トルコの世界遺産を全部解説!歴史から絶景の魅力までお伝えします

「世界がもしひとつの国であったなら、その首都はイスタンブールである」とは、かのナポレオンの言葉だそうです。英雄をも魅了した街を有する国、トルコ。西洋のようでもあり、東洋のようでもあり、中東やアラブのようでもある、様々な文化が混ざった独特の雰囲気を持った国。古くは石器時代、青銅器時代から人の営みがあり、様々な古代文明を育んできた土地。世界遺産に登録された遺跡や街並みもたくさんあります。一度は訪れてみたい、魅力いっぱいのトルコの世界遺産、一挙にご紹介してまいりましょう!

トルコとはどんな国?

トルコとはどんな国?

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国の広さは?人口は?

トルコとはどんな国なのでしょう?まずは現在の国の様子や歴史など、基本情報を押さえておきましょう!

トルコの正式名称はトルコ共和国(Republic of Turkey)。
1923年に共和制を宣言し、その後、現在の国家が誕生しました。
イスタンブールという街がとても有名ですが、首都は内陸部にあるアンカラという都市。
トルコの政治の中心地で、中東・西アジア有数の世界都市です。

国の面積は約78万平方キロメートルで世界36番目に広い国、日本のおよそ2倍の面積。
横に長い、長方形のような形をしていて、国内行政は81の県に区分されています。

人口は約7900万人。
住民のほとんどはアジア系のトルコ人ですが、クルド人、アラブ人、ギリシャ人、アルメニア人なども少数ながら、東部地域を中心に居住しています。
公用語はトルコ語です。

日本との時差は7時間(サマータイム期間は6時間)で、日本の現在の時間から7時間引いた時間がトルコの時間になります。

トルコ共和国が誕生したのは20世紀に入ってからですが、地中海、黒海、エーゲ海に囲まれ、「東西文明の十字路」と呼ばれたこの土地は、古くから多くの国の誕生と衰退を見届けてきました。
広い国土の中には厳しい寒さに見舞われる地域もありますが、海沿いは概ね温暖。
長い歳月をかけて造られた街並みは色鮮やかで美しく、食べ物も美味しい。
直行便でもおよそ12~13時間とかなり遠いですが、観光地として大変人気があります。
多くの文化が感じられる独特の雰囲気が日本人の旅情を誘うのかもしれません。

トルコの歴史(1)古代からローマ帝国まで

トルコの国土の大半を締めるアナトリア地方(半島)には、少なくとも紀元前6500年頃にはチャタル・ヒュユクに集落が形成され、人の暮らしがあったと考えられています。

紀元前3000年頃には、エーゲ海沿岸のトロイに都市が築かれました。
銅やスズなどが作られた青銅器時代。
金や銀など様々な装飾品も数多く出土しており、交易が盛んであったことが伺えます。

紀元前2000年頃にヒッタイトという最初の統一王国が誕生します。
初めて鉄器を使った民族として強大な力を誇り、紀元前1300年頃には大国エジプトと戦を交えるなど栄華を誇りましたが、紀元前1200年頃には滅亡。
理由は「海の民」の侵入によるものと言われていますが、その実態は謎に包まれています。

その後は、小国がいくつか分立する時代が到来。
ウラルトゥ王国、後期ヒッタイト王国、フリギア王国、リディア王国、アッシリア帝国などが紀元前6世紀頃まで、アナトリア地方で国家を形成し、その後、紀元前6世紀半ば頃ペルシアによって統治される時代がやってきますが、そのペルシア帝国も紀元前334年にマケドニアのアレキサンダー大帝に滅ぼされてしまいます。
大帝はギリシャ、エジプト、アジアを巻き込む大帝国を築き上げ、支配していきました。
この時代のローマ帝国を思わせる遺跡がエフェソス、ペルガモン、ディティムなどの街に数多く見つかっています。

330年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝は遷都を行い、街の名をコンスタンティノープルと改めました。
現在のイスタンブールです。

トルコの歴史(2)東ローマ帝国から現代まで

395年にローマ帝国は東西に分裂し、アナトリア地方は東ローマ帝国の一部となり、ビザンティン帝国とも呼ばれるようになります。

6世紀半ば頃、ユーラシア大陸中央でも動きが。
トルコ民族系と言われる突厥(トッキ)が王国を設立し、西へ移動を開始。
突厥族は分裂や抗争を繰り返し、10世紀にイスラム教の影響を受けてますます勢力を拡大していきます。
セルジューク家を指導者とするセルジューク・トルコ王国が設立されますが、13世紀後半、モンゴル帝国や十字軍運動の侵入で弱体。
アナトリア地方はいくつかの国家に分かれていましたが、そんな中、もとはセルジューク朝に仕えていたオスマン・ベイ率いるオスマン朝が勢力を伸ばしていきます。
オスマン帝国(1299年~1922年)の誕生。
オスマン・トルコと呼ぶこともあります。

これがとにかく強かった。
オスマン帝国はアジア、ヨーロッパ、エジプト、アフリカ大陸まで、周辺諸国を次々に征服し、オスマン帝国は空前絶後の大帝国へと発展していきます。
16世紀には最盛期を迎えますが、その後は徐々に失速。
18世紀を過ぎる頃には、広がりすぎた領土を守るための軍事費が財政を逼迫し、オスマン帝国は傾き始めます。
19世紀には黒海付近の土地を求めて侵攻を繰り返していたロシアとの争いに敗れ、東ヨーロッパの領土を失い、20世紀には第1次世界大戦にも敗北して領土の大半を失いました。
混乱の中、共和制が宣言され、トルコ共和国が誕生。
オスマン帝国は消失したのです。

トルコに世界遺産はいくつあるの?

トルコの歴史を駆け足で見てまいりましたが、長い歴史が物語るとおり、トルコにはたくさんの歴史的遺産が残されています。

古くは石器時代、青銅器時代に始まって、ヒッタイト、ペルシア、ローマによる時代を経て、トルコ民族による国家の設立、そして共和国へ。
トルコには、東西を結ぶ土地ならではの歴史が刻まれているのです。

そんなトルコの世界遺産は、2016年の時点で合計16か所。
文化遺産が14、複合遺産が2。
中でも、都市まるごと世界遺産となったイスタンブールや、不思議な形の岩が連なった遺跡カッパドキア、トロイの木馬で有名なトロイ遺跡など、観光地としても有名な場所がたくさんあります。

神秘的で優雅でエキゾチック。
様々な文化が融合してできた独特の遺構の数々は、訪れる人を魅了し続けています。
登録されて30年以上経つものから比較的最近登録されたものまで、多種多様な遺産の数々、一挙にご紹介してまいりましょう。

ここでは、西部、南部、中部、東部の4つの地域に分けてご案内いたします。

イスタンブール周辺および西部地域

イスタンブール歴史地域(1985年登録)

イスタンブール歴史地域(1985年登録)

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西洋と東洋が接するところ。
かつてはビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルとして栄え、現在では人口1400万以上の人々が暮らす世界有数の国際都市であるイスタンブールの町まるごと、世界遺産に登録されています。
ローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン帝国という3つの大帝国の首都としての歴史が色濃く残っていて、様々な文化の息吹を感じることができるのです。
真ん中にボスポラス海峡があり、文字通りアジアとヨーロッパの架け橋となっています。

町の中で世界遺産となっているのは4箇所です。

まず「遺跡公園地区」。
トプカプ宮殿やアヤソフィア、数万枚のタイルが貼られ青く輝くことから”ブルー・モスク”と呼ばれるスルタンアフメト・モスクなど、栄華を極めた大帝国が築き上げた数々の建築物が集中している地区です。

「スレイマニエ・モスクと付属保護地区」はオスマン帝国最盛期に造られたスレイマニエ・モスクと、その周辺に建てられた病院や商業施設などを含めた地区。

「ゼイレク・モスクと付属保護地区」は12世紀に建てられたキリスト教の教会で、オスマン帝国の時代にモスクとして使われるようになったゼイレク・モスク。
トルコの歴史を知ることができる貴重な建物です。

そして「イスタンブール大城壁地区」には東ローマ帝国時代に築かれた「テオドシウスの城壁」を中心とした地区。
ここにも、修道院として5世紀頃建てられ、オスマン時代にモスクとなった貴重な建物が残されており、現在では博物館として利用されています。

セリミエ・モスクとその社会的複合施設群(2011年登録)

セリミエ・モスクとその社会的複合施設群(2011年登録)

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トルコの最高建築との呼び声も高いセリミエ・モスクは、イスタンブールの中心地から北西に230kmほど離れたエディルネという町にあります。
オスマン帝国時代、時の皇帝が建築家ミマール・スィナンに命じて1568年から1574年にかけて建てられた、イスラム建築最高峰とも言われるモスクです。

高台に建つ巨大なモスクは、町のどこからでも見ることができるよう築かれたのだとか。
当時の帝国の力の大きさを垣間見ることができる巨大で荘厳な建物。
とりわけ天にすっと伸びた4本の尖塔が目をひきます。

外観も壮大ですが、内部の美しさも秀逸。
モスクのまわりには図書館や学校、公衆浴場、宿泊施設、市場、病院、墓地などがあり、多くの人々が行き交っていた様子を知ることができます。

世界遺産へ登録された経緯としては、建築技術の高さや歴史的な価値が評価されたようです。

エディルネは石器時代や青銅器時代から人が暮らしていたとされる、非常に歴史の古い町。
ギリシャ国境に近い場所にあり、マケドニアやローマ帝国、ビザンティン帝国、オスマン帝国の中心的な都市であったため、歴史的な建築物が数多く残っています。
オスマン帝国時代にイスタンブールへ都が移されてからも、政治や儀式の中心的な町であり続けました。

もともとは、ローマ帝国の第14代皇帝ハドリアヌスがこの土地に目を付けて都市を築いたと言われていますが、残念ながら、その時代の遺跡はほとんど残っていません。
ハドリアヌスは人気漫画 『テルマエ・ロマエ』に登場するあの皇帝。
何か遺構が残っていたら、当時の様子をもっと知ることができたのかもしれません。

トロイの考古遺跡(1998年登録)

トロイの考古遺跡(1998年登録)

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「トロイの木馬」という言葉、おそらく誰でも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ギリシャ神話に登場するトロイア戦争で、ギリシャ軍がトロイア軍を攻略するため、貢物として作った巨大な木馬の中に兵を潜ませてトロイア城内に持ち込み、内側から城を攻めた、という逸話。
現在では、コンピュータのセキュリティを脅かす不正プログラムの一種としてその名前が使われています。

イスタンブールから南西に約300mほど、トルコの北西部に位置する、エーゲ海に面した丘の上にあるトロイ遺跡は1870年、ドイツの実業家シュリーマンが発掘したことでも有名。
実はそれまでトロイアは、神話の中の架空都市であると考えられていたのだそうです。
発見後、この地で数多くの発掘・検証が行われ、紀元前3000年頃の集落の痕跡を初め、古代ローマの都市が9層にもなっていることがわかったのだとか。
古代ローマの都市ができては滅び、滅んではまた築かれ、それが9回繰り返された。
なんと壮大な話なのでしょう。

この遺跡が、ギリシャ神話のトロイア戦争の舞台だったのかどうかは、まだ議論の余地があるようですが、遺跡の調査では、第7層部分の頃、紀元前1200年頃にトロイア戦争が起きたのではないかと見られています。

今のトロイ遺跡はというと、広い丘の上にただ石が積まれた、殺風景で寂しげな場所。
建物らしきものは皆無。
歴史に興味のない人からすれば、何が楽しいの?と思ってしまうかもしれません。
でも、4000年以上前に、ここにどんな城や町があって、どんな暮らしがあったのか、風に吹かれながら思いを馳せるのもまた一興です。

オスマン帝国発祥の地ブルサとジュマルクズク(2014年登録)

オスマン帝国発祥の地ブルサとジュマルクズク(2014年登録)

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アナトリア地方を中心に強大な力を誇示したオスマン帝国。
イスタンブール近郊にもたくさんの遺跡が残されています。
トルコ西部、イスタンブールから南に約100kmの町ブルサはオスマン帝国最初の都であり、オスマン帝国にゆかりの深い町。
ブルサの中心部から10kmほど東にあるジュマルクズクという小さな村も、オスマン帝国時代の伝統的な町並みが残る場所。
人々は自然と共存しながら、昔ながらの素朴な暮らしを続けています。

ブルサは シルクロードの西端の都市として発展した交通の要衝。
オスマン帝国の二代目皇帝オルハン・ベイはビザンティン帝国領であったブルサを奪って最初の都としました。
その後、周辺の小国を併合しながら徐々に領土を拡大し、イスラム教の影響を受けながら国家としての体制を整えていきます。
ブルサはオスマンが大帝国になるための足がかり、第一歩を記した意味ある場所です。

ブルサの町中にはオスマン帝国時代に建てられたモスクや学校など、歴史的な建造物がたくさん残っています。
中でも有名なのが「ウル・ジャーミィ」という名の大きなモスク。
完成は1421年。
天井が高く荘厳な雰囲気で、やや緑がかった独特の青色のタイルで装飾された内装が大変印象的。
中に清めのための泉があるというのも、モスクとしては大変珍しいのだそうです。

町中を歩くだけでも、オスマン帝国時代の雰囲気を堪能できる町、ブルサとジュマルクズク。
築100年以上経つ民家も数多く残っています。
赤や青など独特の色使いの家も多く、素朴でありながらどこかモダンな雰囲気も。
町中はごつごつとした石畳の道が多く、車が入ってこないことも、この町の魅力につながっているのかもしれません。

南部・エーゲ海沿岸地域

ペルガモンとその重層的な文化的景観(2014年登録)

ペルガモンとその重層的な文化的景観(2014年登録)

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トルコの遺跡といえば、オスマン帝国時代の影響を受けた鮮やかな建物が思い浮かびますが、それより以前に建てられた遺構は、ギリシャやローマなどヨーロッパを彷彿とさせるものが多いです。
その時代、残されている遺跡の数は少ないですが「こんなものがトルコに?」と思うような遺跡もあります。
トロイ遺跡より少し南に位置する、エーゲ海を臨む小さな町ベルガマの郊外にあるペルガモン遺跡です。

ペルガモンは紀元前3世紀頃に栄えたと考えられているヘレニズム時代アッタロス朝の都。
ヘレニズムとはアレキサンダー大王の時代からおよそ300年ほどの間、ギリシャ風の文化が栄えた時代区分のことです。
アッタロス朝はペルガモン王国と表記されることもあります。
ペルガモン王国はローマ帝国とも良好な関係を続け、繁栄を極めましたが、紀元前133年、アッタロス3世の遺言により領土がローマに献上され、事実上、アッタロス朝は滅亡。
ペルガモンはその後もローマの属州となって繁栄を続けます。

標高300mほどの丘の上「アクロポリス」には、ギリシャアテネの神殿を彷彿とさせる巨大な石柱が天を指示すように建ち並び、広大な敷地の中にヘレニズム文化と古代ローマ時代の遺構が数多く残されています。
大理石で造られた真っ白なトラヤヌス神殿や、地形を利用した野外劇場など、海を見下ろす丘の上で悠久の時を刻む以降の数々、必見です。

エフェソス(2015年登録)

エフェソス(2015年登録)

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ペルガモン遺跡のあるベルガマからさらに南にあるエフェスという町にも、イスラム文化とは異なる様相の古代文明跡があります。
エフェソス(トルコ語ではエフェス)。
紀元前11世紀頃には既に都市があったとも言われていますが、ペルガモン王国が栄えた紀元前3~2世紀、エフェソスは外港として大変にぎわっていたと考えられています。
ペルガモン同様、ローマに献上されてからも東西交易の集積港として繁栄し続けました。

エフェソスの魅力は、遺跡は非常に保存状態がよく、建物だけでなく通りの様子まで、行きかう人々の様子や暮らしぶりを思い描くことができるところ。
皇帝ハドリアヌスに献上した神殿や2万人以上を収容したと思われる大劇場、2万冊以上の蔵書を有したと言われる巨大な図書館など見どころがいっぱいです。

また、この地には、紀元前7世紀から紀元3世紀頃にアルテミス神殿があったと言われています。
ギリシャ神話に登場する女神であるアルテミスを奉った大理石の神殿です。
破壊と再建を繰り返した後、現在ではわずかに跡が残るだけで建物は残っていません。
アルテミス神殿は「世界の七不思議」(古代の注目すべき建造物)のひとつに数えられています。

ヒエラポリス・パムッカレ(1988年登録)

ヒエラポリス・パムッカレ(1988年登録)

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トルコにはまだ、世界自然遺産はありませんが、自然が生み出したのではないかと見まがうな神秘的な光景に出くわすこともあります。
ヒエラポリス・パムッカレもそのひとつ。
エフェソスより少し内陸にある丘の斜面にある、真っ白な棚田のような不思議な光景と、その上に存在するローマ帝国の都市遺跡です。
複合遺産として世界遺産に登録されています。

白い棚田の正体は石灰棚。
丘の斜面を流れ落ちる温泉の石灰成分が沈殿し固まって、棚田のような光景が、幅およそ3㎞、高さ100mに渡って広がって、その光景はまるで無数のプールが折り重なっているかのよう。
陽光を浴びて時に青白く、時に赤みを帯びて幻想的な輝きを放ちます。

このパムッカレの一番上に、2世紀頃に築かれたとされるローマ帝国の温泉保養地がヒエラポリスです。
地震のため崩壊と再建を繰り返しながらも、ローマ帝国時代からビザンティン帝国時代にかけて数世紀、人気を集め繁栄を続けました。

現在では、2世紀当時の浴場を修復した博物館に出土品が展示され、劇場や門、神殿などの遺跡群と並んで人気を博しています。

クサントス・レトーン(1988年登録)

クサントス・レトーン(1988年登録)

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トルコ南部にはもうひとつ、世界遺産に登録されている古代遺跡があります。
クサントスとレトーンの遺跡。
ペルガモンやエフェソスとは異なる趣の、野趣あふれる石積みが残る古代都市遺跡です。

トルコ南部は古くはリキュアと呼ばれており、先史時代(石器時代や青銅器時代など文字を持たず史料が残されていない時代)からリキュア人が住んでいました。
クサントスはリキュアの主要都市。
レトーンには神々を祀る神殿が建てられていたようです。
その地名はゼウスの子アポロンとアルテミスを生んだとされるギリシャ神話の女神レトに由来します。

クサントスもレトーンでも盛んに交易が行われ、大変な賑わいを見せたと思われますが、ペルシャ、マケドニア、ギリシャなど強国に侵略され、征服と破壊、再建を繰り返してきました。
どの国も、エーゲ海を臨むこの地を重要な拠点であると考えていたのかもしれません。
多くの国に征服されながらも、クサントスもレトーンも7世紀ごろまで続いていたようです。
ペルガモンやエフェソスほど大きくありませんが、円形の劇場やアクロポリスなどが建てられていたようで、跡が残っています。

また、クサントスでは石に刻み込まれるなどして多くの文書が発見されました。
ギリシャ語やリキュア語の2言語で書かれているものもあり、交易の拠点であったことが伺えます。
また、謎の多いリキュア文字の解読にも大いに役立っているのだそうです。

中部地域

ハットゥシャ(1986年登録)

ハットゥシャ(1986年登録)

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トルコ中央部、首都アンカラより150㎞ほど東へ行ったところにあるポアズカレという村の先、標高1000mほどの丘陵地帯に、ハットゥシャと呼ばれる遺跡があります。
アナトリア地方最初の統一王国ヒッタイトの都として栄えた都市です。

現在残されているのは礎石だけですが、かつては全長数キロにも及ぶ城壁があったものと思われ、神殿や集会所などの跡も見られます。
風が吹き抜ける緑の大地に残された石積みはどれも豪快。
エジプトやバビロニアといった強国と対等に渡り歩いた強国の足跡を知ることができます。

ヒッタイトは強大な武力を持っていたとされる騎馬民族。
しかし、その起源や歴史についてはいまだ謎が多く、紀元前2000年頃にはアナトリア中央北部にやって来たと考えられていますが、それ以前ヒッタイトがどこにいたのか、どこから来たのかについては、はっきりとはわかっていません。
少なくとも紀元前18世紀頃にはハットゥシャを中心とする王国は完成していたものと思われ、最盛期を迎えたのは紀元前14世紀頃だったろうと考えられていますが、いまだ謎の多い王国であることは確か。
その痕跡を知ることができる遺跡は、歴史的にも大変価値あるものとされています。

1906年、ドイツの考古学者によって発見されたハットゥシャ。
これによってヒッタイト帝国の存在が明らかとなりました。
遺跡からは楔形(くさびがた)文字が刻まれた2万枚にも及ぶ粘土板文書が見つかっており、謎多き王国の姿が少しずつ明らかになってきています。

ヒッタイトは「海の民」に滅ぼされたと言われており、その「海の民」とはリキュア人のことではないかとの説も。
では、クサントス・レトーンとハットゥシャにはつながりが?解明される日が来ることを願いたいです。

サフランボル市街(1994年登録)

サフランボル市街(1994年登録)

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黒海にほど近い、トルコ中央北部にあるサフランボルは、トルコで最も美しい街とも言われている伝統的な建物が立ち並ぶ歴史ある街。
黒海と内陸部を結ぶ交易の場として栄えたこの町には、オスマン・トルコ様式の木造民家が数多く残っています。

サフランボルは11世紀ごろからあったとされていますが、貿易の拠点として徐々に人が集まり始め、最盛期を迎えたのは17世紀頃。
もともとこじんまりとした小さな町ですが、市場や宿泊施設、モスクなどが次々に建てられていきました。
しかし、20世紀に入ってからは鉄道の発展などに伴ってその役目を終え、今は古き良き時代の佇まいを残した観光の街として知られています。

この地はかつて、香料の「サフラン」の集積地だったのだとか。
サフランボルという街の名前もサフランから付けられたのだそうです。
交易が盛んであったことが伺えます。

木造の民家とそこに暮らす人々の優しいまなざし。
イスタンブールともヨーロッパともアジアともどこか違う、なだらかな土地に小さな家が立ち並ぶかわいらしい風景。
華やかな観光名所は特にありませんが、街全体がオスマン帝国時代を知る貴重な遺構であるとして世界遺産に登録されています。
強大国を支えたのはきっと、こういう小さな町に住む名もなき人々だったのでしょう。

のんびりと時が止まったような、静かで心落ち着くサフランボルの雰囲気は、多くの観光客に親しまれています。

チャタル・ヒュユクの新石器時代遺跡(2012年登録)

チャタル・ヒュユクの新石器時代遺跡(2012年登録)

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トルコ中央部のやや南では、新石器時代の集落跡が発見されています。
紀元前8000年頃のものと思われる、アナトリア地方最古の集落。
世界四大文明より前、まだメソポタミア文明もエジプト文明も開化していなかった頃に、5000人から多いときで10000人ほどの人が暮らしていたと思われる痕跡が見つかっています。
発見されたのは1958年で、丁寧な発掘作業が続けられ、先史時代の様子を知ることができる貴重な資料と位置付けられました。
チャタル・ヒュユクとはトルコ語で「分岐した丘」という意味なのだそうです。

遺跡は川を挟んで東西にあったと考えられており、東側には500mほどの中に細かく四角く区切られた住居の痕跡が見つかっています。
建物が並び、間に道があるのが一般的な集落のイメージですが、ここには道はなく、小さく仕切られた弁当箱のような造形。
アパートやマンションの土台のような、複雑な形をした遺構から、チャタル・ヒュユクは「世界最古の都市遺跡」と称されることもあるのです。
このような形にした理由はおそらく、外敵や獣から身を守るための工夫ではなかったかと考えられています。

遺跡の中からは土偶やレリーフ、壁画なども見つかっていて、当時の様子を知る貴重な資料に。
信仰や儀式は行われていたようですが、住居の形などから見ると、王様や役人のような存在がいた痕跡は見つかっておらず、人々には上下階層はなく、平等に暮らしていたようです。

狩猟はもちろんのこと、麦や木の実など栽培・収穫していたものと見られ、また、牛や羊の骨も見つかっているそうで家畜として飼育していた可能性も。
この集落は2000年近く存在し続けていたと考えられています。
厳しい環境の中で多くの人々が身を寄せ合い、助け合って生活していた様子を知ることができるチャタル・ヒュユク。
現在も調査研究は続けられています。

ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群(1985年登録)

ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群(1985年登録)

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トルコにある世界遺産に限らず、世界中の世界遺産の中でも屈指の知名度を誇る遺跡。
一度見たら忘れられない風景、一度聞いたら忘れられない名前。
カッパドキア(Cappadocia・Kapadokya)をおいて他にはないでしょう。

アナトリア地方のちょうど真ん中、標高1000mほどある広大な高原に、南北およそ50kmに渡って、奇妙な形をした岩が無数に顔を出しています。
きのこのような形のものあり、人の立ち姿のようなもの、動物のようなもの……長い歳月をかけて侵食してできた自然の造詣が織りなす摩訶不思議な光景は、多くの観光客を魅了しています。

カッパドキアには先史時代から人の暮らしがありました。
その後、ヒッタイト、ペルシャ、ローマ、ビザンティン、セルジューク、オスマンなど、アナトリアの大地を席巻したどの国家もカッパドキアに魅せられ、この地に何らかの足跡を残しています。

東西南北、様々な地域を結ぶ交通の要衝であったため、重要であるがゆえに侵攻の対象にもなりやすい。
そのため、この地に住む人々は、奇妙な形の岩の間に身を隠すように、地下や洞窟に居住空間を求めるようになりました。

紀元後になると、ローマ帝国の迫害から逃れてきたキリスト教徒たちがカッパドキアに移住してきます。
彼らは地下や洞窟に礼拝堂や教会、修道院を作り、6万人を超えるキリスト教徒が暮らしていた時期もあったのだそうです。

自然が生み出した無数の不思議な岩と、侵攻や迫害から逃れるために人々が作り上げた地下都市。
まだ発見されていない地下都市がたくさんあるのだそうです。
その深さは100mを超えるのではないかとも言われていて、一体どうやって掘ったのか……。
見る人の想像を掻き立てる、歴史ロマン溢れるカッパドキア。
複合遺産として世界遺産に登録されています。

東部地域

ディヴリーイの大モスクと病院(1985年登録)

ディヴリーイの大モスクと病院(1985年登録)

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カッパドキア、イスタンブールと共に、トルコの世界遺産としては早い時期に登録された建造物です。

ディヴリーイはトルコのほぼ中央部分に位置する、山間の静かな田舎町。
ここにひっそりと佇むのがディヴリーイの大モスクと病院です。
前述のふたつの世界遺産と比べると、知名度はやや低いように思われますが、「ディヴリーイの奇跡」と称えられるほど貴重な石造りの建造物を見ることができます。
扉や壁に刻まれた幾何学模様や植物や動物の石彫刻は圧巻です。

1228年~1229年にかけて建設された大モスクは、他の地域に見られるような柱廊や中庭、泉などは見られず、とてもシンプル。
セルジューク朝から分離して誕生したルーム・セルジューク朝の王の命で築かれたもので、イスラムと地元アナトリアの混合様式となっているのが特徴です。

建物の扉や柱などに見られる石細工は非常に繊細で細やか。
建物にはほとんどすべて同じ材質の石が使われているものと思われますが、細かく施された彫刻が様々な表情を作り出し、いろいろな材料を使って造られているかのように感じることも。
この美しい建造物を一目見ようと、日々、多くの観光客が訪れています。

ディヤルバクル城塞とヘヴセル庭園の文化的景観(2015年登録)

ディヤルバクル城塞とヘヴセル庭園の文化的景観(2015年登録)

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聞きなれない地名でも、「万里の長城の次に長い城壁」と言われたら……。
見たい!と感じる人は多いのではないでしょうか。

メソポタミア文明で有名なチグリス川の流域にあるディヤルバクルはトルコ南東部にある都市。
旧市街地は、外側の城壁がおよそ5200m、内側にある城壁が600m、幅は5mほど、高さは8mから高いところで12mほどにもなる巨大な城壁で囲まれています。
はじめのうちは内側の城壁のみでしたが、4世紀には外壁も揃い、だいたい現在残されている形になったようです。
長い歳月の間に何度となく修復・修繕が施され、現在に至っています。

この土地には古来より人の暮らしがありました。
周辺地域では新石器時代のものと思われる遺跡も見つかっています。
城壁は何度も修繕が繰り返されているため、最初に作られたのはいつ頃でどのような形をしていたのか、今となってはその痕跡はほとんど残っておらず、残念ながら知ることはできません。
おそらく紀元前3000~4000年前に最初の形が作られたのではないかと言われていますが、現在残っている城壁は346年、コンスタンティヌス2世の時代に築かれたもの。
その後、ビザンティン帝国やイスラム、オスマン帝国など様々な統一国家の重要な拠点として反映を続けました。

一緒に登録されたヘヴセル庭園は、ディヤルバクル城塞とチグリス川の間にあり、古い時代には城塞都市への食料供給という重要な役割を果たしていました。
現在も農園として使われており、動植物たちの楽園にもなっています。

城壁は上がって歩くことができるのだそうです。
強固な城塞から、数々の文明を育んできた大河とそれらを結ぶのどかな庭園を眺めて思いを馳せるのもいいかもしれません。

ネムルト・ダウ(1987年登録)

ネムルト・ダウ(1987年登録)

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トルコ東部にある標高2134mのネムレト山の山頂。
ここに、円錐状に積み上げられた墳墓と思われる巨大な石積みがあります。
ネムルト・ダウは19世紀後半、オスマン帝国軍によって偶然発見されました。

高さ50m、直径およそ150m。
紀元前3世紀頃にあったとされる小さな国「コンマネゲ王国」のアンティオコス1世の墓と言われている墳墓です。
コンマネゲ王国は紀元後70年前後にローマに吸収され消滅したと考えられています。

この遺跡で一番目をひくのは、地面からにょきっと現れたような石の頭。
墳墓のまわりには鳥や動物、ゼウスやアポロンなどギリシャ神話の神々の頭部が、地面に無造作に置かれています。
いったいこれは何なのか?なぜ頭だけが地面に置かれているのか?地震で頭がもげて下に落ちたとも見ることができますが、どの像も見事に首から分断されているところを見ると、他に何か意味があるようにも。
体の部分はどれも椅子に腰掛けて並んでいるのだそうです。

神々の像の造形にはギリシャとペルシャ両方の特徴が見られ、かなり貴重な遺跡と認識されていますが、発掘調査は遺跡にかなり負担をかける可能性が高く、復元も難しいと考えられており、具体的な作業には至っていません。
残念なことではありますが、この不思議な光景は、訪れた人々の目に焼きついて離れることはないでしょう。

アニの考古遺跡(2016年登録)

アニの考古遺跡(2016年登録)

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トルコの16の世界遺産の中で、最も新しく登録された遺跡。
トルコ北東部、アルメニアとの国境近くに、もともとはアルメニア人が作ったとされるアニという古い商業都市があります。
東西を結ぶ様々な交易ルートが交わる場所であったと考えられており、数万人の人々が行き交っていた時代もあったのだそうです。

最盛期は10世紀~11世紀。
アルメニア人が定住し、様々な海産物や工芸品、布製品などと共に教会もたくさん建てられました。
しかし、重要な地域であることから強国の侵攻を受けることもしばしばで、ビザンティン帝国の支配下に入ったり、モンゴル帝国に攻め込まれたり、セルジューク朝やオスマン帝国の影響下に置かれたりと、大陸を席巻する大帝国に翻弄され続けます。
オスマン帝国が傾きロシアが侵攻してくるようになると、この地はまるで歴史から忘れ去られてしまったように姿を消してしまうのです。

現在のアニは、果てしなく広い草原のところどころに、ぽつりぽつりと、建物や建物の跡が残るだけの、荒れ果てた寂しい場所。
残された建物も、ひとつひとつはかなり離れていて、どれも崩壊寸前。
廃墟も同然の外観で、ここにそれほどの商業都市があったのか疑いたくなるほどです。

20世紀末から21世紀に入って、アニは「危機に瀕している」と認識され、保護活動が行われるようになりました。
しかし、こうした国境近くの遺跡群の保護は、簡単にいかない場合が多いようです。
世界遺産に登録されたことで活路を見出すことができたら、と切に願います。

トルコの世界遺産は魅力いっぱい!

トルコの遺跡というと、トルコ石のような青色や金色の装飾をイメージしていましたが、王朝や時代によって表情も様々。
トルコの歴史の深さにすっかり魅了されてしまいました。
リピーターが多いのも頷けます。
アジアとヨーロッパが交差する国、トルコ。
歴史の息吹を感じに出かけてみませんか?
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