世界の4分の1を支配していた!? モンゴル帝国とチンギス・ハンの歴史

公開日:2020/3/7 更新日:2020/3/7

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志は息子、そして孫たちへ

後継者は誰か?

チンギス・ハンの第一夫人ボルテの4人の息子たちの中で、2代目の皇帝に即位したのは三男のオゴタイでした。

生前、チンギス・ハンは四男のトゥルイを非常に可愛がっていたようで、彼に直属の軍を託しており、実質、モンゴル帝国の中枢を任されたのはトゥルイだったと考えられています。
また一方で、穏やかな性格のオゴタイを後継者として考えていたようです。

長男のジョチは有能だったと言われていますが、チンギスの実子ではないとの噂もあり、また、チンギスが没したときは既に亡くなっていました。
3人の中で誰が皇帝となるか。
兄弟の仲は悪くなかったと言われていますが、それぞれ膨大な領地と財産を引き継いでいます。
一歩間違えばユーラシア大陸を巻き込んでの争いに発展しかねません。

次男チャガタイは勇猛でしたが非常に気性の荒い性格で、皇帝には向かないと考えられていたようです。
しかし四男トゥルイは最も多くを継承した上に優れた人物であったため、2代皇帝にトゥルイを推挙する声も多かったため、争いは避けられないかとの見方もありました。
しかし、トゥルイはオゴタイに全てを譲り、クリルタイでの一致のもと、1229年にオゴタイがモンゴル第2皇帝に。
オゴタイは父の意志を継ぎ、金を滅ぼします。
他の子孫たちも精力的に領土拡大に動きました。

死してなお、チンギス・ハンの存在は偉大なものだったと考えられています。

その後のモンゴル帝国

13世紀半ばになると、チンギス・ハンの4人の息子たちも亡くなり、彼の孫やその後の子孫の代へと変わっていきます。
この頃になると、チンギスの実子たちのような繋がりの強さもなく、それぞれ覇権を争うようになっていったようです。
特に、ジョチの息子バトゥと、オゴタイの息子グュグの溝は深く、クリルタイの結果グュグが3代皇帝に即位した際には、帝国分裂の危機に直面します。
しかしグュグは短命で即位後間もなく崩御したため、帝国は再び、後継者を決めるべく緊張状態に入ります。

そんな中で第4代、第5代皇帝はトゥルイの息子であるモンケ、フビライが即位しました。
モンケはオゴタイ一族とそれに従うチャガタイ一族の有力者たちを抑え込み、モンゴル帝国を再びひとつにまとめようとします。
モンケの弟フビライとフラグも西方や中東方面を攻め、モンゴル帝国のさらなる拡大に奔走しました。
西方を制圧したモンゴル帝国は南宋を落とすべく南へ進みますが、都市の攻略は難航し、モンケは途中で命を落としてしまいます。

モンケの死後、混乱に乗じて皇帝に即位したのがフビライでした。
このことでフビライは、自身の兄弟や他の有力者たちとの間に溝を作ってしまいます。
もともと、ジョチ、チャガタイ、オゴタイの一族はいつか中央に返り咲こうと機会を狙っていたので、争いは必至。
フビライは一族の争いを収めながら南宋を攻め落とし、元王朝を打ち立てました。

モンゴル帝国が残したもの

こうしてモンゴル帝国は、チンギスハンとその息子、孫たちの代へと、さらなる拡大を遂げていきました。
モンゴル帝国がもたらしたものとは何だったのでしょうか。

破壊と侵略、領土拡大を繰り返した結果、モンゴル帝国は多くの国々から恐れられる存在となりましたが、一方で、モンゴル帝国の統治によって東西の国々が結びつき、国際交易が盛んになりました。
今まで、略奪を恐れてなかなか行き来することができなかった北方や西方の土地も、今や全てモンゴル帝国の統治下にあります。
旅人はより安全に、より往来しやすい道を行き来することができるようになりました。
また、モンゴルに征服されなかったインド、エジプト、東南アジア、そして日本も、こうした交易ルートの中に取り込まれていき、海を越えて多くの品々が取引されるようになったのです。

しかし、その繁栄は長くは続きませんでした。
1294年、フビライが亡くなると、息子のテムルが元の皇帝となりますが、テムルに直系の後継者がいなかったため、チンギス・ハンの子孫たちによる後継者争いが再び始まります。
内乱の他にも飢饉や疫病が続き、モンゴル帝国は徐々に力を失っていきました。
そして、漢民族による農民反乱集団「紅巾軍」(こうきんぐん)による反乱によって元王朝は衰退。
紅巾軍の朱元璋が1368年に明を建国します。

モンゴル帝国はその後も存続し続け、1634年にリンダン・ハーンが亡くなるまで皇帝は存在し続けました。

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