世界の4分の1を支配していた!? モンゴル帝国とチンギス・ハンの歴史

公開日:2020/3/7 更新日:2020/3/7

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世界の4分の1を支配していた?万里の長城をどうやって突破したの?実は源義経?子孫が1600万人いるって本当?数々の伝説を残し、世界最強最大の帝国であるモンゴル帝国の礎を築いたチンギス・ハン。ナポレオンと並ぶ”戦いの天才”であったと称された史上最強の征服者は、どのようにしてそこまで強い国を作り上げたのでしょうか。その生い立ちと生涯を追いかけながら、モンゴル帝国の強さの秘密に迫ります。

モンゴル帝国とは

モンゴル帝国はこんなにすごい国だった!

モンゴル高原に現れたチンギス・ハンが遊牧民を統合し1206年に築いた帝国です。

初めは、大陸の北東部の遊牧民族の部族連合でしたが、チンギス・ハンは自身の弟や僚友、統括した各部族の王たちと共に強力な軍事態勢を敷き、その勢力を東西へと伸ばしていきます。
モンゴル帝国はひとりの皇帝が統治する国ではなく、チンギス・ハンの腹心たちがそれぞれ分かれて集団を作っていました。
それが帝国の躍進の原動力となり、ユーラシア大陸全土に広がっていくことになったのです。

その勢力はユーラシア大陸全体に及んでいて、華北はもちろんのこと、東ヨーロッパやトルコ、シリア、アフガニスタン、チベット、ミャンマー、朝鮮半島に至るまで、地上の陸地の4分の1を占めていたと考えられています。
モンゴル帝国の傘下に入った領土面積は最盛期の1279年には3300万平方キロメートルに。
人口は1億人を超えていました。
19~20世紀初頭の大英帝国には及びませんが、13世紀という時代や領地が全て陸続きであることなどを考えれば、”史上最大”の称号は文句なしと言えるでしょう。

チンギス・ハン自身はこうした領土拡大の途中、1227年に遠征先で亡くなっていますが、その意思は息子や孫たちに受け継がれていきます。
彼らは既に与えられていた土地にそれぞれ王国を築いていき、モンゴル帝国はチンギス・ハンの子供や孫たちが治める国々による連合国家となっていくのです。

チンギス・ハンが没してから半世紀近くの間、彼の子孫たちは、大陸の北東部を中心に各地に広がり、様々な文化圏に及んでいきました。

モンゴル帝国と元王朝の違いは?

モンゴル帝国と元の違いを知るには、その過程を見ていく必要があります。

まず、チンギス・ハンの次男のチャガタイが治めていた中央アジア付近はチャガタイ・ハン国に、その北部には三男オゴタイが興したオゴタイ・ハン国。
さらに、西側には長男ジョチとその次男バトゥが統治していたとされるジョチ・ウルス(またの名をキプチャク・ハン)が広がり、孫のひとりであるフラグは西方のイスラム圏まで勢力を伸ばし、中東全域にイル・ハン国を打ち立てます。
ユーラシア大陸全域がチンギス・ハンの子孫が建てた国によって統治されるようになりました。

いくら連合国家とはいっても、ひとりの皇帝が統治するには広すぎます。
国が大きくなるにつれ、チンギス・ハンの子孫同士で争いになることもありました。

そんな中、第5代皇帝として即位したのがチンギス・ハンの孫、フビライ・ハン。
フビライはより強い国を目指して、大陸の北東部、つまり中国の支配に力を入れていきます。
広大なユーラシア大陸に住む漢民族たちを統治するため、都を大都(北京)に移し、国号を「元」と改めました。

モンゴル帝国と元の違いを説明するのはけっこう難しい

元は、領土としてはモンゴル帝国のうちの一部にあたりますが、皇帝が治めていた国の中枢部分の呼び名を漢民族風に改めたもの。
国を強くするため侵略を続け、広くなりすぎて、様々な文化圏の領地を納めなければならなくなったモンゴル帝国。
それでも中心は大陸の東側であり、中国を支配することが一番の目的だったのでしょう。

13世紀後半の地図を見ると、チャガタイ・ハンやオゴタイ・ハン、イル・ハン、キプチャク・ハンと並んで元が存在していたような構図になっています。
しかし、元がモンゴル帝国の一部というわけでもなく、かといって元が他のハンを支配していたわけでもなく、モンゴル帝国=元というわけでもない。
もしフビライが、皇帝が統治する領地を「元」と中国風の呼び名にせず、○○ハンと名付けていたら、様子が変わっていたかもしれません。
しかしおそらく、漢民族を支配するためには名を改める必要があったのでしょう。
ですが、かといってイスラム圏やトルコのほうまで急に全部漢民族風の国号にするわけにもいかなかったはず。
そこで、結果的に、モンゴル帝国というふわっとした連合体制が生まれたのだと考えられています。

あまりに領土を広げ過ぎたため、「モンゴル帝国と元はどう違うの?」と、後の世の人々(私たち)を悩ます要因を作ってしまったのです。

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