのです。
前403年には周王によって三者は諸侯と認められ、趙・魏・韓は国として成立し、三晋とも呼ばれるようになりました。

ここが春秋時代の終わりとなり、戦国時代の始まりになるんですよ。

ちなみに、晋の本体は没落しましたが、前376年までは細々と命脈を保っていきます。

一方の大国である斉もまた、大きな転換期を迎えることになります。
戦国時代に突入した前386年、臣下であった田(でん)氏によって乗っ取られてしまったのです。

太公望が建国した斉は、彼が姜(きょう)という姓を持っていたことから「姜斉(きょうせい)」と呼ばれましたが、田氏によって取って代わられた斉は「田斉(でんせい)」と呼ばれるようになります。

諸子百家(しょしひゃっか)の登場

諸子百家(しょしひゃっか)の登場

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春秋戦国時代に登場した学者や思想家、その学派の総称を「諸子百家」と言います。
諸子の「子」は「先生」、百家の「家」は学派を指しています。

様々な学派がこの時代には生まれ、儒家(じゅか)や道家(どうか)、法家(ほうか)、兵家(へいか)などが登場して、中国の哲学はさらに深みを増し成熟していくこととなりました。

諸子百家が主に活躍したのは戦国時代に入ってからですが、ここではそれぞれについて述べるのではなく、特に春秋時代に登場した2人の偉大な思想家について少しご紹介したいと思います。

儒教の祖・孔子

まずは孔子。
前述のように周王朝初期への復古をかかげ、当時崩れていた身分秩序の見直しと、仁と礼に基づく政治による理想社会の実現を説きました。

3000人もいたという彼の弟子たちは「儒家」として彼の思想を儒教という形で広めていき、国教化もされたのです。

彼の思想が元となった儒教は、道教や仏教と並んで中国三大宗教とされ、今でも中国社会に大きな影響を与えています。

道教の祖・老子(ろうし)

もう一方は、存在を疑問視されることもありますが、孔子と同時代とも推定されている老子です。

諸子百家のうちの道家は彼の思想に影響を受け、彼は道教の始祖とも目されています。

老子は「小国寡民(しょうこくかみん、人口の少ない小さな国)」を理想とし、戦のない平和な社会と金銭や名誉などの欲望からの離脱を説きました。

これに様々な解釈を加えたものが、仙人などと関係してくる神仙思想(しんせんしそう)となります。

もしかすると三国志よりも面白いかも?

春秋時代は、多くの諸侯が都市国家をつくって共存・対立を繰り返した社会でしたが、周王朝への尊敬の念はどこかに持っていました。
それが崩れ、徹底的に中国の覇権をかけて争うのがその後の戦国時代です。
春秋時代のうちは、自ら中国の王となろうという大胆な意思を持って動く君主はいなかったのかもしれません。
しかしそれがやがて崩れていく様子が、春秋時代の歴史を見ていくとわかると思います。
多くの故事成語が生まれたのも、諸侯たちの考え方に差や変化が生まれたからこそなのでしょう。
春秋時代には多くのドラマが生まれました。
三国志の時代も面白いですが、次は春秋時代に目を向けてみてはいかがでしょうか?
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