ローマ帝国が滅びた原因だった?ゲルマン民族とローマの歴史

「375年、みんなGO」のごろ合わせで覚えたゲルマン民族の大移動ですが記憶にありますか?
古代ローマ帝国が滅びた原因の一つがこのゲルマン民族の大移動だと言われています。今回は特にローマ帝国が滅んでいくのにゲルマンの民族がどうかかわったのか、そしてゲルマンの民族はどこへ行ってしまったのか。そして本当にゲルマン民族って蛮族なのか。
そのような内容を中心に彼らの歴史をご案内したいと思います。

ゲルマン民族を知っていますか?

ゲルマン民族を知っていますか?

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ゲルマン民族って誰

そもそもゲルマン民族の定義はあいまいです。

3世紀ごろの彼らは自らのことを「ゲルマン人です」とは認識していませんでした。

この「ゲルマン民族」という呼称はゲルマンの地に住む人々を総称して後年に学者によって名づけられたものなのです。

当時のローマ人でさえ彼らのことは一括して「蛮族(バルバルス)」と認識しており、せいぜいゲルマニアの民族という位置づけでした。

ゲルマニアも当時ローマ帝国の国境であったライン川東部とドナウ川北部の地域を一括して総称していたので、この地域にいる民族がローマ人にとって蛮族でした。
現在では北はスカンジナビア半島からブルガリアとドイツよりも東の一帯になります。

古代ローマ人はもっと細かに彼らのことを認識しており、西ゴート族・ヴァンダル族・アングロ族・フランク族といったように部族の名称で彼らを区別していました。

後年の学者が「蛮族」という言葉をローマ側の視点で差別的と捉え、後に彼らを一括して「ゲルマン民族」と総称したと言われています。

ローマ人からみた視点

歴史に主に登場するのは紀元前1世紀の歴史家ポセイドニオスによって書かれたそうですが、現存しておらず、現在確認できる最古の記載はユリウス・カエサルのガリア戦記においての記述です。

カエサルが今のフランスとベルギーあたりまで進軍し、ガリア人達をローマの属州へしていく際に、ゲルマニアの地域について記載していました。

その中にはガリア人(ケルト人)とゲルマニアに住む民族は明らかに異なり、彼らは他者と同化する性質を持たないとして、ライン川とドナウ川を国境とし互いに棲み分ける政策を選んだと言われています。

ローマ人がいうところの蛮族の彼らは文字を残したり記録を持たないため、どうしても後世の私たちはローマ人の視点を通してみたゲルマンの民族を想像してしまいます。

そのイメージとしては野蛮で暴力的で女子供も容赦なく襲い、略奪し、文化的な要素もないイメージを抱きがちです。

そのイメージは半分合っていて、半分はデフォルメされたイメージになります。

古代ローマ末期のゲルマン民族

古代ローマ末期のゲルマン民族

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ゲルマン民族のタイプ

4世紀ごろの古代ローマ時代に見られるゲルマン系民族はおおよそ3つのタイプに分けられると言われます。

#1 生まれたときからローマ人

ローマ軍に所属していた父親の代からローマ帝国内に住んでおり、父親またはそれより以前にローマ市民権を得てローマ帝国内に人間関係がありキャリアを積んできた蛮族出身者。
ローマ社会に溶け込んだローマ化した人たちです。

#2 蛮族部族長

自らの部族との関係は離れることなく、その部族の長であり、同胞を統率できる地位にあった者。
彼らはローマ帝国とは同盟関係にある部族長として帝国内に部族の居住権を得、その代償にローマ軍と共闘して侵攻してくるほかの部族を撃退するという約束で成り立っていました。
傭兵契約のような関係ですが、この時代になると蛮族の侵入を蛮族の兵を持って退けなくてはいけないほどローマ軍の力は弱まっていることが伺えます。

#3 完全な略奪者

ローマ帝国内は侵略し略奪する対象の土地だと認識しており、完全にローマにとっては敵でしかなかった者たちです。
4世紀より前からこのタイプは自分たちの土地が不作になると侵攻しては略奪をして戻っていくことを繰り返していました。
しかし4世紀ごろになると、侵攻して略奪した後に居座るようになっていきます。
遠くはアジアから西に勢力を伸ばしてきたゲルマン系ではない蛮族のフン族によって自分たちが住む場所が荒らされたからです。
このようにみると私たちが思い描くタイプのゲルマン人はタイプ3が近いのですが、彼ら以外のローマに同化または共存しているゲルマン民族もいたことがわかります。

ゲルマン民族のローマ帝国内の位置づけ

ゲルマン民族のローマ帝国内の位置づけ

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ローマ人か蛮族出身者か

では彼らはローマ帝国内ではどのような位置づけだったのでしょうか。

ローマ帝国では他民族の国家であったため、部族の混血化などについてはおおらかな傾向にありました。

しかし、父系社会でしたので父親が誰かということが大事になってきます。
ローマ市民は自ら国を守るため軍人として地方へ赴くことも多かったため、混血化するタイプとしては父親がローマ人で母親が蛮族出身であることが多かったのです。
そうなるとその子供はローマ人の子供となり、ローマ人同士の子供と扱いは同じになります。
しかし4世紀ごろになるとこの傾向が逆転します。
父親が蛮族出身で母親がローマ人という者が増えるのです。
これは帝国内に蛮族出身の者が定着していることがわかります。
この場合の子は蛮族の子扱いとなるのです。

ローマ化した蛮族の信仰

そしてこのゲルマン系の民族のタイプ1と2のほとんどはキリスト教徒でした。
タイプ3は古代ゲルマン系の神々を信仰している人々でした。

4世紀にはすでにローマ帝国はキリスト教の国となっていたので蛮族とはいえ同じ神を信仰する者同士でもありました。
ただローマ人はニケーア公会議で正教とされた三位一体を是とするカトリック派の信者で、主にゲルマン民族はキリストは限りなく神に近い人として信仰するアリウス派だったのです。

なぜかキリスト教徒は異教徒よりも異端の宗派に対する非難が強い傾向にあり、ローマ人は異端のアリウス派の信仰する蛮族を蔑視する傾向にありました。

しかし、現実問題として、蛮族の問題を解決してくれるローマ内の蛮族と共闘の蛮族がローマ人には必要な時代でした。

彼らは主に軍人としてそして帝国末期の5世紀になると貴族や元老院の構成員としてローマの中で生きていくことになります。

ローマ帝国の分裂

ローマ帝国の分裂

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ローマ帝国はなぜ分裂したのか

395年、ローマ皇帝のテオドシウスがミラノで息を引き取ります。
ローマ皇帝としての責務を果たすため16年間ローマ軍を率いてきた実力者の皇帝は、幼い子供たちにその皇位を譲ります。
しかし広大なローマの統治は若い息子たちには難しいと考え、18歳の長男には東方を、10歳の二男には西方を主に担当して治め、有能で忠実な右腕であったスティリコには彼らの後見人をするように言い残しています。

おそらく国を分けるつもりではなく、分割してそれぞれを担当する意味だったのだと思いますが、これ以降ローマ帝国は東西に分かれ、一度も統合されることはありませんでした。

テオドシウスの思惑とは外れていきますが、ひとつ思った通りになったことがあります。

それは有能なスティリコが今後主に西ローマ帝国を守り導いていくことになるからです。
人選は正しかったといえるでしょう。

蛮族で最後のローマ人スティリコ

ヴァンダル族出身の父親が、先々帝の時代から軍人として騎兵団を率いていたということと、母親がローマ人だったという以外あまりその出自はわかっていないスティリコ。

23歳の時にペルシアとの不可侵協定の交渉に派遣され、彼がその若さでこの交渉を有利にまとめたとしてテオドシウス帝はその功績として皇帝護衛隊長として抜擢します。
さらに姪を養子にして彼に嫁がせて、皇室の一員として迎え入れたのです。
その後は皇帝とともに遠征に行き、軍事経験を積んでいきます。
そして軍事司令官としてローマ軍団を指揮するまでになるのです。

性格はとてもまじめで、死の床にあるテオドシウス帝に誓ったことを生涯忘れず、どんなに窮地に追い込まれても皇帝を見捨てず前線で戦い、自分がその皇帝の座を狙うことはありませんでした。

古来、ローマでは自分でローマを守るために戦うのがローマ市民たる者だったのですが、4世紀末にはローマ軍は純粋なローマ人よりも蛮族出身の者で構成されるようになっていきます。
それゆえに後の人はスティリコが最後のローマ人であったと評するようになったのです。

そしてローマ軍最高司令官である残された二人の皇帝はどちらもローマを守るために自ら戦うことは生涯ありませんでした。

略奪者西ゴート族

略奪者西ゴート族

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西ゴート族のアラリック

幼い兄弟にその帝位が譲られると、今がチャンスとばかりにすぐに行動を起こしたのはこれまでも何度も南下してきてはローマとぶつかっていた西ゴート族のアラリックでした。
西ゴート族はローマと同盟部族の関係にあり、帝国内の決められた地域に住むことを許される代わりに蛮族との戦いのときには共闘する約束をしていた部族です。

状況が変わるとすぐに態度をかえて約束をたがえるのは、ゲルマン系の部族によくあることではありました。

このアラリックとスティリコの関係からローマとゲルマン民族のかかわりを見ていきましょう。

アラリックは東ローマ帝国領内のバルカン半島の北部・ドナウ川の南側の地域を略奪して回ります。

軍総司令官となったスティリコは北のライン川上流へ遠征中にそれを知り、軍を分けて精鋭の兵たちを率いて駆けつけます。

そしてあっさりとアラリックは負けてゲルマニア山岳地帯に逃げ込みます。
もちろん追撃するつもりのスティリコは事前に手配した援軍と合流。
いざ出向という時に、思いもかけないところから横やりが入ります。
東ローマ皇帝から精鋭の兵は東に返してスティリコは援軍と西の防衛に戻れというものでした。
追撃をして今後の憂いを断つのは戦闘の定石ですが、軍隊経験のない最高司令官の皇帝が出した命に従い、スティリコは腹心の部下に精鋭の兵を託しイタリアへもどります。

再びアラリック対スティリコ

また翌年アラリックが南下。
今度は東ローマ帝国内のバルカン半島をぐるりと1年かけて略奪して回ります。
その間、東ローマ皇帝が軍に命じたのは首都の警備だけで、民を見捨てて傍観を通します。
略奪しつくし北上してきたアラリックが西ローマ帝国領に近付くとスティリコが立ちはだかり、対戦。
またもスティリコが勝利し、アラリックは再び山岳地帯へ逃げ込みます。
この勝利に対してコンスタンチノープルでは同じ蛮族だから手を抜いてアラリックを逃がしたと非難がわき起こり、嫌気がさしたスティリコは追撃もせずイタリアに戻ります。
呆れたことに再びローマ人たちが彼を止めたのです。

このアラリックをどうにかするために東ローマ帝国がとった手段は、まさかのアラリックを「軍司令官」に任命することでした。
担当場所は現在のオーストリアからクロアチアの地域で昔から軍事防衛の要の地域です。
主に街道が西の主要都市につながっており西に侵攻しやすい地域でもありました。
つまり、西ローマ帝国にこの厄介者を押しつけたということです。

この対応は東ローマ帝国は脅せば屈するとの事実を知らしめることになり、ほかの蛮族へ大きな影響を与えることになります。

さらにアラリックを増長させ、スティリコが北方へ不在の際に西ローマ帝のいるミラノに向かって進軍します。
もちろん三度スティリコが立ちはだかり、今回は大きな打撃を受けてまた敗走します。
どうしても彼には勝てなかったのです。

別の蛮族襲来

別の蛮族襲来

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黒い森の国境が機能しなくなった

アラリックがおとなしくなり、ほかの蛮族とも同盟を結び落ち着きを取り戻したのもつかの間、405年東ゴート族の王・ラダガイゾを代表としてスヴェビ・アラニ・ブルグンドの諸族たちがライン川を越えて侵攻してきます。

彼らは統制のとれた侵攻ではなく、アジアのフン族から追い立てられてローマへ入ってきました。
このころのヨーロッパは気候変動があり、特に北の方は気温が上がらず作物が育たないようになったのです。
フン族に襲われても渡すものもなく、土地を捨てて南の温かい地域を求めざるを得なかったのが実情でした。

ゲルマンの彼らにとっても神聖な森であった黒い森と言われる深い森の国教はすでに国境として機能しなくなっており、40万人と言われる膨大な数の人と家畜が目的地もはっきりしないような動きで南下してきました。

その道筋にあたってしまった地域は不幸としか言いようがなく、戦闘を挑んでくるわけではなく、ただ押し寄せては奪い、抵抗する者は殺し、通り過ぎていくので、まるで台風が通りすがりに根こそぎいろいろなものを壊していくかのようだったのではないでしょうか。

ここでも活躍するスティリコ

はじめはラダガイソがどんな男かもわからない上に、どんな戦い方をするかも検討がつかず、さらに目的地すら分からずスティリコは迎え撃つことも困難でした。

しかしライン川を渡って、ガリアに進むのかと思ったらイタリアに向かっていることがわかり、迎え撃つタイミングを計るようになります。

というのも、スティリコには3万程度の軍しかおらず、深刻な兵士の不足にローマ軍は直面していました。
少ない兵で40万の人数と相対するには一気に勝負を決めるしかなかったからです。

ついにその地が決まります。
フィレンツェとフィエゾレの間の平原にキャンプしている彼らを濠と柵で囲い、真夏の間包囲することに成功します。
フィレンツェは盆地でとても蒸し暑い地域で、そこに閉じ込められ、食べるものも水もない状態でしたので北方から来た者にとってはとても耐えられなくなり降参することになります。
代表であったラダガイソはとらえられ斬首。
40万の大軍は10万ほどピサからガリアへ逃げたと言われます。

今度はローマ兵の反乱も

今度はローマ兵の反乱も

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台風のようなゲルマン系の民族がガリアに流入

息つく暇もなく406年、新たなゲルマン系の民族がライン川中流からガリアになだれ込んできます。

ヴァンダル・スヴェビ・アラニ・サルマティアの部族たちでした。

彼らもまた、フン族に追われて帰る場所のない集団でした。

奪っては居座るという彼らは北のフランク族との戦いを避けるように西に進み、現フランスを南西に縦断していき、現在のスペイン国境の近くトゥルーズまでたどり着きます。

そしてガリアに侵攻してきたのは彼らだけではなかったのはガリアに住む人たちにとっては災難でしかありませんでした。

ローマ帝国が支配した最西北であったブリタニア(現イングランド南部)には帝国初期から常に国境警備軍が配置されていました。
5世紀ごろになるとその軍を維持できないくらい西ローマ帝国は弱体化。
北ではハドリアヌス帝が作った防壁を越えてくるスコット族と、東では海を渡って侵入するアングロやサクソンのゲルマン部族と対峙していました。

ブリタニアの兵士たちは報酬も滞りがちの中で蛮族と戦ううちに、皇帝に見捨てられたという思いを抱くようになります。

そして、ガリアへ行こうと呼びかけたものを皇帝として、彼らはブリタニアを捨てて、ドーバー海峡を渡りガリアへ侵攻します。

ガリアの住民は自分たちを助けにきてくれたと、勝手に皇帝を名のる者たちを歓迎し受け入れるというとても複雑な状況になります。

スティリコの苦肉の策

スティリコの軍は3万程度。
対して蛮族はどれだけの人数がいるかわからないほど。
とてもではないが現状では太刀打ちできない状態でした。

そもそも兵士を増強しようにも皇帝をはじめ元老院の貴族たちは自ら出陣することはもちろん、自分たちの身内や領地内から奴隷を提供することもなかったのです。
兵を雇う費用すら出し渋る有様でした。

この状況ではスティリコも苦肉の策を提案せざるを得なくなります。

それがアラリックとの同盟交渉です。
西ゴート族にガリアの混乱を治めてもらうというものでした。

その代償としてアラリックは4千リブレの金塊を要求。
金貨ではなく黄金での支払いで、約1500キロの金塊に相当します。

それまでもスティリコのローマを守るために貴族や元老院にとっては不利益な法律を突き付けられてきた彼らは一気に不信を募らせます。
それでもそれ以外に自分たちと蛮族の間のクッションの役割を果たすガリアを守れないとしぶしぶ可決します。

その後はやはり蛮族出身者と言われ、スティリコはどんどん孤立していき、ついには熱心なカトリックの妻までも異端の蛮族に助けを乞うなど許せないと彼に背を向けるようになります。

そしてついに今まで何一つ決めたことなかった西ローマ皇帝ホノリウスに会いに行ったスティリコは身に覚えのない反逆罪で死刑宣告され、すぐさま刑が実行されたのです。

ついにローマを包囲!やりたい放題のアラリック

ついにローマを包囲!やりたい放題のアラリック

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脅しのローマ封鎖

邪魔ものがいなくなったと喜んでいるアラリックの元に、元スティリコの部下であった将軍たちが集まってきます。
スティリコの下で一丸となって働いていた元は奴隷や蛮族出身の者たちは、その将を殺したローマに嫌気がさしたものと思われます。

こうして軍を補強したアラリックは408年、ローマの近くまで軍を進めます。

道中でローマ元老院に向けてガリア平定のために協約した4千リブレの支払いを要求する書簡を送ります。
ローマ元老院での可決は国策の決定であったため、たとえ立案者のスティリコが死んでもその決定は変わらないのです。
ぐずぐずしている元老院の返答を待たず軍は進みます。
ついにハンニバル以来620年ぶりにローマは城壁のすぐそばに敵を迎えることになったのです。

進軍するアラリックを止めるローマ軍もおらず、皇帝に至っては皇宮のあるラヴェンナで息をひそめていました。

そして3万の兵力でしかなかったアラリックたちはローマを包囲するのではなく封鎖することでローマの食糧の供給を止めたのです。
封鎖のわずか2カ月で降参することになり、元老院はアラリックに4千リブレを払うのでその封鎖を解くように求めました。
しかしアラリックはこれを拒否。
さらなる要求を突き付け、結果、当初より多い金塊と銀、絹の服・緋色の生地・貴重品だったスパイス、さらにゲルマンの血をひく奴隷たちの解放を得て、彼らはトスカーナへ移動します。
これだけの代償を払って得たものはローマの封鎖の解除だけで、同盟者となりローマの防衛の約束はしなかったのです。

ローマ劫掠

一度恐喝に成功した者は再び同じことをします。
ローマの元老院から富を脅し取ったという名声は蛮族にも伝播し、408年から409年のわずかな間にアラリックの元へたくさんの兵が集まり、3万から10万の軍へと成長していきます。

この好機を逃さず409年に、元老院へ前年に同意したのは封鎖の解除であり平和の確約ではないと脅しをかけます。
そしてその要求は

西ローマ帝国の軍司令官にアラリックを公式に任命することをはじめてとする、実質上北イタリアに西ゴート王国を作る内容でした。
元老院は皇帝の許可を求めますが、これをどのように対応したらいいか皇帝もその側近もわからず皇宮は大騒ぎになります。

返答がないため410年アラリックは再びローマを封鎖。

今度はまずローマの食品補給の要であるオスティアの港を閉鎖して小麦の供給を止める手段に出ます。

それを知ったローマ市民は別荘がある者はローマを捨てて逃げ出します。
相当の人数がローマから去ったと言われます。
そして410年の夏、西ゴート族はローマに攻め込み劫掠します。
事前に抵抗しない者は殺さない、キリスト教の教会には触れないという命令があったため教会に逃げ込んだ人々は助かったようですが、5日間の短い劫掠でローマは800年ぶりに敵の手に落ちたのです。

ローマ劫掠のニュースは各地でトップニュースとして伝わりそれを聞いた者が大変ショックを受けたと言われています。

そして劫掠を終えたアラリックは戦利品と身分の高い人質を連れて南下する途中で亡くなります。

西ローマ帝国の終焉

西ローマ帝国の終焉

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フン族との相対によって生まれたこと

これ以降の西ローマ帝国は皇帝の権力は地に落ち、その周りの高官や親族、軍司令官との対立と蛮族の将軍たちといった権力混乱の渦に巻き込まれ、一気にその力を弱めていきます。

そんなときについにゲルマンの民族が西に新たな地を求める原因を作ったフン族のアッティラと対立することになります。
場所は現在のハンガリーになります。
444年、フン族の族長が死に、弟であったアッティラがその地位に就くことになります。
彼らは目的もなく家を持つことにも関心がなく法律もなく、家族の概念がなく、明日の食事などを確保する気もない集団でした。

アッティラは10年ほどガリアを中心に暴れまわります。
それに対抗するのにゲルマンの部族たちとともにローマも戦います。
結果としてはアッティラが死んだことによって終わりを迎えますが、イタリアにも踏み込んだアッティラのおかげで生まれたものもあります。
一つ目はヴェネツィアの誕生。
アッティラが攻めてくる中、山にも逃げることができなかった人々が潟に住むために作った街です。
そして二つ目はローマ教皇レオ1世。
アッティラにイタリアから出て行ってもらうために元老院の者と説得に行ったローマ司祭レオがその人です。
実際はお金を払って出ていってもらう交渉だったようですが、カトリックでは聖人たちの力を借りてアッティラに暴虐を非難し、慈悲の大切さを説き、この説教に説得してイタリアから去ったとされています。
このころにはローマのキリスト教会が信仰の中心となり、ローマの司祭はローマ教皇と呼ばれるようになっていくのです。

ローマ帝国皇帝の最後

西ローマ帝国は高官たちによる傀儡の皇帝を擁立しては殺し、または病死し、常に北アフリカのヴァンダル族の海賊行為に悩まされるようになります。
東ローマ帝国は一旦は協力してヴァンダル族へ立ち向かいますが失敗し、早々に西ローマへの協力をしなくなっていきます。

このころの皇帝は蛮族出身のものもおり、さらに東ローマ帝国もあまりの惨状に自分たちの軍人の一人を皇帝とすると伝えてきたことによってさらに混乱することになります。
475年に少年皇帝が誕生しますが、蛮族出身の将軍たちが自分たちにも土地を与えろと要求したことを皇帝の父である高官がこれを拒否したことから将軍たちはオドアケルを筆頭に武力闘争にでます。

結果476年、少年皇帝の父は殺され、少年皇帝は退位させられ、一生をナポリのヴィラで過ごしたと言います。

その後、オドアケルは自らが皇帝になることもなく、東ローマ帝国に軍司令官の地位を要求するも答えてもらえず、仕方なくイタリア王を名のることになります。

ここに最後の西ローマ皇帝が消え、同時に西ローマ帝国も終焉を迎えたのです。

ヨーロッパの新しい国

ヨーロッパの新しい国

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406年にガリアの地に侵攻してきたゲルマンの諸族たちはその後どうなっていったのでしょうか。

北のゲルマン民族だったアングロ族とサクソン族はイングランドで7王国を築き、後の英国へと続きます。
デンマークあたりにいたフランク族はガリアの北中部にフランク王国を築き、その王クローヴィスがカトリックに改宗し、初のカトリックのゲルマン王国になります。
フランク王国はその後フランスと神聖ローマ帝国へ分かれ、現在のフランスとドイツへと続いていきます。

スイス北東にいたブルグンド族は今のリヨンやブルゴーニュ辺りにブルグンド王国を築きますが、中世の時代に公国へと変わり地方領主へ。
オーストリアあたりにいたスラブ系のスヴェビ族はガリアを横断し、ピレネーを越えてスペイン半島北東部、ポルトガルとバスクの元となります。

時代を経てゲルマンの民族は古来からのゲルマンの神からキリスト教へ改宗していき、それが新しい地域とつながっていき、侵略者ではなく統治者となり今のヨーロッパを形成していったのです。

突然歴史が大きく動く時

今回はローマ帝国が滅びていく過程でゲルマン民族がどのようにかかわっていたかを中心にみていきました。

ゲルマン民族が蛮族と言われる例もありましたが、それだけでなく帝国末期にはゲルマンの地を引く者がローマを守ることもあり、ローマ文化と融合していく民族もいました。

大規模な民族の流入で、既得権益にしがみつくローマから新しい時代の幕を開けたのです。

時に歴史の中にはこのように軸がずれて化学変化のように以前とは異なる時代に入っていく時があります。

それまでローマ文化とは違う文化圏にいたゲルマン民族とローマがぶつかり、それをキリスト教というこれまでと異なる基軸でまとまり、新しい国ができていくのは歴史の変わり目と言えます。

今でもキリスト教の祝祭日にはゲルマンの風習やローマ時代の名残も残っています。
それらからさまざまな民族と歴史の流れを感じてみるのも面白いと思います。

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