東大寺の大仏を生んだ天平文化の都、平城京の歴史

百人一首に「あをによし寧楽(なら)の都は咲く花の……」という小野朝臣の歌がありますね。「寧楽」は今では「奈良」と書きますが、京都より古い日本の古都奈良には、東大寺があり春日大社があり興福寺があり、その周囲の公園には「野生の」鹿が住んでいるのですよ。「ナラ」とは古代の朝鮮の言葉で「新しい村」。京都とは違って今はもうその大部分が地中に埋もれていますが、唐の都にならって平城京という壮大な都が造営されたのですね。平城京の時代を天平文化の時代とも呼びますが、いったいこの都にどんな歴史があり、どんな文化が花を咲かせたのでしようか。

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壬申の乱を経て藤原宮が誕生しました

壬申の乱を経て藤原宮が誕生しました

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日本の古代史はロマンに満ちあふれています。
卑弥呼が近畿にいたのか九州にいたのかをめぐって古くから論争されてきましたが、最近話題になっているのは、聖徳太子はいなかったという新説です。
また、大化の改新をした中大兄皇子は天智天皇になりますが、その後継者をめぐって弟の大海人皇子と息子の大友皇子とが争って、大海人皇子が天武天皇になりましたね。
これを壬申の乱といいますが、弟である天武天皇のほうが天智天皇より年齢が上だった、などという説までがあるのですよ。
そのことで説明のつく事実がいくつかあるのも確かですから、古代史のロマンは尽きることがありませんね。

天智天皇の近江京から飛鳥に宮廷が戻りました

中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼして天皇家に政治の実権を取り戻した一連の事件を大化の改新というのはご存じですね。
「大化の改新は645年」と日本史の授業で暗記しましたが、その後中大兄皇子はなかなか天皇にはならず、ようやく667年に近江大津宮に遷都してその翌年に天智天皇として即位しました。
それまでは奈良盆地の南の飛鳥地方に天皇の宮がいくつかあったのですが、天智天皇は一気に大津に都を移して畿内の豪族の影響力を排除しようとしたのですよ。

天智天皇は唐の律令体制にならって日本もそのような国家にしようとしたのですが、その志を十分に果たせないまま、672年に崩御。
天智天皇の息子である大友皇子が即位することになっていて、それ以前に皇太子になったこともある弟の大海人皇子は吉野にこもっていました。
そしてこの2人の皇子のあいだで戦いが起こりましたね。
これが壬申の乱。
大海人皇子がこの戦いに勝利して、673年に即位。
これが天武天皇ですね。
これによって都もまた飛鳥に戻ったのでした。

天武天皇の飛鳥浄御原宮から藤原京に遷都

天武天皇の都は奈良盆地の南から少し山に入った飛鳥浄御原宮でした。
天武天皇も天智天皇と同じように律令体制を確立することを目指したのですね。
また、天武天皇は天智天皇の娘たちとも結婚したのですが、この時代は現在のような一夫一婦制ではなく、何人もの「妻」をもつことが許されていたのですよ。
ただし、その「妻」の身分が大切で、天皇家か藤原氏の娘でないかぎりその「妻」の生んだ子どもは天皇になれなかったわけです。
天武天皇には、草壁皇子・大津皇子・舎人(とねり)皇子・新田部皇子・高市(たけち)皇子・忍壁(おさかべ)皇子という息子がいましたが、草壁皇子と大津皇子の母親はそれぞれ天智天皇の娘で、大津皇子はとくに祖父である天智天皇に可愛がられたということでした。

草壁皇子に天皇の位を継がせるために、大津皇子は謀反の疑いをかけられて686年に死亡。
しかし、その草壁皇子も689年に死んでしまったのですね。
草壁皇子には、天智天皇の娘とのあいだにできた軽皇子(かるのみこ)がいたのですね。
686年に天武天皇が崩御したときその皇后が持統天皇として即位していたのですが、持統天皇は孫に皇位を譲れる日が来るまで女性天皇でいる必要がありました。
持統天皇は天智天皇の娘でもありましたから政治手腕はあったようで、694年に都を藤原京に遷都。
これが日本で最初の本格的な宮廷都市なのですね。

藤原京で白鳳文化の花が咲きました

藤原京で白鳳文化の花が咲きました

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それまで天皇が代わるたびに宮を移してきたのは、「宮」というのがその天皇の屋敷のようなものだったからです。
藤原京はその「宮」を中心にして、東西南北に碁盤の目のように道路が走る大きな都市。
710年に平城京に遷都しますからほんのわずかな期間でしたが、この時代を白鳳文化の時代と呼ばれています。
日本が律令制国家としての基礎を固めた重要な時代なのですね。

天武天皇の孫の軽皇子が文武天皇になりました

天武天皇の孫である軽皇子の成長を見守るため、その母親が持統天皇になりましたが、天皇の名前というのは諡(おくりな)といって、死後に送られるものなのですよ。
ですから、天智天皇も天武天皇も持統天皇も、生きているあいだはそういう天皇名で呼ばれていたのではありません。
死後に贈られる名前ですから、「持統」という名前には、天武天皇の直系を守ったという意味が含まれていたと考えられますね。

持統天皇自身も天智天皇の娘ですし、天武天皇と持統天皇とのあいだにできた草壁皇子は多数いる天皇の息子たちのうちでも「正統」な皇子。
その草壁皇子と天智天皇の娘とのあいだにできた軽皇子もまた「正統」な皇子。
持統天皇の歌として伝えられ、百人一首にも入っている「夏になった天香久山(あまのかぐやま)に衣が干されている」という意味の有名な歌。
この山と耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)を合わせて大和三山といいますが、藤原京はちょうどこの場所にあったのですね。
そして697年、持統天皇は退位して、孫の軽皇子が無事に文武天皇として即位。
藤原京はそのために造営したものと言っていいでしょうね。

文武天皇によって大宝律令が施行されました

文武天皇になって5年目の701年、年号も「大宝」に改元されて30年ぶりに遣唐使を派遣したのですよ。
そして、律令国家の基礎である大宝令を施行。
翌年には律を加えた大宝律令を全国に広め、これによって大和を中心として九州から東北あたりまでを領土とする統一国家ができたことになりますね。
その一方でそれを見届けた持統天皇が死に、火葬にされたのでした。
これ以後遺体は火葬にすることが一般的になったのですが、持統天皇の遺灰は天武天皇陵に合祀されました。

704年に遣唐使が帰国。
朝廷の官僚組織も少し手直しされましたが、例えば大納言の数を減らしてあらたに中納言を設置したり、官吏の任期を6年から4年にしたり、租庸調という税制のうち庸を半分にしたりしました。
天皇を頂点とする律令国家がこうして着実に完成に向かっていたわけです。
ところが、707年に文武天皇が崩御。
藤原不比等の娘である宮子とのあいだに首皇子(おびとのみこ)という息子がいたのですが、天皇を継ぐにはまだ幼すぎたのですね。
そこでまた女性天皇ということになり、文武天皇の母親が元明天皇として即位。
持統天皇と同じように天智天皇が父親で、この二人はいわゆる腹違いの姉妹ということになります。

藤原京から平城京に遷都しました

藤原京から平城京に遷都しました

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30年ぶりの遣唐使が帰国して、唐の都の長安のことなどが報告され、都市計画をして造営された藤原京が長安とは違っていることが確認されたのですね。
藤原京は天皇のいる藤原宮が都市の中央にありますが、長安では皇帝のいる宮城が都市の北にあり、そこから四角い都市の南にある明徳門に向かって、南北に朱雀大街が走っています。
藤原京は大和三山に囲まれたところに藤原宮があるため、このような都市計画をするのは最初から無理でした。
そこで、奈良盆地の北に平城京が造営され、遷都することになったのですよ。

和同開珎が鋳造され新都造営の詔(みことのり)が出されました

藤原京は天武天皇の孫である文武天皇のためにつくったようなもの。
その文武天皇が幼い首皇子(おびとのみこ)を残して死んだのですから、この皇子が天皇に即位するための新しい都をつくる必要がありますね。
選ばれたのは現在の奈良市がある平城の地。
ここならぱ唐の長安の都市計画に従った都ができますね。
ただ、そのためにはばく大な資金が必要です。
ちょうどそのときタイミングよく、武蔵国から和銅が献上されたのですよ。
それによって年号も「和銅」に改元。
新都造営の詔が出されました。

以前は日本でもっとも古い貨幣は和同開珎(わどうかいちん)とされてきましたが、その後富本銭(ふほんせん)が発見され、685年頃に鋳造されたということが明らかになったので、日本最古の貨幣という地位は譲ったものの、銀銭と銅銭が造られた和同開珎のもつ重要性は変わりませんね。
また持統天皇の時代に反乱を起こした隼人(はやと)でしたが、この年に庸と調という税を納める代わりに隼人を朝廷に差し出すことになったのですよ。
「薩摩隼人」と呼ばれる彼らは勇敢な兵士。
こうして財力も軍事力も手に入れた朝廷は、709年に蝦夷(えみし)討伐の軍を陸奧に派遣。
710年に平城京に遷都したのでした。

首皇子が予定通り立太子しました

この時代の天皇には何人もの「妻」がいて、いわゆる腹違いの兄弟姉妹がたくさんいたのですよ。
そのなかで次の天皇になれるのは、母親が天皇の娘か藤原氏の娘に限られていたのですね。
早く死んだために天皇になれなかった草壁皇子もその息子の文武天皇も、母親はそれぞれ天智天皇の娘でしたね。
のちに聖武天皇になる首皇子の母親は、藤原不比等の娘の宮子。
藤原不比等は中大兄皇子とともに大化の改新を実行した中臣鎌足の息子。
なんとしてでもこの首皇子に皇位を継がせなくてはなりません。

日本で最初の歴史書『古事記』は、稗田阿礼が口述したものを太安万侶が書きとめて本にしたと言われていますが、これが出来上がったのが712年。
さらに、日本の各地方に語り継がれてきた伝説などをまとめるよう諸国に命じたのが713年。
これは『風土記』と呼ばれていますが、残念ながら現在はその一部しか残っていませんね。
首皇子はその翌年に皇太子になったいます。
715年には元明天皇が退位して、自分と草壁皇子とのあいだに生まれた娘を元正(げんしょう)天皇にしたのですね。
首皇子からすると伯母にあたるのですよ。
『古事記』の「天孫降臨」の話は、文武天皇や聖武天皇のためにつくられたものである、と言っていいかもしれませんね。

首皇子が無事に聖武天皇になりました

首皇子が無事に聖武天皇になりました

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奈良というと東大寺が有名ですが、東大寺のある地域は平城京では東のはずれ。
唐の都の西安をモデルにつくられた平城京は正方形なのですが、東大寺はその外側にはみ出した部分に建立されていますね。
そして現在はこのあたりが奈良市の中心部。
西大寺や薬師寺や唐招提寺は奈良市の郊外になっていますが、むしろこれらが平城京の内部にあったのですよ。
では、どうして東大寺や興福寺が平城京の外側につくられたのでしょうか。

聖武天皇が即位して年号が変わりました

元明天皇から元正天皇の時代になって女性天皇が2代続きましたね。
首皇子が無事に皇太子になったとはいえ、まだまだ油断はできません。
藤原不比等と橘三千代との娘光明子は、首皇子とのあいだに718年に阿倍内親王という女の子を出産。
首皇子の母親である宮子と光明子とは腹違いの姉妹で、しかも光明子の母親の橘三千代は美努王という皇族とのあいだに橘諸兄(もろえ)を生んでいますから、光明子と橘諸兄とは父親の異なる兄妹。
この時代の系図は見るたびに目がくらみそうになりますね。
しかも、橘諸兄の息子の奈良麻呂は父親が失脚して死んだのを恨んだのか、乱を起こしています。
それは757年とかなり先のことになりますが、聖武天皇が死んだ翌年のことなので、やはり複雑な勢力争いがあったということですね。

阿倍内親王はのちに孝謙天皇になりますが、退位したあとまた天皇になり、そのときは称徳天皇。
これを重祚(ちょうそ)といいますが、めったにあることではありません。
なぜ重祚したのかは後回しにして、阿倍内親王が生まれる前の年に改元が行われ、養老という年号になりました。
養老律令が編纂されたはちょうどこの頃で、漢文で書かれた正式の歴史書である『日本書紀』も720年に舎人親王によって編纂されました。
舎人親王は天武天皇の息子ではあるのですが、母親が皇族でも藤原氏でもなかったので「皇子」ではなく「親王」。
こうしていよいよ724年に元正天皇が退位して首皇子が聖武天皇になり、年号も神亀に改元。
あとは皇子の誕生を待つばかりとなったのですね。

光明子は聖武天皇の「夫人」から「皇后」になりました

現在の天皇陛下の妻は「皇后陛下」と呼ばれますが、呼び方は時代によってさまざまです。
有名な平安時代の『源氏物語』では「女御」や「更衣」という言葉が出てきますが、奈良時代の聖武天皇の妻である光明子は「夫人」と呼ばれていました。
天智天皇にしても天武天皇にしても、何人もの女性に子どもを生ませていたのですが、それは皇統を絶やさないために必要なことでもありましたが、また政争のもとにもなりましたね。
大津皇子の悲劇などはその典型的な例ですが、聖武天皇の場合は、727年に光明子が基王という皇子を生んだのですが、残念ながらこの皇子は生まれてまもなく死んでしまいます。

729年に光明子は光明皇后になり、藤原氏としては最初の皇后が誕生したのですね。
それはまた、朝廷内での藤原氏の力が強くなったことを示していますが、聖武天皇の後継者の問題はどうなるのでしょうか。
先取りして言うと、阿倍内親王が孝謙天皇という女性天皇になるのですが、女性天皇はあくまでも幼い皇子が成人するまでのつなぎの役目。
やはり皇統をつないでいくためには皇子を生むしかありませんが、願っても叶わないことはありますね。
仏様が病人に化身して光明皇后のところに現れたとき、皇后は嫌がらずに膿で汚くなったその身体を洗ってあげたという伝説が残されていますが、皇子が死んでから光明皇后は仏教にますます帰依したのでした。

地方の反乱と税制改革が行われました

少し時代は戻りますが、720年に隼人が大隅国守を殺害したり、陸奧国で蝦夷が按察使(あぜち)を殺害したりと、中央政府から派遣された役人と地元の豪族たちとのあいだに亀裂が入っていました。
結局は武力でもってこれらの豪族を支配する意外に手はありませんね。
『万葉集』の歌人として有名な大伴旅人は征隼人持節大将軍として薩摩・大隅に派遣され、多治比県守が持節征夷将軍として陸奧に派遣されました。
のちの「征夷大将軍」のルーツはここにあったのですね。

また、この時代の土地はすべて国有地で、口分田(くぶんでん)として各地の農民に貸し与えられていたのですね。
その代わりに租庸調という租税を納めたのですが、「祖」は収穫物の一部を納める税金。
この祖の税率を計算してみると、翌年の田に植える稲の量くらいだったとされています。
稲は食料でもありますから、農民たちは自分たちの手元に残った稲をほとんど食べてしまって、翌年の種まきのときに自分たちが祖として納めたものを借りるという形になったようです。
山上憶良の『貧窮問答歌』にあるように農民の暮らしは楽なものではなく、口分田を捨てて逃亡する者もいました。
そこで723年に三世一身の法、742年に墾田永年私財法が出され、農民が自分で開墾した土地を私有できるようにしたのですよ。

聖武天皇も光明皇后も仏教に帰依しました

聖武天皇も光明皇后も仏教に帰依しました

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仏教はもともと中国から朝鮮半島を経由して日本に入ってきた外来の宗教。
かつて仏教をめぐって蘇我氏と物部氏とが争ったこともありましたね。
仏教を保護しようとする蘇我氏の側に立って戦った聖徳太子が、日本の仏教のルーツということになっていますが、有名な奈良の大仏をつくったのは聖武天皇ですし、全国に国分寺と国分尼寺をつくったのも聖武天皇。
この時代に仏教はすっかり日本の宗教として定着したということになりますね。

長屋王の変のあと興福寺西金堂が建てられました

724年に首皇子が聖武天皇になったとき、長屋王が左大臣になっています。
長屋王は高市皇子と御名部女皇子の子どもで、「王」というのは「皇子」の子どもを意味します。
その分だけ天皇になる可能性は低くなるのですが、高市皇子は天武天皇の息子で御名部女皇子は天智天皇の娘。
父方の祖父は天武天皇で母方の祖父は天智天皇という血筋。
聖武天皇に皇子がいれば天皇になることはないのですが、聖武天皇と光明子との皇子が早世したことで事態は急変。
天皇になる可能性ができた長屋王は729年に謀反の疑いをかけられたために自害。
なお、この年に年号が「天平」と改元されていますが、聖武天皇の願いがこの元号にこめられていますね。

聖武天皇には、光明皇后とは別の女性から生まれた安住親王がいたのですが、はたしてこの親王に皇位を継承させてよいのかどうか。
長屋王に謀反の疑いがかけられたのは、聖武天皇の次の天皇の有力候補になってしまったからです。
聖武天皇の次の天皇はいったいどうするのか。
この大問題を抱えたまま、聖武天皇も光明皇后も仏教への信仰をますます深めていったのでした。
734年に光明皇后は、母である橘三千代の一周忌に興福寺西金堂をつくりましたが、興福寺は正方形の平城京の外側の外京の東のはずれにあります。
興福寺のさらに東には、基王を弔うための小さな寺が建てられたのですが、これがのちに壮大な東大寺となるのですよ。

疫病が流行して藤原氏が危機に陥りました

735年に、遣唐使として派遣されていた吉備真備や僧の玄昉らが帰ってきましたが、その年に疫病が流行したのですね。
まさか唐から遣唐使たちが病原菌を持ち帰ったのではないでしょうが、朝廷のおもな重臣たちの多くが死んでしまいました。
この疫病とは関係ありませんが、聖武天皇の母親である宮子はうつ病にかかっていました。
しかも首皇子を生んでからずっとうつ病だったということで、母親と息子がふつうに接することはなかったのでした。
しかし、その宮子が唐から戻った僧の玄昉の顔を見たとたんにうつ病が治り、737年にようやく息子の聖武天皇と対面したというのです。
仏教には心の病を治す不思議な力が具わっていたということでしょうね。

その一方でこの年に、藤原不比等の子どもたち、北家の房前、南家の麻呂、式家の宇合、京家の麻呂が疫病にかかって死んでしまいます。
藤原氏は4つの家に分かれていたのですが、その4つの家の当主がすべて死んでしまったのですね。
これらの当主たちにはそれぞれ子どもがいたので、これで藤原氏の血統が絶えることはありませんでしたが、藤原氏の受けた打撃は計り知れませんね。
翌738年に聖武天皇と光明皇后の娘である阿倍内親王が立太子。
同時に光明皇后の母親が別の男性と結ばれて産んだ橘諸兄が右大臣になったのですよ。

全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じました

全国に国分寺と国分尼寺の建立を命じました

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聖武天皇の政治家としての政策は、今風の言葉で表現すれば「軍縮政策」。
かつて天智天皇のときに百済とともに新羅と戦ったのでしたが、もうそんなことをしている余裕はなくなってしまったのですね。
737年には筑紫の防人(さきもり)という防衛軍の帰還を命じていますし、739年にはいくつかの例外を除いて兵士を徴集することをやめています。
それはもちろん、仏教の教えに従った面もありますが、なんといっても経済的な問題が大きかったでしょう。
軍備を縮小することで財政に余裕ができますから。

では、なぜ軍縮によって財政にゆとりをもたせようとしたのか。
それは、聖武天皇が帰依している仏教を全国に広めるためですね。
仏教でいう鎮護国家とはつまり、武力によってではなく仏教の力でもって国を平和に治めること。
740年に光明皇后は一切経を写経することを命じましたが、この事業は756年まで続くのですよ。
このときの写経の一部が正倉院に残されていますね。
一方聖武天皇は全国に対して『法華経』を書写するとともに七重塔を建てることを命じています。
聖武天皇はすっかり仏教に傾いてしまいましたが、その裏にいる遣唐使の吉備真備と玄昉に対して式家の藤原広嗣が反乱しました。
まもなく広嗣は斬殺されてしまってこの乱は終わりましたが、翌年の741年に聖武天皇は全国に国分寺と国分尼寺を建立することを命じました。

東大寺に大仏が鋳造されました

東大寺に大仏が鋳造されました

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大仏は奈良の東大寺だけではなくあちこちにありますが、正式には毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)といいます。
一神教のキリスト教とはちがって、仏教では如来や菩薩や明王などたくさんの「仏」がいます。
740年に聖武天皇は河内国で毘盧遮那仏を見たのですが、それがずっと心のなかにあったのでしょうね。
743年に聖武天皇は、金銅で毘盧遮那仏をつくことを発願したのですよ。
完成までにはまだまだ時間がかかりますが。

聖武天皇は平城京を捨てようとしたのでしょうか

740年に藤原広嗣が乱を起こしましたが、そのあいだ聖武天皇は平城京を出て壬申の乱のときに祖父である草壁皇子が近江へと攻め込んだコースを歩いたのですね。
そして山背国に戻ってきてここに恭仁(くに)宮をつくり始めたのです。
天皇が代替わりをしたときあらたに次の天皇が宮をつくるというのは、天武天皇までは当たり前のことだったのですが、平城京ができてからはここが国の都として固定されたのでした。
しかし、皇子が生まれてまもなく死んでしまったり、長屋王の変や広嗣の乱があったり、疫病で多くの人が亡くなったりと、いろいろ災いがありましたから、聖武天皇が都を移す意志をもったとしても当然のことかもしれませんね。

742年に聖武天皇は、近江国の紫香楽(しがらき)村に離宮をつくり始めたのですね。
すでに述べましたが、743年には墾田永年私財法を出して私有地の開発を促進し、これがのちに大貴族や大寺院の荘園になりますね。
743年にはいよいよ毘盧遮那仏を紫香楽でつくり始めるとともに、恭仁宮の造営は中止。
744年にはただひとり残されていた息子の安積親王が死んで、聖武天皇の子どもは阿倍内親王ひとりになってしまいました。
そして難波宮を正式に都にしたのですが、さすがにこれは無理だったのか、745年に都は平城京に戻ってきました。
このあいだに行基という僧の協力を得て、金銅製の毘盧遮那仏がつくられていたのですが、745年にはその行基を大僧正にして、747年にいよいよ東大寺大仏の鋳造が始まったのですよ。

聖武天皇は阿倍内親王に譲位しました

仏像はふつう木でつくられていますが、東大寺の大仏は金銅で鋳造されています。
東大寺の柱のひとつに大きな穴のあいたものがあり、ここを訪れた子どもがその穴を通り抜けて遊んでいる姿をよく見かけます。
もちろんそうすると御利益があるのですが、この大きな穴は大仏様の鼻の穴なのですよ。
鼻の穴がそんな大きさだから、大仏様の顔も身体も手のひらもどれほど大きいことでしょう。
そんな巨大な金銅仏をいったいどのようにして鋳造したのでしょうか。
それに金銅はどれほど必要だったのでしょうか。
749年に行基が死んで年号も天平感宝変わりましたが、すぐに天平勝宝となりました。

この年に聖武天皇は東大寺に行き、毘盧遮那仏の前で「三宝の奴」となることを誓ったのですね。
その後まもなく聖武天皇は退位して、阿倍内親王は孝謙天皇、聖武天皇は聖武太上天皇、光明皇后は光明皇太后になり、752年の東大寺大仏開眼供養には3人そろって出かけました。
754年に唐から僧の鑑真が来て、この3人に菩薩戒を授けました。
鑑真といえば唐招提寺で有名ですね。
756年に聖武太上天皇が崩御しましたが、その遺言により天武天皇の孫で新田部親王の息子の道祖王(ふなどおう)が立太子。
しかし、その行いが悪いということで757年に廃太子され、天武天皇の孫で舎人親王の息子の大炊王が立太子。
758年に孝謙天皇は退位して、大炊王が淳仁天皇になり、これで後継者問題は見かけ上は解決しましたね。

平城京に落日が訪れました

平城京に落日が訪れました

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孝謙天皇は淳仁天皇に譲位しましたが、その後重祚して称徳天皇になりますが、これはいったい何故なのでしょうか。
孝謙太上天皇にとって淳仁天皇は必ずしも自分の後継者として望んだ人物ではありませんね。
譲位の翌年には淳仁天皇を非難して、政治の実権の一部を取り戻しています。
764年には淳仁天皇を廃位して淡路島に文字通り島流し。
その裏には弓削道鏡という正体不明の僧の存在があったのですね。

道鏡は異例の出世をしました

いよいよ奈良時代も終わろうとしていますが、まだ仮名が作られていない時代のことですから漢字で日本語の音を表す万葉仮名で書かれた和歌集『万葉集』は、759年に大伴家持が詠んだ歌が最後のものなので、成立はそれ以後ということになりますね。
朝廷では南家の藤原仲麻呂が政治権力を得て、恵美押勝(えみのおしかつ)という名前まで与えられていました。
唐から来た僧の鑑真が死んだ763年、弓削道鏡という僧が孝謙太上天皇によって取り立てられ、小僧都になったのですね。
これに危機を感じた藤原仲麻呂は、764年に反乱したのですが、近江で敗死。
道鏡は大臣禅師となり、孝謙太上天皇も重祚して称徳天皇になったのですよ。

765年に墾田を寺院以外には禁止して、寺院は私有地を独占して増やすことができるようになりました。
淡路に流された淳仁天皇も死んで、道鏡は太政大臣禅師になったのですが、まさに「位人臣を極め」たことになりますね。
766年に道鏡は法王になりましたが、平安時代の院政のときには、天皇が譲位して上皇になり、その上皇が出家して法王になったので、この時代にはまだその制度はなかったものの、事実上天皇に限りなく近づいたということになります。
称徳天皇は道鏡を天皇にしようと考えたのですね。

天武天皇の血統は絶えてしまいました

道鏡を天皇にしてよいかどうかについての神託を受けるため、769年に和気清麻呂が宇佐神宮に派遣されました。
宇佐神宮は大分県にあるのですが、なぜ宇佐神宮なのか不思議ですね。
邪馬台国がここにあったという説もありますね。
宇佐神宮の神託はもちろん「否」だったのですが、和気清麻呂はそのために大隅に流されてしまいました。
ただし770年に称徳天皇が死んで、今度は逆に道鏡が左遷され、和気清麻呂は都に呼び戻されて事態は収拾されたのですね。

称徳天皇の死によってついに天武天皇の直系が絶えてしまい、天智天皇の孫の白壁王が即位して光仁天皇になりました。
都はまだ平城京なので、奈良時代そのものはまだ続くことになりますが、事実上は称徳天皇の死をもって奈良時代、天平文化の時代は終わったとすべきでしょう。
781年に光仁天皇が山部親王に譲位して、山部親王は桓武天皇に。
桓武天皇といえば794年に平安京に遷都した天皇として有名ですね。
平安京遷都の前に長岡京造営があったのですが、それはまた別の機会に譲ることにしましょう。

奈良に行って天平文化の残照のなかを歩いてみましょう

天平文化の時代に最初の暦書である『古事記』と『日本書紀』が編纂され、最初の歌集『万葉集』が編纂されました。
全国に国分寺と国分尼寺が建設され、東大寺の大仏が開眼して仏教が国教のようなものになりましたね。
正倉院にこの時代の宝物が大切に保管され今に伝えられていますから、機会がありましたらぜひ奈良に行って天平文化に触れてみてください。
平城京の大部分は遺跡となっていますが、それがかえってこの時代の歴史をよく表していますね。
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