「千年の都」平安京に隠された華やかな光と深い闇の歴史

「ウグイス鳴くよ(794)平安京」――日本史の勉強をしていたときにこれで平安京遷都の年号を覚えました。ヨーロッパではフランク王国の王シャルル・マーニュがローマ教皇から西ローマ皇帝の帝冠を授けられたのが、ちょうど西暦800年。この頃に大きな歴史の節目があったのですね。京都は「千年の都」と呼ばれていますが、大政奉還のあと1869年に明治天皇が皇居を京都から東京に移すまで日本の首都だったと考えると、1000年をかるく越えてしまいますね。その長い歴史のすべてをここで語ることなどできませんが、平城京から長岡京を経て平安京に遷都された経緯など、平安京の光と闇の歴史をたどってみることにしましょう。

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光仁天皇が譲位して桓武天皇が誕生しました

光仁天皇が譲位して桓武天皇が誕生しました

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天武天皇の曽孫である聖武天皇の時代に平城京と天平文化はピークを迎えましたが、その直系の皇子がいなくなってしまいましたね。
娘の孝謙天皇がとりあえず皇位を継ぎましたが、天武天皇の別系統の孫である淳仁天皇に皇位を譲ったあと、重祚して称徳天皇になりました。
天皇になるためには、母親が皇族か藤原氏ということになると、称徳天皇のあとは誰も天皇になれませんね。
弓削道鏡を天皇にしようとした称徳天皇も770年に死んでしまい、皇統は天智天皇の孫に戻ったのですよ。

天智天皇の孫の白壁王が光仁天皇になりました

称徳天皇が死んだあと、天智天皇の孫である白壁王が立太子。
天智天皇の孫とはいっても、皇位を継承する可能性などなかったので、あらぬ疑いをかけられて殺されるよりも生きのびていくために酒に溺れたふりをしていたということですね。
ただ、聖武天皇の娘である井上内親王と結婚していたために、にわかに脚光を浴びて宮廷内での官位昇進のスピードが加速。
称徳天皇が死んだ時点では、左大臣の藤原永手と右大臣の吉備真備に次ぐ大納言だったのですね。

この時点で、天武天皇の孫が2人いることはいたのですが、2人とも高齢者。
それに、藤原氏の式家の百川が称徳天皇の遺言なるものを出してきて読み上げたということです。
もちろんこの遺言は偽物だったようですが、洋の東西を問わず偽の文書がその場の状況によって本物として通用してしまうことがあるのですね。
白壁王の立太子には四家に分かれていた藤原氏内部の抗争も微妙にからんでいたようで、左大臣の藤原永手は北家。
式家の百川の娘旅子は白壁王の息子である山部親王と結婚していますが、これはのちに桓武天皇になっています。
このときに皇太子になった白壁王は770年に即位して光仁天皇になったのですよ。

井上皇后が廃されて山部親王が立太子しました

井上皇后が廃されて山部親王が立太子しました

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称徳天皇の死後少し時間がかかってしまいましたが、天智天皇の孫である光仁天皇が即位して皇位継承問題は一段落。
しかし、次はどうするかがまた問題ですね。
光仁天皇は聖武天皇の娘である井上内親王と結婚していましたが、この井上内親王が皇后になったのですね。
そのあいだに皇子が生まれていれば間違いなくその皇子が次の天皇。
天智天皇にも天武天皇にもつながる皇子ですから、血統としては最高ですね。
ただ、井上内親王は伊勢神宮の斎宮をしていたために結婚が遅かったのか、光仁天皇とのあいだに酒人内親王を生んだときにはもう38歳。
皇子の誕生は望めませんね。

光仁天皇には、百済の渡来人出身の夫人がいて、その夫人からは2人の皇子が生まれています。
井上皇后はどうしてもこちらの皇子に天皇を継がせることを阻止したかったのでしょう。
光仁天皇と他の女性のあいだに生まれた他戸(おさべ)親王を自分の養子にして、これを皇太子にしたのですね。
しかし、772年、井上皇后が光仁天皇を呪詛したという罪で皇后の地位を追われたのでした。
そうすると他戸皇太子も連座して廃太子。
光仁天皇と高野新笠とのあいだに生まれた長男山部親王がその翌年に立太子。
こうして天武天皇の血統はすべて排除されたことになります。

立太子した山部親王が即位して桓武天皇になりました

773年に立太子した山部親王はこのときすでに37歳。
父親は光仁天皇ですが、母親は皇族でも藤原氏でもなかったので、天皇になれるはずはなかったのですが、いろいろ歴史を探ってみると、そういう人物こそがまた偉大な業績を歴史に残していますね。
歴代天皇のなかでも桓武天皇は平安京を造営したことで有名ですね。
そのほかにもいろいろありますが、それはあとで述べることにします。
781年に光仁天皇が譲位して山部親王は桓武天皇になりました。
光仁天皇自身は譲位したあと1年もしないうちに亡くなっています。

桓武天皇が誕生した背景には式家の藤原百川の存在がありましたが、残念ながら百川自身は桓武天皇の即位よりも前の779年に死んでいます。
百川の娘旅子と桓武天皇とのあいだには大伴親王が生まれていますが、これはのちの淳和天皇。
百川はまた異母兄の良継とうまく連携していましたが、桓武天皇は良継の娘である乙牟漏(おとむろ)とのあいだに安殿親王と神野親王を生んでいます。
安殿親王はのちの平城天皇、神野親王はのちの嵯峨天皇。
この時点では藤原氏のなかでは式家がトップだったようですね。

長岡京の造営中にいろいろな事件がありました

長岡京の造営中にいろいろな事件がありました

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近江に都を移した天智天皇から天武天皇になって都は近江から飛鳥に戻り、唐の西安にならって飛鳥地方の北に平城京が造営されましたね。
平城京はまさに天武天皇の皇統のための都。
光仁天皇自身は天智天皇の皇統とはいえ、井上皇后は天武天皇の皇統だったので、その影響力は簡単には排除できませんでした。
桓武天皇になって、いよいよ本気で平城京から新しいに遷都する必要が出てきまたのですね。
そこで選ばれたのが長岡京。

桓武天皇は長岡京の造営を命じました

桓武天皇が即位したときにはまだ新しい都は影も形もありませんから、即位の儀式は平城宮の大極殿で行われました。
皇太子は同母弟の早良(さわら)親王。
これで天皇は、天武天皇の系統から天智天皇の系統に戻ったのですが、天武天皇の血をひく者が完全にいなくなったわけではなく、天武天皇の息子の新田部親王には氷上川継という孫がいたのですよ。
すでに「親王」でも「王」でもなかったのですが、母親は聖武天皇の娘の不破内親王。
782年に氷上川継の謀反事件が起こり、『万葉集』で有名な大伴家持もその一味にされてしまったのですね。
誰も死罪にならなかったことを考えると、これはどうやらいわゆるえん罪事件でしょうね。

桓武天皇はこうして邪魔になりそうな者を排除して、みずからの政権の基盤を確固としたものにしたのですね。
次の仕事は、なにかと旧勢力の力が残っている平城京を捨てて新しい都を造営すること。
光仁天皇の喪が明けたのをきっかけに年号も延暦と改元。
782年には百川のおいの藤原種継たちを山背(やましろ)国に派遣して新しい都の造営にあたらせたのでした。
これが長岡京で、淀川の支流の桂川の岸にあるため海に出やすくなったのですよ。
783年に乙牟漏が皇后になり、784年に桓武天皇は平城京を捨てて長岡京に遷都。
桓武天皇の新しい政治のスタートでした。

藤原種継の暗殺事件が起こって早良親王は島流しになりました

藤原種継の暗殺事件が起こって早良親王は島流しになりました

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長岡京に遷都したといってもまだ完成したわけではありませんから、工事は続いていたのですよ。
そんななか、桓武天皇がしばらく長岡京を留守にしたとき、長岡京の工事の指揮をとっていた藤原種継が何者かに矢を射られて死んでしまったのですね。
桓武天皇は急いで長岡京に帰還。
不測の事態の収拾を急いだのでした。
松明の明かりがあるとはいえ暗い夜に矢を人に命中させることができるのは、よほどの弓矢の名人ですね。
こういう事件が起こると、捕らえられるのはその実行犯ではなくその裏にいる人たち。

桓武天皇が即位したとき歳の離れた弟の早良親王が皇太子になっていましたね。
ところがその後桓武天皇の皇后が安殿親王を生んでいたのですから、こちらに天皇を継がせるとしたら邪魔になるのは皇太子の早良親王。
大伴家持はすでに死んでいたのですが、早良親王をそそのかしたとされ、大伴氏の一族の者の多数が死刑にされてしまったのですよ。
早良親王は淡路島に流罪になったのですが、断食をして淡路島に行く途中で死亡。
なんとも後味の悪い事件でしたね。

早良親王の祟りによって平安京への遷都事業がスタートしました

785年に廃太子となった早良親王が死んで、安殿親王が皇太子になるというのはまさに筋書き通りの展開。
翌年の786年に皇后の乙牟漏が神野親王、夫人の旅子が大伴親王を生んで桓武天皇の皇子はこれで3人に。
もう何があっても桓武天皇の皇統が絶えることはないと安堵した矢先、788年には桓武天皇の夫人の旅子が30歳の若さで死に、789年には蝦夷(えみし)の頭領アテルイに紀古佐美(きのこさみ)率いる征夷軍が敗北。
桓武天皇の母親の高野新笠が789年に死んだあと、790年には皇后の乙牟漏も31歳で死亡。

これはきっと早良親王の祟りにちがいないと騒がれはじめたのですね。
790年には伝染病の天然痘が流行し、皇太子の安殿親王までが病気になってしまい、もうこのままですますことができませんね。
792年に占ってみたところ、やはり早良親王の祟りとされたうえ、その直後の大雨で長岡京は水害にあう始末。
793年にはもう長岡京を捨てて遷都することになったのですよ。
その地が桂川と鴨川のあいだに位置する平安京ということになりますね。

長岡京を捨てて平安京に遷都しました

長岡京を捨てて平安京に遷都しました

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長岡京は桂川の岸にあったので交通の便はよかったのですが、まだ河川改修などのなかった時代のことですから河川の氾濫による水害の危険と隣り合わせにあったですね。
本当にそれが早良親王の祟りだったかどうかはわかりませんが、「平安」という都の名前には祟りの存在を信じていた当時の人たちの心がよく現れています。
安倍晴明の名でで知られる陰陽道(おんみょうどう)もやはりこの時代の特徴をはっきりと示すもののひとつでしょうね。

征夷軍が蝦夷に勝利した報告を受けて遷都の詔が出されました

九州には熊襲や隼人、東北地方には蝦夷といった「異民族」がいて、大和朝廷はこれらの「異民族」との戦いと融和とを繰り返してきましたね。
「夷狄」というのは中国に由来する言葉なのですが、「夷」や「狄」と呼ばれる「異民族」を中国の漢民族は敵視していました。
古代ギリシャでも「バルバロイ」という「野蛮人」を意味する言葉で「異民族」を表していましたね。
言語や風俗・習慣の異なる人々を「異民族」として敵視し、場合によっては戦って攻め滅ぼすというのは、残念ながらいつの時代にもあったことですね。

蝦夷というのも、大和朝廷からみると「異民族」としてまとめられていますが、文献などが残っていないため正確にはわからないものの、ひとつの「民族」といえるような人間集団ではなかったようですね。
789年に征夷軍がアテルイに敗北したというのは、もともとバラバラだった蝦夷にも大和朝廷という共通の敵ができたためにアテルイのもとでまとまったとも解釈できますね。
794年、このときはまだ征夷副将軍だった坂上田村麻呂が蝦夷に勝利。
桓武天皇はこの戦勝の報告を受けて遷都の詔を出したわけです。
なお、坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されるのは797年のことですよ。

平安京には桓武天皇の「平安」への思いがこもっています

平安京には桓武天皇の「平安」への思いがこもっています

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桓武天皇の母親は渡来人の家系ですが、天武天皇の系列の平城京から長岡京に遷都しようとしたのは、この地域がやはり渡来人の秦氏の勢力圏だったからですね。
征夷大将軍となった坂上田村麻呂もやはり渡来人の家系。
大和から山背へと都を移そうとした背景には、古来からの部族の確執を脱して、ここに新天地を開こうとした桓武天皇の思いがこめられていたのは確かでしょうね。
ただ、長岡京では藤原種継の暗殺事件をきっかけにして、かずかずの怨霊を生み出してしまいましたね。
長岡京に比べると水上交通の便はすこし劣りますが、そのかわり平安京は都として十分に広い土地が確保できたのですよ。

北に天皇の宮である大内裏(だいだいり)がおかれ、そこから南に朱雀大路が走り、その前に都の内と外とを分ける羅生門がありますね。
この朱雀大路の東側が左京で西側が右京。
東西と南北にはいろいろな名前がつけられた大路と小路が文字通り碁盤の目のように直角に走っています。
東西の大路は北の一条大路から南の九条大路まで、南北の大路の名前についてはその名前を覚えるための京都独特の歌があるのですが、それは割愛しておきます。
平安京のある山背国も遷都の年に字を改めて山城国になったのでした。

桓武天皇が崩御して延暦年間が終わりました

平城京の時代を代表する年号は天平。
ですからこの時代の文化を天平文化ともいいますね。
平安京の時代はあまりにも長く続いたため、このような年号はありませんが、桓武天皇が即位して死ぬまでの期間をカバーしている延暦という年号は、最澄が比叡山に建てた延暦寺の名前として残っていますね。
桓武天皇の時代の出来事としては、長岡京と平安京の造営のほかに坂上田村麻呂を征夷大将軍にして文字通り「征夷」したこと、それから遣唐使を派遣して唐からあらたな仏教を持ち帰ったこと、などがあげられますね。

804年に最澄と空海が肥前から唐に向けて出発。
その翌年に最澄は帰国しましたが、その間に桓武天皇は病気にかかっていたのですよ。
人が病気になるとまず疑われるのは怨霊のしわざということで、長岡京を捨てて平安京に遷都したのも、その背景には桓武天皇の弟の早良親王の祟りがありましたね。
800年に桓武天皇は早良親王に崇道天皇という名前を与えたり、藤原種継の事件で処罰された者たちを赦免したりしていたのですが、唐から密教を持ち帰った最澄に加持祈祷をしてもらいました。
そのかいなく806年に桓武天皇は崩御。
のちに弘法大師となる空海が唐から帰国するのがもう少し早ければ、と悔やんでみてもしかたないですね。
桓武天皇の在位期間はほぼ延暦年間と同じでした。

平城上皇は都を平城京に戻そうとしました

平城上皇は都を平城京に戻そうとしました

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かつては天皇の「宮」というものは天皇一代限りのものでしたが、藤原京以来、唐の西安を見習って「宮」を別の場所に移さないことにしようとしましたね。
しかし、平城京の時代にも聖武天皇はいくつか「宮」を移しましたし、桓武天皇の代になって長岡京と平安京が生まれました。
平安京に託した桓武天皇の願いもむなしく、次の天皇である平城天皇が平城京に「宮」を移したこと自体は、ある意味ではそれまでの慣習に従ったとも言えますね。

後継者問題はいつの時代も大問題ですね

桓武天皇には何人かの皇子がいましたが、乙牟漏皇后が生んだのは安殿親王と神野親王、式家の藤原百川の娘である旅子が生んだのは大伴親王。
母親が皇族か藤原氏という条件をこの3人はクリアしているので、3人とも天皇になる有資格者ということになりますね。
もっとも、785年にすでに安殿親王が皇太子になっていたので、806年に桓武天皇が死んだときに安殿親王が平城天皇になり、同母弟の神野親王が皇太子になりました。
この時代は天皇位が父親から息子へと受け継がれるという制度が確立されていなかったのですね。

平城天皇には阿保(あぼ)親王と高岳(たかおか)親王がいたのですが、2人とも皇太子にはなれませんでした。
なお、阿保親王の息子の一人が有名な『伊勢物語』を書いた在原業平なのですよ。
このようにして天皇になれなかった皇族は次々と姓をもらって臣下になっていったのです。
桓武天皇には藤原氏の南家の吉子とのあいだに生まれた伊予親王もいたのですが、これは天皇になる資格をもっていましたね。
しかも桓武天皇は藤原氏のうちこの南家を大事にしていたので、そのために謀反の疑いをかけられて伊予親王は母親ともども服毒自殺。
それは807年のことでしたが、このときに藤原氏の南家も没落したのでした。

薬子の変が起こって平安京がずっと都になりました

平城天皇は安殿親王だった時代に、早良親王の祟りによると考えられた一連の事件のなかで病気になりましたね。
今度は伊予親王とその母親の祟りを恐れたようで、809年に平城天皇は同母弟で皇太子の神野親王に譲位し、この神野親王が嵯峨天皇として即位。
皇太子を誰にするかがまた問題になりましたが、これは平城天皇の皇子の高岳親王に決まりました。
母親が皇族でも藤原氏でもない高岳親王でしたので、これがあとでまた問題になるのは見えていますね。
天皇を譲位した平城天皇は平城上皇になり、その年の暮れに平城京を訪れたのですよ。

平城上皇と平城京、不思議な名前の一致ですね。
このとき平城上皇は、藤原氏の式家の薬子(くすこ)を連れていたのですよ。
薬子の兄は藤原仲成、この2人の父親は長岡京で暗殺された藤原種継。
仲成は当時、平城京の修理をする役職に就いていたということなのですが、なんだか妖しい雲行きですね。
810年に嵯峨天皇が藤原氏の北家の藤原冬嗣を新しい官職の蔵人頭(くろうどのとう)に任命。
この時代の歴史の裏には藤原氏のあいだの争いもありましたが、このときこそまさに式家と北家との争い。
式家の側にいた平城上皇が平城京に都を戻すことを宣言。
これを薬子の変といいますが、嵯峨天皇と北家の勝利に終わり、仲成は処刑され薬子は服毒自殺。
平城上皇はもうすべての力を失ったということでしょうか、とくに罪に問われることはなかったということでした。

嵯峨天皇の時代は唐風文化の時代でした

嵯峨天皇の時代は唐風文化の時代でした

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皇太子だった高岳親王は薬子の変のあと僧になって唐に行き、さらに天竺(当時はインドをそう呼んでいました)を目指して旅に出たものの途中で亡くなったということですが、当時まだ子どものいなかった嵯峨天皇は異母兄弟の大伴親王を皇太子にして、政治的にはようやく安定。
文化的にも唐から戻ってきた空海を中心にして唐風文化の花が咲きました。
内裏の建物や門の名前も唐風に改められたのですよ。
紫宸殿という呼び方もこのときに生まれました。

ようやく平和な時代が訪れました

811年に征夷大将軍だった坂上田村麻呂が死にましたが、ちょうどこの頃「蝦夷」との長い戦いが終わったのでした。
この戦いのことを「三十八年戦争」と呼ぶこともあるようですね。
平安京に遷都する以前の延暦の時代からすでに、遣唐使たちの持ち帰った唐風の文化が芽生えていましたが、嵯峨天皇の時代にまさにその花が咲いたと言えますね。
比叡山に延暦寺を創建した最澄は伝教大師、最澄よりながく唐にいた空海は弘法大師と呼ばれていますが、816年に嵯峨天皇は空海に金剛峯寺を開くことを許しました。

最澄は天台宗、空海は真言宗の開祖ですが、どちらも奈良時代の仏教とはちがって密教と呼ばれています。
加持祈祷により悪鬼を退散するこの密教は、ちょうどこの時代にふさわしいものでしたね。
延暦寺は平安京に近い比叡山にありましたが、金剛峯寺は遠く離れた高野山。
822年に最澄が死にますが、その翌年に嵯峨天皇は空海を近くに呼び寄せるために、平安京の東寺を空海に与えたので、現在は京都駅のすぐ近くにある東寺も真言密教の中心となっていますね。

嵯峨天皇が退位して嵯峨野が生まれました

平城天皇が譲位して嵯峨天皇が即位したとき、平城上皇は平城京に遷都することを宣言しましたね。
これは平安時代後期の院政を先取りするものと考えていいかもしれませんね。
院政の時代は天皇よりも上皇に政治権力がありましたが、平安時代初期はやはりまだ政治権力は上皇よりも天皇にありました。
大伴親王を皇太子にしたあと嵯峨天皇には正良(まさら)親王が生まれたので、この正良親王を皇太子にしたかったのですが、結局823年に嵯峨天皇は大伴親王に譲位。
大伴親王は淳和(じゅんな)天皇として即位し、嵯峨天皇の意向通り正良親王を皇太子にしたのでした。

京都の郊外にある嵐山は多くの観光客を集めているばかりか京都最大の観光スポットのひとつになっていますが、そのあたりを嵯峨野といいます。
それは嵯峨天皇、いえ嵯峨上皇に由来するのですよ。
淳和天皇に譲位したあと嵯峨上皇は平安宮を出て嵯峨院に住んだのですね。
天皇を譲位した上皇の住む宮殿が「院」ということですね。
平城上皇との争いを経験した嵯峨上皇は、あくまでも争いを避けようとしたのでしょう。
「平安」時代という名前にふさわしいのはまさに嵯峨天皇の時代だったかもしれません。

幼少の天皇が即位して摂関政治が始まりました

幼少の天皇が即位して摂関政治が始まりました

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嵯峨天皇の皇子を皇太子にした淳和天皇ですが、淳和天皇には高志(こし)内親王とのあいだに恒世(つねよ)親王がいました。
淳和天皇は高志内親王の死後に皇后の称号を追贈しましたが、それは恒世親王に天皇位を譲りたかったからでしょう。
しかしその恒世親王は826年に死去。
その親王とは別に淳和天皇には正子内親王とのあいだに生まれた恒貞(つねさだ)親王がいたのですが、これに天皇の位を譲るにはまだ幼すぎましたので、嵯峨上皇の皇子である皇太子の正良親王は一見安泰でした。

天皇の位をめぐる最後の悲劇は恒貞親王でした

淳和天皇はやはり自分の皇子である恒貞親王に天皇の位を譲りたかったので、まずは833年に皇太子であった正良親王に譲位。
正良親王は即位して仁明天皇になり、恒貞親王が皇太子になったのですね。
自分の息子ではなく甥に譲位して、そのかわり自分の息子をその甥の天皇の皇太子にするというシステム。
しかしこのシステムにはいろいろ無理がありましたね。
仁明天皇には藤原冬嗣の娘順子とのあいだに道康親王がいたのですが、恒貞親王とほとんど年齢がかわりません。
恒貞親王が天皇になって道康親王が皇太子になったとしたら、天皇と皇太子のあいだにはたった2歳の年齢差しかないということになりますね。

しかも、藤原四家のうちの3つの家が没落したなか、北家がいよいよ権勢を強くしていたのでしたが、冬嗣はその北家の人で、藤原良房はその跡継ぎです。
日本史で藤原冬嗣と良房を摂関政治の始まりと習いますが、冬嗣にしても良房にしても順子の生んだ道康親王をなんとしてでも天皇にしたいですよね。
そこでまた皇太子の恒貞親王に謀反の疑いがかけられ廃太子。
あわせて伴氏と橘氏も排斥され、藤原良房が大納言に出世。
これを承和の変といいますが、これによって道康親王が皇太子になったわけです。
嵯峨上皇が死んだ842年の事件でした。

惟仁親王は9歳で清和天皇になりました

惟仁親王は9歳で清和天皇になりました

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仁明天皇の母親は橘氏だったのですが、これ以後の天皇の母親は藤原氏、しかも藤原氏の北家ということになったのですよ。
仁明天皇の皇子の道康親王の母親は藤原北家の冬嗣の娘。
850年に仁明天皇が死んで、道康親王が文徳天皇として即位。
天皇が生きているあいだに譲位して次の天皇が誕生することが続いてきましたが、先代の天皇が死んで次の天皇が誕生するというのは久しぶりですね。
文徳天皇には、藤原良房の娘明子とのあいだに惟仁親王、紀静子とのあいだに惟喬親王がいましたが、皇太子になったのはもちろん惟仁親王。
ただしこの時点で惟仁親王は1歳にもなっていなかったのですね。

しかし文徳天皇自身は惟喬親王に位を継がせたかったらしくて、もしも文徳天皇が長生きをしていたらそうなったかもしれませんが、858年にその文徳天皇が死去。
惟仁親王はこのときまだ9歳だったので、これまでの慣例からすればまだ天皇にはなれません。
その前の年に藤原良房が「位人臣を極めて」太政大臣になっていましたから、まだ成人していないからといって自分の孫である惟仁親王を天皇にしないわけはありませんね。
こうしてはじめてまだ幼い天皇が誕生したのでした。

摂関政治がこうして始まりました

清和天皇が即位したとき藤原良房が太政大臣だったので、このときに摂政が誕生したという説もありますが、866年に「天下の政を摂る」という勅が良房に下されたという記録があり、それが摂政の始まりだったという説もありますね。
この頃、富士山が噴火したり地震があったり疫病が広がったりと、天変地異が続いていて世の中は決して「平安」なものではなくなっていました。
人災としては、良房にこの勅が下される少し前に応天門が火事になったのですよ。
大納言の伴善男がその放火犯にされてしまい、紀夏井とともに流罪になりました。
これを応天門の変といいますが、伴氏はもともとは大伴氏で、大伴親王がいたために名前を変えられていたのですが、紀氏とともに古くからの豪族なのですね。

清和天皇には藤原冬嗣の孫の高子(たかいこ)とのあいだに貞明親王がいて、869年に皇太子になっていましたが、876年に清和天皇が譲位して陽成天皇となりました。
また幼い天皇の誕生ということですが、このときには藤原基経が摂政なったのですね。
しかし、陽成天皇には重大な問題があり、太政大臣となった基経は884年に陽成天皇を退位させ、世代をさかのぼって仁明天皇と藤原沢子とのあいだに生まれた光孝天皇が誕生。
これは幼帝ではないので、基経が政治を補佐することになりました。
887年に東海地方に大地震、都には台風と天災が襲いかかり、光孝天皇は発病して、源定省を皇太子に指名した直後に死亡。
これが宇多天皇になり基経は正式に関白となり、藤原氏による摂関政治が始まったのでした。

平安時代はまだまだ続きます

平安時代はまだまだ続きます

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宇多天皇は光孝天皇の息子ではあるのですが、光孝天皇自身がそもそも天皇になるはずの人ではなく、その息子の宇多天皇は「源」という姓を与えられていたのですね。
天皇はその後宇多天皇の系統になり、醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇と続いていきますが、その母親はすべて藤原氏で、摂関政治がいよいよ定着していくわけです、摂政とは天皇が幼いとき、関白は天皇が成人したあと、天皇に代わって政治を司る役職ですが、これはもちろん奈良時代に確立した律令にはありませんよ。
平安時代独特の政治体制の確立ですね。

894年に遣唐使も廃止され、平安京は唐風から国風に変化しますね。
藤原道長の時代を過ぎると摂関政治も終わり、院政の時代になりますが、この頃には武士の力が強くなり、平氏と源氏との争いが起こり、勝った平氏が政権を握りましたね。
平氏は平安京を造営した桓武天皇の子孫で、平氏と争った源氏は清和天皇の子孫というのも、歴史の大きな流れを感じてしまいますね。
一度は負けた源氏が平氏を倒して鎌倉に幕府を開くのは、まだまだ前のことですが。

「千年の都」は時代とともに変化して今日に至りました

桓武天皇が平安京を造営し遷都してから、鎌倉や江戸に幕府があった時代も平安京はずっとこの国の「都」でした。
桓武天皇のときに平安京が完成したのではなく、その後の時代に新しい神社や寺院が建造されたり新しい街並みができたり、平安京はずっと成長し続けて現在に至っているのですよ。
京都の観光名所のトップのひとつである金閣寺ができたのは室町幕府の時代。
それを思うと平安京の「千年の歴史」の規模の大きさを見せつけられてしまいますね。
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