明治の新政府を生む苦しみでもあった「戊辰戦争」の歴史

幕末、勤皇派と佐幕派とに分かれてあちこちで争いが起こりましたが、徳川慶喜(よしのぶ)が幕府の将軍になったとき、政権を朝廷にお返しするという大政奉還をしたのです。これで「明治維新」になったのかというと、そもそも明治新政府の構想などないも同然の状態だったので、必然的に旧幕府の勢力と、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府の勢力との戦いに発展。これを戊辰戦争と呼んでいますが、どんな戦争だったのか、そしてどのような形で戦争が終結したのでしょうか。

大政奉還がすべての始まりでした

1866(慶応2)年12月5日に征夷大将軍となった徳川慶喜は、翌年の1867(慶応3)年10月14日に大政奉還をして、12月9日には将軍職を辞職。
徳川家最後の将軍は在位わずかに1年でした。
日本史の教科書ではこの年を「明治維新」とするのですが、この時点ではまだ何をどうするのか何も決まっていない状態で、まもなく旧幕府軍と新政府軍との戦いが起こりましたね。
その原因はどこにあったのでしょうか。

徳川慶喜のねらいはどこにあったのでしょうか?

徳川慶喜のねらいはどこにあったのでしょうか?

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たった1年間の将軍でしたが、徳川慶喜にはいろいろ考えがあったようです。
慶喜はもともとは徳川将軍家ではなく、水戸徳川家に生まれたのですよ。
尾張と紀伊と水戸の徳川家が御三家。
将軍家に跡継ぎがいなくなったときにはこの御三家から次の将軍を選ぶというシステムを、家康が作っていたのですね。
水戸の徳川家は、水戸黄門として有名な水戸光圀以来「副将軍」という地位にあったため、将軍を出すことはありませんでした。
慶喜はその水戸徳川家9代目の徳川斉昭の7男。
どう考えても将軍になれる順位ではありませんね。

8代将軍吉宗のときに、この御三家よりも将軍継承順位が上位の田安家と一橋家が生まれ、その後清水家を加えて御三卿ができました、慶喜はこの一橋家を継ぐことになり、一気に将軍になる可能性が高くなったのですね。
14代将軍家茂(いえもち)が1866(慶応2)年8月29日に20歳の若さで、しかも江戸城ではなく大坂城で死去。
「公武合体」の象徴として皇女和宮(かずのみや)と結婚した家茂でしたが、徳川幕府はもう風前の灯火。
とはいえ、たとえ倒幕が行われたとして、その後の政治体制はどうするのか。
薩摩藩と長州藩が手を組んだとはいえ、もとは敵でしたから、いつまた元に戻るかわかれませんね。
なれるはずもなかった将軍になった慶喜には、大政奉還することによって幕府に反抗する諸藩を試してやろうという下心があったようですね。

慶喜はフランス式の歩兵部隊をつくりました

慶喜は結果としてはたった1年しか将軍職に就かなかったのですが、大政奉還によって幕府から政治の実権が失われるとは考えていなかったようです。
むしろ、幕藩体制を根本的に見直して日本をひとつの統一された国家にしようとしたのですね。
そうしないかぎり、諸外国との関係を円滑に行うことができません。
長州藩や薩摩藩がかつてそれぞれ単独で諸外国と戦争をしたことがありますが、それではもうやっていけないのが明確になっていたのですよ。
長州藩や薩摩藩もそれがわかったからこそ同盟をして、倒幕を目指していたのですから。

フランスはルイ14世の絶対王政の時代から中央集権化が進んでいて、フランス革命で王政が倒れ、その後共和制から帝政になっても国家としての統一性は保たれていました。
それに比べると、日本の幕藩体制は幕府の力が弱くなるのに反比例して諸藩の独立性が強くなっていましたね。
慶喜は1866(慶応2)年8月に打ち出した方針によって、幕府の兵制改革をフランスから学ぶことにしたのですね。
翌年1月にフランスから陸軍教官を呼び寄せて、「フランス伝習兵」という部隊を創設。
この部隊にはシャスポー銃という最新式のフランス製の銃を装備させたのですよ。

王政復古のクーデターが起こりました

王政復古のクーデターが起こりました

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大政奉還によって日本の政府を刷新し、新政府の中心に自分がいるはずだともくろんでいた慶喜。
倒幕派の力を結集してその力でもって幕府を倒そうとしていた動きが、大政奉還によって急ブレーキをかけられた形になったわけです。
歴史を学んでいてよく出てくるパターンが、共通の「敵」を倒すために本来は相反するさまざまな「力」が結集するというものですね。
その「敵」を倒したあとは、もともと統一性のないそれらの「力」が分裂し、内乱状態が続くこともよくありますね。

倒幕派の「力」の結集をそらすことに成功した慶喜でしたが、このままでは倒幕どころか、慶喜が主導する新政府ができあがってしまうと恐れた薩摩藩は、越前藩・尾張藩・土佐藩・安芸藩とともに、12月9日にクーデターを起こし朝廷の力を握って王政復古の大号令を出したのですね。
この日に慶喜が将軍職を解任されたわけです。
禁門の変のあと謹慎していた長州藩も復権。
ともかく新政府は旧幕府の勢力の排除には成功したということになります。
しかし年号はまだ「慶応」なので、これをまだ明治新政府と呼ぶことはできませんね。

鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は敗北しました

「とば口」という言葉を知っていますか。
物事の手始めというような意味なのですが、この言葉の語源は、京都と大坂(現在は大阪です)とのあいだの鳥羽街道の出入口からきているのですよ。
京都は894年に桓武天皇が造った平安京から始まりましたが、都を造るときにはその都を囲む山や川の配置も大事なことです。
周囲を山に囲まれた京都は、琵琶湖を水源とする淀川が大坂への通路なのですね。
この淀川に沿って鳥羽街道が通っているのですが、大坂から京都への入口かつ京都から大坂への出口がまさに「とば口」というわけです。
そしてこの「とば口」での戦いがまさに戊辰戦争の発端ということになります。

慶喜は二条城から大坂城に移りました

慶喜は二条城から大坂城に移りました

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クーデターはおもに薩摩藩の西郷隆盛率いる薩摩藩兵3千人が起こしました。
たちまち御所は制圧され、摂政・関白や征夷大将軍などの平安時代以来の官職はすべて廃止。
総裁・議定・参与という、それまで聞いたこともない役職が生まれたのですよ。
総裁には有栖川熾仁(たるひと)親王が選ばれ、尾張藩主の徳川慶勝(よしかつ)は議定に入ったものの、慶喜はこの新政府の人事からははずされたのですね。
慶喜はこのとき二条城にいたのですが、この知らせを聞いて激怒する幕臣たちをなだめる側に回るほかありませんでした。

このままでは京都で内戦が起こるかもしれず、そうなったら、慶喜は天皇に逆らったということで「朝敵」の汚名を着せられるかもしれませんね。
それだけはどうしても避けたい慶喜は、二条城を退去して大坂城に下ったのですよ。
そこでしばらく様子を見ようということですね。
12月16日に慶喜は大坂城でイギリスやフランスなど6カ国の代表と会っていますから、いずれは自分に政権が戻ってくると考えていたのでしょうね。
実際、総裁・議定・参与の「三職会議」は二転三転。
慶喜の狙い通りということですね。

江戸の薩摩藩邸が攻撃されました

クーデターで生まれた三職会議のメンバーは寄せ集めですから、話し合いで解決するのは難しいのは当たり前かもしれませんね。
こんなとき、かつての倒幕の密勅のような共通の「敵」の存在が必要になってきます。
それはもちろん旧幕府ということになりますね。
慶喜が大坂城でじっとことの成り行きを見守っていた頃、西郷隆盛の密命を受けた浪士隊が江戸の町を荒らし回っていました。
浪士隊というのはまさに盗賊のようなもの。
捕まりそうになったら江戸の薩摩藩邸に逃げ込む始末。

勤王倒幕の旗を掲げて暴れ回ったり、庄内藩の警備屯所に銃弾を打ち込んだり、その乱暴狼藉はどんどんエスカレート。
そしてついに12月23日、江戸城二の丸が火事になったのでした。
庄内藩を中心にして江戸を警備するいくつかの藩が、江戸の薩摩藩邸を攻撃する勢いになったのでした。
将軍不在の江戸では、主戦派の勘定奉行小栗上野介がこれを後押しして、12月25日に薩摩藩邸を攻撃。
戦いは市街戦になり、多数の死傷者も出たのですよ。
こうして、幕府側からの攻撃で戦争は始まったのでした。

旧幕府軍は大坂城から京を目指しました

旧幕府軍は大坂城から京を目指しました

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翌年1868年は慶応から明治に改元され慶応4年から明治元年になりましたが、その元旦、慶喜は薩摩を討伐する命令を出したのですね。
旧幕府軍にとって、敵はあくまでも薩摩藩であって、朝廷ではないということになります、浪士を使って江戸でさんざん悪事を働いた薩摩藩こそが諸悪の根源。
だから成敗するということにしたかったのですね。
あくまでも「朝敵」にはならず、新政府から薩摩藩を排除して新しい新政府をつくる、まあそういう戦略。

旧幕府軍にはフランスから輸入した最新式のシャスポー銃があり、兵力も1万5人。
薩摩藩を中心とする新政府軍に数のうえでは勝っていますね。
1月2日に大坂城を出た旧幕府軍は、1月3日には京都を制圧できるものと確信していたのですよ。
その京都の入口が「とば口」。
薩摩と長州との連合軍であね薩長軍は、鳥羽と伏見に軍勢を進めていました。
大坂から淀川をさかのぼっていったところに、かつて豊臣秀吉(そのときは羽柴秀吉)と明智光秀が戦った天王山があり、そのあたりで淀川は桂川と宇治川に別れます。
鳥羽は桂川、伏見は宇治川の沿岸にあります。

ついに両軍が戦火を交えました

ついに両軍が戦火を交えました

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朝廷では岩倉具視が最高権力者として采配を振るっていたのですが、この時点では徳川慶喜が新政府の要求を受け入れさえすれば慶喜を議定にしてもいいと考えていたようです。
岩倉具視は公家ですから、なるべく穏便な解決がしたかったのでしょうね。
このとき、西郷隆盛と並び称される薩摩の大久保利通が岩倉具視の考えに反対。
あくまでも旧幕府軍との戦争を遂行し、「勤王無二の藩」として薩長が「官軍」、旧幕府軍が「賊軍」という位置づけにしたのでした。

1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まりました。
新政府軍とはいっても、ほとんどが薩摩藩と長州藩の兵士たち。
戦力からいっても旧幕府軍が敗北するなどとは、誰も予想していなかったのですね。
戦闘の勝敗を決める要素としては、兵員の数と銃や大砲などの装備のほかに、兵士たちの士気がおおいに関係してきます。
旧幕府軍はここで負けるはずなどないという安心感があり、それがいけなかったのかもしれませんね。
薩摩の大砲の威力も大きいものでした。
まさかの敗北の知らせを受けた大坂城の幕臣たちのショックはどれほどのものだったでしょうか。

江戸では彰義隊の戦いがありました

「官軍」の象徴である錦の御旗を掲げて、東征軍が江戸に向かいました。
もしも慶喜が、新政府と全面対決する覚悟であれば、大坂城で薩長軍を迎え撃ったことでしょう。
淀城は豊臣秀吉が淀君のために造った城。
その淀君は秀吉の子供である秀頼を生みましたが、大坂夏の陣のとき、大坂城で淀君も秀頼も自害。
徳川家康が大坂城で豊臣氏を滅ぼしたのですが、今度は徳川慶喜がその大坂城から逃亡して、江戸幕府は完全に滅亡したのですね。
歴史の深い因縁を感じてしまいますね。

西郷隆盛と勝海舟は江戸の無血開城を相談しました

西郷隆盛と勝海舟は江戸の無血開城を相談しました

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大坂城での決戦を避けて江戸城に逃げ帰った慶喜ですから、今度は江戸城に立てこもって新政府軍と戦おうなどとは考えていませんでしたね。
「朝敵」の汚名を着せられた今、どうすればその汚名を返上できるか、そのことを必死で考えたに違いありません。
また、この戦争に諸外国も関わっていたことを忘れてはなりません。
1月12日に慶喜は江戸城に戻ったのですが、その翌日にはフランスの公使ロッシュが各国の代表者に徳川政権を支持する内容の書面を出しています。
幕府の老中小笠原長行(ながみち)もイギリスの公使パークスに、徳川政権の正統性を訴える書面を送付。

諸外国の助けを借りてまでその地位を守ろうとした幕府ですが、2月6日にはその諸外国は、この戦争でどちらにも武器を貸さないと決定。
外国の力を頼ることはできなくなってしまったのですね。
東征軍は着々と江戸に迫り、3月6日には江戸を全面攻撃する日を3月15日と決定。
しかし新政府軍の西郷隆盛はこの決戦を避けるべきだと考えて、3月13日に江戸の薩摩藩邸で幕府の勝海舟と会見。
このときに江戸の無血開城と慶喜に対する処分が話し合われました。
4月11日に江戸城は新政府軍に明け渡され、謹慎していた慶喜は「賊軍」として処刑されることはなく、もともとの出身地である水戸に隠遁したのでした。

上野で彰義隊が政府軍と戦いました

予定されていた江戸城総攻撃の前日に五ヶ条の御誓文が発布され、新政府もどうにかその形が整ってきたのですね。
しかし、鳥羽伏見の戦いでは負けたものの、旧幕府にはまだかなりの戦力が残されていました。
総大将の慶喜が弱腰だったから負けたと心のなかで考えていた者も多かったことでしょう。
江戸を政府軍から守るために2月23日に結成されていた彰義隊は、文字通り行き場をなくしてしまったと言えるでしょう。

4月29日に徳川家は御三卿の田安亀之助が相続すると決められて、存続することがはっきりしたものの、その待遇などの詳細は明らかになっていませんでした。
新政府のやり方に不満をもつ旧幕臣たちのなかには、上野の丘に集まっていた彰義隊に加わる者もいて、その数は4千人に達していたのですよ。
これをこのままにしておくわけにはいかず、のちに明治新政府の軍の最高司令官になる大村益次郎が、5月15日にこれを攻撃。
彰義隊はたった1日で壊滅したのですね。

東北列藩同盟が政府と戦いました

東北列藩同盟が政府と戦いました

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戊辰戦争はこれで終わったわけではありません。
1月17日にすでに会津藩に対する追討令が仙台藩に対して出されていましたから、戊辰戦争の舞台は東北に移ることになりました。
また、旧幕府軍も江戸開城が行われた4月11日に、大鳥圭介が陸軍を、榎本武揚が海軍を率いて江戸を脱出。
戊辰戦争はいったいどこに向かっていくのでしょうか。

会津藩と庄内藩が同盟しました

2月22日に会津藩主松平容保は江戸を離れて、会津に戻りました。
そこで、藩士一同に、何があっても新政府軍には徹底的に抗戦することを告げ、藩士を年齢によって4つの部隊に分けたのですね。
有名な白虎隊は16歳から17歳でいちばん若い藩士の隊でした。
玄武隊は50歳以上、青竜隊は36歳から49歳、朱雀隊は18歳から35歳。
なお、この隊の名前は陰陽五行からとっていて、北に玄武、東に青竜、南に朱雀、西に白虎と四方を守る伝説上の動物が配置されていたのですね。

追討令の対象として会津藩のほかに庄内藩も入っていたので、4月10日にこの両藩は同盟を締結。
これを中核として東北地方の諸藩を奥羽列藩同盟に入れることを画策。
もちろんこの両藩の計画通り奥羽列藩同盟が成立したのではないのですが、閏4月22日に奥羽の25藩の家老が白石に集まり、「白石盟約書」に署名。
旧暦では閏月があり、閏4月というのは5月と考えていいでしょう。
この盟約書と並行して「奥羽同盟列藩軍議書」起草され、新政府軍に対してどう戦うかが、そのアウトラインが決定されたのですね。

新政府軍は北越に軍を進めました

東北地方を攻めるには、白河の関を越えていくのがふつうのルートなのですが、ここはすでに会津軍によって押さえられていて、新政府軍は会津を攻めるのに別のルートをとったのですね。
それが越後方面から会津に入っていくルート。
薩摩藩士の黒田了介(のちに清隆)と長州藩士の山形狂介(のちに有朋)を参謀にして、新政府軍は越後に向かったのですよ。
越後の長岡藩は幕府の有力な旗本牧野家の領国。
まだ若かった藩主牧野忠訓(ただくに)をリードしていたのが河井継之助。

文字通り江戸に「遊学」していた河井継之助は、逆にそこからいろいろなことを学び、江戸の長岡藩藩邸を売却した金で、大砲や銃それにガットリング速射砲などを買って長岡に送ったのですね。
それは、新政府軍にも旧幕府軍にも属さない独立国としての長岡藩をつくるため。
たしかにヨーロッパには、バチカン市国をはじめいくつかの小さな国家がありますね。
河井継之助は新しい日本にそういう国家があってもいいではないかと夢を描いたのですね。
その結果、新政府軍と激しい戦闘が起こってしまい、新政府軍に占領された長岡城の奪還に成功したものの、ふたたび長岡城を占領されたあと、8月16日に河井継之助は戦死。

会津藩の抵抗もむなしく東北地方は平定されました

会津藩の抵抗もむなしく東北地方は平定されました

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戊辰戦争で最大の激戦は、河井継之助が戦ったこの北越戦争ですね。
長岡藩は「中立」を主張しましたが、もちろん奥羽列藩同盟も長岡藩とともに新政府軍と戦ったのですが、結局は敗北。
江戸が東京に改称されたのは、この戦争中の7月17日で、この東京に鎮守府がおかれ、三条実美(さねとみ)が鎮将に任命されたのですね。
北越戦争で長岡藩と奥羽列藩同盟の諸藩を破った新政府軍は、いよいよ最後の敵である会津藩に向かったのですよ。

奥羽列藩同盟の諸藩は次々に攻略されました

奥羽列藩同盟には、小さな藩が多数あって、同盟軍としての統一をどうすればいいかは大問題でしたね。
新政府がもともとは、薩摩や長州や土佐や肥前などいくつもの藩のバラバラな集合体にすぎなかったのですが、それよりもっとバラバラといっていいかもしれませんね。
もともとは仙台藩の主導で成立した奥羽列藩同盟でしたが、白石にその中心が移ったことは、仙台藩の力が失われたことを示しています。
そして、旧幕臣がこの同盟に加わることで、幕府の残党が新政府軍と戦うという構図が見えてきますね。

7月13日、浜街道(福島県の海側の道)の平城が陥落。
これで新政府軍は仙台まで楽に進軍することができるようになりましたね。
7月27日には三春藩が降伏。
7月29日には二本松城が陥落。
これで会津を挟み撃ちにすることができるようになったのですよ。
福島県の名前になっている福島藩は当時はわずか3万石の小大名で、二本松藩敗北の知らせを聞いて藩主は米沢藩に逃亡。
奥羽列藩同盟の盟主とされていた仙台藩の藩士たちは戦線を離脱。
8月4日には最後まで抵抗を続けていた中村藩も降伏。
こうして会津侵攻の準備が整ったのですね。

会津の白虎隊の悲劇は今も語り継がれています

会津の白虎隊の悲劇は今も語り継がれています

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8月は現在の太陽暦ではまだ夏真っ盛りですが、ここで用いているのは陰暦ですから、8月はちょうど仲秋。
東北地方のことですから、冬になると雪が降ったり北風が吹いたりして、戦争を続けることは難しくなりますね。
8月20日というと仲秋の名月の5日後ということになりますが、新政府軍は二本松から猪苗代に向かい、ほとんど何の抵抗も受けないまま猪苗代城を占領。
会津軍は橋を破壊して敵軍の侵攻を止めようとしたのですが、間に合わなかったのですね。

23日には、藩主松平容保が本営をおいていた戸ノ口原を突破。
会津藩の中心都市である若松に襲いかかったのですね。
若松城の城下町は火災にあいましたが、白虎隊の悲劇は、この火災を見て若松城が落城したと思い、切腹して死んだことによります。
二本松からわずか3日で若松まで迫ってきた新政府軍は、これまでの戦いでもう「場慣れ」していたということですね。
一方会津藩は上越から政府軍が攻めてくるものと考えて、そちらに兵力をさいていたのも大きな敗因です。
それに、兵力にあまりにも差がありすぎましたね。
ただ会津軍も健闘し、若松城自体が落城するのはこの1ヶ月後だったのですよ。

庄内藩と南部藩が降伏して東北戦争は終わりました

9月15日仙台藩は降伏しますが、その前日から政府軍は若松城を砲撃。
17日には政府軍に完全に包囲され、若松城は孤立してしまったのですね。
こうなるともう籠城戦もできませんね。
9月20日降伏を催促する書状が若松城に届けられ、21日に藩主松平容保はこれに従って若松城を開城することを藩士に告げたのでした。
22日に大手門に白旗が掲げられたのですが、これが降伏のしるしになったのですよ。
家老は責任を取って切腹しましたが、藩主容保はその後も長らく生き続けることに。
「朝敵」であったはずなのに処刑されなかったというのは、どこか日本的な処遇かもしれませんね。

事実上はこれで東北戦争は終わったのですが、奥羽列藩同盟の核だった庄内藩はその翌日の9月23日に降伏を申し出ました。
26日に旧幕府の兵と桑名藩の兵は鶴岡城内から追放され、27日に西郷隆盛が鶴岡城に入って庄内藩の降伏が認められたのですね。
南部藩は久保田藩と戦っていたのですが、これを受けて、9月25日に南部藩主は降伏を申し出たのですね。
しかしそれが認められたのは10月11日。
政府軍としては戦後処理の問題など、手をつけるべき課題を探っていたのでしょう。

箱館戦争で戊辰戦争は終わりました

箱館戦争で戊辰戦争は終わりました

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明治の新政府に逆らう藩はこうしてすべて降伏したのですが、その戦争に参加していた旧幕臣などはどうしたのでしょうか。
1868(明治元)年8月19日の真夜中に、榎本武揚の率いる旧幕府軍の軍艦8隻が品川沖を出たのですね。
途中暴風雨にあって、無事に松島湾に入稿できたのは5隻。
このときはまだ東北戦争が行われていたのですが、榎本武揚は蝦夷地の開拓を嘆願。
ここを徳川家の領地にしようとしたのですね。
戦争の舞台はとうとう北海道の函館(当時は箱館)に移ったのでした。

蝦夷地に新天地をつくろうとしました

東北戦争が終わった翌日の10月12日、榎本武揚はこの戦争で戦った者たちも載せて松島湾を出港。
目指すのは蝦夷地でした。
このなかには、旧幕府の老中板倉勝静と小笠原長行、東北戦争を戦った大鳥圭介や新撰組副長土方歳三なども含まれていたのですよ。
品川沖を出たときには2千名程度だったのに、総勢2千数百名になっていました。
10月20日には蝦夷地の鷲ノ木に到着。
旧暦10月は冬の初めなので、北海道は一面の銀世界。
土方歳三は別働隊を率いて箱館を目指し、25日にはたいした抵抗もなしに箱館を占領。
榎本の艦隊も間もなく到着し、11月1日には旗艦開陽が祝砲を鳴らしたのですね。

箱館には五稜郭という五角形をした洋式の城郭があり、ここが旧幕府軍の根拠地になりました。
蝦夷地には江戸時代から松前藩がありましたが、土方歳三は松前に進軍。
11月5日には松前城を陥落させ、15日には江差も占領。
この時代の蝦夷地はこのあたりまでが日本の支配地で、あとは「未開」の地だったのですよ。
あっさりと蝦夷地は平定できたものの、旗艦開陽は江差港内の弁天島で暴風雨にあって大破。
前途の多難さを象徴していますね。

独立国を建国する夢ははかなく消えました

長岡藩の河井継之助は長岡藩を小さな独立国にする夢のために戦いましたが、蝦夷地こそまさにその独立国にはピッタリの土地ですね。
独立国箱館が諸外国によって認められさえすれば、まだまだ広大な未開拓の土地が残されている北海道、独立国として栄えるのは叶わない夢ではありませんね。
11月8日に榎本武揚は、箱館でイギリスとフランスの領事に面会しています。
明治新政府としては困った問題ですが、12月5日には、榎本武揚を総裁とする蝦夷政権が成立。
夢が叶ったかに見えた瞬間ですね。

しかし、明治政府は6カ国の公使に対して何度も局外中立撤廃を要請。
とうとう12月27日にはそれが実現し、政府軍は蝦夷政権を打倒することができるようになったのですね。
冬のあいだは戦争ができないので、年が明けて1869(明治2)年3月9日、政府軍の艦隊が品川沖を出帆。
4月9日には蝦夷地に上陸し、17日には松前を攻略。
5月1日にはこれまで榎本といっしょにいたフランス人のブリュネは箱館を脱出。
5月11日に政府軍が箱館を占領したのですが、土方歳三はこのとき戦死。
そして5月18日に榎本武揚が降伏して箱館戦争が終わり、戊辰戦争も終わったのでした。

戊辰戦争によって明治新政府の基礎ができました

世界の歴史を眺めてみると、あちこちで内戦が起こっています。
内戦は同じ国の人たちが戦うので、たいていは悲惨の極みです。
戊辰戦争でも兵士ばかりではなく一般住民にも被害者が出る内戦だったのですが、「昨日の敵は今日の友」ということわざのように、榎本武揚をはじめ降伏した人たちの多くは処刑されずに新政府でも活躍したのですね。
大政奉還のときと比べると明治の新政府はわずかな期間に急成長を遂げたのでした。
箱館戦争の直前の1月23日に版籍奉還があったのもなにか象徴的ですね。
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