将軍の権威ってすごい!そのしぶとさで信長を困らせた「足利義昭」とは?

皆さんは足利義昭という人についてどんなイメージを持っていますか?「室町幕府最後の将軍で、織田信長を語る上で出てくる脇役」、そんなイメージですよね?しかし、敢えてその脇役・義昭に焦点を当ててみたいと思います。義昭の持つ将軍の権威とはどのようなもので、どのようにして信長を苦しめたのか?また京を追われた後の義昭については皆さんもあまり知らないのではないかと思いますが、どこに住み、どんなことをして過ごしたのか?足利義昭という人物を、兄・義輝と、互いに利用し合った織田信長を通して見ていきたいと思います。

義昭の兄「剣豪将軍」義輝とは?

義晴・義藤(義輝)と三好長慶との戦い

義晴・義藤(義輝)と三好長慶との戦い

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義昭は室町幕府の12代将軍・義晴を父に持ち、同母兄に義輝(よしてる)がいたため、足利家の家督相続者の慣例として仏門に入り覚慶(かくけい)と名乗り、興福寺の権少僧都にまで栄進したため、覚慶はこのまま高僧として一生を終えるはずでした。

義昭のことを語るなら、父・義晴と兄・義輝のことを先に語ったほうがわかりやすいと思います。

義輝は義晴の嫡男として生まれ、幼名は菊童丸。
義晴のころの幕府は相次ぐ戦乱で実権を失っていて、家計の維持すら困難な状況。
さらに管領の細川晴元と権威争いで対立し、義晴と菊童丸は近江と京を帰還と脱出で行ったり来たりします。
天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳で父から将軍職を譲られ、義藤(よしふじ)と名乗り、天文17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻りました。

しかし細川晴元の家臣の三好長慶(ながよし)が晴元を裏切り、天文18年(1549年)6月、江口の戦いで晴元が長慶に敗れたことで義晴・義藤父子は再び近江坂本へ退避。
翌年、義晴が穴太(あのう、大津市)にて死去し、義輝は中尾城(京都市左京区)で三好氏と戦いますが堅田へ逃げ、翌年に朽木へ。
その後義藤は長慶を暗殺しようとしますが、天文21年(1552年)1月、細川氏綱(うじつな)を管領にするという条件で長慶と和睦し、京に戻りました。

義輝と長慶の和解

ただし義藤が将軍というのは有名無実となり、長慶とその家臣である松永久秀の傀儡(かいらい、操り人形にされること)に。
そのため義藤は再び晴元と協力し長慶と戦いますが、敗れて近江朽木へ再び逃れ、この地で5年を過ごし、この時名を義輝に改めています。

永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎(じょうてい))の支援で晴元とともに坂本に移り、翌月、如意ヶ嶽(にょいがたけ、京都の東山にある山の一つ)に布陣して三好長逸(ながやす、三好家の長老的存在で三好三人衆の一人)と戦い、最初は優勢でしたが、途中で六角義賢の支援を打ち切られ、義輝の思うような展開にはならず。
11月、六角義賢の仲介で和議が実現し、5年ぶりに京へ入り、御所での直接的な政治を行います。

しかし長慶は義輝の権威に取り込まれることを恐れ、なおかつ義輝との和解も難しく(将軍とはいえ、何度も戦った相手と仲良くするのは難しいですよね)、永禄2年(1559年)12月に嫡男の孫次郎が義輝から一字をもらって「義長」(よしなが)と名乗らせると、三好家の家督と本拠地の摂津国芥川山城(あくたがわやまじょう)を義長に譲り、河内国飯盛山城(いいもりやまじょう)へ移り、自分と義輝との間に距離を置くことで関係の安定化を図りました。

永禄の変で義輝はなぜ死ぬことになった?

永禄の変で義輝はなぜ死ぬことになった?

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義輝は幕府の権力と将軍の権威の復活のために、頻繁に大名同士を調停。
甲斐の武田信玄と越後の長尾景虎が川中島で戦ったことの調停も行い、長尾景虎の関東管領職就任を許可。

永禄元年(1558年)義輝が帰京してからも三好長慶の権勢は続き、これに反対する畠山高政と六角義賢が蜂起し、久米田(くめだ、大阪府岸和田市)の戦いで三好実休(じっきゅう)が死ぬと、三好氏に衰退の影が。
永禄7年(1564年)7月に長慶が病死し、義輝はこれを機に幕府権力の復活に向け、さらに政治に力を注ぎますが、松永久秀と三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好政康(まさやす)・岩成友通(いわなりともみち)の三人)にとって直接統治にこだわる義輝は邪魔な存在でした。

久秀の長男・久通(ひさみち)と三人衆は10代将軍義稙(よしたね)の養子・義維(よしつな)と組み、義維の嫡男義栄(よしひで)を新将軍にすることを朝廷に掛け合いますが受け入れられず。
義輝が頼みとしていた六角義賢も近江を離れられなくなっていました。

永禄8年(1565年)5月19日、久通と三好三人衆は主君・三好義継(よしつぐ)とともに約1万の軍勢とともに御所へおしかけ「将軍に要求がある」と取次ぎを求め、奉公衆の進士晴舎(しんじ はるいえ)が訴状の取次ぎで往復する間、三好・松永勢は四方の門から侵入して攻撃を開始します。

剣豪・塚原卜伝(ぼくでん)から直に教わったという薙刀(なぎなた)で義輝も奮戦、義輝の家臣も激しく応戦しますが多勢に無勢。
義輝は寄せ手の兵たちに四方から畳を盾として同時に突きかかられ死亡、昼頃には義輝主従全員が討死しました。
この事件を「永禄の変」といい、義輝は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」という辞世の句を残しています。
無念な感じがありますね。

スポンサー大名を求めて諸国を流浪した義昭

還俗し将軍になることを決意した義秋

還俗し将軍になることを決意した義秋

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この永禄の変で覚慶(義昭)も久通らによって捕縛され、興福寺に幽閉・監視されましたが、義輝の側近の和田惟政(これまさ)や細川藤孝(ふじたか)によって助けられ、伊賀の国へ脱出。

義輝も頼りにしていた近江の六角義賢の許可を得て覚慶は甲賀の和田城(和田惟政の居城)に身を置き、将軍になることを宣言。
その後野洲郡矢島村(守山市矢島町)を在所とし、上杉輝虎(てるとら、謙信)に室町幕府の再興を依頼。
そして永禄9年(1566年)2月17日、覚慶は矢島御所において還俗(僧になった人が一般人に戻ること)し、「義秋」と名乗りました。

義秋は輝虎と河内国の畠山高政、能登国守護の畠山義綱と親密に連絡を取り、特に高政は積極的に義秋を支持し、弟の昭高(あきたか)を義秋の家臣に。
六角義賢は上洛に当初は積極的で、和田惟政に命じて、北近江の浅井長政と織田信長の妹であるお市の婚姻を、実現させるように働きかけています。
義秋と六角・和田の構想は、敵対していた六角氏・浅井氏・斎藤氏・織田氏、さらには武田氏・上杉氏・後北条氏らの和解を図り、彼らの協力で上洛を目指すものでした。

信長の力を借り、15代将軍へ

実際に和田と細川藤孝の説得で信長と美濃の斎藤龍興(たつおき)は和解し、信長は六角氏の勢力圏内を通って上洛することに。
しかし、織田軍は斎藤龍興に襲撃され尾張へ撤退、さらに六角義賢が三好三人衆と内通したという情報が入り、義秋は妹婿の武田義統(よしむね)を頼って若狭国へ。
しかし、若狭武田氏も上洛できる状況ではなかったため、義秋は越前の朝倉義景の元へ。
義景は義秋を奈良に脱出させた黒幕だという説がありますが、積極的な上洛の意思を示さなかったため、義秋の越前滞在は長い期間に。
義秋がそうこうしている間に永禄11年(1568年)、京では三好三人衆が義栄をかつぎ上げて将軍にしてしまいます。
誰も助けてくれる大名がいないために、自分がなるはずだった将軍の座を取られてしまったわけで、力がないから仕方がないとはいえ、悲しいものですね。

永禄11年(1568年)4月15日、義秋はようやく元服式を行い、「義昭」と改名。
そして朝倉家の家臣だった明智光秀のすすめで、信長を頼り尾張国へ移ります。
義昭は「流浪の将軍」と言われていますが、よくこんなにいろいろな人を頼っていけるものですね。
現代の就職活動、もしくはスポンサーとかパトロン探しということになりますか。

永禄11年(1568年)9月、義昭は織田軍と浅井長政軍に守られて、ついに上京。
これを見て三好三人衆は京から撤退し、将軍義栄も病死したため、義昭は将軍宣下を受け、15代将軍となります。

義昭にとって切り離せない存在・織田信長とは?

桶狭間の戦いで知られるようになった信長の武勇

95871:桶狭間の戦いで知られるようになった信長の武勇

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ここで、歴史が好きな人はよく知っている内容だとは思うのですが、義昭が将軍になるまでの織田信長のことを説明しておこうと思います。
足利義昭にとって信長は切り離せない存在ですから。

信長は天文20年(1551年)、父信秀の死によりその跡を継ぎます。
信秀は織田氏の庶流(本家ではない)でありながら、その知略で本家や守護の斯波氏(しばし)を上回る勢力を築いた人。
一方その子の信長は若い頃から奇行で知られ「大うつけ(愚か者のこと)」と悪名が高かったので家中では弟の信行を当主に推す声も。
父の葬儀で祭壇に抹香を投げつけた話は有名ですね。

しかし、当主となった信長は不穏な動きを見せた弟・信行とそれを支持する家臣を倒し、家中の争いを集結させ、さらに主家の織田本家と斯波氏を滅ぼして尾張統一を果たしました。

そして、永禄3年(1560年)駿河の今川義元が25000の兵を率いて上京しようとし、尾張に攻め込みますが、信長はわずか2000の兵で義元のいる桶狭間を奇襲し、義元の首を取るという大勝利をあげます。

この戦いで信長の名前は広く知られるようになり、義昭も桶狭間で義元の大軍を破ったという話を聞いて信長を頼りにする気になったのでしょうか?

美濃の斎藤氏との戦いと義昭との出会い

美濃の斎藤道三は一代でその勢力を築き上げた男で、信長を高く評価し、娘の濃姫(のうひめ)を嫁入りさせて同盟を結んでいました。
しかし、道三は息子の義龍と確執の上に殺され、織田と斎藤は敵対関係に。
余談ですが、私はこの話を道三と信長、明智光秀を主人公にした、司馬遼太郎の「国盗り物語」で読んだのですが、主人公の道三が打ち取られるのは辛い話でした。

義龍は戦上手で、信長に隙を見せませんでしたが若くして病死。
子の龍興(たつおき)が跡を継ぐと、信長は美濃三人衆と呼ばれる実力者たちを「龍興なんかの元で働いてて楽しい?オレの部下になれよ!」と調略し味方に付け、龍興の本拠地の稲葉山城を攻め落とすことに成功。
有能だった義龍と比べて龍興は人望の点などで劣っていたようで、そこに信長が付け入る隙があったそうです。
龍興が竹中半兵衛に恥をかかせて、策士半兵衛に一度城を乗っ取られて、半兵衛がその後龍興に城を返し、その話を聞いて羽柴秀吉が官兵衛をスカウトするという胸のすく様な話も。

こうして美濃を手に入れた信長は稲葉山城を故事にちなんで「岐阜城」に改名し本拠を移します。
そして「天下布武」という印を使うようになり、この2つには信長が天下統一を目指す覚悟が現されているような感じがしますね。

翌11年には上洛を果たし、天下統一に向かって突き進んでいきます。
四方八方の敵と戦い続けて勢力を広げ、当時随一の実力者となった信長でしたが、その信長でも手に入れることができないものがあり、それを持って信長の前に立ちはだかったのが室町幕府最後の将軍義昭でした。

室町幕府の再興と信長との対立

室町幕府を復興し、恩人・信長を父と崇める

室町幕府を復興し、恩人・信長を父と崇める

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武力がありながら権威がないために天下取りにブレーキがかかっていた信長と、実権はありませんが将軍後継者の資格を持つ義昭、この二人の利害がガッチリと一致し、二人は手を組むことで理想的な形で己の目的を果たすことができたのです。

そして、前述の通り義昭は信長と浅井長政に守られて京に入り、15代将軍に。
義昭は当初本圀寺(ほんこくじ)を宿所にしていましたが、永禄12年(1569年)1月5日に信長の兵が美濃・尾張に帰還すると、三好三人衆が本圀寺を襲撃(本圀寺の変)。
しかし、浅井長政などがこれを撃退し、この事件を教訓にして、防備のため、烏丸中御門御第の再興および増強を図り、信長に整備させます。
これは義昭の将軍邸であり、二重の水堀で囲い、高い石垣を新たに整備したもので、防御のための機能を格段に充実させたため、「洛中の平城」と呼ばれるほどの大規模の城郭の様なものに。
そして、ここには家柄の高い者が次々と出入りし、ここに義昭の念願であった室町幕府の再興が果たされたのです。

義昭は信長の活躍に「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」という称号を送って讃え、信長に宛てた感状に「御父織田弾正忠(信長)殿」とも書かれていて、信長を父と崇めました。
信長と義昭は信長の方が3歳上なだけなので、「父」は少し大げさな気もしますね。

信長との関係はどのように悪化していった?

しかし、上洛を果たすと信長の義昭に対する姿勢は変化していき、信長は義昭が勧めた「副将軍」の地位を断るなど(和泉守護や管領なども)、将軍家の将来性に見切りを付けていたという話も。

永禄12年(1569年)8月、信長が自ら伊勢の北畠氏を攻めた時、本拠地の大河内城を落としきれず、義昭に仲介を頼み和睦が成立。
しかし、信長が次男の信雄(のぶかつ)を北畠家の養子に押し付けるなど、義昭の意向に反する行動を取ったことで関係が悪化していきます。

信長は将軍の権力を抑制するために、永禄12年(1569年)1月14日、「殿中御掟」という9箇条の掟書を義昭に承認させ、さらに元亀元年(1570)、5箇条が追加され、それは義昭の将軍としての実権を実質的に奪い取るもの。
信長は義昭を自分の操り人形とし、実権は全て自分で掌握しようとしたのですが、義昭はこれらを遵守しようとはせず、両者の関係は微妙なものになっていきます。

力のない将軍なので仕方ないことだとは思いますが、ここからどうにかして信長に反抗しようとするのが、この人の面白い所ですね。

義昭が利用した将軍の権威とは?

義昭が利用した将軍の権威とは?

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義昭の権威を我がものとし天下人の資格を得つつあった信長ですが、各地で信長に反抗する勢力が現れます。
元亀元年には妹婿である近江浅井長政が越前の朝倉義景と結んで反し、大坂の石山本願寺や三好三人衆(義昭の兄・義輝を殺した人たちでもあるのですが、これがその場の利害で義昭の言うことを聞いているのですから、皮肉なものですね)、さらに甲斐の武田信玄までもが打倒信長を掲げます。
これは義昭が全国各地の大名に御内書を送り、「信長を倒せ」と命じたことによるもので、「信長包囲網」と呼ばれるもの。
信長がこれを知った時「将軍の権威がここまで強いものか」と思い知ったそうです。

信長包囲網の中心に義昭がいることは信長にもわかっていて、信長は「17か条の異見状」を義昭に送りつけます。
これは義昭の陰謀については触れず、悪政を17か条にわたり細かく追求するもの。
義昭との全面対決の前に自分の立場を正当化しようとしたのです。
ちなみに私がこれをサラッと読んでみたところ、義昭の悪いところ17カ所を嫌味にチクチクと書き連ねている感じがして、これはまず義昭が読んだらイライラしてくる内容だと思います。

信長は義昭が天皇をないがしろにしていることなどを強く非難し、自分が皇室を擁護していることを世間に知らしめ、将軍の権威を持つ義昭に対し、天皇の権威で対抗し、二人の全面対決は避けられない状況に。

元亀3年(1572年)12月、西上する武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川・織田の連合軍を破ると、翌年早々に義昭はついに打倒信長の兵を挙げます。

義昭と信長の対決はどうなった?

元亀4年(1573年)信長は自分の子を人質にすることを条件に義昭に和議を申し入れますが、義昭はこれを信じず一蹴。
義昭は近江の今堅田城と石山城に兵を入れ、はっきりと信長に反旗をひるがえしますが、信長軍に攻撃されると数日であっさりと陥落。
しかも、三方ヶ原で徳川家康の家康の軍を破った武田信玄は病状が悪化し甲斐へ撤退、そして信玄が死去。
信長包囲網を構成した中で最強の武将であった信玄が死去したことで、包囲網にほころびが見えてきたのです。

しかも、幕臣で義昭の流浪時代を支え続けた細川藤孝や、同じく幕臣の荒木村重も、義昭を裏切り信長につくことに。
しかし、義昭は信玄の死を知らなかったのか、洛中の居城である烏丸中御門第にこもって抵抗。
信長は再三に渡って和睦しようとしますが、義昭は信用せずに拒否。
信長は威嚇として幕臣や将軍関係者が居住する上京全域を焼き討ちし、烏丸中御門第を包囲し、義昭に圧力をかけ、朝廷に工作して勅許を得ることで、4月5日にようやく講和が成立しました。

義昭は大して戦闘に強いわけでもないのに「しぶといな」というのが私の感想です。
信長も決して戦が上手くなかった、という説もありますが。

義昭の抵抗と信長包囲網の破綻

義昭の抵抗と信長包囲網の破綻

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しかし、義昭は7月3日に義昭は講和を破棄し、南山城の槇島城にこもり、またも挙兵。
槇島城は宇治川と巨椋池(おぐらいけ)水系の島地に築かれた要害でしたが、烏丸中御門第を預かっていた三淵藤秀(ふじひで)が降伏し、槇島城も7万の大軍に包囲され、7月18日に織田軍が攻撃すると槇島城の施設はことごとく破壊され、義昭はしぶしぶ降伏。

信長は有力な戦国大名に「信長が将軍家を追放した」と言われるのを恐れ、義昭の息子の義尋(ぎじん)を将軍家の後継に立てることを約束。
しかし、これは後に信長によって反故にされています。

信長は義昭を追放した後足利将軍家の山城および若狭・丹波・近江などの御料所を自分の領地に。
さらに浅井・朝倉両家を滅ぼし、こうして義昭が将軍の権威を使って築き上げた信長包囲網は破綻します。

自分ではわずかな兵力しか持たない義昭は(「他人のふんどしで相撲を取る」ようでズルいと思うのは私だけでしょうか?だからこそ信長にとって脅威だったのでしょうが)他の大名からの援軍もないまま信長軍から圧倒的に攻撃され、京から追放され、ここで約240年続き、再興したと思われた室町幕府は滅亡。
都を追われた義昭は一揆の農民に金品を奪われ、「貧乏公方」(「公方」とは足利将軍家の一族の者を指します)とののしられ、妹婿の三好義継のいる河内に逃げ延びます。

京を追放され、秀吉に保護された義昭

備後の鞆に移った義昭は何をした?

95872:備後の鞆に移った義昭は何をした?

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その後義昭は堺に移り、羽柴秀吉などが帰京を求めますが、義昭が信長に対し人質提出を求めるなどしたため破断。

信長に敗北して2年余り経った天正4年(1576年)、義昭は毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆(とも)へ。
西の雄・毛利を頼った義昭は再び打倒信長の執念を燃やします。
鞆はかつて足利尊氏が光厳天皇から新田義貞追討の院宣を受けたという、足利家にとって由緒のある場所で、また第10代将軍・足利義稙(よしたね)が大内氏の支援のもと、京都復帰を果たしたという故事もある、足利家にとって縁起の良い土地でもありました。

ちなみに現在の鞆の浦は観光地で、江戸時代まで商人がたくさん住んでいた港町であったこともあり、かつて灯台の様な役割をした常夜灯に、港に敷かれた雁木(がんぎ)、狭い路地の街と海と仙酔島の綺麗さ、魚介の美味しさと、坂本龍馬が紀州藩との海難事故の裁判に利用した福禅寺の対潮楼などが有名です。
義昭と絡めて行ってみてはいかがでしょうか?

これ以降の義昭の亡命政府は「鞆幕府」とも呼ばれ、備中国の御料所からの年貢や五山住持の任命権を使った礼銭、また宗氏や島津氏などからの支援もあり、財政的には困っていなかったそう。

近畿東海以外ではまだ義昭を支持する大名も多く、義昭は鞆から全国の大名に自分に味方して信長を討つように連絡を取り、毛利と石山本願寺、上杉謙信と北陸の一向宗勢力を「反信長」の思想で連携させ、第2の信長包囲網を作ろうと画策しますが、兵を出す大名はおらず、そうこうしている内に、天正6年(1578年)3月に上杉謙信が死去、天正8年(1580年)には義昭が最も頼みとした石山本願寺が信長に降伏します。
これで義昭の構想も崩れてしまったということになりますね。

信長が死に、義昭は何を思った?

信長を最も手こずらせたのは「進めば往生極楽」を信念とし、死ぬことを恐れずひるむことなく立ち向かってきた一向宗徒。
天正元年(1573年)、伊勢長島・越前と相次ぐ一向宗徒を、信長は容赦なく虐殺し反乱を鎮めます。

天正4年(1576年)、信長は安土城の建築に着手。
この当時すでに信長の宿敵の多くはこの世を去り、信長を苦しめた一向宗徒も抵抗する力を失い、信長の天下統一は目前。
しかし、天正10年(1582年)信長は京都の本能寺で明智光秀によって倒され、これを知った義昭は書状の中で「自分が信長を討ち果たした」と記しています。

本能寺の変はまだ謎な部分もあるとされていますが、光秀を裏で操っていたのが義昭だったら面白いですね。
しかし、ここまで義昭がいろいろな大名を信長に敵対させてきたことを考えると、「意外なことでもないかな?」と思えてしまいますね。
本能寺の変の後、義昭は鞆から山陽道に近い津之郷(現福山市津之郷町)に移っています。

信長の死を機に義昭は毛利氏に上洛の支援を求めますが、小早川隆景は「羽柴秀吉との約束を破ることになる」と反対。
本能寺の変で信長が討たれた情報を得た時、秀吉はすぐさま毛利と講和を結び、備中高松城から退却。
中国大返しといわれる猛スピードでの大軍の行軍を行い、山崎で明智光秀を討ちました。

その時隆景の兄の吉川元春は「秀吉軍を追撃しよう。
こんなチャンスはない!」と主張しましたが、隆景は「約束は約束だから」と秀吉との休戦協定を守り、そのおかげで隆景は秀吉に気に入られ取り立てられましたが、律儀な人だったのですね。
しかし、もし義昭が元春と組んで無理やり毛利家を動かしていたら、歴史は変わっていたのかもしれませんね。

秀吉の御伽衆となり、肥前名護屋にも出陣

秀吉の御伽衆となり、肥前名護屋にも出陣

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その後毛利氏が羽柴秀吉に臣従し、天正14年(1586年)秀吉は関白太政大臣となり、その後、「関白秀吉・将軍義昭」という時代は2年間続き、この2年間は秀吉が天下統一に向けて進んでいく期間となります。

天正15年(1587年)、秀吉は九州征伐に向かう途中、津之郷を訪れ義昭と対面。
義昭は島津氏に対し秀吉との和睦を勧めていましたが、島津氏が秀吉に降伏したため、義昭は京都に帰還。
元亀4年(1573年)に信長に京を追い出されて以来ですから、14年ぶりの帰京ということになりますか。
感慨深いものがあったのではないでしょうか。

また、秀吉は「将軍になりたいから養子にしてくれ!」と義昭に頼んだこともあったそう。
義昭は「いくら天下人でも、元々の身分が低い人を養子にするのはイヤだな」と思い、断りました。

天正16年(1588年)1月13日に将軍職を辞職、一介の僧侶に戻り、名を昌山(道休)と号しています。

また、秀吉から山城国槇島(まきしま)で1万石を与えられ、朝鮮出兵の際には200の兵を従えて肥前名護屋まで参陣。
戦闘をする気はないのでしょうが、秀吉軍の諸大名を勇気付けたり、また多少の見栄を張りたいという気持ちだったのではないでしょうか?とりあえず「大きな戦が起こっているのに、じっとしてはいられない」そういう気分だったのではないかと察します。

晩年は秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)となり、秀吉の良い話し相手となったそう。
そして、慶長2年(1597年)8月、大坂で死去。
死因は腫れ物であったとされますが、老齢で肥前まで出陣し無理をしたことが原因とも。
しかし、義昭は足利将軍の中では最も長命で、61歳まで生きたそうです。
足利将軍は暗殺されたりした人も多いので義昭は歳を取ってからのんびりと過ごせて、幸せだったのではないでしょうか。

そのしぶとさと元気さは一級品だった義昭

兄が暗殺されて、僧侶になっていた義昭は還俗し将軍後継者に。
しかし、六角氏や朝倉氏を頼るも兵を挙げて京に上がろうとはせず、最後に義昭が頼ったのは織田信長。

信長の力で義昭は将軍になり、父と崇めるも仲が悪くなりやがて対立し、浅井・朝倉氏や武田信玄などに御内書を送り信長包囲網を形成。

信長と戦うも負けて京を追放され、毛利氏を頼り備後鞆の浦に住むも、再び諸国の大名に御内書を送り第2の信長包囲網を形成。
その「信長憎し」のしぶとさに感嘆しましたが、秀吉の時代になってからは秀吉の御伽衆となり保護され、肥前名護屋に兵を出したりして元気な所を見せたりもしました。

兄・義輝と織田信長を絡めて義昭を紹介してみました。
義昭は決して何かに秀でた人物ではなかったかもしれませんが、そのしぶとさと元気で動き回る様子は今の人にとって、とても刺激を受ける姿ではないでしょうか?

それではこの辺で失礼して、読んでくれてありがとうございます!

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