平安時代にタイムスリップ!観光の前に知りたい「京都御所」の見どころと歴史

今上天皇の生前退位が話し合われていますね。
私たちは歴代天皇のお暮らしや歴史についてどれだけ知っていますでしょうか。
それを知るのにぴったりなのが京都御所になります。
以前は春と秋だけの一般公開で応募制でしたが、現在はいつでも御所に入ることができるようになりました。
本や漫画でしか知ることができなかった平安時代の建物やしきたりなどを目の前で感じることができます。大きな御殿が立ち並ぶ御所に当時の天皇の力を感じずにはいられません。
今回は京都御所の御殿やお庭をとおして、平安時代の天皇の暮らしぶりや歴史が動いた幕末の舞台をご案内していきます。

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鳴くよ鴬、平安京

桓武天皇の遷都の思惑

桓武天皇の遷都の思惑

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天皇のお住まいである京都御所は、桓武天皇が奈良の平城京から、長岡京を経て794年に平安京を拓き遷都したときからはじまりました。

奈良の平城京では天智天皇系の皇族と天武天皇系の皇族を中心に物部氏や蘇我氏などの有力貴族が対立していました。
そこに仏教の勢力である僧が政治に介入することで混乱していました。

それらの勢力を削ぎ、政敵を断ち切るために決断されたのが遷都でした。

長岡京での失敗と怨念を避けるため、桓武天皇が次に都として選んだのが山背の国の京都です。

北を山で囲われ、賀茂川と桂川で結界をはることができると風水に合わせて決められました。
桓武天皇は将軍塚から京都の街を見下ろしその自然の豊かさと水の多さから遷都を決めたといわれます。

平安京は南北約5.3キロ、東西約4.5キロの長方形で、中央の朱雀大路(現在の千本通り)により、東の左京と西の右京に分けられ、大小の道で碁盤の目のように区画されていました。
当時の大内裏の場所は現在の京都御所よりも東側にありました。

火事などで焼失している間、天皇は別の建物や公家の家に滞在して政務を行いました。
このような正式な内裏以外の場所を里内裏(さとだいり)と呼びます。

火事と戦争による焼失

火事と戦争による焼失

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里内裏は内裏を立て直している臨時の内裏でしたが、何度も火事にあうため、次第に里内裏が正式な内裏となっていきました。

鎌倉時代になると天皇の力は弱まり、焼失のたびに立て直すことができなくなってきていたこともその要因になります。

鎌倉時代の末期になると京都で少しずつ戦争が行われるようになります。
火事だけでなく戦火によっても失われる機会が増えたのです。

南北朝時代に足利尊氏の擁立で天皇になった光厳天皇が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)が現在の京都御所の場所として定着します。

明治に天皇が東京へ行くまでの約500年の間、その場所で御所として京都と日本の歴史を見てきました。

京都では「先の大戦」といったら応仁の乱を指すというまことしやかな話があります。
第二次世界大戦では大きな被害がなかった京都では八坂の塔以外が焼けてしまった応仁の乱の痛手の方が大きかったということだそうです。

現在の御所の北側にある相国寺も、その北にある上御霊神社も、応仁の乱の際に軍がおかれ、戦場となり全焼しています。

京都御所も当然焼失してしまいました。
時の天皇は御所の隣にあった花の御所と呼ばれた足利邸に避難していたこともあり無事でした。

その後に時の権力者となった織田信長・豊臣秀吉・徳川家康によって京都が元の形に戻って行く際に御所も再建され、その敷地も大きくなっていきました。

さあ、京都御所のツアーへまいりましょう!

さあ、京都御所のツアーへまいりましょう!

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何度も火事にあいながらも再建を繰り返してきた御所ですが、その時の時代の様式に合わせて建て替えられていました。

しかし1788年の焼失による再建の際には、江戸幕府の老中松平定信を総奉行とし、有職故実家の裏松固禅(うらまつこぜん)らの考証により、紫宸殿(ししんでん)や清涼殿(せいりょうでん)などを平安の古制に戻し、飛香舎(ひぎょうしゃ)などの失われていた御殿を復活して1790年に今の形に再建されたのです。

その後、1854年に焼失しましたが、翌年に前回の内裏と同じ形で再建させて現在に残りました。

御所は5本線の入ったクリーム色の築地塀に囲われており、南北に長い長方形のエリアになります。
こちらの中は主に3つのエリアに分けられており、一番南側が天皇が政や儀式をおこなう場所です。
中国故事にある「南に坐して政をする」という言葉から配置されました。

そして中央に当たる場所が天皇の居住エリアで、一番北側が後宮と呼ばれる皇后や女御、その皇子や姫の住まいでした。

天皇が政や儀式を行ったエリアと天皇の居住エリアを中心に見ていきましょう。

参内する公卿と諸侯のお入口

参内する公卿と諸侯のお入口

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ここにも身分格差が:宜秋門と御車寄

まずはじめに公家の方が宮中に参内される入口から見ていきましょう。

御所の西側にある「宜秋門(ぎしゅうもん)」から公家たちは参内します。
公家の方が利用する門はこちらと決まっていたため、別名「公家門」とも呼ばれています。

公家たちは御所の周辺に屋敷を構えていたのですが、参内の折には牛車を使って門の前までやってきます。
そしてそこで降りて出仕するのですが、公卿など身分が高く帝より許されたものは牛車のまま内裏の中に入ることができました。

牛車で参内する専用の入口が「御車寄(おくるまよせ)」という御殿です。
そこまで牛車ですすみ、地に足を付けることなく中に入ることができました。

雨にも濡れることがないよう、御車寄の入口には牛車がすっぽりと入る大きさの大きな屋根が付いています。

ここから入り控えの間や清涼殿へ向かいます。

身分のほどをわきまえる:諸大夫の間

正式な御用向きや帝に謁見するために参内した公家や将軍家の使者の控え専用の御殿が「諸大夫の間(しょだいふのま)」です。

この控えの間は身分に応じて部屋が決まっており、建物に向かって右に行くほど(帝が座す御殿近くが右側)身分が高い方の控えの間になっています。

一番高貴な方の間は「虎の間」で、公卿と呼ばれる三位以上の身分の方が控える間です。

その次に五位以上の身分の方が控える間が真ん中の「鶴の間」。

そして、一番塀側が将軍からの使いの者や官位のない武士が控える「桜の間」です。
襖絵にちなんでそう呼ばれていました。

どの控えの間の床は畳敷きなのですが、虎の間と鶴の間の畳縁と桜の間の畳縁の色を分けることでその身分の格の違いが表現されています。

また、通例公家または貴族と呼ばれる官位をいただいた方々は御車寄から入るため、控えの間まで廊下を通ってお入りになります。

桜の間に控える方々は建物の塀側が開かれており、沓脱石(くつぬぎいし)から参入しました。

天皇専用のお入口

天皇専用のお入口

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天皇以外の者が通ることは許されない:建礼門

御所の南にある門「建礼門(けんれいもん)」は通常は閉じられていますが、天皇が御所にお入りになるときに開かれる正門です。

この門を通ることができるのは天皇と同伴の皇后と外国元首などの国賓の方のみ。

最も位の高い門のため、皇后であっても天皇とご一緒でない場合はこの門から入ることはできません。
その場合は皇后は南東にある建春門(けんしゅんもん)から入ることになります。

御所で一番新しい御殿:新御車寄

諸大夫の間の南側に一見して時代の異なる建物があります。

それが「新御車寄(しんみくるまよせ)」です。
この建物は天皇専用の車寄になります。
東京へ行かれてから御所に戻られるときには車でお入りになるため100年ほど前に作られました。

御所の中で唯一電気の通った御殿で、お車が入る屋根つきの玄関口の上部には電灯があり、内部にはエアコンも完備されています。

建物の形式も現代的で乳白色のガラス窓がぐるりと配されています。
このガラス窓の一部は100年前の技術で作られているため、よく見ると波打っていることが確認できます。
大変もろいため、一部損壊により現代に作られたガラス窓も混ざっています。

ちなみに呼称の「御車」を「みくるま」と読むのは天皇にかかわる呼称の時には「御」という字は「み」と読むことからきています。

政の中心紫宸殿と清涼殿

政の中心紫宸殿と清涼殿

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古来の政治の中心はここ:紫宸殿

建礼門を入るとすぐ目の前に朱塗りの柱の承久門があり、そこから左右に白い壁と朱の柱が回廊が続きます。
これまでの御殿とは様相が変わり、神域に入ったような印象的な空間になります。

その承久門の向こうには回廊に囲まれた白砂の南庭(だんてい)が広がり、その奥には紫宸殿(ししんでん)があります。

紫宸殿は御所の中で最も格式の高い正殿で、即位の礼などの重要な儀式がここで行われました。
現存する建物は1855年に建てられたものですが、伝統的な儀式が行われるように平安時代の建築様式である寝殿造で建てられています。

屋根は桧皮葺で入母屋造りですが途中で段差が付いています。
この屋根の形状から兜の首の防御部分の錣(しころ)に似ていることから「錣屋根」と呼ばれ珍しい形式がみられます。

紫宸殿は1868年に「五箇条のご誓文」の舞台となり、明治、大正、昭和の三代の天皇の即位の礼はこの建物内で行われました。

即位の礼ではこの南庭に旗などが並び、殿上には皇族・諸大臣・外国使臣などが参列しました。

また、南庭には紫宸殿から見て左側に「左近の桜」、右側に「右近の橘」が配されています。
儀式の際にそれぞれ左近衛と右近衛が木々の前に陣を敷いたことからそのように言われるようになりました。
平城京から遷都した際には左近の桜は梅であったと言われています。
この桜と橘は今ではお雛人形にその名残が見られます。

天皇がおすわりになった高御座

紫宸殿には現在中央に天皇の御座「高御座(たかみくら)」、その脇に皇后の御座「御帳台(みちょうだい)」が置かれています。

これらは即位の礼などで用いられる調度品です。
現在の高見蔵と銀杏大和大正2年1993年に製作され大正昭和平成の即位の例でご使用になりました。
今上天皇陛下の即位の礼の際には東京の皇居宮殿に運ばれご使用になりました。

高御座は朱塗りの高欄をめぐらした黒漆塗りの台上にあり、天蓋の形は八角形で8本の円柱で支えられています。
天蓋には大鳳1羽と小鳳8羽を載せています。
御帳台の作りは高御座とほぼ同じですが、大きさが1割程度小さいものになります。

平城京の時代からこの高見蔵の形が使われており、即位・朝賀・外国使節との謁見などの際に着座された玉座でした。

何度もあった火事により紛失していますが、現存する高御座は大正天皇の即位の礼にあたり古式に則り作られたものです。
玉座は古式では座布団のような畳状の茵(しとね)でしたが、今は代わりに椅子に変更されています。

この高御座は大正、昭和天皇はもちろん、今上天皇の即位の礼にも使われました。
東京での即位だったため、この高御座を紫宸殿から出すために分解し、御帳台と合わせて6回に分けてヘリコプターで運びました。

三種の神器の保管場所:春興殿

紫宸殿の東側にはとても広い空間が広がっていて、その端に館の趣が異なる高床の建物があります。
この「春興殿(しゆんこうでん)」は大正天皇の即位の礼で使われる三種の神器の神鏡を保存するために建てられた約100年前の銅屋根の建物です。

三種の神器の在り処については諸説あり、海に沈んだというものも、伊勢神宮に納められるというものもあり、謎が多いためその史実については一旦脇に置き、建物が建てられた由来として捉えたいと思います。

平安貴族の館を再現:清涼殿

平安貴族の館を再現:清涼殿

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平安時代中期(10世紀中頃)以降、天皇が日常にお過ごしになるお住まいの御殿であり、政治神事などの重要な儀式もここで行われました。

1590年に御常御殿に住まいが移ってからは、主に儀式の際に使用されました。
この建物は1855年の造営ですが伝統的な儀式が行われるように平安時代中期の建築様式で建てられています。

典型的な寝殿造で屋根は桧皮葺で、天井板はなく、床は板間で高床式。
丸い柱が立ち並び1つの部屋の空間が広く衝立や御簾、御帳台子などで用途に合わせて区切って使われました。

窓などの庭に向かった解放部は蔀戸(しとみど)と呼ばれる格子状の扉に漆喰で固めた板を組み合わせた跳ね上げ式の扉が用いられました。

床に対して90度に開く蔀戸は雨戸の役割と防犯の役割をしてくれるのですが、大変重たく、平安時代の女房は戸を上げるのに大変苦労したようで、その様子は枕草子にも記載されるほどでした。

清涼殿の名のとうり夏場涼しく過ごしていただくために風が通る東向きに建てられています。

そのぶん、冬は寒く、板間で床の下から冷気も伝わり、間仕切りもない広々とした部屋はたいへん冷え込んだと考えられます。

現在の清涼殿は正面奥と右側は天皇がお休みになる御帳台と几帳が配され、左側は屏風で覆われています。

中央の手前にある畳を敷いた部分が「昼御座(ひのおまし)」と言い、天皇の日常の御座でした。

平安宮ではなかった新しい建物

平安宮ではなかった新しい建物

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初の合議政治が行われた:小御所

大御所という言葉はよく聞いたことがありますよね。
これは天皇を辞した上皇やご隠居さんを指す言葉で、それが転じて現代では芸能界に長くおられる方を指す言葉になりました。

では、御所内にある小御所は?こちらは東宮である皇太子にまつわる儀式を行う御殿を指します。

鎌倉時代以降建てられるようになった御殿で江戸時代は将軍や大名などの武家との対面や儀式の場として使用されました。

明治維新の際には大政奉還をした将軍の身分についての措置を定めた「小御所会議」が行われたことでも有名です。

上中下段の三室の周りに広い板敷(庇)がついており、様々な儀式に対応できる実用的な御殿でした。
現在の御殿は1958年に建てられたもですが、戸に障子紙が使われ、漆喰板のない格子戸の蔀戸から寝殿造から書院造の過渡期の様式を今に伝えます。

小御所の御殿の前には「御池庭(おにわいけ)」があり、どこから見ても正面になるように計算された回遊庭園で、右手側に架る「欅橋(けやきばし)」や反り橋と手前の州浜の緩やかな曲線が優しく美しいお庭の雰囲気を縁どります。

ここでも歴史が動いた:御学問所

お庭に面した御殿が小御所に並んでもう1つあります。
それが「御学問所(ごがくもんしょ)」です。
1613年に清涼殿から独立した御殿で、御読書始や和歌の会などが行われました、

そして1867年にここに親王・諸臣を集め「王政復古の大号令(おうせいふっこのだいごうれい)」を発布した舞台にもなりました。

普段使いの書院造で、明り採りの障子が使われたので、寝殿造に比べて中は明るく、また床は全て畳敷なので暖かく居住性が高い御殿でもありました。

この御学問所と小御所の間には「蹴鞠の庭(けまりのにわ)」があり、ここで蹴鞠が行われました。
一見するとこの御庭は蹴鞠をするには狭そうに見えるのですが、蹴鞠のルールに則るとこの空間がちょうど良いのだそうです。

蹴鞠のルールは「足を曲げてはいけない」「足裏を見せてはいけない」「足先だけで蹴る」この3つで、3回のうちに相手のつま先に返して続けられる事が大事なポイント。

綿の詰まった鹿革の鞠はさぞかし重たく扱いにくかったかと思います。

天皇のお住まい

天皇のお住まい

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快適なお住まい:御常御殿

清涼殿内に設けられるようになっていた常御所が1590年に建物として独立した「御常御殿(おつねごてん)」です。

天皇のお住まいであるのですが南面に上・中・下段の間を備えており、儀式や対面の場としても使用されました。

内部は神器を納める剣璽の間や天皇がお休みになった御寝の間など15室もあり、すべては畳敷になっています。

こちらの御殿は実際に明治天皇や孝明天皇がお住まいになっていました。
この御常御殿から見える庭の景色は美しく、五葉松や赤松・黒松など松の種類が豊富です。
この御庭の北奥には「泉殿(いずみでん)」または「地震殿」と呼ばれる天皇専用の地震対策の小さな小屋があります。
万が一地震が起きた時にはこちらに避難するようになっています。

お手洗いもついていて、ほかの御殿のように重たい桧皮葺ではなく軽い屋根で作られており、壁も漆喰などで補強されており、天皇の身を守る館です。

御三間とその他の御殿と跡地

御常御殿の南に隣接している御殿は1709年に御常御殿の一部が独立したもので、涅槃会・茅輪・七夕・盂蘭盆会などの内向きの年中行事に使用されました。

1860年に明治天皇が8歳の時に成長を祝う儀式「深曽木(ふかそぎ)」がここで行われました。

障壁画もそのような年中行事を題材にしたものが多く、元旦に天皇が群臣から新年の祝賀を受ける「朝賀の図」や葵祭りの行列「賀茂祭群参の図」などが描かれています。

御常御殿の北側にある孝明天皇の御書見のお部屋として建てられた「迎春」や暑い京都を少しでも涼しく過ごせるよう工夫のされている「御涼所」、孝明天皇のお好みで建てられた茶室「聴雪(ちょうせつ)」があります。

これらは天皇のプライベートの館のため現在は公開されていません。

御三間を抜けると、四季折々の木々が立ち並ぶとても開けた空間になります。
このエリアは元は御台所の館やそれに付随する建物があった場所です。
天皇が東京へ行かれてからはその設備は不要となったため取り壊され、現在のような広いお庭になりました。

その名残は随所に残る井戸の跡のみになっています。

非公開エリア:後宮

一番北のエリアにある皇后宮常御殿は皇后のお住まいとして設けられ、その館と廊下で若宮・姫宮の御殿とつながっています。

そしてその北側には平安宮の時代の様式を再現した「飛香舎(ひぎょうしゃ)」が藤壺の中庭とともに配されています。

皇后宮常御殿は昔は天皇のお住まいである御常御殿と長い廊下でつながっていましたが、先の世界大戦の際に空襲対策として廊下を取り壊したままとなっています。
桧皮葺、書院造で13室からなっており、御常御殿と同様に上・中・下段の間があり、御寝の間のほかに女性ならではの御化粧の間が備わっています。

飛香舎は最も寝殿造の様式を留めている御殿で、古来は女御の住まいでしたが現在はk廊式の儀式の際に使用されています。

こちらも現在は一般には非公開のエリアになります。

美しいお庭の仙洞御所と大宮御所

美しいお庭の仙洞御所と大宮御所

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続いて御所のエリアから出て、その周りを見ていきましょう。

御所の南東には御所と同じクリーム色の築地塀に囲まれた一角があります。

ここは天皇を退位された上皇の住まいである「仙洞御所(せんとうごしょ)」と皇太后の住まいであった「大宮御所」がありました。

仙洞御所は現在は火事で焼失したまま、上皇がおられなかったため再建されず茶室の「又新亭(ゆうしんてい)」と「醒花亭(せいかてい)」が美しい庭園とともに残っているだけになります。

しかし、こちらの庭園は大変優美で美しく、池や滝・趣向を凝らした橋や季節を彩る木々が楽しめます。

大宮御所も同様に火事で焼失してからは再建されることがありませんでしたが、1867年に孝明天皇の妃・英照皇太后のために造営されたものが今に残ります。

明治に入り英照皇太后が東京へ移られてからは天皇皇后両陛下や外国の元首が入洛する際の宿舎として利用されています。

唐破風の御車寄は三層の屋根がとても女性らしい建物で、御常御殿へつながっています。

御常御殿は「王冠を賭けた恋」で知られるイングランドのエドワード8世が皇太子のころに来日された際に洋風へ設えを変え、木の唐戸はガラス張りに変更されました。
御殿の前に広がる御庭にはたくさんの木々が植えられていますが、松と竹と梅が植えられていることから松竹梅の庭と呼ばれています。
ガラス戸の前には白梅・紅梅が植えられ、初春の時期は松と竹の緑に紅白の梅を楽しむことができます。

歴史がたくさん詰まった京都御所

今回ご紹介したのは京都御所の中でも、基本的に知っておくと日本の歴史が見えてくる御殿が中心でした。

本来であればその時代の文化がわかる調度品や襖絵などもご一緒にご紹介するとより京都御所の魅力が伝わったのではないかと思います。

また、京都御所の周辺には鬼門の猿ヶ辻や幕末の激戦地・蛤御門など伝承や歴史舞台がたくさんあります。

なんといっても地図で見るよりもとても規模が大きく、歩けども近付かないほど。

長い年月の間、日本国を治めていた権力の大きさを肌で感じることもできますので、京都へお越しの際にはぜひ京都御所で平安時代へタイムスリップしてくださいね。

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