世界の4分の1を支配していた!? モンゴル帝国とチンギス・ハンの歴史

世界の4分の1を支配していた?万里の長城をどうやって突破したの?実は源義経?子孫が1600万人いるって本当?数々の伝説を残し、世界最強最大の帝国であるモンゴル帝国の礎を築いたチンギス・ハン。ナポレオンと並ぶ”戦いの天才”であったと称された史上最強の征服者は、どのようにしてそこまで強い国を作り上げたのでしょうか。その生い立ちと生涯を追いかけながら、モンゴル帝国の強さの秘密に迫ります。

モンゴル帝国とは

モンゴル帝国はこんなにすごい国だった!

モンゴル帝国はこんなにすごい国だった!

image by iStockphoto

モンゴル高原に現れたチンギス・ハンが遊牧民を統合し1206年に築いた帝国です。

初めは、大陸の北東部の遊牧民族の部族連合でしたが、チンギス・ハンは自身の弟や僚友、統括した各部族の王たちと共に強力な軍事態勢を敷き、その勢力を東西へと伸ばしていきます。
モンゴル帝国はひとりの皇帝が統治する国ではなく、チンギス・ハンの腹心たちがそれぞれ分かれて集団を作っていました。
それが帝国の躍進の原動力となり、ユーラシア大陸全土に広がっていくことになったのです。

その勢力はユーラシア大陸全体に及んでいて、華北はもちろんのこと、東ヨーロッパやトルコ、シリア、アフガニスタン、チベット、ミャンマー、朝鮮半島に至るまで、地上の陸地の4分の1を占めていたと考えられています。
モンゴル帝国の傘下に入った領土面積は最盛期の1279年には3300万平方キロメートルに。
人口は1億人を超えていました。
19~20世紀初頭の大英帝国には及びませんが、13世紀という時代や領地が全て陸続きであることなどを考えれば、”史上最大”の称号は文句なしと言えるでしょう。

チンギス・ハン自身はこうした領土拡大の途中、1227年に遠征先で亡くなっていますが、その意思は息子や孫たちに受け継がれていきます。
彼らは既に与えられていた土地にそれぞれ王国を築いていき、モンゴル帝国はチンギス・ハンの子供や孫たちが治める国々による連合国家となっていくのです。

チンギス・ハンが没してから半世紀近くの間、彼の子孫たちは、大陸の北東部を中心に各地に広がり、様々な文化圏に及んでいきました。

モンゴル帝国と元王朝の違いは?

モンゴル帝国と元の違いを知るには、その過程を見ていく必要があります。

まず、チンギス・ハンの次男のチャガタイが治めていた中央アジア付近はチャガタイ・ハン国に、その北部には三男オゴタイが興したオゴタイ・ハン国。
さらに、西側には長男ジョチとその次男バトゥが統治していたとされるジョチ・ウルス(またの名をキプチャク・ハン)が広がり、孫のひとりであるフラグは西方のイスラム圏まで勢力を伸ばし、中東全域にイル・ハン国を打ち立てます。
ユーラシア大陸全域がチンギス・ハンの子孫が建てた国によって統治されるようになりました。

いくら連合国家とはいっても、ひとりの皇帝が統治するには広すぎます。
国が大きくなるにつれ、チンギス・ハンの子孫同士で争いになることもありました。

そんな中、第5代皇帝として即位したのがチンギス・ハンの孫、フビライ・ハン。
フビライはより強い国を目指して、大陸の北東部、つまり中国の支配に力を入れていきます。
広大なユーラシア大陸に住む漢民族たちを統治するため、都を大都(北京)に移し、国号を「元」と改めました。

モンゴル帝国と元の違いを説明するのはけっこう難しい

モンゴル帝国と元の違いを説明するのはけっこう難しい

image by iStockphoto

元は、領土としてはモンゴル帝国のうちの一部にあたりますが、皇帝が治めていた国の中枢部分の呼び名を漢民族風に改めたもの。
国を強くするため侵略を続け、広くなりすぎて、様々な文化圏の領地を納めなければならなくなったモンゴル帝国。
それでも中心は大陸の東側であり、中国を支配することが一番の目的だったのでしょう。

13世紀後半の地図を見ると、チャガタイ・ハンやオゴタイ・ハン、イル・ハン、キプチャク・ハンと並んで元が存在していたような構図になっています。
しかし、元がモンゴル帝国の一部というわけでもなく、かといって元が他のハンを支配していたわけでもなく、モンゴル帝国=元というわけでもない。
もしフビライが、皇帝が統治する領地を「元」と中国風の呼び名にせず、○○ハンと名付けていたら、様子が変わっていたかもしれません。
しかしおそらく、漢民族を支配するためには名を改める必要があったのでしょう。
ですが、かといってイスラム圏やトルコのほうまで急に全部漢民族風の国号にするわけにもいかなかったはず。
そこで、結果的に、モンゴル帝国というふわっとした連合体制が生まれたのだと考えられています。

あまりに領土を広げ過ぎたため、「モンゴル帝国と元はどう違うの?」と、後の世の人々(私たち)を悩ます要因を作ってしまったのです。

北方騎馬民族はなぜ強い?

キーワードは”機動力”

キーワードは”機動力”

image by iStockphoto

この後で、チンギス・ハンの生い立ちを追いかけてまいりますが、その前に、なぜモンゴル帝国がこのように領土を広げることができたのか考えてみましょう。

中国大陸の北部・西部には、紀元前4世紀頃には既に遊牧民族が数多く存在していたと考えられており、歴代中国王朝はいずれも、彼らの存在に脅威を感じていました。
万里の長城が長年に渡って補修・延長され続けてきたのも、北方の遊牧民族から町や交易ルートを守るためだったと考えられています。

モンゴル帝国が建国・繁栄した12世紀~13世紀という時代を考えれば、北方騎馬民族の強さの理由はずばり、機動力でしょう。
彼らの生活に馬は不可欠。
ただ馬を扱うだけではなく、乗りこなし、広大な土地を短時間に駆けることができ、狩猟を行っていたため馬上からの弓の照射能力も優れていたと考えられています。

都市部で編成される軍隊が騎兵技術を身につけるためには調練が必要ですが、騎馬民族なら子供のころから身についていること。
騎馬は彼らにとって生きるために必要な技術です。
馬は身体の一部と言ってもいい。
その技量の差は歴然です。

歩兵が中心の軍隊では、移動にも時間がかかりますし、複雑な作戦や、戦況に合わせた臨機応変な対応はほぼ不可能。
しかし騎馬なら素早い移動も可能で、相手の出方によって柔軟な戦術が可能となります。
もちろん大軍による大規模遠征も、歩兵中心の軍隊に比べれば容易です。

遊牧生活が彼らを強くした

北方騎馬民族の強さの理由、機動力の他にもうひとつ挙げるなら、彼らの生活が定住ではなく遊牧であったことに着目すべきでしょう。
町や集落、農耕を行わない彼らにとって、安定した生活を行うために”略奪”は不可欠でした。
より強い力を持ち、周辺の集落を攻撃して物を奪う。
逆に、こちらが襲われることもある。
身を守るために”砦を築く”のではありません。
”攻撃こそ最大の防御”。
“さらに強い力を、多くの仲間を必要としたのです。

もちろん、北方騎馬民族が常に戦いに勝っていたわけではありません。
城塞を攻めきれず敗退したことも多々あったようです。
しかし彼らの戦いは、守るためではなく生きるため。
戦いを止めることはありませんでした。

類稀な機動力。
大義ではなく生きるために、戦うことが当たり前の生活。
何度も何度も、勝つまで戦い続ける姿勢。
しかし、それなら、モンゴル帝国以外にも、北方騎馬民族国が誕生していてもおかしくありません。
匈奴、スキタイ、突厥、契丹など、強い力を持った北方民族はたくさんありましたが、その中で、モンゴル帝国はどうしてこんなにも突出して強かったのでしょうか。

モンゴル帝国は優れた軍事国家だった

モンゴル帝国は優れた軍事国家だった

image by iStockphoto

そこで登場するのがチンギス・ハンです。
彼は騎馬民族の強さに、国家としての要素を取り入れていきました。

強すぎる遊牧民族は力が全て。
略奪を繰り返して力を増すと、一部の者に権力が集中し、弱い部族を抱き込んで大軍になりますが動きが鈍くなり、騎馬民族としての機能が失われて衰退する、ということが繰り返されていました。
また、なまじ武力があるため、一度内紛が起きると収集がつかなくなり、そのまま潰し合って消滅してしまうことも。
武力があるだけでは生き残っていけないことを、チンギス・ハンは悟っていたのかもしれません。

チンギス・ハンは比較的早い段階から、大軍をひとつに束ねて無駄なく統率できる方法を見出していました。
投石機や火薬を使った武器など、新しい攻撃方法の模索・研究にも余念がなかったようです。
諜報活動のようなことも頻繁に行っていたのだとか。
彼は非常に寛容な人柄であったとも伝わっています。
古い体質やプライドにとらわれず、新しいことにどんどん挑戦していくことができたのかもしれません。

このようにしてモンゴル帝国は、それまでの遊牧民族が成し得なかった東西文明地域の征服、果ては史上最大の大帝国へと発展していきました。
遊牧騎馬民族としての強さ、荒々しさはそのままに、近代的な軍事国家の体を整えていったチンギス・ハン。
しかし、その道のりは決して、順風満帆とは言えない、大変厳しいものでした。

チンギス・ハンの名前問題

「草原の覇王」「蒼き狼」。
チンギス・ハンの生い立ちを追いかける前に、名前の書き方についての謎に触れておきたいと思います。

チンギス・ハンの名前には様々な呼び方が。
チンギス・カン、カーン、ハン。
ジンギス・カンと表記することもあり、混乱をきたすことも。
果たしてどれが正解なんでしょう?また、なぜこんなに様々な読み方があるのでしょうか。

ハンとは、トルコ・モンゴル系の遊牧民族の「王」や「部族長」を表す言葉。
モンゴル語では”カ”と”ハ”の中間くらいの発音になるのだそうです。
これがさらに、複数の部側を束ねるような、もっと強い王や長ともなると、”ハーン”、”カーン”と伸ばすように。
モンゴル語のカタカナ表記は非常に難しいとのことで、このあたりが混乱の要因になっているようです。

また、中国語や戦前の日本では”成吉思汗”と漢字で表記することもありました。
これを中国語で読むと”チンギス・ハン”。
現在では、チンギス・カンと読むケースが多くなってきているようですが「”ハン”と読んだほうがしっくりくる」という方も多いのではないでしょうか。

もうひとつ、”ジンギス・カン”という読み方はというと、こちらはアラビア文字表記が元になっています。

12世紀から13世紀にかけて、中央アジアのみならずヨーロッパや中東まで、ユーラシア大陸全土に渡ってその名を轟かせたチンギス・ハン。
様々な言語・文化圏の文献に名を残しているがゆえに、その名前の読み方も標記も様々。
それほど偉大であり、脅威でもあったのでしょう。

チンギス・ハンの生い立ち

苦難の連続だった幼少期

苦難の連続だった幼少期

image by iStockphoto

12世紀の始め頃の中国大陸は、宋という国が傾いて弱体しつつ南へ逃れ、代わりに金(きん)という国が華北を統一して王朝を打ち立てていました。
金はもともとは女真(じょしん)という満州民族で、漢民族以外の民族による、いわゆる「征服王朝」と言われた国。
領土は大陸の北東部に広がっており、西には西夏、南には南宋、そして、北部の広大なモンゴル高原には、モンゴルやタタール、オングート、メルキットなど多くの遊牧民族が暮らしていました。
遊牧民族たちはみな力が強かったため争いが絶えず、そのため、金は北方民族に滅ぼされることなく何とか均衡を保っていたものと思われます。

そんな中、モンゴル族の部族長イエスゲイのもとに男子が誕生します。
名はテムジン。
後のチンギス・ハンです。
テムジンは幼いころから野山を駆け回り、のびのびと成長していきました。

しかしあるとき、イエスゲイがタタール族に毒を飲まされ殺されてしまいます。
族長を失うと、仲間たちは他の強い部族へと移っていってしまい、部族はバラバラに。
テムジンは敵対する部族に捕えられ、殺されそうになったこともありました。
しかしテムジンは諦めず、母や弟たちを支え続けたのです。

部族統一を誓った青年期

苦労の甲斐あって再び、テムジンのもとに多くの人々が集まってくるようになりました。
テムジンはボルテという妻を娶り、リーダーとしてますます力を伸ばしていきます。

そんなテムジンに再び試練が。
敵対するメルキット族の襲来を受け、妻ボルテを奪われてしまうのです。
テムジンは父イエスゲイと同盟関係にあったケレイト族の族長を頼り、旧友ジャムハたちと共にメルキット族に攻め込み、ボルテを取り戻します。
ここで敵をせん滅するところを、テムジンは皆殺しにはせず、傘下に引き入れたり隷民として抱え込んでいきました。
恨み恨まれ、殺し合うだけでは何も残らない。
父の死から、テムジンはそんなことを学んだのかもしれません。

テムジンのおおらかな振る舞いは遊牧民たちから有能な指導者として認められるようになり、他の部族のもとに身を寄せていた者たちも次々とテムジンに従うようになります。
モンゴル族はテムジンのもとでひとつにまとまり、大きな部族へと成長していきました。

しかし、旧友たちの中には、このようなテムジンの振る舞いを理解しない者もいたようです。
特に、強い者だけが生き残るべきと冷酷非道なリーダーであり続けたジャムハとの間には徐々に溝ができていました。

ライバル征服と友との決別

ライバル征服と友との決別

image by iStockphoto

ジャムハはテムジンと敵対する部族と同盟を組み、旧友であったはずの二人は次第に対立していきます。
二人は何度も戦いを繰り返しました。
勝敗については文献によって異なるのですが、ジャムハのほうが若干優勢だったようです。
しかし、冷酷で残虐なジャムハは次第に人望を失い、彼のもとを離れてテムジンに味方する者が後を絶たなかったとも伝わっています。

テムジンはジャムハと抗争を続けつつ、モンゴル高原の部族の統一を推し進めていきました。
1205年、モンゴル高原はほぼテムジンの手中に入り、残る大勢力は西方のナイマンだけ。
このとき、テムジンに追われたジャムハはナイマン族と合流していました。
テムジンはモンゴル高原統一のため、激しい戦いの末、ジャムハとナイマン族を打ち破ります。

ジャムハはテムジンのもとへ戻ることを拒み、処刑を望んだのだそうです。

こうしてテムジンは多くの犠牲を払いながらも、モンゴル高原をひとつにまとめ上げていきました。
かつて、部族間の争いから父を毒殺された青年は、部族同士の争いをなくすべく、モンゴルの王へと成長していったのです。

戦いの果てに築いたモンゴル帝国

1206年、テムジンはクリルタイと呼ばれる部族会議を開き、モンゴル帝国を建国。
ハン(王)に即位します。
チンギスとはお告げによって授けられた名前だと伝わっていますが、モンゴルの言葉ではなく他民族や他国の言語で”猛々しい”、”支配者”といった意味である、という説も。
名前の由来は諸説あるようですが、とにかく、テムジンは名実ともに草原の覇王として君臨することになりました。

ところで、チンギス・ハンは「蒼き狼」と呼ばれることがあり、これはモンゴル民族の古い伝説からきています。
天命によって生まれた蒼き狼が白く美しい雌鹿と結ばれて子孫を増やし、これがモンゴル民族の祖先になった、というもので、これがモンゴル民族の祖先だと信じられていました。
チンギス・ハンの生涯を記したモンゴルの歴史書『元朝秘史』(げんちょうひし)には、この狼とチンギス・ハンを関連付けた記述が残っています。
モンゴルの祖である狼とモンゴル帝国の建国者であるチンギス・ハンを結びつけて考えていたのでしょう。

チンギス・ハンはモンゴル統一後、様々な法律を作り、旅人や商人が安全に東西を行き来できるようにし、西方の国家の在り方を取り入れつつ、国の基盤を整えていきました。
モンゴル族はチンギス・ハンという偉大な指導者を得て、強いだけでない、大きな国家へと変貌を遂げていったのです。

モンゴル帝国の躍進

万里の長城を攻略

万里の長城を攻略

image by iStockphoto

モンゴル帝国を建設したチンギス・ハンは、1211年、中国に対する遠征を開始します。
目指すは統一王朝として北東部を統治していた金王朝。
しかし、行く手を万里の長城が阻み、金国の都は強固な城壁に守られています。

金は以前から北方からの敵襲を恐れて万里の長城にかなりの修繕を加えていました。
馬で簡単に乗り越えられないよう、巨大な壕を掘り、その土を盛り上げて長大な土塁を築いていたと考えられています。
金はそれほどまでに北方の民族を恐れていたようです。

しかし、結果的にモンゴル軍は、長城を破って金に侵入しています。
当時の万里の長城は、現存するレンガの高い壁ではなく、土塁のようなもので、馬や歩兵が一気に突破できないようにするため(いったん馬を下りたり体勢を整えなければ越えられない)のものでした。
金国が修復を加えたと言ってもその範囲は長大で、騎馬によって長距離を柔軟に移動できるモンゴル軍なら修繕の甘い箇所を見つけることもできたでしょう。

モンゴル軍は金の領土へ深く入り込みますが、野戦では常勝していても、遊牧民族である彼らにとって城壁に囲まれた都を落とすことは難しかったようですしかしモンゴル軍は諦めません。
何度も攻め続け、城塞都市の攻略方法を学び、1215年、ついに金の都(現在の北京)を陥落させることに成功するのです。

西方への侵略

この頃西方には、金に追いやられた遼(りょう)という国が建てた西遼という国があり、かなりの領土を支配していました。
ここには、かつてチンギス・ハンとの戦いに敗れたナイマン族の族長クチュルクが逃げ込んでいて、西遼を乗っ取ろうとしていたのです。
この混乱を見て西遼に攻め込んだモンゴル軍はクチュルクを捕え、西遼の領土の併合に成功します。

西遼を治めたことで、モンゴル帝国の領土は西方に大きく伸びていきました。
西遼の西側はホラズム・シャー朝といったイスラム王朝と接しています。
チンギス・ハンは自分の息子たち(ジョチ、オゴデイ、チャガダイ、トゥルイ)と共に大軍を率いてホラズム・シャー朝を攻略し、都市という歳で暴れ回ってことごとく破壊していきました。
ホラズム・シャー朝の王がさらに西方面へ逃げたため、チンギス・ハンはこれを追随。
中東方面にまで及び、行った先行った先で大都市を次々に潰していきます。
ホラズム・シャー朝の王はインドへ逃れ捕えることはできませんでしたが、このことで結果的に、モンゴル帝国の領土は飛躍的に広がり、チンギス・ハンの名はヨーロッパにまで轟くことになったのです。

この後チンギス・ハンは広がり過ぎた領土を分割し、西方を長男ジョチに、西遼の領土であった場所を次男チャガタイに、モンゴル高原の西側の地を三男オゴタイに与えて統治させています。
このときはまだ、四男トゥルイは領地を与えられていなかったようですが、後に元王朝を打ち立てるフビライはトゥルイの息子です。

西夏の制圧(最後の遠征)

西夏の制圧(最後の遠征)

image by iStockphoto

チンギス・ハンが西方の遠征に出ている間に、既に一度制圧している西夏で動きがありました。
西夏は金国の西側にあるチベット系民族の国。
モンゴル軍の勢いの前になすすべなく、一度は軍門に下っていましたが、実は虎視眈々と機会を狙っていたのです。
モンゴル軍の隙を見て密かに金と内通し、同盟を結んでモンゴルに抵抗する算段をとっていました。

しかし、この情報がモンゴル軍に漏れてしまい、計画は頓挫。
チンギス・ハンの怒りをかってしまいます。

西方から戻ったチンギス・ハンはすぐさま体勢を整え、西夏討伐へ。
西夏は大軍でこれを迎え撃ちますが歯が立たず、1226年、滅亡してしまいます。
そして翌年には再び金を攻略。
金から和平の申し入れがあったとも伝わっていますが、チンギス・ハンはこれを受け入れませんでした。

ユーラシア大陸全土にその名を轟かせた蒼き狼は、この遠征の途中で危篤状態に陥り、亡くなってしまいます。
戦場ではなく陣中で、落馬による怪我がもとで体調を崩したとも伝わっていますが、その死はしばらくの間伏せられていました。

志は息子、そして孫たちへ

後継者は誰か?

後継者は誰か?

image by iStockphoto

チンギス・ハンの第一夫人ボルテの4人の息子たちの中で、2代目の皇帝に即位したのは三男のオゴタイでした。

生前、チンギス・ハンは四男のトゥルイを非常に可愛がっていたようで、彼に直属の軍を託しており、実質、モンゴル帝国の中枢を任されたのはトゥルイだったと考えられています。
また一方で、穏やかな性格のオゴタイを後継者として考えていたようです。

長男のジョチは有能だったと言われていますが、チンギスの実子ではないとの噂もあり、また、チンギスが没したときは既に亡くなっていました。
3人の中で誰が皇帝となるか。
兄弟の仲は悪くなかったと言われていますが、それぞれ膨大な領地と財産を引き継いでいます。
一歩間違えばユーラシア大陸を巻き込んでの争いに発展しかねません。

次男チャガタイは勇猛でしたが非常に気性の荒い性格で、皇帝には向かないと考えられていたようです。
しかし四男トゥルイは最も多くを継承した上に優れた人物であったため、2代皇帝にトゥルイを推挙する声も多かったため、争いは避けられないかとの見方もありました。
しかし、トゥルイはオゴタイに全てを譲り、クリルタイでの一致のもと、1229年にオゴタイがモンゴル第2皇帝に。
オゴタイは父の意志を継ぎ、金を滅ぼします。
他の子孫たちも精力的に領土拡大に動きました。

死してなお、チンギス・ハンの存在は偉大なものだったと考えられています。

その後のモンゴル帝国

13世紀半ばになると、チンギス・ハンの4人の息子たちも亡くなり、彼の孫やその後の子孫の代へと変わっていきます。
この頃になると、チンギスの実子たちのような繋がりの強さもなく、それぞれ覇権を争うようになっていったようです。
特に、ジョチの息子バトゥと、オゴタイの息子グュグの溝は深く、クリルタイの結果グュグが3代皇帝に即位した際には、帝国分裂の危機に直面します。
しかしグュグは短命で即位後間もなく崩御したため、帝国は再び、後継者を決めるべく緊張状態に入ります。

そんな中で第4代、第5代皇帝はトゥルイの息子であるモンケ、フビライが即位しました。
モンケはオゴタイ一族とそれに従うチャガタイ一族の有力者たちを抑え込み、モンゴル帝国を再びひとつにまとめようとします。
モンケの弟フビライとフラグも西方や中東方面を攻め、モンゴル帝国のさらなる拡大に奔走しました。
西方を制圧したモンゴル帝国は南宋を落とすべく南へ進みますが、都市の攻略は難航し、モンケは途中で命を落としてしまいます。

モンケの死後、混乱に乗じて皇帝に即位したのがフビライでした。
このことでフビライは、自身の兄弟や他の有力者たちとの間に溝を作ってしまいます。
もともと、ジョチ、チャガタイ、オゴタイの一族はいつか中央に返り咲こうと機会を狙っていたので、争いは必至。
フビライは一族の争いを収めながら南宋を攻め落とし、元王朝を打ち立てました。

モンゴル帝国が残したもの

こうしてモンゴル帝国は、チンギスハンとその息子、孫たちの代へと、さらなる拡大を遂げていきました。
モンゴル帝国がもたらしたものとは何だったのでしょうか。

破壊と侵略、領土拡大を繰り返した結果、モンゴル帝国は多くの国々から恐れられる存在となりましたが、一方で、モンゴル帝国の統治によって東西の国々が結びつき、国際交易が盛んになりました。
今まで、略奪を恐れてなかなか行き来することができなかった北方や西方の土地も、今や全てモンゴル帝国の統治下にあります。
旅人はより安全に、より往来しやすい道を行き来することができるようになりました。
また、モンゴルに征服されなかったインド、エジプト、東南アジア、そして日本も、こうした交易ルートの中に取り込まれていき、海を越えて多くの品々が取引されるようになったのです。

しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。
1294年、フビライが亡くなると、息子のテムルが元の皇帝となりますが、テムルに直系の後継者がいなかったため、チンギス・ハンの子孫たちによる後継者争いが再び始まります。
内乱の他にも飢饉や疫病が続き、モンゴル帝国は徐々に力を失っていきました。
そして、漢民族による農民反乱集団「紅巾軍」(こうきんぐん)による反乱によって元王朝は衰退。
紅巾軍の朱元璋が1368年に明を建国します。

モンゴル帝国はその後も存続し続け、1634年にリンダン・ハーンが亡くなるまで皇帝は存在し続けました。

「蒼き狼」チンギス・ハン

チンギス・ハンの墳墓

チンギス・ハンの墳墓

image by iStockphoto

チンギス・ハンの埋葬先は、長年に渡り秘密とされてきました。
遺体を運ぶ際に遭遇した者を全て殺し、埋葬した場所が特定されないよう埋めた場所を踏み固めさせたとも伝えられています。
生前、チンギス・ハンは、自分の死を隠すよう命じていたとのことで、その意向を子孫たちは守ったのでしょう。
墓の場所は隠し通され、そのまま、本当に忘れ去られてしまったものと考えられています。

墓の場所は長年不明のままで、「史上最大の謎」と言われ、多くの研究者が探索を続けてきました。
21世紀に入って、モンゴル帝国の霊廟と思われる場所が何箇所か発見されましたが、チンギス・ハンの墓であるとはっきり特定できたわけではないのです。

モンゴルの人々は今でも、チンギス・ハンの墓を暴かないでほしい、と望んでいるのかもしれません。

現在のモンゴル国北部に広がるヘンティー山脈にブルカン・カルドゥンという山は、モンゴル族発祥の聖地と言われている神聖な山。
チンギス・ハンの先祖はこの地で生活していたとのことで、チンギス・ハンの墓もここにあるだろうと考えられています。
様々な国の調査チームが調査を行おうとしましたが、地元の人々の心の内を察し、本格的な調査は行われませんでした。

2015年、「大山ブルカン・カルドゥンとその周辺の神聖な景観」はモンゴルの世界文化遺産に認定されています。

世界中でもっとも子孫を多く残した人物?

2004年、オックスフォード大学遺伝子研究チームが出したレポートによれば、チンギス・ハンは最も遺伝子を残した人物であるのだそうです。
DNA解析の結果、チンギス・ハンの遺伝子を引き継いでいる人物は世界中に1600万人いることに。
とんでもない数字です。

また、ロシアで行われたDNA鑑定によると、およそ800年前のモンゴル族と同じ染色体を持つ者が現在、1600万人いることがわかったとのこと。
逆算すると800年前に数百人から数千人の子供を設けた人物がいる、ということになり、こんなことが可能なのはチンギス・ハンだけだったろう、と考えられています。
広い大陸を駆け回ったチンギス・ハンならではの、スケールの大きな話です。

しかし、この説を疑問視する声も多く、確実な証明には至っていません。

チンギス・ハンの誕生は1162年と言われています。
亡くなったのが1227年ですので、65歳でこの世を去ったことになります。
1600万人という数は別にしても、多くの子孫を残した英雄であることには違いないようです。

チンギス・ハンは源義経?

「源義経は大陸に渡ってチンギス・ハンになった」

歴史好きなら一度は聞いたことがあるであろうこの話。
本当なんでしょうか?

この説を最初に唱えたのはドイツ人医師シーボルト。
自身の著書の中で義経=チンギス・ハン説を唱えています。
この話は当時、大変話題になったのだそうです。

源義経(1159年-1189年)は鎌倉時代の武将。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟で、時代に翻弄され数奇な運命を辿った不遇の人物として、現代でも大変人気があります。
一方でチンギス・ハンも、日本でも数多くの小説家が描いている人気の偉人。
義経が亡くなったのは31歳と言われていますので、もし追手を逃れて海を渡り、高原の民族たちから慕われて覇王になっていたとしたら?そんな想像を巡らせる人も多かったのでしょう。

チンギス・ハンに関して言えば、生まれや幼いころなどの様子が今ひとつはっきりしておらず、謎が多いのも事実です。
歴史書などにも、祖先は狼の化身だとか光に包まれて現れたとか、神格化されてしまっていてよくわからないことが多い。
義経の生涯にも不明な点が多く、シーボルトの説が物議を醸すのも頷けるところです。
しかしながら、義経の墓は鎌倉と宮城県(首塚と胴塚)にありますし、残念ながらこの説の信ぴょう性は低いように思われます。

ただ、義経は室町~江戸時代からずっと人気が高く、多くの著名人が「もしかしたら生きのびたのでは」との説を唱えていました。
チンギス・ハンを敬愛するモンゴルの人たちには申し訳ない気もしますが、歴史を愛する者として、今後も心の中でそっと「もしかしたら」と思い続けていきたいと感じました。

草原を駆け抜けた「蒼き狼」

今から800年も前、東西5000kmにも及ぶ広大な大地に大帝国を築いたチンギス・ハン。
彼はただひたすら、モンゴル帝国を大きくするために戦い続けました。
どこまでも続く広い青い草原も地平線も、馬で駆け抜けることができたチンギス・ハンには、狭く感じられたのかもしれません。
photo by iStock