二度と繰り返してはならない太平洋戦争の歴史

「行くぞよい(1941)かと真珠湾」――日本史のテストのためにこうして太平洋戦争開戦の年号を覚えました。1945年まで続いたこの戦争では、敵と味方の兵士のほか戦地になった国々の住民や日本本土の一般人まで多数の犠牲者が出ましたが、なぜこの戦争が始まり、どのようにして終結したのでしょうか。この戦争で犠牲になった方々のことを思いながら、日本が体験した最後にして最大の戦争の歴史を振り返ってみましょう。

なぜ太平洋戦争は始まった?

なぜ太平洋戦争は始まった?

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1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、そして1914年の第一次世界大戦と、日本、いえ大日本帝国は10年ごとの戦争に勝ち続け、気がつけばアメリカやイギリスやフランスなど欧米の大国に肩を並べる国家になっていました。
第一次世界大戦後にできた国際連盟では常任理事国を務めましたが、1929年の世界大恐慌以降、国土面積も狭く地下資源にも恵まれない「もたざる国」大日本帝国は、満州事変をきっかけにして1933年に国際連盟を脱退。
1937年の日華事変(日中戦争)から泥沼の戦争に突入していたのです。

ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まりました

1940年に東京でオリンピックが開催されることになっていたのは知っていますか。
これが中止されたのは直接的には日本が開催国を辞退したことによるのですが、結局は別の国が開催国になったものの中止されてしまったのですよ。
ヨーロッパでは1939年9月1日にドイツ第三帝国が突然ポーランドに侵攻して、第二次世界大戦が始まっていました。
ドイツやイタリアは枢軸国と呼ばれていましたが、日中戦争が激化する日本は、この戦争で躍進する枢軸国側について日独伊三国同盟を締結。

そのため、まだこの戦争に加わっていなかったもののイギリス側だったアメリカとの関係が悪化。
アメリカの提唱により、日本への石油輸出禁止などの経済封鎖がされてしまったのですね。
ドイツも日本も石炭には恵まれていましたが、石油はほとんど国内に油田がなく、ドイツはルーマニアやウクライナ、日本は当時は仏印と呼ばれていた東南アジアの油田をねらったのですよ。
ドイツは「生存圏」、日本は「大東亜共栄圏」と呼んだ地域にこれが含まれていたわけです。

「真珠湾を忘れるな!」とアメリカは叫びました

日本はそれでもアメリカとの交渉を続けていたのですが、1941年11月26日ハル・ノートを突きつけられた日本は、12月1日の御前会議で日米開戦を決定。
御前会議というのは、大日本帝国憲法で陸海軍を統率すると規定されていた天皇が臨席する会議のことですよ。
連合艦隊が秘かに択捉島からハワイを目指し、大本営からの通知を待っていましたが、ついに「ニイタカヤマノポレ」の暗号電報を受けた連合艦隊は、ハワイの真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の艦船を総攻撃。
12月8日、アメリカ時間では12月7日に太平洋戦争が始まったのですね。

新高山というのは当時日本の領土だった台湾にある高山。
富士山より高くて、当時は日本で一番高い山だったのですね。
天皇の名前で宣戦布告がされたものの、英語訳に時間がかかり攻撃に間に合わなかったため、アメリカは日本の卑劣さに腹を立ててRemember Pearl Harbor!(真珠湾を忘れるな!)と叫んだということです。
これによってアメリカはドイツやイタリアとも戦争することになり、日独伊の枢軸国と米英を中心とする連合国との世界戦争になってしまいました。

東南アジアからオーストラリアに戦火が拡大

東南アジアからオーストラリアに戦火が拡大

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太平洋戦争の開戦は海軍によるハワイの真珠湾攻撃に代表されていますが、名目上は、アメリカやイギリスやフランスやオランダの植民地になっていた東南アジア地域を解放して日本を中心とする「大東亜共栄圏」を築き上げることでしたし、なんといっても東南アジアの油田が目当てですから、この地域にも日本軍は進軍したのですよ。

日本は短期決戦を目指しました

かつて戦争は、外交のための手段だった時代がありました。
真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の主力艦隊を壊滅させた真珠湾攻撃により、日本にとって有利な講和が結ばれることも期待されていたようですが、結果としては戦火が世界に拡大。
中華民国までが日独伊に宣戦布告したのですよ。
12月10日、マレー沖で日本の攻撃機がイギリスの最新鋭の戦艦を撃沈。
太平洋戦争と呼んでいますが、インドシナ半島からマレー半島やフィリピン島を、日本軍は次々に占領していったのですね。

12月16日には日本海軍の象徴ともいえる戦艦大和が竣工したのですが、その同じ日に日本軍はボルネオ島に上陸。
12月21日には、東南アジアでただひとつの独立国であったタイ王国と日本は同盟。
そして、12月25日に、イギリスが支配していた香港を陥落させたのでした。
1942年1月2日には、ルソン島のマニラを無血占領。
1月11日にはマレー半島のクアラルンプールを占領し、1月15日には、現在はミャンマーと呼ばれる英領ビルマ攻撃部隊をタイに集結させたのですね。

南方軍は快進撃を続けました

かつて戦争は、外交のための手段だった時代がありました。
真珠湾に停泊していたアメリカ海軍の主力艦隊を壊滅させた真珠湾攻撃により、日本にとって有利な講和が結ばれることも期待されていたようですが、結果としては戦火が世界に拡大。
中華民国までが日独伊に宣戦布告したのですよ。
12月10日、マレー沖で日本の攻撃機がイギリスの最新鋭の戦艦を撃沈。
太平洋戦争と呼んでいますが、インドシナ半島からマレー半島やフィリピン島を、日本軍は次々に占領していったのですね。

12月16日には日本海軍の象徴ともいえる戦艦大和が竣工したのですが、その同じ日に日本軍はボルネオ島に上陸。
12月21日には、東南アジアでただひとつの独立国であったタイ王国と日本は同盟。
そして、12月25日に、イギリスが支配していた香港を陥落させたのでした。
1942年1月2日には、ルソン島のマニラを無血占領。
1月11日にはマレー半島のクアラルンプールを占領し、1月15日には、現在はミャンマーと呼ばれる英領ビルマ攻撃部隊をタイに集結させたのですね。

日本軍はアジアを越えてオーストラリアに迫りました

真珠湾では痛い敗北を喫したアメリカでしたが、2月1日には機動部隊をマーシャル諸島に派遣。
2月4日には連合軍の艦隊を日本の航空機が攻撃。
これをジャワ沖海戦といいますが、快進撃を続ける日本はこの海戦で勝利したのですが、撃沈した艦船の名前を間違えたりして、情報戦ではむしろこの時点で敗北していたと言ってもいいでしょう。
それでも日本軍は、2月14日にオランダ領スマトラ島のパレンパンを、落下傘部隊で攻撃。
落下傘部隊は派手だけれども、地上からの銃撃の絶好の標的になる危険なもの。
この時点ではまだ日本も幸運の女神に見放されていなかったということでしょうか。

翌日の2月15日にはシンガポールにいたイギリスとオーストラリア軍が降伏。
2月20日のバリ島沖海戦とニューギニア沖海戦、2月26日から28日のスラバヤ沖海戦、さらには3月1日のバタビヤ沖海戦と海戦が続きましたが、3月7日にはオランダ軍が降伏。
3月8日にはイギリスの委任統治領だったニューギニア島に上陸し、占領したのですよ。

ミッドウェー海戦で戦況は一転しました

ミッドウェー海戦で戦況は一転しました

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短期決戦を目指した日本軍は、太平洋でも東南アジアでも快進撃を続けましたが、ミッドウェー海戦では4隻の航空母艦を失い、そのために多数のベテランのパイロットも戦死。
短期決戦を目指して快進撃を続けていた南方軍も、中国との戦闘を続けていた関東軍と同じように、泥沼の戦争に突入していったのですよ。

オーストラリアには上陸できませんでした

マッカーサーは、のちに日本占領軍の司令官として有名ですが、このときはフィリピンの司令官で、3月13日にフィリピンから逃走したのでした。
4月5日から9日にかけてセイロン(現在はスリランカ)のイギリス軍を空襲。
5月4日にはついにビルマを制圧したのですね。
しかし、ここで思いがけないことが起きていたのですよ。
それはアメリカ軍の艦載機が、4月18日に日本本土を空襲したのです。
ハワイの真珠湾攻撃では大勝利したものの、ハワイを占領しなかったので、今度はハワイのミッドウェー島を占領しようという作戦になったのですよ。

その前に、日本海軍は5月7日から8日にかけて、珊瑚海海戦を戦い一応は勝利するのですが、もう真珠湾のような一方的勝利はのぞめず、オーストラリア上陸は断念。
それでもフィリピンのアメリカ軍を降伏させたり、5月10日ミンダナオ島を占領したりしたのですね。
5月29日にはマダガスカル島のイギリス軍、5月31日にはシドニーのイギリス軍を、特殊潜航艇によって攻撃。
しかしながら、大勝利とは言えませんね。

ミッドウェー海戦で航空母艦を4隻失いました

日本の連合艦隊はふたたびハワイに向かって進軍。
今度は、真珠湾攻撃のときとはちがって、上基地攻撃用に爆弾を装備するのか、作戦遂行に余計な時間がかかってしまったのですね。
そのうえ、日本軍の暗号はすでに解読されていて、日本軍の動きはアメリカ軍に読み取られていたのですよ。
情報戦ですでに日本軍は敗北していたわけです。

まず、航空母艦の赤城と加賀と蒼龍がアメリカ軍の航空機の攻撃で炎上。
飛龍はこの3隻から少し離れた場所にいたので、この攻撃は受けないですみましたから、飛龍を飛び立った航空機はアメリカ海軍の空母を攻撃。
一矢報いたという形にはなりましたが、けっきょくこの海戦で、飛龍を含む4隻の空母が沈没。
アメリカ軍も空母ヨークタウンは沈没したものの、単純計算すると4対1の大勝利。
日本軍にとってなによりも打撃だったのは、多くの優秀なパイロットが戦死してしまったことですね。

アリューシャン列島のアッツ島とキスカ島を占領しました

ミッドウェー島の占領には失敗しましたが、アメリカ本土攻撃への足がかりとして、アリューシャン列島のキスカ島を6月7日に、アッツ島を6月8日に占領。
当時は千島列島のすべてが日本の領土で、その北東にアラスカ半島に通じるアリューシャン列島があるのですね。
日本軍はアメリカの領土の一部を占領したわけです。
しかし、戦略的にはどういう意味があったのか。
のちに、この地域でも激しい戦闘が行われたのですよ。

アメリカ本土に対しては、潜水艦での攻撃がありました。
6月20日には伊26がバンクーバーの基地を砲撃、6月21日には伊25がオレゴン州の基地を砲撃。
潜水艦は、第一次世界大戦のときにドイツがUボートとして戦闘に投入。
日本の伊号潜水艦には、大砲も装備され、なかには航空機まで格納できるものもあったのですよ。
日本の技術力の高さを示すものではありましたね。
9月9日と9月29日には、伊25の艦載機がオレゴン州の基地を空爆。
しかし、この砲撃にしても空爆にしても、戦況を変えるほどの力はありません。
10月26日の南太平洋海戦で多数の日本軍のパイロットが戦死。
パイロットを養成するのにかかるエネルギーと時間を考えると、日本の航空隊の戦力は壊滅状態になったということですね。

「玉砕」の語が悲惨な事態を美化するために使われました

かつて戦争は何人もの「英雄」を生んできました。
華々しい戦闘行為が「英雄」を生むとともに、この戦闘行為によってたくさんの人々が命を落としたり負傷したりします。
太平洋戦争では、日本本土から遠く離れた島々に日本軍が駐留していましたが、連合軍の反撃にあって次々に撤退。
多くは全滅したのですよ。
これを「玉砕」と呼んでいました。
「玉砕」とは玉が砕け散ること。
言葉は美しいのですが、実際は悲惨ですね。

山本五十六連合艦隊司令長官が戦死しました

1942年12月8日、真珠湾攻撃からちょうど1年後に、ニューギニアの日本軍が全滅しました。
これから、戦争地域を広げすぎた日本軍は、撤退するか全滅するか、究極の選択を迫られることになったのですね。
年が明けて1943年2月、日本軍はガダルカナル島撤退作戦を開始。
連合艦隊司令長官山本五十六(いそろく)海軍大将は、日米戦争には最後まで反対していたのですが、開戦が避けられないと覚悟を決めたときには、短期決戦でアメリカとの有利な和平条約にもっていこうと考えていたのですよ。

しかし、開戦から2年が経過して、いよいよ広大な占領地域の日本軍が連合軍の反撃にあい、全滅の危機に直面しつつあったとき、山本五十六連合艦隊司令長官は絶望したのかもしれません。
一式陸攻に乗って前線を視察したのですが、この攻撃機は優秀ではありましたが、「葉巻」とあだ名されるほど敵の攻撃で発火しやすい航空機。
それに護衛に回ったのは、アメリカが「ゼロ戦」と呼んだ零式戦闘機がほんの数機。
暗号電文も読まれていますから、アメリカの航空機の絶好の攻撃対象。
4月18日にブーゲンビル島の上空で長官の乗った一式陸攻は撃墜されたのですね。

アッツ島から「玉砕」という言葉が生まれました

5月には、各地で戦死した兵員を補うため、大学生までが動員されることが決定されたのですね。
これを「学徒出陣」と呼んでいますが、盛大な出陣式で送り出される学生たちの行く場所がどんな場所だったか、想像できますね。
3月26日にすでにアッツ島沖で海戦があったのですが、5月12日にはついにアメリカ軍がアッツ島に上陸。
アメリカ本土からは遠いとはいえ、ここはやはりアメリカの国土。
いつまでも日本軍の占領を許しておくわけにいきませんね。

アッツ島では上陸したアメリカ軍と日本軍の激しい戦闘が行われ、5月29日に日本軍は全滅。
このとき「玉砕」という言葉が生まれ、今後あちこちの日本軍が「玉砕」することになります。
アッツ島は玉砕しましたが、キスカ島のほうは7月29日の撤退作戦が成功。
しかしこれで、アメリカの国土であるアリューシャン列島から日本軍はいなくなったのでした。
ヨーロッパでは、9月にイタリアが降伏。
日独伊三国同盟もこれで日独だけになりました。

学徒出陣が始まり大東亜共同宣言が発表されました

学徒出陣が始まり大東亜共同宣言が発表されました

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東南アジア地域での日本軍は、名目上は、欧米諸国の植民地となっていたこれらの地域の独立を推進することでしたね。
8月に日本軍はビルマ(現在はミャンマー)独立を宣言。
10月24日には、シンガポールで自由インド仮政府も宣言されました。
10月26日にはこのインド政府がアメリカとイギリスに宣戦布告し、大東亜戦争は本当に「大東亜」の戦争に発展。
しかし、日本軍の後退はこの時点で明らかになっていましたね。
9月30日の御前会議で絶対国防圏が決定されていましたが、制海権も制空権も、それに食料や武器弾薬の補給路も失って、太平洋の島々にいた日本軍は孤立状態。

10月21日には、明治神宮外苑で盛大な出陣学徒壮行会が開かれ、いよいよ学徒出陣が始まりました。
11月には東京で大東亜会議が開催され、大東亜共同宣言が発表されましたが、戦地はそれどころではなかったでしょう。
11月1日にはブーゲンビル島沖海戦があり、11月21日にアメリカ軍がマキン島とタラワ島に上陸。
23日にははやくも日本軍が玉砕。
年が明けて1944年2月6日にはクェゼリン島で、2月22日にはブラウン環礁で日本軍が玉砕。
「玉砕」がもうふつうの用語になってしまったのですよ。

マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅

マリアナ沖海戦とレイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅

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1944年の時点ですでに日本の敗北は明らかになっていたはずですが、それでも日本軍は抵抗を続けました。
日本軍は陸軍と海軍に分かれていて、大本営がそれらを統括していたのですが、零式戦闘機「ゼロ戦」は海軍、一式戦闘機「隼」は陸軍というように、それぞれまったく異なる兵器をもっていたことからわかるように、作戦もそれぞれ別に行われていたのですね。
マリアナ沖海戦ととレイテ沖海戦で海軍はほぼ壊滅状態になりましたが、一方陸軍はインパール作戦でインドを目指したのですよ。

陸軍はインパール作戦でインドを目指しました

南洋諸島の日本軍が次々と「玉砕」していたとき、ビルマ(現在はミャンマー)にいた日本の陸軍は、国境を越えてインドに進軍。
これをインパール作戦といいますが、1944年3月8日にこの作戦は開始され、7月4日まで続きました。
海軍が次々と敗北を続けるなか、陸軍は健在だということを見せつけようとしたのでしょうか。
開戦当初はその陸軍の航空隊がイギリス海軍の最新鋭の戦艦などを撃沈し、派手な「活躍」もしていましたね。
巨大な大砲を備えた戦艦の時代は終わったことを示していたのに、日本の海軍はいまだにその時代に固執。
46センチ砲の戦艦大和がその象徴ですね。

中国での戦争ですが、首都南京を占領された中国は、その後もアメリカやイギリスのさまざまな支援を受けながら日本軍に抵抗。
広い大陸ですから、ある都市を陥落させても、占領と支配はその「点」のみということになってしまいますね。
5月25日には、古代中国の王朝の首都だった洛陽を日本軍は占領したのですよ。
しかし中国の首都は山奥にある重慶。
空爆だけでは占領できませんね。
結局、最初から無理だったインパール作戦も7月4日に中止。
7月18日には東条英機内閣も総辞職。

マリアナ沖海戦で完全に制空権が失われました

陸軍がインパール作戦をしていた頃、6月15日にアメリカ軍がサイパンに上陸。
日本軍も必死で抵抗しましたが、7月7日に「玉砕」。
このときにはそこに住んでいた民間の日本人も巻き込まれて1万人も死んだのですよ。
海軍は、残る力を結集して、マリアナ沖でアメリカの艦隊と海戦。
4隻の主力空母がミッドウェー海戦で撃沈された連合艦隊ですが、その後「不沈空母」と呼ばれた大鳳を建造していたのですね。
連合艦隊は、戦艦には「大和」や「武蔵」など昔の国名、空母には「大鳳」や「飛龍」など空を飛ぶ鳥や龍の名前をつけていたのですが、「大鳳」という名前に海軍の気合いが感じられます。

しかし、その大鳳もこのマリアナ沖海戦であっけなく沈没。
翔鶴という名前の空母もこのときに沈没。
すでに制海権も制空権もアメリカ軍に奪われていたとはいえ、これで二度と立ち上がれないほどのダメージを受けたのでした。
なお、戦艦大和と武蔵のように、同型艦が建造されますが、翔鶴の同型艦は瑞鶴で、これがかろうじてまだ生き残っていましたね。

レイテ沖海戦のときにはじめて特攻が行われました

サイパン島に上陸したアメリカ軍は、さらに進撃を続け、これに抵抗した日本軍は次々に「玉砕」。
8月2日にはテニアン島、8月11日にはグアム島の日本軍が全滅したのですよ。
グアム島は現在では有名な観光地ですが、ここでそんな激しい戦闘が行われ、おびただしい犠牲者が出たことに気付く人はいるでしょうか。
9月11日にアメリカ軍はペリリュー島に上陸し、そしていよいよ10月20日、フィリピンのレイテ島に上陸。
日本としてもここだけは死守しなくてはならなかったのですね。

連合艦隊は最後の戦いに向けて、主力の栗田艦隊のほか全部で4つの艦隊に分けてレイテ島を目指したのですね。
小沢艦隊を空母機動部隊に見せかけて、アメリカの機動部隊を引きつけ、その間に本隊が敵の本拠地をたたくという作戦でしたが、小沢艦隊は成功したのに本隊はレイテ湾突入を中止。
10月23日のレイテ沖海戦は、空母瑞鶴と瑞鳳などを失って連合艦隊は敗北。
10月24日には大和と同型艦の戦艦武蔵が集中攻撃を受けて沈没。
さんざんな結果になりましたが、10月25日には、神風特別攻撃隊が初出撃。
鎌倉時代の元寇のときに吹いた神風を再現して、日本を勝利に導こうなどとは誰が考えたのでしょうか。

日本本土の空襲と戦艦大和の最期

日本本土の空襲と戦艦大和の最期

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6月16日に中国からが北九州に最初の空襲がありました。
マリアナ諸島を占領したアメリカ軍は、B-29という巨大な爆撃機によって、このマリアナ諸島から日本本土への爆撃を開始したのですね。
その後さらに本土に近い硫黄島が占領され、日本全土は空襲によって焦土と化したのですよ。
木造建築の多い日本の都市ですから、ふつうの爆弾ではなく焼夷弾という独自に開発されたものまでが登場。
そして、沖縄では民間人を巻き込む戦闘が行われ、これに投入された戦艦大和も沖縄へ向かう途中に撃沈。
次は本土決戦で「一億総玉砕」が叫ばれたのですよ。

ヤルタ会談で日ソ中立条約のことが話し合われました

ドイツ第三帝国も大日本帝国も、この時点ではもう敗北するしか道はなかったのですが、前線での戦いについて「大本営発表」という嘘の情報しか伝えられなかった日本国民は、もしかしたらまだ日本の勝利を信じていたかもしれませんね。
中国戦線では11月10日に桂林などを占領していますし、「一機一艦」という宣伝文句の神風特攻隊は、華々しい戦果をあげてまさに桜の花のように散っていったことでしょう。
なんと日本の工業力は、特攻専用のロケット機「桜花」などを生み出したのですよ。
海では「回天」などという、人間が操縦して敵艦に体当たりする人間魚雷がありました。

マリアナ諸島から日本本土へは、ふつうの爆撃機では往復することができませんね。
そこでB-29という超大型爆撃機が製造され、11月24日には東京がはじめて空襲されたのですよ。
本格的な空襲は翌年ということになりますが、1943年の御前会議で決定された絶対国防圏など、もう無に等しいものになっていたということです。
1945年1月にはソ連軍がいよいよドイツ国境に迫り、ドイツの敗北は決定的なものになっていました。
2月には、クリミア半島のヤルタに、アメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチル、それにソ連のスターリンが集まり、おもにポーランド問題が話し合われたのですが、同時に日ソ中立条約を破ってソ連が日本に参戦することが密約されたのですよ。

B-29による本土空襲と沖縄に向かう戦艦大和の最期

この頃、ルソン島では8月15日の終戦まで続く戦いが行われていましたが、2月18日には硫黄島が攻撃され、3月22日まで戦いが続いたのですよ。
ジャングルや洞窟などに隠れている日本軍を壊滅するための兵器なども開発されていました。
3月3日にはマニラが占領され、そして3月10日、東京大空襲。
東京にはあちこちに高射砲が取り付けられていたのですが、とてもそんなものでは間に合いません。
3月12日には名古屋、3月14日には大阪に大空襲。
なんと名古屋は3月25日にも大空襲を受けたのですよ。

アメリカ軍は沖縄にも上陸し、沖縄では民間人も巻き込む戦場になってしまったのですね。
ひめゆり部隊に代表されるこの戦いの悲惨さは、今も語り継がれていますね。
この沖縄戦を支援するため、4月6日に菊水作戦が発令され、日本軍の象徴とも言える戦艦大和が出撃。
しかし、4月7日にはアメリカ軍空母の艦載機による波状攻撃により大和は沈没。
沖縄での戦闘は終戦後まで続けられるとともに、日本軍は次は本土決戦をする構えを見せたのですよ。
「一億総玉砕」という言葉の意味は、もう説明する必要などありませんね。

広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えました

広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えました

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4月30日にヒトラーが自殺し、5月7日にヒトラーに後継指名されたデーニッツが無条件降伏を受け入れ、5月8日にその文書が調印されて、ヨーロッパでの戦争は終わったのですね。
それでもまだ抵抗を続ける日本に、次々とアメリカ軍は大空襲を続けました。
そしていよいよ、最後の手段として、広島と長崎に原爆を投下。
一瞬にして多数の被害者が出ましたが、その後遺症に苦しむ人は今もまだいます。

本土空襲で日本は焼け野原になってしました

4月5日にソ連は、翌年に期限が来る日ソ中立条約を継続しないことを通達。
4月12日にアメリカ大統領ルーズベルトが死んで、それで戦況が好転するかと期待もされましたが、トルーマンが大統領になっても戦況は変わらず、毎日のように空襲が繰り返されたのですよ。
5月29日には横浜、5月31日には当時日本の領土だった台北、6月19日から20にかけて静岡、7月5日には基地のある横手、7月7日には千葉、7月10日は仙台、7月12日には宇都宮、7月14日から15日にかけて函館……いちいち書き連ねるのも煩わしくなるほどですが、B-29の投下する焼夷弾は日本の木造家屋を焼失させるのに効果がありました。

7月16日にアメリカは原子爆弾の実験を成功させ、これによって、いつまでも抵抗を続ける日本を叩こうとしたのですね。
相対性理論で有名なアインシュタインも、ユダヤ人だったためにアメリカに亡命していたのですが、これを用いてこの戦争を早く終わられるべきだと大統領に進言したと言われています。
ただ、実際に使用したときの状況を見て、この進言は間違っていたと反省したそうです。
原爆はそれほど恐ろしい兵器だったのですね。

原爆投下とソ連の参戦、そして終戦へ

8月6日のお昼頃、B-29がたった1機、広島上空に飛来。
空襲にすっかり慣れていた広島市民たちは、その1機のB-29が落下傘で落とした小さな爆弾を見上げていたそうです。
現在の原爆ドームの真上でこの爆弾が炸裂。
爆心地付近にいた人は一瞬にして「影」になったということです。
8月8日には日ソ中立条約を破棄してソ連軍が宣戦布告。
満州国(現在は中国の東北地方)と朝鮮に攻めてきたのですよ。
ソ連に遅れてはなるまいとアメリカは、8月9日に長崎に原爆を投下。
こちらは原爆といっても「プルトニウム爆弾」で、広島に落としたものとはちがうタイプのものだったのですね。

7月26日にドイツの首都ベルリン近郊のポツダムで、アメリカ大統領とイギリス首相と中華民国主席の名で、日本に対して無条件降伏を呼びかけるポツダム宣言が出されていましたが、日本はそれを無視。
この宣言にソ連が入っていないのは、ソ連が参戦する前に日本を降伏させたかったのでしょうね。
長崎に原爆が投下された日の御前会議でこの宣言を受諾することが決定。
8月10日に受諾することを連合国に打電したのですが、8月14日から15日の未明にかけて空襲があったのですよ。
戦争とはそういうものなのかもしれませんが、15日の正午、天皇陛下はラジオで国民に終戦の詔(みことのり)を告げました。
しかし、降伏文書の調印は9月2日、本土の日本軍の武装解除が完了するのは10月15日。
まだまだ本当に戦争が終わったとは言えませんでしたね。

昭和天皇の「玉音放送」の日が「終戦記念日」です

昭和天皇の「玉音放送」の日が「終戦記念日」です

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1945年8月15日の「玉音放送」を日本の国民はどのような思いで聞いたのでしょうか。
「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」……新仮名遣いで書いてしまいましたが、天皇の詔勅はこの言葉で始まります。
しかし、太平洋や中国大陸に広がっていた戦争は、これでいっせいに終わるはずもありませんね。
アメリカの戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書に調印されましたが、なんと、ソ連はこれから除外。
このときにはもう東西冷戦の時代が始まっていたのですね。
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