【歴史】いまだ解明されていない世界史の謎

数千年前のものなのに、現代の科学技術をもってしても、目的や作成者や建造方法が解明できていない。謎に包まれた不思議な遺構や遺跡が、この地球上にはまだまだたくさんあります。大昔、確かに存在していたはずの国や都市や、多くの人々。どんな暮らしをして、どんな歴史を紡いでいたのでしょうか。現代人を魅了し続ける世界史の謎の数々。ほんの一部に過ぎませんが、”不思議”の世界へご案内いたします。

何のために造った?謎が謎を呼ぶ巨大遺跡

王が天に昇るため?「エジプトのピラミッド」

王が天に昇るため?「エジプトのピラミッド」

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最も多くの人に研究されていて、最も多くの謎に包まれている遺跡。
それはピラミッドでしょう。

最も大きいとされるギザの大ピラミッドは高さ138m。
四角く切り出した数トン~数十トンもの巨石をうずたかく積み上げて作られた角錐の造形物は多くの人々を魅了し続けています。
観光地としても有名なギザのピラミッドは、数トン~数十トンもの巨石を230万個以上も使っているのだそうです。
さらにその表面は磨かれた石灰石で覆われていて太陽の光を反射して輝いていたとか。
また、深く巨石に覆われた内部の構造は長年不明とされていましたが、近年の研究調査で空間や通路があることがわかってきています。

ところで、エジプトにはいくつくらいピラミッドがあるかご存知ですか?確認できているだけで118基あるのだそうです。
さらに、調査過程であったり衛星写真などから「ピラミッドではないか?」と思われているものが20基ほど。
一見、砂に埋もれて山のように見えるものもあるらしく、今後も、新しいピラミッドが発見されるかもしれません。

また、これらの分布を見ると、どのピラミッドもナイル川の西側に、いくつかずつまとまって連なるように建っていて、日の沈む方角・死者の領域を示していると考えられています。
王が天へ昇るための階段だったのでは?という見方もあるそうです。

古代史に寄り添うように少しずついろいろなことがわかってきていますが、それでも今なお、その建築方法についてはまだまだ多くの謎が。
巨石をどのように運び、積み上げたのか?かかった年月は?どれほどの人員を要したのか?この謎が解ける日は訪れるのでしょうか。

あの巨石たちは誰?「イースター島のモアイ像」

あの巨石たちは誰?「イースター島のモアイ像」

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滋味溢れる面長の朴とつとしたあの顔を、知らない人はいないでしょう。

南米チリ中部西岸から約3,600km西、南太平洋に浮かぶ小さな島がヨーロッパ人によって発見されたのは1722年の復活祭の頃。
面積およそ180平方km。
小豆島より少し大きいくらいの、人が住む最も近い島でも2,000kmは離れている絶海の孤島に、地面からぬっと顔を出して海を見つめる巨大な石像。
イースター島のモアイ像です。

小さなものでも3mほどの大きさがあり、重量推定20トン。
大きなものは20m、90トンほどにもなります。
大小さまざま、ひとつひとつ表情の違う石像が島内におよそ1,000体。
そのほとんどが男性を模したものと考えられています。

この島は海底火山の噴火などによって形成され、その後、流れ着いたポリネシア系の人々が住みついたと言われていますが、時期については諸説あるようです。
7~10世紀頃までにはモアイ像が作られ始め、17世紀頃まで作られていましたが、入植者が増えたためか他の理由か、18世紀には作られなくなりました。

1774年にイギリス人探検家のジェームス・クックが上陸したときは、島内のモアイのうちの少なくとも半数は直立していたそうですが、その後1840年頃には、なぜか立っているモアイはひとつもなかったとか。
先住民の部族間抗争のためと見られていて、現在、直立しているモアイは復元されたものなのです。

建造物でも城壁でもなく、仏像の類とも異なる、他に類を見ない奇妙な形の巨大石像群。
儀式や祭祀のためという説が有力ですが、台座から人骨が発見されたことから墓碑である可能性も出てきています。
現地では「自分で歩いた」という説もあるそうです。

物言わぬ巨人は今日も静かに海を見つめながら、私たちがどんな結論を出すのか見届けようとしているのかもしれません。

石器時代からあった?「ストーンヘンジ」

石器時代からあった?「ストーンヘンジ」

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謎めいた遺跡があるのは、何も古代文明の地や絶海の孤島ばかりではありません。
イギリス南部、ロンドンから西におよそ200kmの位置に広がるのどかな草原に忽然と姿を現す巨石群。
世界で最も有名な遺跡と言われている、ストーンヘンジです。

石を円形にならべた、いわゆる環状列石(ストーンサークル)と呼ばれる遺構は世界各地で発見されていますが、ストーンヘンジはその中でも最大級。
古代ケルト人によるもので、紀元前3500年頃から長い期間をかけて段階的に建設・改修されていった、と考えられています。
また、近年の調査で、土台部分から紀元前8000年頃のものと思われる柱穴が見つかったり、近くでもっとたくさんの石柱群が見つかったり、調査すればするほど新たな謎が生まれるという、実に不思議で魅力的な遺跡なのです。

しかしストーンヘンジはその知名度と裏腹に、本格的な調査研究が始まったのはかなり後半。
19世紀頃までは、比較的新しい民族による、神殿のような建築遺物だと思われていたのだそうです。
19世紀に入ってからは、周辺で見つかった青銅器の存在などから、もっと古い時代のものであることがわかり、現在のような、ヨーロッパ北西地方がまだ石器時代であった頃のものでは、という見解にたどり着きました。

また、これらの石の出どころや建設手法についても、まだ多くの謎が残されています。

ストーンヘンジに使われている石は、白っぽいサルセンストーンと、やや青みがかったブルーストーンと呼ばれる非常に貴重な石。
非常に硬く重く、大きなものは1つあたり50トンくらいあると考えられています。
数百km離れた山から運ばれたものだということが近年の調査で判明。
こんな大きな石を、数千年前の人々は何を思って運び出したのか。
謎が明らかになる日が待ち遠しいです。

こんな山奥に!?「ゴルナヤ・ショリアの巨石」

広大な砂漠の中や人里離れた山奥には、まだまだ私たちの知らない文明の後が残されているはず。
ごく最近発見されたもので、調査研究はまさにこれから、という遺跡も数多く存在しています。
2014年にシベリア南部のショリア山で発見された巨大な花崗岩の壁もそのひとつです。

巨石遺跡が見つかった場所はゴルナヤ・ショリアと呼ばれる地域で、標高1,000mほどの山岳地帯。
山間部の調査中、木々の間にそびえたつ巨大な石の壁が発見されました。
その高さはおよそ40m、横幅200mにもなる巨大な石壁です。

発見された壁に使われている石はどれも桁はずれに大きく、高さ5m~7mになるものも。
どれも表面は平らで滑らか、人工的に加工されたような形跡があり、それらが隙間なくびっしりと積み重ねられています。
大きなものは推定2400トンはあるだろうと言われており、これだけの石が崩れずに壁の形を保っているということは、かなり高度な技術をもって、計算されて築かれていると考えてよいでしょう。
また、ところどころに、人が通ることができる通路のような隙間が見られるとか。

城壁であれば、敵から身を守るために築かれたと考えるのが自然ですが、シベリアの山間部にこのような建築技術をもった文明があったのかどうか。
何しろ、発見されてまだ日が浅いため、調査はまだまだこれからというところ。
確かなことはまだ何も分かっていません。
あまりに大きいため、このあたりに巨人族がいたのではないか、という憶測が飛び交うほどです。

まだ見ぬ古代文明の痕跡なのか、それとも比較的近世に入ってからの遺構なのか。
石は非常に古い時代のものと見られているようですが、はたして?

高地であることや石の大きさからも、調査研究にはかなりの時間がかかるものと思われます。

いったいこれは何なのか?不思議な遺構の正体は?

誰にあてたメッセージなの?「ナスカの地上絵」

誰にあてたメッセージなの?「ナスカの地上絵」

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建造物でも城壁でもなく、まして石像でもない。
なのに巨大で不可思議。
何とも形容しがたい謎多き究極の遺構。
そんな言葉が当てはまるものといえば、ナスカの地上絵をおいて他にないでしょう。

南米ペルーの乾燥した平原の、褐色の大地の上に描かれた巨大な絵。
1939年にアメリカ人考古学者ポール・コソック博士によって発見されました。

あまりにも巨大な絵のため、空からでないと何の絵なのか全体像を把握することが難しいといいます。
絵柄は、両翼を広げたハチドリや蜘蛛、尾を丸めたサルなど、生物をモチーフにしたものが多く、描かれた時期は紀元前200年から1000年ほどの間と考えられています。

絵は巨大で謎めいていますが、その描き方は非常にシンプル。
地表の赤褐色の岩を幅1mほど、深さ20cm~30cmほど取り除いて、下の明るい色の岩を露出させることによって線を描いています。
特殊な材料や塗料は使われていません。
このあたりは一年を通して雨がほとんど降らず、土地が浸食することもないため、このような”線”が残ったものと考えられています。

空から確認できる現代と違って、2000年以上も昔にこのような絵をどうやって描いたのでしょうか。
絵の大きさはどれも巨大で、ナスカの地上絵の代表格とも言えるハチドリは96m、蜘蛛は46m、サルは55mもあります。
300m近くある鳥の絵も見つかっているそうです。

どうやって描いたのか、何のための絵なのか。
もちろんそれも大きな謎ですが、ナスカの地上絵の不思議な所は、現在でもまだ、新しい絵が発見され続けているところでしょう。
単なる直線であったり、ちょっとした模様や図形のようなものまで合わせると、数百数千といった数になるといいます。
絵として認識できるものだけでも少なくとも50以上はあるそうです。

雨乞いなどの儀式や、暦や天体に関係するのではないかという考え方もありますが、その全容はいまだ深い謎に包まれています。

トルコや欧州各地で見られる「石器時代の長大トンネル」

トルコや欧州各地で見られる「石器時代の長大トンネル」

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謎なのか、歴史ロマンなのか、ややこじつけなのか……。
その境目がわからなくなるものも数多く発見されています。

例えば、トルコやイギリス、ヨーロッパ各地で数多く見つかっている地下トンネル。
1万年以上前、氷河期が終わり石器時代が始まろうという頃に造られたものと考えられており、その数は数千にも及ぶのだそうです。
これらは、古代人の食糧貯蔵庫であったり、寒さや自然災害から身を守るために掘られたものと思われてきましたが、これが各地を結ぶ地下巨大トンネルであったと唱える書籍が2009年、ドイツの考古学者によって出版されました。
なんと石器時代には既に、トルコから地中海、イギリス、ヨーロッパ各地に網の目のようにトンネルが張り巡らされていた、というのです。
これを支持する意見もあれば、異論も数々。
現在も調査は続けられているとのことで、今後の動向に注目したいところです。

もっとも、まだ地球上の気候が安定していないであろう時代に、地下穴を掘ることはごく自然なこと。
同じ民族・集落でなくとも、どの古代人も同じことを考えて同じような穴を掘っていたとしても、長い歳月をかけてそれらの穴が長く広く伸びていったとしても、そんな穴が各地に数多く残っていたとしても、決して不思議なことではありません。
数百メートルにも及ぶトンネル跡も見つかっているので、もしや、それらはすべてつながっていたのでは……との考えがふと浮かぶのも頷けます。

現代人は既に、数多くの古代遺跡を目の当たりにして、そのスケールの大きさと技術の高さに何度も驚かされてきました。
科学のない時代だからこそ、生きるために、多くの時間と人員をかけて造り上げたと思われる遺構の数々を見れば、石器時代に地下ネットワークが作られていた可能性も、ゼロではないかもしれません。

これらの地下トンネルの上には、現代都市が形成されていたり、別の遺跡群があるなど、調査にはかなりの時間が必要と思われます。
ロマンを感じる一方で、謎が実は謎ではなかった、と結論づけられる可能性もありそうです。

地味にスゴイ!?「コスタリカの石球」

石を切り出して四角く形成する作業はもちろん、かなりの技術と労力が必要です。
ではもし、石で球体を作るとしたら?四角く切りだすよりずっと難易度は高いと言えるでしょう。
そんな石の球体が、南米コスタリカの密林地帯で200個以上見つかっています。
これはいったい誰が、何のために、どうやって作ったのか?石球は直径数㎝の小さなものから直径2mを超える大型のものまで様々。
大きなものは重さ20トン以上もあります。
これら石球は謎に包まれたまま、周囲の遺跡群と一緒に2014年、世界遺産リストに登録されました(ディキスの石球のある先コロンブス期首長制集落群)。

謎の石球が作られた年代は不明ですが、周囲には、300年~800年頃にはディキス石器文化が栄えていたとされており、石球も同時期のものであろうと考えられています。

驚くべきはその球体としての精度。
コンピュータでの計測が可能な現代なら球体彫刻はそれほど難しくないのかもしれませんが、もしこれを、手彫りで作ったとしたら?見つかった石球の中には、誤差がほとんどない、ほぼ真球と言っても差し支えないほどの精度を保つものもあるのだそうです。
多少の歪みが認めらる石球も、一見すると表面はとても滑らか。
こんなものと森の中で遭遇したら……宇宙人の存在が頭をよぎっても不思議ではありません。
自然にできたのではないかとの見方もありますが、発見された200個という数と、球体の主な材料である花崗岩の採掘場所が発見場所とはだいぶ離れていることなどを考えると、人工的に作られたものと考えるべきでしょう。

ただ、時間と根気さえあれば、石を丸く加工することは可能だと言われています。
数年コツコツ頑張れば、決して難しいことではないようですが、ではなぜ、わざわざ球体にしたのでしょうか?

儀式や信仰のために必要だったのか、あるいは、より美しい球体を作る技術を競い合っていたのか。
城壁や住居素材でないことは素人にもわかります。
配置に意味があったのではないか、との見方もありますが、既に壊されているものもあり、もともとの配置を再現できなくなっているのです。

先住民にはこうした球体を作る習慣はないのだとか。
ピラミッドやストーンヘンジに比べればそれほど大きな謎ではないのかもしれませんが、これが何に使われていたのか解明される日が来ることを、密かに祈りたいと思います。

解読不能?謎の文書「ヴォイニッチ手稿」

世界の歴史が後世に残した遺構は、建築物や石像など大きなものばかりではありません。
書簡や文献、手紙などの中に記されている文字の中には、いまだ解読されていない未知のものも多々あるのです。

ヴィンチャ文字やインダス文字、半坡文字など、文字というより図形や象形文字のような、いわゆる原文字と呼ばれる部類の文字は、資料や情報の不足から解読に至っていないものも多いのですが、

1912年、イタリアの修道院で奇妙な本が発見されました。
中には、今まで誰も見たことのない文字で綴られた文章と、植物や人物などの絵が。
発見者の名前を取って「ヴォイニッチ手稿(しゅこう)」と名付けられたその本は、解読しようと挑む者を拒み続けてきました。

大きさはB5サイズより少し小さめくらい。
厚さは5cmほど、120枚ほどの羊皮紙に小さな文字がびっしりと書き込まれています。
これが文字であるならば、かなりの文字数です。

内容としては植物の絵が多く、植物図鑑のようにも見えますが、実在する植物とは結びつきません。
そのほかには、天体図のような円形の図や、浴槽のようなものに浸かった女性の絵など(服を着ていないため)書かれた時代を特定する手がかりになりそうな記述は見当たらないのです。

ただ、使われている羊皮紙については、15世紀前半頃ではないかと、近年の科学的な測定により判明しています。
もちろん、紙の年代=文章が作られた年代とは言えません。
古い書物の写本である可能性もあるし、古い紙を使って近年に入ってから書かれたとも考えられます。

通常、未解読文字を解読するためには、同じ文字体系で書かれた文章が他にもたくさんあるか、または、その文章が書かれた時代背景や状況が分かる(例えば、何かの歴史的事件や著名人に関する文章であることがわかっている場合など)ことが必要ですが、ヴォイニッチ手稿については、かなりの文字数であるにもかかわらず、いまだ解読に至っていないのです。

暗号ではないか?あるいは、まったくのデタラメ落書きの可能性も説かれています。
まさか異星人の……いや、まさか。

現在では、全ページのスキャン画像が公開されているので、同じ文字体系の書籍を所有している人が現れてあっさり解読、ということになるかもしれません。

スケールも規格外!失われた都市や大陸の謎

インカの失われた都市「マチュ・ピチュ」

インカの失われた都市「マチュ・ピチュ」

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1911年、アメリカの探検家がインカ時代の遺構を探している最中に、山の上の不思議な遺跡を発見しました。
巨石を積み上げて作られた都市。
マチュ・ピチュです。

南米ペルー、標高2,400mの高地にある15世紀のインカ帝国の遺跡。
なんと高いところに!と思いきや、インカ帝国の首都クスコはさらに高いところ、標高3,400mの位置に。
距離にして100kmほど離れています。

インカ帝国には文字文化がないため、いまだ数多くの謎に包まれています。
そのため、マチュピチュと首都クスコの関係や役割、なぜこのような都市を建設したのか、詳しいことはよくわかっていません。

遺跡の面積は約13平方㎞。
約200戸の石造りの建物が配置され、およそ3,000段の階段や段々畑などが整備されています。

マチュ・ピチュの建築技術は非常に評価が高く「すぐまた住めるほど」しっかりした形で残っているのだとか。
見つかりにくい場所に建っているせいでしょうか。
インカ帝国は1533年、大航海時代にスペインによって滅ぼされていますが、マチュ・ピチュには破壊の痕跡は見られません。
それほど高価な出土品は見つかっていないため、生活するための都市ではなく、身分の高い人たちの別宅だったのではないか、との見方も出てきています。

また、生活のために不可欠な水をどうやって確保しようとしていたのか、水源がどこなのかよくわかっていません。
近くに川や湖はありませんので、水源が確保できない場所に200戸もの家々を建てるはずはありません。
都市の中に張り巡らされた水路を流れる水がどこからきているのか。
それを調べるには、遺跡の中の石をどかさないとならないようです。

調査と保全。
両立は非常に難しいと聞きます。
マチュ・ピチュの美しさはそのままに、当時の生活の様子が解明されていくことを願いたいです。

謎深きインダスの都市「モヘンジョダロ」

謎深きインダスの都市「モヘンジョダロ」

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人里離れた場所に2世紀頃に造られた仏塔のようなものがあったので、周辺を調べてみたら、碁盤の目のような街路や城壁、水路などが次々見つかり、仏教遺跡かと思っていたら、なんとそれはインダス文明の古代都市だった!

1921年、パキスタン南部、インダス川下流の乾燥した丘陵地帯で発見された巨大都市遺跡。
その名はモヘンジョダロ。
インダス文明最大級の都市。

モヘンジョダロとは現地で「死の丘」を意味する言葉。
先進国の歴史学者が訪れるまで、地元民にとっては決して足を踏み入れてはならない禁忌の土地だったといいます。
そのため、この巨大都市が実際は何という名前だったのか、それもわかっていません。

遺跡の範囲は推定およそ4km四方。
紀元前2500年から紀元前1800年に栄えていたと考えられており、最盛期には4万人近くが暮らしていたと見られています。

インダス川周辺には紀元前7000年頃には石器を用いた人々の暮らしがありました。
紀元前2500年頃には巨大都市を形成するまでに繁栄し、紀元前1800年頃滅亡。
滅亡の理由は地殻変動による川の氾濫や気候変化などが挙げられていますが、いまだ多くの謎に包まれています。

インダス文明では、一箇所に巨大な都市が形成されたわけではなく、遺跡も広い範囲に分布しており、その数2,500を超えると考えられています。
ですが、調査が行われている遺跡はそのうちの1割にも達していません。

ところでモヘンジョダロ発見のきっかけとなった仏塔、あれはずっと後の時代、2世紀頃のもの。
この仏塔の存在もあって、周辺の遺跡は当初、仏教遺跡と思われていました。
モヘンジョダロより先に見つかった遺跡の中にはそれほど古いものだと思われず、鉄道を通したり壊されたりしてしまったものもあるのだとか。
この仏塔もどういういきさつか、太古の年の上に建てられました。
現代人は知らないうちに、過去の遺構の上に暮らしてしまっているのかもしれません。

モヘンジョダロを含め、インダス文明の全容が明らかになるまでには、まだ年月がかかりそうです。

湖に浮かんだ不思議な都市「ポル・バジン」

城塞都市か、牢獄か。
平城京や平安京の町の形や、長崎の軍艦島を思い浮かべる人も多いはず。
そんな四角い町並みの跡が、湖の中の長方形の島の上にくっきりと見てとれます。
まるでロールプレイングゲームで勇者が訪れる町のよう。
ロシアの南部、モンゴルとの国境付近の山間にあるテレホリ湖の小さな島いっぱいに作られた遺跡、それがポル・バジンです。

発見されたのは1891年ですが、100年以上たった今でも、どういう町なのか詳しいことはあまりわかっていません。

研究調査の結果、8世紀にウイグル帝国の首都にあった王宮に似ていることなどから、ウイグルの王宮か要塞であった可能性が高いようです。

ウイグル(回鶻)は4世紀から13世紀にかけて中央アジアを席巻した強大な国家。
このような王宮や城塞都市をあちこちに持っていたとしてもおかしくありません。
しかし、何のために、なぜ湖の中に作ったのか、また、なぜ放棄したのか。
そのあたりはまだ謎のままです。

周囲の城壁は215×162mの長方形。
建物はありませんが、中央に広い区画があり、そのまわりをぐるりとコの字を描くように小さな区画が配置されています。
中国の唐王朝の都を模しているとも見られていますが、一体どんな建物が建っていたのでしょうか。
そもそも、この町に人が暮らしていたかどうか、そのあたりもまだよくわかっていないのです。

場所は南シベリア。
気温はかなり低くなります。
島内には建物の修繕をした形跡などは見られるものの、定住していた可能性については意見が分かれているようです。
湖の中の町は、暮らすには寒く、要塞としては無防備な感じもします。
謎の解明には時間がかかるものと思われますが、気候の変化などの理由で湖の水位が上がり、水没する可能性が出てきているのだとか。
謎に包まれたまま絶体絶命の危機に直面しているポル・バジン。
どんな発見があるのか、今後の動向が楽しみです。

実在したのか?「アトランティス大陸」

実在したのか?「アトランティス大陸」

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こんな巨大な石を数千年前にどうやって運んだのだろう?何のためにこんな建物を建てたんだろう?

世界史の謎とは、世界各地で発見された遺跡や遺構から成るものがほとんど。
しかし、長い長い世界の歴史の中には、その逆のパターンも。
すなわち、文献があって誰もが知っているのに、どこにあるのかわからないもの。
その代表格がアトランティスでしょう。

古代ギリシアの哲学者プラトン(紀元前427年~紀元前347年)が自書の中で、とある大陸と、そこに栄えた王国のことに触れています。
書の中でプラトンは、アトランティスが近代的な都市であり、強大な軍事力を誇っていたことを具体的な描写と共に記し、調子に乗ってゼウスの怒りに触れ海に沈められた、と結んでいるのです。

有名な哲学者プラトンの文章であるということ、島の中や街の様子などがかなり具体的に描かれていることなどから、から多くの人々の興味をひき、他の知識人たちの著書にもたびたび登場するようになりました。
その後も、多くの研究者たちによって研究が重ねられ、小説や映画などの創作物の題材にもなっていきます。

最終的にアトランティスは沈んでしまっているので、悪しき国の例えとして引用しただけで、プラトンの創作である可能性もありそうですが、それでも、アトランティスの存在を信じる人々は世界中に数多くいます。
大西洋の海底に沈んだという説もあれば、地中海クレタ島のミノア文明などエーゲ海の文明のことではないかという見方もあり、人々の興味は尽きません。

2009年、Google Earthで起きたちょっとした騒動をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
大西洋、アフリカ・カナリア諸島から少し離れたところの海(海底)に、推定200kmほどの巨大な四角形、城砦都市のようなものが映っていたのです。
よもやアトランティスでは?と騒ぎになりましたが、グーグル曰く、これは船の通った後とのことでしたが、熱烈なアトランティスファンが世界中にいるということが再確認されました。

このときは不発でしたが、遺跡をGoogle Earthや衛星写真で探す時代が、もう始まっているようです。

歴史は”不思議”で満ちています!

遺跡や遺構はもちろん、文明や著書、人物や出来事もすべて、歴史は過去のことのはず。
けれど、こうして数々の歴史の謎を追ってみると、先人たちの偉大さに改めて気付かされ、私たちは過去を超えることができているのか、歴史は超えられないのではないか、そんなふうに思ってしまいます。
それでも世界史の謎への興味が尽きることはありません。
今後も新しい遺跡や遺構が見つかる可能性は大いにあり。
これからも注目していきたいと思います。
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