世界の4分の1を支配していた!? モンゴル帝国とチンギス・ハンの歴史

公開日:2020/3/7 更新日:2020/3/7

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モンゴル帝国の躍進

万里の長城を攻略

モンゴル帝国を建設したチンギス・ハンは、1211年、中国に対する遠征を開始します。
目指すは統一王朝として北東部を統治していた金王朝。
しかし、行く手を万里の長城が阻み、金国の都は強固な城壁に守られています。

金は以前から北方からの敵襲を恐れて万里の長城にかなりの修繕を加えていました。
馬で簡単に乗り越えられないよう、巨大な壕を掘り、その土を盛り上げて長大な土塁を築いていたと考えられています。
金はそれほどまでに北方の民族を恐れていたようです。

しかし、結果的にモンゴル軍は、長城を破って金に侵入しています。
当時の万里の長城は、現存するレンガの高い壁ではなく、土塁のようなもので、馬や歩兵が一気に突破できないようにするため(いったん馬を下りたり体勢を整えなければ越えられない)のものでした。
金国が修復を加えたと言ってもその範囲は長大で、騎馬によって長距離を柔軟に移動できるモンゴル軍なら修繕の甘い箇所を見つけることもできたでしょう。

モンゴル軍は金の領土へ深く入り込みますが、野戦では常勝していても、遊牧民族である彼らにとって城壁に囲まれた都を落とすことは難しかったようですしかしモンゴル軍は諦めません。
何度も攻め続け、城塞都市の攻略方法を学び、1215年、ついに金の都(現在の北京)を陥落させることに成功するのです。



西方への侵略

この頃西方には、金に追いやられた遼(りょう)という国が建てた西遼という国があり、かなりの領土を支配していました。
ここには、かつてチンギス・ハンとの戦いに敗れたナイマン族の族長クチュルクが逃げ込んでいて、西遼を乗っ取ろうとしていたのです。
この混乱を見て西遼に攻め込んだモンゴル軍はクチュルクを捕え、西遼の領土の併合に成功します。

西遼を治めたことで、モンゴル帝国の領土は西方に大きく伸びていきました。
西遼の西側はホラズム・シャー朝といったイスラム王朝と接しています。
チンギス・ハンは自分の息子たち(ジョチ、オゴデイ、チャガダイ、トゥルイ)と共に大軍を率いてホラズム・シャー朝を攻略し、都市という歳で暴れ回ってことごとく破壊していきました。
ホラズム・シャー朝の王がさらに西方面へ逃げたため、チンギス・ハンはこれを追随。
中東方面にまで及び、行った先行った先で大都市を次々に潰していきます。
ホラズム・シャー朝の王はインドへ逃れ捕えることはできませんでしたが、このことで結果的に、モンゴル帝国の領土は飛躍的に広がり、チンギス・ハンの名はヨーロッパにまで轟くことになったのです。

この後チンギス・ハンは広がり過ぎた領土を分割し、西方を長男ジョチに、西遼の領土であった場所を次男チャガタイに、モンゴル高原の西側の地を三男オゴタイに与えて統治させています。
このときはまだ、四男トゥルイは領地を与えられていなかったようですが、後に元王朝を打ち立てるフビライはトゥルイの息子です。

西夏の制圧(最後の遠征)

チンギス・ハンが西方の遠征に出ている間に、既に一度制圧している西夏で動きがありました。
西夏は金国の西側にあるチベット系民族の国。
モンゴル軍の勢いの前になすすべなく、一度は軍門に下っていましたが、実は虎視眈々と機会を狙っていたのです。
モンゴル軍の隙を見て密かに金と内通し、同盟を結んでモンゴルに抵抗する算段をとっていました。

しかし、この情報がモンゴル軍に漏れてしまい、計画は頓挫。
チンギス・ハンの怒りをかってしまいます。

西方から戻ったチンギス・ハンはすぐさま体勢を整え、西夏討伐へ。
西夏は大軍でこれを迎え撃ちますが歯が立たず、1226年、滅亡してしまいます。
そして翌年には再び金を攻略。
金から和平の申し入れがあったとも伝わっていますが、チンギス・ハンはこれを受け入れませんでした。

ユーラシア大陸全土にその名を轟かせた蒼き狼は、この遠征の途中で危篤状態に陥り、亡くなってしまいます。
戦場ではなく陣中で、落馬による怪我がもとで体調を崩したとも伝わっていますが、その死はしばらくの間伏せられていました。

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