全世界に戦火が飛んだ第二次世界大戦の歴史

1914年にオーストリアがセルビアに宣戦布告して始まった第一次世界大戦。クリスマスまでには終わると楽観的に考えられていたこの戦争はその後4年以上も続くことになり、20世紀に入って戦争は「総力戦」になったのでした。この反省から国際連盟が誕生して世界平和に向けての運動が盛んになったのですが、敗戦国ドイツでは敗戦の原因がユダヤ人による「背後からの一突き」だとされ、1933年にヒトラーが首相に任命されてから独裁体制が確立し世界大戦への道を突き進んだのでした。1939年にポーランドがドイツ軍に侵攻されて第二次世界大戦が始まりましたが、その後しばらくは戦闘のない奇妙な時間が流れたのですよ。最終的にはユダヤ人が絶滅収容所に送られたり、ドイツのおもな都市が瓦礫の山になったり、広島と長崎に原子爆弾が投下されたり……目をそむけたくなるような悲惨な爪痕を残した第二次世界大戦。どんな戦争だったのか、これからの世界平和のために検証してみることにしましょう。

ドイツ第三帝国総統ヒトラーはどんな人物だったのでしょうか

1933年1月30日に、国民社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の党首アドルフ・ヒトラーがヒンデンブルク大統領によって首相に任命されました。
この瞬間に「ドイツ第三帝国」が誕生したと考えられていますが、当時のドイツの国家元首はあくまでも大統領。
それに連立内閣だったので、この時点ではまだヒトラーに独裁者としての力が十分にあったとはいえません。
翌年に高齢だったヒンデンブルク大統領が死去。
これによってヒトラーが首相と大統領をかねた総統になったのですよ。
もちろんその間にヒトラーは、ドイツの独裁者になるための綿密な計画を実行していましたが。

ヒトラーは毒ガスで「失明」したことがあります

ヒトラーはもともとは「ドイツ人」ではなく、現在のチェコとの国境にあるオーストリアの都市ブラウナウで1889年4月20日に生まれていますから、国籍は「オーストリア人」。
この地域の中心都市であるリンツの実科学校を卒業後、オーストリア帝国の首都ウィーンに出て画家を目指したのですが、画家になるというのはそう簡単なことではありませんね。
建築家に方向転換しようとしたものの、ギムナジウムを卒業していないのでウィーン大学への入学はできません。
のちにヒトラー自身が語っていることですが、ウィーンで学んだことは反ユダヤ主義を政治に利用することでした。

その後ドイツ帝国内のバイエルン王国の首都ミュンヘンに出たヒトラーは、世界大戦の志願兵として前線に。
のちに第一次世界大戦と呼ばれるこの大戦はヨーロッパだけではなく、当時イギリスと同盟していた日本や「モンロー宣言」によってヨーロッパ情勢から身を離していたアメリカまでも巻き込んだうえ、戦車や戦闘機や潜水艦のような新しい兵器までが戦闘に使用されたのですね。
現在は使用を禁止されている毒ガスさえ用いられ、ヒトラーはそれによって目が見えなくなって野戦病院で治療を受けたのですよ。
そしてヒトラーは入院中に戦争が終結したことを知ったのでした。

ヒトラーは刑務所のなかで『わが闘争』を書きました

一時的に目が見えなくなってしまったヒトラーでしたが、そのために逆にふつうの人には見えないものが見えるようになったのでしょうか。
第一次世界大戦は予想外に長引いてしまい、まずロシア帝国が革命のために戦争続行不能になり、次にドイツ帝国が兵士の反乱のためにやはり戦争続行不能になって終わりました。
敵兵の侵入がまったくなかったのに補給が間に合わず兵士たちの反乱が起こって「敗戦」したドイツでは、「暴力団」とでも呼んでいいような半ば軍人のような人たちの集団によって不穏な空気が流れていたのですよ。
目が見えるようになったヒトラーもこのような政治団体のひとつである「ドイツ労働者党」に入党し、たちまちその党の実権を握ったのでした。

「ナチス」という言葉を聞いたことのない人はいないでしょうが、これは{ドイツ労働者党}の後継政党である「国民社会主義ドイツ労働者党」の党員たちを一般の人たちが見下していった言葉なのですよ。
イタリアでムッソリーニ率いるファシスト党がクーデターに成功したことに刺激されて、ヒトラーもミュンヘンで「一揆」を起こすのですが、これはあっさり鎮圧され、ヒトラーは5年の実刑判決を受けて服役。
その服役中に『わが闘争』を書き上げたのですが、わずか1年足らずで仮出所したときにはヒトラーはもう、一部の人たちからは「英雄」と賞賛される人物になっていました。

ヒトラー率いるナチ党は選挙で大躍進しました

ヒトラー率いるナチ党は選挙で大躍進しました

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1933年1月30日にヒンデンブルク大統領によって首相に任命されるまでの約10年間に、反ユダヤ主義を掲げるナチ党は選挙戦で大躍進。
戦争に敗れた記憶もないのに敗戦国とされヴェルサイユ条約で多額の賠償金の支払を命じられ、そのうえ軍隊までが解体されたドイツ国民の不満を、ナチ党をはじめとしていくつかの政党が吸収したのですね。
敗戦によって皇帝が退位したためにドイツはもう「帝国」ではありませんでしたが、同盟国だったオーストリア=ハンガリー二重帝国がチェコスロバキア共和国をはじめとするいくつかの後継国家に分裂したのとはちがって、領土は帝国時代とほとんど変わらなかったのですよ。

ただしこの「ほとんど」が問題ですよね。
例えばラインラントにはフランス軍が進駐していて、ドイツ領であってドイツ領ではない状態。
現在はポーランドになっているダンツィヒはドイツでもポーランドでもない自由都市。
そしてかつてプロイセン王が即位したケーニヒスベルクとその周辺は、ドイツから分離された「東プロイセン自由州」。
ワイマル憲法のもとで共和国になっていたドイツですが、ヒトラー率いるナチ党はドイツ国民の不満を集めて選挙で大躍進。
ただし、第一党になったというわけではないことに注目してくださいね。

ドイツ第三帝国は第二次世界大戦への道を突き進みました

ドイツ第三帝国は第二次世界大戦への道を突き進みました

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1932年の大統領選挙でヒトラーは第一次世界大戦のとき将軍だったヒンデンブルクに敗れましたが、そのヒンデンブルク大統領によってその翌年首相に指名されたヒトラー。
ナチ党は選挙で大躍進したとはいっても第一党ではなく、ヒトラー首相の内閣も連立内閣だったのですよ。
それがあっという間に独裁政権を確立したヒトラー。
しかもクーデターでも革命でもなく、全権委任法のような法律をつくることで合法的にやり遂げたのですから不思議ですね。

国会議事堂焼失事件によってヒトラーの独裁が始まりました

1月30日に首相に任命されたヒトラーは、2月3日にはもう「東部地域でのドイツ国民の生存圏」を公表しています。
それによって国民の人気を得る一方、2月4日には集会の自由や出版の自由などを制限。
この時点ですでにドイツの支配地域を広げるための戦争が暗示されていたのですね。
2月27日には国会議事堂が何者かによって放火される事件がありましたが、共産党員のしわざとされてそれ以後は共産党が禁止されたのですよ。
ソ連が共産党の一党支配の国家だったので、西側では共産党に対して心理的抵抗があったわけです。
その共産党のベースになっている思想であるマルクス主義の創始者カール・マルクスは、ドイツ系ユダヤ人だったのですから、反共と反ユダヤ主義の二本柱ということでしょう。

3月24日にはこれを受けて全権委任法が制定されましたが、これをナチによる独裁の始まりとする学説が有力です。
ヒトラーは演説するにあたって俳優の演技を勉強したということですが、独裁体制が確立したあとに行われた最初の外交についての演説では、なんと平和への意志を表明しています。
ヒトラーの演説はすべてが「演技」だったと考える根拠になりますね、その一方で10月14日には国際連盟を脱退したかと思うと、翌1934年1月26日にはポーランドと不戦条約を締結。
もちろん条約はいずれ破るために結ぶものという歴史の大原則がありますから、この時点でヒトラーはもうポーランド侵攻を計画していたに違いありませんね。

突撃隊を粛正して国防軍の支配権を手に入れました

突撃隊を粛正して国防軍の支配権を手に入れました

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ナチ党にはもともと軍隊に似た組織であるSA(エスアー)と呼ばれる突撃隊がありました。
すでに述べましたように第一次世界大戦後のドイツには半分は軍隊で半分は暴力団のような集団があちこちにあって、今や政権政党となったナチ党も前身はそのような集団だったのですね。
その名残がSAということですが、半分は軍隊といっても近代戦を戦えるような組織力も知識も持ち合わせていないため、ヒトラーにとってエルンスト・レームの率いるこのSAは邪魔な存在。

1934年6月30日は「長いナイフの夜」と呼ばれていますが、いくつかの罪状をあげられてレームをはじめとしてこのSAの隊員たちが粛正されたのですよ。
それは7月2日まで続いたのですが、これでナチ党内部に軍隊組織のようなものがなくなり、ドイツ国家の軍隊である国防軍に一本化。
8月2日に高齢のヒンデンブルクが死んで、国防軍は完全にヒトラー個人の指揮下に入ったのですね。
なおナチ党にはSAとは別にSSと呼ばれる親衛隊がありましたが、これはエリートたちを集めていたのでSAのように粛正されることはありませんでした。

1936年にベルリン・オリンピックが開催されました

第二次世界大戦は日独伊三国同盟と英米などの連合軍との全面戦争と総括することができますが、その内部を詳しく検証してみるとそう簡単にはまとめることのできない歴史的事実の多様さが現れてきます。
ただドイツと日本とは戦争している地域がまったく違っていために、同盟国としてともに戦うということはなかったのですが、歴史を振り返ってみると不思議な関係が見えてきますね。
満州事変のために1933年3月28日に日本は国際連盟から脱退しますが、その同じ年の10月14日にドイツも脱退。
1936年8月1日から16日までベルリンで華やかにオリンピックが開催されますが、その次の1940年のオリンピックは東京で開催されることが決定していたのですよ。

レーニ・リーフェンシュタールという女性の映画監督による『民族の祭典』という映画は、このベルリン・オリンピックを記録した映像を編集して製作されたもの。
そこではドイツ人がいかに優秀な民族であるかをアピールしようとしたのですが、意外に日本人も大活躍したから面白いですね。
世界の目をオリンピックに向けさせていた一方で、ドイツはイタリアとともにスペインの内戦に参加。
1939年まで続いたこの内戦自体がドイツやイタリアに利益をもたらすことはありませんでしたが、11月1日にムッソリーニは「ベルリン・ローマ枢軸」を宣言。
また、オリンピックが開催される少し前の3月7日には非武装地帯であったラインラントにドイツ国防軍が進駐していましたから、オリンピックはそのカモフラージュでもあったということでしょうね。

ポーランド侵攻以前に「戦争」はもう始まっていた?

ポーランド侵攻以前に「戦争」はもう始まっていた?

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第二次世界大戦は1939年9月1日にドイツ軍がポーランドに侵攻したときに始まったとされていますが、それはあくまでも戦闘が始まったということですね。
戦争は戦闘行為だけでできているものではなく、ヒトラーにとっても戦闘なくして戦利品を得ることができればそれに越したことはないわけです。
その象徴的事件とでも呼ぶべきことが1938年3月12日のオーストリア併合なのですよ。

「オーストリア併合」をドイツ語で「アンシュルス」といいます

ドイツとオーストリアとの関係についてはなかなか簡単には説明できませんが、オーストリアのウィーンは長い間神聖ローマ帝国の皇帝がいた宮廷都市でしたから、神聖ローマ帝国を広い意味で「ドイツ」と考えるとウィーンがその「ドイツ」の首都ということになりますね。
第一次世界大戦でドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー二重帝国は同盟して戦いましたが、その結果敗北してオーストリア=ハンガリー二重帝国は分裂。
そのうちで「ドイツ人」が多く居住していたオーストリア地域は、ヴェルサイユ条約以前に全会一致で「ドイツ=オーストリア共和国」の成立を宣言していたのですよ。
もちろんフランスがそれを認めるはずもなく、ドイツとオーストリアはそれぞれ別の国家のままドイツ第三帝国の時代に突入していたのでした。

オーストリア共和国でも「アウストロファシズム」と呼ばれる、ナチズムとは違う独特のファシズム政権が確立していて、ドイツのナチ党はオーストリアでは禁止されていたのですよ。
ヒトラーはもともとは「オーストリア人」であり、オーストリアはもともとは「ドイツ」だという暗黙の了解を利用して、ついに1938年3月12日に、軍をオーストリアに送ったのでした。
戦闘が起こらなかったばかりではなく、オーストリアの国民はウィーンのホーフブルクに立って演説をしたヒトラーを拍手喝采で迎えたのですよ。
これをドイツ語で「アンシュルス」といいますが、これによってオーストリアは「永久に」大ドイツ帝国の一部になったわけです。

チェコスロバキア共和国も分断されました

第一次世界大戦に「ドイツ兵」として志願したヒトラーは「ボヘミアの伍長」と呼ばれていたのですよ。
ボヘミアはほぼ現在のチェコ共和国なのですが、ここはもともとは神聖ローマ帝国の領邦のひとつであるボヘミア王国。
チェコ人が住民の大半をしめていたものの「ドイツ人」も住んでいましたし、ドイツとオーストリアの国境地帯はズデーデン地方と呼ばれ、鉱山開発のために「ズデーデン・ドイツ人」と呼ばれる人たちが住んでいました。
ヒトラーの「ドイツ民族の生存圏」構想により9月29日にこの地域をドイツ第三帝国に併合。
その法的根拠になったのが、この日にフランスとイギリスと結んだミュンヘン協定。

さらに1939年3月14日から16日にかけてチェコスロバキア共和国を分断し、チェコを本来の「ボヘミアとモラビア」に戻してドイツ領に、スロバキアを保護国にしたのですね。
また、1919年までプロイセン領だったダンツィヒ自由都市と東プロイセン自由州をドイツ領に戻す指令が出たのが1939年3月21日。
その翌日には、19世紀半ばの「ドイツ国歌」で歌われた「ドイツ」の東端であるリトアニアのメーメル川地域にまで手を広げようとする始末。
軍隊は派遣されても戦闘が起こらなかったのが不思議なくらいの情勢ですね。
ヒトラーは戦闘することなく「ドイツ民族の生存圏」をどんどん拡大したというわけです。

電撃作戦によりポーランドもフランスも征服されました

電撃作戦によりポーランドもフランスも征服されました

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第一次世界大戦で解体されたドイツ国防軍もこうして完全復活。
いつでも戦闘ができる状態になっていましたから、次はポーランド攻撃ということで、イギリスとフランスは3月31日にポーランドを防衛する取り決めを交わしました。
イタリアもドイツの領土拡大に刺激されて、4月7日から12日にかけてバルカン半島のアルバニアを占領。
5月22日にはドイツとイタリアで軍事協定が締結されたのですね。
8月24日にはドイツとソ連とのあいだで不戦条約が結ばれ、いよいよポーランドを攻撃する準備が整いました。

ポーランドはドイツとソ連とで分割されました

1939年9月1日、予想されていたとはいえこれまで戦闘なしに領土を拡大してきたドイツが、陸海空軍すべての戦力を結集してポーランドに侵入。
9月2日には念願のダンツィヒをドイツ帝国に取り込みました。
9月3日になって、ポーランド防衛の約束をしていたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告。
しかし、イギリスもフランスもドイツ軍と戦闘することはなく、ポーランドは見捨てられたわけです。
9月17日にはソ連軍がポーランド東部に侵入。
ポーランドは西からドイツ軍、東からソ連軍に攻撃されて敗戦はもう時間の問題。
9月27日から28日にかけてポーランドの首都ワルシャワは空襲を受けて破壊されたのですよ。

ポーランドは結局のところドイツとソ連が分割して占領。
これらの国は不戦条約を結んでいましたのでそれ以上の戦闘は行われませんでした。
共産主義の国家であるソ連は、レーニンのあとスターリンが独裁者になっていましたが、反共を叫ぶドイツ帝国の独裁者ヒトラーとの類似をよく指摘されています。
この時点ではそれぞれの思惑があって手を結んだわけですね。
そしてソ連はフィンランド、ドイツはノルウェーやデンマーク、オランダやベルギーに兵を進めたのですね。
ドイツ国防軍によるノルウェーとデンマークの占領は1940年4月9日に開始。
そして5月10日に国防軍はオランダとベルギーに進軍したちまちのうちに制圧。

フランスは敗北してドイツに協力する政府ができました

第一次世界大戦のときには前線が膠着状態になり、進軍ができないまま戦争が終わってしまったのですが、ヒトラーはその経験を生かしてフランスを攻撃するより前に、中立国だったオランダとベルギーを攻めたのですよ。
この作戦が成功して、6月14日には国防軍は戦わずしてパリを占領。
ヒトラーもパリを視察しています。
首都を制圧されたフランスは84歳のペタン将軍を大統領にして、6月16日にラジオ放送で終戦を宣言。
しかし、のちにフランス大統領になるシャルル・ド・ゴールがロンドンに亡命して、6月18日にドイツに抵抗することを宣言。
イギリスと協力してここにいわゆるフランスの亡命政府が誕生したわけです。

一方ドイツ国防軍に占領されたフランスには、ペタンを首班とするドイツの傀儡政権が誕生。
新政府は新しい首都の名前によって「ヴィシー政権」と名付けられました。
こうしてヨーロッパ大陸はほぼヒトラーの支配下になったのですね。
ドーバー海峡を越えてイギリス本土に攻め込むということも試みられたのですが、実戦にいたることはありませんでした。
7月から9月にかけてイギリスへの空爆が行われましたが、8月25日から26日にかけて今度は逆にイギリス空軍による最初のベルリン爆撃。
その前日にドイツ空軍がロンドンを空襲したことに対する報復ということですね。
それまでドイツ国内は「平和」なまま戦争が行われてきたのですが、この空襲によって受けた国民の精神的被害は大きかったのですよ。
ユダヤ人に黄色いバッジをつけさせて区別することが行われたのは9月1日。
国内にいるユダヤ人を「敵」にすることで国民の目をそらせようという政策でしょうね。

独ソ戦で戦況は大きく変わりました

独ソ戦で戦況は大きく変わりました

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かつてナポレオンはヨーロッパ大陸をほぼ制圧したものの、イギリスを支配下に置くことはできず、大陸封鎖を行いました。
その後モスクワ遠征を行って敗北したのですが、ヒトラーもまたナポレオンと同じことをしたのですね。
「歴史は繰り返す」ということわざそのままです。
もちろんヒトラーはこの「歴史」を知っていますから、ソ連との戦争は最初から計画していたものの、いつやるかどうやるかについて周到な計画をしていたのですよ。

日独伊三国同盟が締結され戦火はさらに広がりました

1940年9月27日に日独伊三国同盟が締結されました。
もともと防共協定を結んでいたこの3国ですが、これで国際情勢もはっきりと色分けができて、日米関係はいよいよ険悪化。
この時点ではまだ第二次世界大戦に参戦していなかったアメリカですが、イギリスとの空爆戦を続けているドイツとしては、この戦争を続行するには何か大きなチャンスがほしいところ。
ワルシャワなどにユダヤ人を収容するためのゲットーがつくられたのはちょうどこの時期でしたね。
日米開戦が始まる1941年は、イギリスはイタリアが占領していた北アフリカに攻撃の矛先を向けたことで始まりました。

イタリアの同盟国ドイツにとって、本来はソ連との戦争に全力を投入したいのになかなかそうもいかず、2月11日に有名なロンメル将軍の率いる戦車部隊がアフリカ戦線に投入されたのですね。
2月28日にはイタリア軍が戦っていたバルカン半島のブルガリアにドイツ国防軍が進軍。
戦火は拡大するばかりでした。
そんななか4月13日に日ソ中立条約が締結され、独ソ戦開戦後は日本に東からソ連を攻撃させようと考えていたヒトラーの計画が水を差される形に。
しかも、5月10日にはナチ党のナンバーツーだった副総統ルドルフ・ヘスが独断でスコットランドに飛んでイギリスとの停戦をしようとしましたが、もちろんこれは失敗。
そしていよいよモスクワへの空襲が7月21日に開始され、8月8日は逆にソ連軍によるベルリン空襲。
行方の見えない戦争になってしまいました。

「冬将軍」がヒトラーの行く手をさえぎりました

イギリスとの空爆戦に続いてソ連とも空爆戦を始めたドイツですが、結局は陸軍が敵国に攻め込んでその首都を占領しないかぎり戦争は終わりません。
1939年のポーランド、1940年のフランス、そして1941年のソ連でのヒトラーの「電撃作戦」。
空軍と陸軍とをうまく組み合わせて一気に勝利を目指したのですね。
8月23日から9月26日にかけてキエフでの戦闘でなんと66万5千人ものロシア軍兵士が捕虜になり、9月8日から始まったレニングラード占領は1944年1月18日まで続き、その間に100万人もの人たちが餓死させられたのですよ。
9月30日にはキエフで3万人のユダヤ人が虐殺されましたが、これはまだ「ユダヤ人虐殺」のほんの入口。

ナポレオンはモスクワまで軍を進めながら敗退してしまったのは、ロシアの「冬将軍」の力とも言われています。
それほどロシアの冬の寒さは厳しいということですが、ドイツ国防軍がモスクワに進軍を開始したのは10月2日。
ヒトラーは前線に送った軍隊の補給にも万全の配慮を怠らなかったし、まだ「冬将軍」の襲来には時間があったとはいえ、これがまだ7月か8月のことだったならヒトラーの電撃作戦は成功したかもしれませんが、12月5日にソ連軍の反撃を受けてついにこの作戦は失敗に終わったのでした。
アメリカ時間で12月7日には日本軍がハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まると、ドイツとイタリアは12月11日にアメリカに宣戦布告。
ついにヨーロッパ・北アフリカ・中国・インド・東南アジア・オセアニア・アメリカにまで戦火が飛び散ってしまったということになりますね。

ドイツは西と東からはさみうちにされました

ドイツは西と東からはさみうちにされました

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1942年の当初はまだ、日本もドイツも敗戦を意識していなかったでしょう。
日本は「大東亜共栄圏」を目指して東南アジア方面のイギリス軍やフランス軍と戦い戦果をあげました。
「ドイツ民族の生存圏」を求めてドイツがウクライナの油田地帯を占領しようとしたのと同じように、日本も東南アジアの油田地帯がそのねらいのひとつだったのですね。
しかし、6月3日から7日にかけてのミッドウェー海戦で敗北した日本は、拡大しすぎた占領地域から後退していったのですが、ドイツも同じような状況になりました。

スターリングラードの攻防戦でドイツ軍は全滅しました

「絨毯爆撃」という言葉をご存じですか。
爆弾を爆撃機からバラバラに落とすのではなく、絨毯を織り上げるように爆弾をキチンと並べて落としていく攻撃ですね。
そうすると、爆撃によって都市が少しずつ完全に破壊されていくのですよ。
その爆撃が決定されたが1942年2月14日。
3月28日に港町リューベックがこの爆撃をされてから、ドイツのおもな都市は1945年の敗戦までに瓦礫の山となったのでした。
もっともその攻撃をするにはばく大な量の爆弾が必要ですから、この作戦をするにあたってアメリカの果たした役割は大きかったことでしょう。

ソ連との戦いをしている東部戦線でも、「冬将軍」の襲来をなんとかもちこたえたあと、次の年にまた総力戦となりました。
モスクワ占領はかないませんでしたが、そのかわりヒトラーはソ連の独裁者であるスターリンの名前をとったスターリングラードに全力を傾けたのですね。
9月13日に、その後5ヶ月におよぶスターリングラードの攻防戦が開始されましたが、やはり開戦が遅すぎましたね。
5ヶ月後ということはつまり1943年2月2日、「冬将軍」が猛威をふるうなかドイツの第六軍は全滅。
13万人ものドイツ兵とルーマニア兵が捕虜になったのでした。
なお、あまり取り上げられることはありませんが、ルーマニアもドイツの同盟国だったのですよ。

ついにイタリアはこの戦争から脱落してしまいました

東部戦線でドイツ軍が敗退しはじめたとき、西部戦線ではアメリカ軍がイギリス軍とともに上陸作戦を開始。
まずは11月8日から11日には、モロッコのカサブランカやアルジェリアのアルジェなどに上陸。
それに対してドイツ国防軍は南フランスとチュニジアを占領しましたが、戦況はもちろん連合軍が優位。
その翌年の1943年にはカサブランカで連合軍が会議をして、ドイツとイタリアと日本を徹底的に攻撃することが取り決められたのですね。
1月27日にはついにアメリカ空軍がドイツを爆撃。
それでもなお、2月18日には宣伝大臣ゲッベルスが「総力戦」を叫んでドイツ国民に戦争継続を訴えたのですよ。

5月13日にはアフリカのドイツ軍とイタリア軍が壊滅し、兵士たちは捕虜になってしまいました。
5月24日には海軍提督デーニッツが大西洋での海戦に敗れて、これでドイツに海戦をする力はなくなってしまったのですね。
7月10日はイギリス軍とアメリカ軍がシチリア島に上陸。
さらに7月24日にはドイツ最大の港町ハンブルクが激しい空爆をされて、なんと4万人の住民が焼け死んだのですよ。
9月3日にはイタリアが西側の連合国と休戦条約に調印。
ヨーロッパでの戦争でドイツはついに孤立してしまいましたね。
なおこのデーニッツはヒトラーが自殺したあと後継総統になって、無条件降伏に調印したのですよ。

ヒトラーは最後まで戦えと叫びました

ここまでくると日本にもドイツにも、この戦争で勝利する望みはまったく失われてしまいました。
日本が「一億総玉砕」と叫んだように、ドイツでもヒトラーは最後まで戦い、捕虜になるよりは死を選べと叫んだのですね。
そればかりか、軍が退却するときにはドイツの都市を破壊することまで指示したのでした。
どちらかというと綿密に作戦計画を立てていたように思われたヒトラーも、「狂信者」としか言いようがなくなってしまいましたね。

ノルマンディー上陸作戦でアメリカ軍はドイツに迫りました

7月25日にイタリアの総統を追われていたムッソリーニをヒトラーは救い出し、9月12日には「ファシズム共和国」の建国を宣言させたのですが、もちろん何の実体もないものですね。
11月6日には「赤軍」と呼ばれたソ連軍がキエフを奪還。
12月1日にはソ連のスターリンとアメリカのルーズベルト大統領、それにイギリスのチャーチル首相がテヘランで会談して、戦後のドイツ分割のことを話し合ったのですよ。
戦後は「冷戦」状態になる英米とソ連は、この時点ではまだヒトラーのドイツという共通の敵がいたということです。

1944年になると、もう日本もドイツも「敗色が濃くなった」という表現そのものの状態になっていました。
あっさり降伏したイタリアとちがって、ドイツも日本も無条件降伏までにはまだ少し時間がかかりましたね。
2月23日には東京大空襲が行われ、日本もドイツと同じように焦土と化すことになります。
6月4日にはローマが「解放」されますが、イタリアが降伏したあとドイツ軍がイタリアを占領していたということです。
これからヨーロッパの都市は次々に「解放」されることになります。
そしていよいよ6月6日、連合軍はノルマンディーに上陸。
いよいよドイツ本国は西側の連合軍の射程距離になったわけです。

ヒトラーが地下壕で自殺してようやく戦争が終わりました

最後の一兵まで戦えと宣言したドイツ第三帝国の総統ヒトラー。
ここまできてもなお、「最終兵器」の存在をアピールして、この戦争を一発逆転すると言っていたのですよ。
その「最終兵器」ではなかったえでしょうが、V1と名付けられたロケットでロンドンを攻撃したのが6月12日。
第二次世界大戦後の「冷戦」で設置された大陸間弾道ミサイルのルーツがここにあったのですね。
もちろん戦況はそんなことで変わるはずもなく、ドイツは西から連合軍、東から赤軍に迫られるとともに、パルチザンと呼ばれた民兵の抵抗まで受けました。
7月20日には、ヒトラーがいるかぎりこの戦争の終結はないと判断したドイツ軍の参謀たちにより「ヒトラー暗殺未遂事件」までが起こったのですが、なぜか神はヒトラーをまだこの世にとどめたのでした。

8月1日にはワルシャワ蜂起、8月25日にはパリ解放があり、10月21日にはアーヘンが連合軍によって占領されてしまいました。
アーヘンはフランク王カール大帝の宮廷があったドイツの都市で、これを最初に占領した連合軍にはもちろん歴史認識があったわけです。
1945年になって、1月17日にはワルシャワが解放され、2月4日から11日にかけて有名なヤルタ会談が行われましたね。
あとは、ベルリンに連合軍か赤軍のどちらが前にたどり着くかが問題ですね。
この時点ではもう、西側と東側とで微妙な争いの空気がありましたから。
ヒトラーもそれに期待したのですが、4月30日に赤軍よってベルリン中心部が占領されたとき、ヒトラーは愛人のエーファ・ブラウンと自殺。
5月8日にようやくヨーロッパでの戦争が終わったのでした。

「戦争」はこれで終わったわけではない?

ヒトラーがなぜドイツ第三帝国の総統になり世界中を戦争に巻き込んだのか、少し考えただけでも謎だらけです。
「ユダヤ人問題の最終解決」を提唱しある程度それを実行した第三帝国。
ヒトラーが自殺してようやくこの戦争は終わりましたが、米英仏とソ連の4カ国に分割占領されたドイツはその後西ドイツと東ドイツに分裂し、東西冷戦の象徴的存在になりました。
その冷戦時代に第三次世界大戦のことが何度も話題になりましたが、もう戦争はいけませんね。
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