「君主論」は自己アピール論文だった?マキャベリとフィレンツェの歴史

マキャベリと聞くと手段を選ばず、結果だけを追求するなんだか怖い人というイメージがありませんか?
彼はルネサンス時代のフィレンツェでまじめに公務員官僚として働いていた人でした。
そんな人がなぜ現代でもサラリーマンの方々の自己啓発本やリーダー論の本などでも活用されるような君主論を書いたのでしょうか。
マキャベリの生きた時代と見たもの、出会った人、行ったことを知るとその理由と内容に納得できると思います。
今回は彼の生涯を振り返ってみましょう。

15世紀のフィレンツェ

15世紀のフィレンツェ

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偉大なるロレンツォ・デ・メディチの時代

1469年にニコロ・マキャベリはフィレンツェ共和国で生まれました。

「イル・マニーフィコ(偉大な人)」と呼ばれることになるロレンツォ・デ・メディチがフィレンツェを支配する、ルネサンスの真っ盛りの時代がマキャベリの少年時代です。

また、当時はイタリア半島は統一される以前で、北はミラノ公国、東にヴェネツィア共和国、そして南には法王庁とナポリ王国が覇を争っており、その間も都市国家が乱立している状況でした。

マキャヴェリが生まれた場所はフィレンツェの市庁舎から歩いて5分程度の街中で、幼い頃から街に立ち並ぶ絵画や彫刻の工房の軒先で新しい芸術が生まれてくるのを見て育ったのです。

弁護士の父親は本好きだったようで、その蔵書を読んでた事が伺えるほど、マキャヴェリの作品の中では古典からの引用が伺えます。

そして、彼が23歳になる年に、イタリア中が大きく舵を切る時代を迎えることになります。

メディチ家の追放

マキャベリが23歳になった年は、1492年。

この年はコロンブスが新大陸を発見したとされる年でもありますが、フィレンツェにとってはロレンツォ・デ・メディチが亡くなった年でもあり、ローマにとっては世俗的な法王で有名なアレクサンデル6世(ロドリーゴ・ボルジア)が法王に選出された年でもあります。

ロレンツォが亡くなったことで、イタリア半島内の勢力の均衡が壊れ、フランスと手を組んだミラノとスペインと手を組んだナポリが周囲を巻き込みながらイタリアに侵攻してきます。

そして、ミラノとフランス軍がフィレンツェの近くまで迫まる事態となります。

メディチの当主となった長男のピエロは政治のセンスがなく、失策を重ね、独断でフランス軍をフィレンツェに呼び込んだことでフィレンツェは略奪されてしまいます。

これは市民たちの大きな反感を買い、結果メディチ家はフィレンツェから追放されてしまいます。
ロレンツォが死んでわずか2年半後のことでした。

その混乱に乗じで、かねてから貴族層やイル・マニーフィコを贅沢の支配者と糾弾していたドメニコ会の修道士・サヴォナローラが市民たちの心を掌握していき、実権を握ることになります。

狂信的なサヴォナローラ

狂信的なサヴォナローラ

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フィレンツェの混乱

サヴォナローラは豪奢な者は罪であり、そのせいで神は怒りフィレンツェに災いが起こったとしてフィレンツェ市民たちをあおっていきます。

サヴォナローラの配下であるドメニコ会の修道士たちがフィレンツェ中の贅沢品を集め、シニョーリア広場でそれらを燃やすという「虚栄の焼却」を行います。
このときにたくさんのルネサンスの作品や東ローマ帝国から亡命してきた知識層が持ってきた文献など貴重なものが灰となってしまいました。

市民たちの一部は熱狂的にサヴォナローラを支持し、さらに反メディチ派の一部がそれらを支援したことでフィレンツェの街は混乱していきます。

通常であればサヴォナローラの狂信的な脅しには耳も貸さなかったであろう批判精神にあふれたフィレンツェ市民たちも、この時ばかりは大きな支えであったロレンツォがいなくなったことで誰に頼ればいいのかわからなくなり混乱に陥ったのです。

サヴォナローラの失墜

そんな中、神の預言者とするサヴォナローラの発言は真実かどうか、神に問う「火の試練」が行われます。

説教の中で彼は「私の言葉が偽りならば神の怒りの炎で罰を与え給え」と発言していた事から、火の中を歩くことで真実を証明することになったのです。

その時の様子が当時のフィレンツェ商人ランドゥッチの「日誌」に残っています。
市民たちは朝からその試練を待たされ、午後には雨が降り始め、濡れながら待っていると、雨のため中止と告げられたと記されています。

結局真偽は証明されず、期待を裏切られた市民たちは修道士たちへの不信を募らせるようになります。

これをきっかけにサヴォナローラは失墜し、ローマ教会から異端とされ、市庁舎から吊るされ、火あぶりにされました。

ひとりの統治者の死をきっかけに、その一族が追放され、狂信的な信仰に街が覆われ混乱していく一部始終。
それを見たのは商人ランドゥッチだけではありませんでした。

この様子をみていたマキャベリは「君主論」の中で、政治と宗教は分かれていなくてはいけないと書いています。
感情や宗教的な見解で政治を行うと国は疲弊してしまうと。
この若いころの経験が彼の著作や論文に影響を与えたといえます。

ついに表舞台に登場・マキャベリ

サヴォナローラが処刑された30日後の1498年6月に、29歳のニコロ・マキャベリはフィレンツェ共和国第二書記局の書記官に当選し、事務官僚としてフィレンツェ政府入りを果たします。

当時は30歳前後でないと要職には就けませんでしたので、キャリアを順当に開始したと言えます。

マキャベリが就いた第二書記官は実質的には外交や内的交渉などを担当する部署でした。

第二書記官になった1ヶ月後には十人委員会の秘書官となり、大統領秘書官も兼務します。
あっという間に行政の中心の事務官僚となったのです。

そのマキャベリには政治・経済・軍事・法制などすべてのことが情報として舞い込み、それらを総合的に判断して上司に報告し実務をこなしていくのが彼の仕事でした。

大使たちに訓令の手紙を送る一方で、会議室の絵画制作を途中にしてミラノへ行ったレオナルド・ダ・ヴィンチへ戻って制作の続きをするか、前金を返すような督促の手紙を送ったり、時には大使が行くほどでもない外交のために出張したりととても忙しい毎日を送っていたようです。

フィレンツェが抱えるピサ問題

フィレンツェが抱えるピサ問題

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海への出口を求めて

フィレンツェにはピサの領有問題が課題として根強くありました。

ピサはフィレンツェの真ん中を通るアルノ川の下流にある港町です。
12世紀には海洋国家の一つとして名を馳せたピサも16世紀ごろにはフィレンツェからみると後進国となっていました。

ロレンツォの時代には懐柔政策が効いており、フィレンツェの支配下にいましたが、彼が亡くなって、フランス軍が侵攻してきたどさくさの中、ピサは再び独立し、フィレンツェの支配から抜け出していました。

内陸部に街があるフィレンツェにとって、海への出口を持つことでさらなる経済発展につなげることができるため、アルノ川の下流の港町を支配下に入れていることはとても重要な問題だったのです。

このピサの問題を解決するために、共和国政府はピサへ軍隊を派遣することを決めます。

この当時、軍隊を構成しているのは自国の民によるものではなく、傭兵を雇うことが当然の習慣でした。

特にフィレンツェのような経済と文化の大国は周辺小都市の君主や貴族の次男坊などの傭兵隊長を雇うことで街を防衛していたのです。

今回のピサ戦役ではカステロの領主ヴィテッリ傭兵隊長を総司令官に任命し派遣しました。

傭兵と手痛いピサ戦役

1499年にヴィテッリはピサへ進撃し、砦の一つを落したことでフィレンツェは戦勝モードに包まれます。

しかし、ここでいきなり総司令官のヴィテッリが撤退。

その他の傭兵隊長も総司令官に倣い、動かなくなります。
このこう着状態にマラリアが発生し、軍隊は引き揚げていきます。

その後ヴィテッリは逮捕され、反逆罪として市民の前で処刑されますが、ピサの問題は解決することなく、ムダに税金が使われたことなります。

改めて共和国政府はフランスと手を組み、フランス軍の援助を受け、1500年にピサ戦役を再開します。

この戦役に書記官として派遣されたマキャベリは共和国政府の無能さと、それによるフィレンツェの立場の難しさを感じざるを得ない結果に終わります。

フランス軍は要請した兵よりも多く、遠回りをしてわざといくつかの都市を経由してピサへ向かいます。

さらにピサに着いてもなかなか戦闘を開始せず、周辺の都市を襲う始末。

これによって親フィレンツェ派であったルッカなどの都市が離反していきます。

やっとピサへの戦闘を開始し、城壁を壊した時点でそれ以上軍を進めることを拒否し、フランスへ帰ってしまいます。

またしてもムダに税金を使うことになったのです。

追い打ちをかけるようにこの戦役の失敗は共和国政府にあるとフランス側が主張しはじめ、その対応と説得にマキャベリが派遣されることになります。

2度にわたり失敗に終わったピサ戦役の経験から、マキャベリは君主論で傭兵ではなく自国民で結成された軍隊を必ず持つべきだと主張しています。

国の立場が弱くなると国を守る兵が足元を見て搾取する者に変わり、その時には誰も助ける者がいないと語っています。

フランスへの出張は5カ月を要し、フィレンツェとフランスの同盟については無事に再契約となります。
このときに中央集権化しているフランスの内情をつぶさに観察できたことはマキャベリにとっては後にプラスとなるのです。

理想の君主像?チェーザレ・ボルジア

理想の君主像?チェーザレ・ボルジア

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緋色のマントを捨てて教会の剣となった男

マキャベリとチェーザレ・ボルジアは生涯に3度の対面を果たしています。

そのうち2回目にあったときには3カ月もの間行動をともにしています。

君主論のモデルになったと言われているこのチェーザレはどんな人物だったのでしょう。

彼の父親はスペイン人で、1492年にローマ法王となったアレクサンデル6世です。

その法王の私生児で、彼自身も幼いころから教会の門をたたき若干18歳にして司教となり、枢機卿まで上り詰めた身でした。

しかし彼は枢機卿の緋色のマントを捨て、兄弟が死んだため空席になっていたガンディア公となり、教会から教会軍総司令官として正式に軍隊を任される身になります。

父親の権威を利用して、チェーザレは中部イタリアに点在するロマーニャの都市を次々と陥落させ、その勢いはフィレンツェのすぐそばにまで迫るようになってきます。

ロマーニャの地域はもともと教会の直轄領なのですが実質的にはその地元の君主が治めていたため、名実ともに教会の支配に置いただけなのですが、周囲の都市は圧倒的に強い軍と教会の力を恐れ警戒していました。

フィレンツェののど元まで迫るチェーザレ

1501年、フィレンツェ近郊の都市をチェーザレが攻略した際に、フィレンツェにまで迫る勢いに恐れをなした共和国政府はチェーザレと傭兵契約(実質は同盟契約)を結びます。

前払いで一部支払ったのち、政府はこの約束を履行せず放置という対応をとります。

翌年の1502年にピサの代表団が自分達をチェーザレの配下に入れてほしいと依頼に訪れます。

ピサの再領有したい共和国政府はあわてます。

そしてさらに、フィレンツェ領内のアレッツォがチェーザレの配下であったヴィテッリに門を開きます。

以前のピサ戦役の際に進軍を止めたことで処刑されたヴィテッリの弟の報復です。

これらを受けて共和国政府もこの法王の息子へ特使を使わすことを決めます。

特使は聖職者としても高位でフィレンツェの名家出身のソデリーニ司教が選ばれ、政府への報告書を作るのに最も適した随行人を補佐として付けました。
それがマキャベリです。

1502年6月、ウルビーノでチェーザレとマキャベリが初めて会合します。
数日の話し合いの結果チェーザレの主張を飲むことになります。

このときの報告書でマキャベリはチェーザレのことを偉大な力量の持ち主で、戦いに際しては勇猛果敢であり、危険や苦痛にも立ち向かい、部下からの信頼も厚く好運にも恵まれた人物としています。

偉大なるしらばっくれ

偉大なるしらばっくれ

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本心を見せない2人

二度目の会合は3カ月後の同年10月。

場所はロマーニャ公国の首都と決められたイーモラです。
チェーザレの配下にいる傭兵隊長たちが反乱を起こし始めたとの情報が入ります。

チェーザレからは契約している傭兵隊長の契約の履行と同盟関係を宣言する要求が共和国政府に突き付けられます。

共和国政府としては戦局が分からないため、明確な返答はせず、あいまいな中立の立場をキープしつつ、でも好意的な姿勢を示しながら時間稼ぎをする方法を選択します。

状況を正確に報告できて、同盟を望んでいる振りもできる全権をもっていないマキャベリが送られたのです。

そしてチェーザレにとっては部下の反乱という厳しい状況をどうやって乗り越えていくのかそばで3カ月の間マキャベリは見ることになります。

互いに親密に話しながらも情報を探り合う3カ月でもありました。

運に見放された天才

この反乱は最終的には首謀した者を含めすべての者が殺されて終わりを告げます。

その過程においてチェーザレは民から恨みを買っている腹心の部下を切り捨て、傭兵として雇っていたフランス軍とも解約をして、反乱軍と講和を結ぶ振りをして相手を油断させます。

そして、現れた全員をその場でとらえ殺したのです。

まるでビリヤードでもやっているかのように相手の隙を突いたり、違う角度から揺れ動かして自分の思った通りに動かし、問題を解決していく様をマキャベリは見ていました。

マキャベリはチェーザレのことを「偉大なるしらばっくれ」と表現しつつも、その手腕については感嘆せずにはいられなかったと報告しています。

神に祝福されたかのようなこの若者は最も大事な時に神から見放されます。
反乱を収めた8カ月後、父アレクサンデル6世がマラリアにかかり死の淵をさまよいます。

その父親が倒れた時、彼もまた同じマラリアにより死の淵をさまよっていたため対応ができませんでした。
最終的に法王は逝去、チェーザレの後ろ盾はなくなり転落していきます。

マキャベリが最後にチェーザレにあったのは、まさに死の淵から生還してきたころ。
彼は父親が倒れた時にありあらゆる状況を想定して施策を考えていたが、自分が死にかかっている状況は想定していなかったとマキャベリに語っています。

こうして2人の会合は終わりとなったのです。

働きバチ官僚のマキャベリ

働きバチ官僚のマキャベリ

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マキャベリがイーモラから帰ってからは、フィレンツェ初にして最後の終身大統領の懐刀として働きます。

この終身大統領には、名家の出身でありながら敵がおらず、金にも女にもクリーンで、寛容で恩情を忘れず、法を守るため会議にて物事を進めるというピエロ・ソデリーニが就任します。
初めてチェーザレの元へ共に行った司教の兄でした。

フィレンツェ人は、目立つことはよしとせず権力が一つに集中することには反対する気質があります。

安定した政府を目指してヴェネツィアをまねて1年任期の大統領を終身にするのは、心配だったのか、その気質らしい人選で、この混乱の時代を引っ張っていけるとは思えないリーダーを選出したのです。

この穏健な上司のもとでマキャベリは精力的に働きます。

その中で最も熱く彼が主張したのは自国の軍隊を持つということでした。

1503年から1508年まで、マキャベリはフィレンツェの自国軍の必要性を訴え続け、権限のある人たちへの接触を図り、使えるコネは使い、自ら農村地域へ行き、兵を募ってデモンストレーションをしてアピールをします。

そうしてなんとか議題に取り上げてもらい、自国民による軍を作り上げます。

基本的には有事の際に農民たちを招集して構成される軍なので、専門の軍ではありません。

それでもこの正規軍は1509年に、フィレンツェの15年来の悲願であったピサの再領有に成功するのです。

これに市民たちは大喜びで久しぶりにフィレンツェに明るいニュースが舞い込むことになりました。

メディチ家の帰還

メディチ家の帰還

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フィレンツェがピサを取り戻したころ、イタリア半島ではフランスやドイツ・スペインなどの大国とミラノやヴェネツィア、ローマ教会の勢力争いが繰り広げられており、その戦局がコロコロと変わることで、共和国政府は右往左往し立場が常に危うい状態でした

そして共和国政府は例によって態度をはっきりとさせずに戦局が変わるのを待つという政策を取ることにします。

そうなると今まで通り権限のない地位であるが分析と交渉能力のあるマキャベリが行くことになるのです。

このときにローマ法王、フランス王、ドイツ皇帝などさまざまな時の君主たちと交渉をした経験は後の著作にも影響がありました。

この引き延ばし作戦の結果は最悪で、軍をヴェネツィアへ送ったはいいがなんの戦績を残すこともなく帰るスペイン軍の中に、追放されたメディチ家の男たちがいたのです。
帰り道にあるフィレンツェを見逃すはずがありません。

行軍費を出しているメディチ家の意向をくんで、スペイン軍はフィレンツェから18キロ程度しか離れていないプラートの街を襲います。

そして共和国政府に対して、軍の維持費と大統領の解任とメディチ家の追放令を解き、私人として帰還を認めることでした。

はじめは突っぱねた共和国政府でしたが、フィレンツェ内にいるメディチ派の人間がソデリーニとの謁見中にクーデターを起こし、彼を追放しメディチ家を迎えることになったのです。

失職・罰金・そして逮捕

失職・罰金・そして逮捕

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1512年、ここから一気にマキャベリの人生が変わります。

ソデリーニの懐刀として、軍事と外交に精通していたマキャベリは罷免されます。
ソデリーニ以外の役職の者はほぼそのまま残留したにも関わらず彼は失職しました。

それはメディチ家の実質的当主でイル・マニフィーコの次男ジョヴァンニ枢機卿は情報が最も集まる地位には自派の人間を置きたいと考えており、その最も適したポストがマキャベリの第二書記官だったのです。

マキャベリは職を失っただけでなく、1年間のフィレンツェからの追放と10年分の年収の罰金の支払いまで課せられます。

さらにその翌年1513年には身の覚えのない反逆罪容疑で逮捕、拷問にまでかけられます。

ジョヴァンニ枢機卿が法王に選出され、レオーネ10世となった恩赦によって牢獄から解放されます。

44歳になるマキャベリは身分も高くなく高等教育を受けていなくても優秀だったので官僚として活躍したのですが、優秀であったが故に今度は政治の中心から外されてしまったのです。

田舎暮らしの中で生まれた君主論

田舎暮らしの中で生まれた君主論

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職も失い、10年分の年収を友人から借金したマキャベリは、恩赦の時にフィレンツェからの追放は解かれたのですが、トスカーナの山荘へ家族とともに移り住みむことになります。

当時の山荘は自給自足が可能で、貯蓄できるほどの収入がなかったマキャベリは収入がゼロになってしまったため田舎暮らしをすることになったと思われます。

そこからともに仕事をしてきた仲間との文通をしながら、仕事がないかと口利きを頼んだりもしています。

そんな暮らしの中で生まれたのが「君主論」です。

君主国とはなにか、どんな種類があって、どうすれば獲得できて、保持できるのか。
そしてなぜ失うのかについて今まで会ってきた君主のことをまとめて分析したものでした。

友人への手紙の中でこの君主論をメディチ家のジュリアーノに捧げようと考えていることと、これを読めばマキャベリが15年間政治の技術について研究し、この経験を生かす必要があることもわかるはずだと書いています。

つまり、これはメディチ家へ反メディチではなく、いかに政治に詳しく役に立つかをアピールする意味も込めて書かれたとも言えるのです。

君主論とその後の影響

君主論とその後の影響

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君主論はジュリアーノの甥であるロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチに献上されますが、読んではもらえなかったようです。

しかし、マキャベリの死後1532年に書物として刊行されました。

君主論は全部で26の章からなったもので、どのような君主体制があるかからはじまり、そのひとつひとつを実際の事例や歴史から説明し、イタリアにおいてどのような君主が必要なのかについて書いています。

特に君主に必要なこととして「才能(または力量か能力)」「好運」「時代性(時代のニーズに合っているか)」を強調しています。

そしてもちろん自国の軍を持つことの重要性も。

この論文が書かれた背景に、混乱したイタリアの情勢があったことを忘れてはいけません。
彼は16世紀イタリアにおいて君主として必要なことや考え方などを実体験を元に書いたのです。

君主論はその後、絶対王政の時代には君主たちの必読の書として広く支配層の人々に読まれるようになります。

君主論では善悪や道徳観・宗教的な禁忌などがありません。

そのため読み手によっては大変暴力的な内容に感じることもあります。

この善悪を超えた考え方こそがルネサンスだとも言え、普遍性のある初期政治学とも言えるのではないでしょうか。

そして、君主論と対になるように「政略論」で共和制についても書いています。
君主国が良いとも共和制が良いとも言わず、本人曰く「政治の技術を研究」した人だったのです。

最後まで官僚への復職は叶わず、人生の後半は物書きとして過ごしました。

彼の墓はフィレンツェのサンタクローチェ教会にありますが、そこに彼は眠っていません。

マキャベリのイメージは変わりましたか?

マキャベリはとても筆まめでたくさんの論文と書簡が残っています。
とてもユニークな人だったようで友人には冗談をよく書いていたようです。

その中で経費が少ないとの文句はあるものの、交渉などの仕事に対する不満はなかったようで、とても仕事が好きだったと言われています。

君主論とマキャベリズムの単語が一人歩きして、なんだか強引で冷徹な印象のマキャベリですが、マジメな働き者のおじ様の姿を感じませんか?彼についての視点がちょっとでと変わるきっかけになれば幸いです。

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