大坂城と同じ大きさ?秀吉をもてなすための海の城「広島城」の歴史

広島城といえばどんなイメージがありますか?毛利氏の城、原爆投下の目印とされた城などがあると思います。ではその毛利氏にはどんな歴史があるのか?発展の祖・元就は吉田郡山城の戦い、厳島の戦い、第2次月山富田城の戦い、立花城の戦いと大きな戦を経験しましたが、その結果毛利氏はどの様に大きくなっていったのか?そして秀吉と接近し、また関ヶ原の戦いで毛利氏はどう変わっていったのか?毛利氏の後の城主はどう広島を治めたのか?これらについて紹介したいと思います。まずは広島城がどんな場所にあるのか?ということから見ていきましょう。

広島城はどんな城?

広島城はどんな城?

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広島城はどこにある?どんな所に建っていた?

広島城は広島県広島市の中心部にあり、新幹線の止まる広島駅から市内電車に乗り、紙屋町東もしくは西のどちらかの電停で降り、北に歩いて約15分の位置。
アストラムラインの城北駅で降りると歩いて12分です。

広島城は太田川河口のデルタ(三角形)に築かれた平城で、その規模は城下町をも掘で囲む南北約3.2km、東西2kmに及び、南限は平和大通り辺りでした。
満潮時には濠に海水が逆流する海城的な構えでした。
ということは、江戸時代くらいには平和大通りから南は海だったということになるでしょうか?現在は平地の真ん中にありますが、築城当時は海水で囲まれた海城だということになりますね。

広島城の東南約1.5kmの位置に比治山(ひじやま)がありますが、毛利元就の時代には比治山の西と南は海で、西北は京橋川河口で(スマホの地図アプリで広島市の比治山付近を確認してみると想像しやすいかと思います)、元就は比治山に新たな本拠地を築こうとしたそうですが、理由は明らかではありませんが元就は城地を五ヶ村(現在の位置)のデルタに変更したといいます。

天守閣はどんなものだった?

天守は2基の小天守を伴う複合連結天守で、天正17年(1589年)に起工、慶長4年(1599年)に楽慶法要が営まれました。
大天守は下2層(12間に9間)の大入母屋(おおいりもや)の上に、3、4、5層が順次小さくなっていき、5層は(3間4方)は廻縁(めぐりえん)がつく望楼。
高さ12.4mの石垣の上に26.6mの高さの天守があったことになります。

小天守は東と南の2基が3層でありましたが、明治5年(1872年)の破却令により解体され、大天守のみが残りました。

当時の秀吉の大坂城天守に近い大きさを有した全国最大級の天守でしたが、昭和20年(1945年)の原爆投下により大天守は木っ端微塵となりましたが、昭和33年(1953年)、外観が復元されて鉄骨コンクリート製で再築。
しかし、各階の武者窓である突土戸(つきつちど)は省略され、望楼に金網がめぐるなどして、昭和20年以前と比べて違和感のある部分も。

個人的には城の最上階に金網があるのは複雑な気分。
城のてっぺんから周りの景色を見渡すと、その街の形が分かって好きなので金網がない方がスッキリ見れていいのですが、同時に高い所が苦手でもあるので、望楼が狭いと転落しないか不安でもあるので、その点を考えるとやはり金網はあった方がいいのかという複雑な感じです。

広島城にはどんな建物がある?

本丸南側には地元では実質上の二の丸だったと言われている角馬出(かくうまだし)があり、(他の城だと二の丸って大きいのですが、広島城のものは規模が小さいそう)その名の通り、外部へ出撃するための施設。
本丸表御門と共に太鼓櫓、多聞櫓(たもんやぐら)、橋御門など一連の建物が原爆投下前まで残っていました。

これらは平成6年(1994年)に旧状どおりに木造で復元され、特に太鼓櫓の2層目は廻縁つきの吹き放ち構成で、内部に登城合図を告げる太鼓が吊るされ(これで少し当時の光景が想像できますね)、壁も真壁仕上げで、古式な城郭建築の姿を伝えています。

他に現在残っている物では福島正則の時代に建てられた石垣があったり、日清戦争の時に天皇が戦争を直に指揮する機関だった大本営の跡、また被爆したクロガネモチやマルバヤナギなどの樹木が残っていて、さらに昭憲皇太后が日清戦争の際に滞在した御座所や他にも戦時中の軍の施設、また明治31年に広島に水道が引かれたことを記念して作られた「桜の池」もあります。
原爆の被害を受けたということで、他の城とは見る上で違う意味合いのある建物などが特徴的でしょうか。
ただ城を見るということ以外に感じるものがたくさんあるかもしれません。

毛利氏発展の祖・毛利元就とは?

毛利氏発展の祖・毛利元就とは?

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あっちについたりこっちについたり毛利元就

広島城を建てたのは毛利輝元ですが、輝元が大大名なのはやはり祖父の元就が基礎を作ったことによるものなので、毛利氏と毛利元就について説明したいと思います。

毛利氏は鎌倉時代に相模武士だった毛利時親が安芸吉田荘の地頭として安芸に入り、室町時代には国人領主に成長していったのが始まり。
吉田荘で3000貫文の地を支配する在地領主に過ぎなかった毛利氏が戦国大名に成長したのは、やはり元就の活躍があったからです。

安芸国の守護は武田氏で、その下に300人ほどの国人が被官として名を連ねていて、元就もその一人。
元就は他の国人たちと国人一揆を結び守護武田氏を凌駕し、同じ国人だった吉川氏には次男元春を、小早川氏には三男隆景をそれぞれ養子として送り込み(たまたまどちらの家にも後継がいなかったのはラッキーでしたね。
吉川の方は吉川家中が内部分裂してこれを収めるために当主の興常(おきつね)を無理やり隠居させるためのものでしたが)、また同じ国人の宍戸氏(ししどし)には娘を嫁がせるなどして、国人一揆の中では頭一つ飛び出す形となりました。

もっともその時点ではまだ毛利氏は独立大名というわけではなく、尼子氏か大内氏のどちらかに付かなければ家を保つことはできませんでした。
元就ははじめ尼子氏につき、のちに大内氏につき、自分の嫡子の隆元(たかもと)を人質として大内義隆のもとに送っています。
隆元の「隆」は大内義隆から一字もらって名乗ったものだそう。
「あっちについたりこっちについたり!」と元就に怒る人もいそうですが、どんな戦国大名もこれをやっていますし、自分の家を守ることが最優先なので、仕方のないことだったのです。

安芸郡山城(あきこおりやまじょう)の戦いはなぜ起こった?

安芸郡山城(あきこおりやまじょう)の戦いはなぜ起こった?

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尼子晴久(はるひさ)は天文6年(1537年)に経久(つねひさ)から家督を相続したばかりだったにもかかわらず、急速に備中・備前・美作を攻略し、中国地方一の大名になっていきました。

晴久にとって元就が大内氏についたことは許せるものではなく(あっちについたりこっちについたり常識化した戦国時代とはいえど、裏切られた方は嫌でしょうね)天文9年(1540年)、ついに元就征伐の心を固め、6月に三刀屋(みとや、島根県東部)→赤穴(島根県飯石郡飯南町)→三次(広島県北東部)を通って元就の郡山城を攻め、要するに備後路から安芸に攻め入りましたが、甲立城主(五龍城)の宍戸元源(ししどもとよし)が粘り強く抵抗したため失敗に終わります。

そこで晴久は今度は赤穴から石見国(島根県)に入り、都賀(つが、島根県中部)→口羽(くちば、同じく島根県中部)→多治比(たじひ、広島県安芸高田市)という石見路を通って安芸に攻め入らせることに。
尼子軍は総大将久幸(ひさゆき、経久の弟)・国久・誠久(さねひさ)を中心に総勢3万を数えたと言われています。
元就勢は8000ほどで、元就にとって最初の大ピンチだということになりますか。
しかし、織田信長も徳川家康もこういう多勢に無勢の大ピンチを乗り越えてきていますよね。

尼子氏に勝ったことで声望を得た元就

しかし、元就勢8000の大半は領内の農民で、実際の戦闘要員はわずか2800とされています。
(とはいえど、尼子勢30000のうちにも農民が大半だったかもしれませんが)

戦いは9月5日から始まり、はじめは尼子勢は吉田の町に放火して回り、それを防ごうとする毛利勢との間に小競り合いがある程度。
9月23日尼子勢は風越山から青山・光井山(みついさん)の間に本陣を移し、10月11日に誠久らの率いる新宮党が一気に郡山城を攻めようとしましたが、かえって元就方の伏兵に襲われて破れるということも。

12月3日、元就がかねてから要請していた大内氏の援軍が駆けつけ、逆に尼子側が不利な状況に。
大内氏の援軍は陶晴賢(すえはるかた)率いる1万の軍勢でにらみ合ったまま膠着(こうちゃく)状態で年を越し、ついに天文10年正月13日、尼子勢は決着を付けようと総攻撃を仕掛けますが、総大将の久幸が討ち死にするなど敗北を喫し戦意を喪失。
そして撤退することに。
毛利勢は逃げる尼子の敗残兵に追い打ちをかけ、尼子勢は散り散りほうほうの体で月山富田城に帰還。

この戦いで中国地方の勢力図が大きく塗り替えられ、元就の声望が高まったのです。

陶晴賢との戦いと、元就の調略とは?

その頃元就が他の国人と協約したときの文書が残っていますが、署名を放射状にするいわゆる「唐傘連判状」(からかされんばんじょう)の形で、同僚であると見せかけながら次第に力を強め、巧妙に国人たちの頂点に立ち、ついに戦国大名化に成功。
国人一揆からの戦国大名化の例として有名ですね。
大河ドラマ「真田丸」でも真田昌幸が国人の集まりをこんな感じでまとめようとしたシーンがありましたね。

功治元年(1555年)の厳島(いつくしま)の戦いは元就の転機となる戦いで、天文20年(1551年)に大内義隆の家臣であった陶晴賢が義隆を自害に追い込み、大内家の実験を握る、いわゆるクーデターが起き、ここから晴賢と元就の戦いが始まります。

天文23年(1554年)の折敷畑(おしきばた)の戦いで元就は晴賢の武将宮川房長を討ち死にさせ勝利を得ますが、ここでは晴賢と元就の力関係は変わらず、晴賢の圧倒的優位のままでした。

しかし元就はいずれ来る晴賢との決戦の前にさまざまな手を打ちます。
元就は晴賢の重臣の一人江良(えら)丹後守房栄(ふさひで)に調略をかけ、間者を山口城下に送り込み、「房栄は安芸討伐に向かうとき、元就と手を結び、逆に晴賢を討つつもりらしい」という流言を流させました。
また房栄の筆跡を真似て作った偽の元就宛の誓書を作ってそれを山口城下に落としてくるという念のいった工作もし、結果として陶軍の一翼の江良房栄が晴賢と元就の対決の前に殺されるということになりました。

厳島の戦いはどのように推移した?

96823:厳島の戦いはどのように推移した?

撮影/カワタツ

元就が晴賢との決戦城に選んだのは観光地としても有名な安芸の宮島、すなわち厳島。
厳島は大内氏、そして陶氏にとって安芸支配の拠点であり、陶氏の水軍にとっても重要な拠点。
元就はこの厳島に城を築き、宮ノ尾城と名付け、陶方から毛利方に寝返った二人の武将に城の守りを任せ、これが晴賢を刺激。
また元就は伊予の村上水軍も味方に付けていました。

功治元年(1555年)9月24日、元就の長男隆元が先陣として吉田郡山城を出発し草津城(広島市西区にあったとされる城)に入り、27日には元就も草津城に。
さらに翌日、本陣を地御前(広島県廿日市市)に移転。
9月30日、元就・隆元らの主力第一軍は日没とともに行動を開始し、地御前から海を渡って包ヶ浦(つつみがうら、厳島神社から東に4km)に上陸。
晴賢の本陣のある厳島の塔ノ岡に迫り、小早川隆景率いる別働隊第2軍は大野から迂回して有ノ浦に着き、宮ノ尾城の味方と合流することに成功します。

戦いがあったのは10月1日の夜明け。
夜が白み始めると同時に包ヶ浦・宮ノ尾の両方から一斉に攻撃が開始され、挟み撃ちにあった陶軍はせまい島の中で2万という大軍であったため身動きが取れず、とうとう総崩れに。
ここで敗れた晴賢は一旦山口に逃れて高安原で自刃。
同年4月までには旧大内領内をほぼ自分のものにすることに成功し、この戦いで元就の評価はますます高くなったのです。

安芸の宮島に行くなら、厳島神社に行くのが観光のメインの目的になりますが、古戦場跡として宮島をグルッと回ると、毛利軍がどんな動きをしたのかわかって面白いかもしれませんね。

尼子氏を倒し、中国一の大名へ

元就は永禄5年(1562年)、大軍を率いて尼子義久の所領の出雲(島根県)へ侵入。
ここから再び尼子氏との激しい戦いが行われますが、この時はすでに尼子氏の力も衰え、それまで尼子氏に従っていた因幡・伯耆(島根県)の国人たちには毛利氏へ裏切る者も多く、義久の月山富田城(がっさんとだじょう)が次第に孤立していく状況に。

元就は永禄8年4月、月山富田城の周囲に砦を築き、25000の大軍で包囲。
一方、江尾城(えびじょう)や大江城などの支城を各個撃破し、月山富田城を孤立させます。

しかし、義久ら尼子軍は籠城で抵抗を続け、翌年の永禄9年にまで持ち越されてしまいますが、飢餓に悩まされ士気が下がっていき、そしてついに11月21日に毛利氏に降伏。

この結果尼子氏は滅亡、かつて中国一だったその威勢はそのまま毛利氏のものになり、毛利は西は長門から東は備中・因幡に至る中国地方10カ国を領する大大名となったのです。

自分に不利な戦いをたくさん経験しつつも、それをどうにか乗り越えて、逆に相手の領地を奪い、「九死に一生を得た」どころか「九死に中国地方全土を得た」というのが元就の成り上がった人生とも言えるでしょうか。

九州へも進出、立花城の戦い

さらに元就は九州へも手を伸ばします。
永禄10年(1567年)大友宗麟(そうりん)の重臣だった高橋鑑種(あきたね)が元就と組んで、宗麟に対し反乱を起こしました。
さらにこれに連動して秋月種実(たねざね)も元就に通じて、宗麟はこれら反乱軍の鎮圧にあたりますが、立花城の立花鑑載(あきとし)も毛利に通じて宗麟と手を切り、これにより大友氏の領地だったところが裏切りによって毛利側に変わってしまう事態に。
しかし、大友宗麟はあまり家臣に好かれていなかったことになるでしょうか?でないとここまで立て続けに裏切られたりしないですよね?

ともかく宗麟は肥前の龍造寺隆信と講和を結び、35000の大軍で筑前に進み、毛利の援軍が来る前に立花城を攻め落とし、城主の立花鑑載は自刃。
遅れをとった毛利軍は吉川元春・小早川隆景が大軍で門司・小倉に上陸。
そして元就も孫の輝元を連れて40000の大軍を率いて筑前に駒を進めます。

こうして中国の覇者・毛利元就と九州の大友宗麟が対峙し、元就は立花城を包囲し、鉄砲隊が威力を発揮し城を落とすことに成功。
その後は膠着状態が続きますが、ここで毛利家にとって意外な事件が。

月山富田城が落城した後京都に逃れていた尼子氏の重臣山中鹿之介が織田信長の力を借り、尼子誠久の子の勝久を還俗させ、勝久と名乗らせて出雲に攻めてきたのです。

さらに大内義興(よしおき)の甥の輝弘が宗麟の助けを得て、山口に攻め入り、元就としては宗麟にやり返された感じでしょうか。
大友と尼子が手を結べば挟み撃ちになってしまうので、元就はこのまま立花城付近で宗麟と戦うか、九州を退いて大内・尼子を討つかの決断を迫られます。

元就の決断は早く、せっかく取った立花城を捨てて軍を返すことに。
吉川元春がすぐ兵を引いて山口に急行し大内輝弘を攻め、輝弘は毛利の反転に驚いて、現防府市の茶臼山で自刃しました。

秀吉に臣従し、広島城を建てた輝元

織田信長、羽柴秀吉に追い込まれる毛利氏

しかし元就も1560年代前半からたびたび体調を崩し、元亀2年に吉田郡山城にて死去。
死因は老衰とも食道癌ともいわれ、享年75。
家督は嫡男の隆元が早世したため、隆元の嫡男の輝元が継ぎました。

輝元は尼子勝久や大友宗麟に勝ち九州や中国地方の勢力を拡大。
また織田信長に追われて毛利氏を頼ってきた将軍・足利義昭を鞆に御所を与えて保護。
しかし、義昭はいろいろな大名に追われても、結局誰かに助けてもらえて「将軍に生まれたのは得だなあ」と思います。

織田家とは友好関係を保ってきましたが、石山本願寺と信長が戦ったことで本願寺側に兵糧や弾薬を援助したため、信長と敵対する羽目に。
義昭が上杉謙信など反信長勢力に声をかけたため、外交的な面も手伝って木津川口の戦いなど毛利は連勝。
天正6年(1578年)の上月城(こうづきじょう)の戦いでは、羽柴秀吉が三木城の別所長治の反乱で退路を塞がれることを恐れて転身したため、孤立した上月城の尼子勝久・山中鹿之介の尼子残党を滅ぼして勝利します。

しかし、上杉謙信が死に、11月の第2次木津川口の戦いで鉄甲船を使った織田家の九鬼嘉隆(くきよしたか)に敗れ、この結果、淡路島より西の制海権は毛利が握っていましたが、戦況は毛利氏に不利に。
さらに、毛利氏の味方だった宇喜多直家が織田方に通じて毛利から離反します。

さらには羽柴秀吉が天正8年(1580年)に三木城を、翌年に鳥取城を兵糧攻めにして落とし、鳥取城では毛利家の名将・吉川経家(つねいえ)が自害し、さらに信長と組んだ大友宗麟が西から、山陰からも南条元続(もとつぐ)が攻めてくるなど次第に追い込まれることに。

秀吉との和平路線へ

天正10年(1582年)4月には秀吉は毛利氏の忠臣・清水宗治が守る備中高松城を攻撃。
輝元は吉川元春・小早川隆景と共に大軍を率いて出陣しますが、この時点で「織田には勝てない」と毛利側は思っていて、講和の条件をなるべく良くするための出陣だったとか。
また、殿(しんがり、退却の際に一番最後を務める部隊。
ちなみに最も危険な役割)を務めると思われる部隊が毛利家が散々負かされてきた宇喜多軍になるだろうからという理由も。
「宇喜多には勝てない」という苦手意識があったのでしょうね。

そして、この戦いの最中に本能寺の変で織田信長が死ぬ事件が勃発。
秀吉はこれを毛利側に知られないようにして毛利側の外交僧の安国寺恵瓊(あんこくじえけい)に働きかけ、早期の講和を実現。
備中高松城を開城し清水宗治は切腹。
秀吉はすぐさま兵を京都に引き返させ、「中国大返し」。
山崎の戦いで明智光秀を破り、一気に天下人へ駆け上がっていくのです。

一方、後で信長の死を知った吉川元春は「こんなチャンスはない!追撃しよう!」と主張しますが、小早川隆景は「一旦講和で決定した約束を翻すのは武士のやることではない」と退け、ここで追撃をしなかったことが秀吉の助けとなり、毛利が秀吉に可愛がられる要因となったのです。

秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦いでも毛利は双方から誘いを受けましたが、時勢を見る必要もあり、毛利は中立の姿勢。
しかし、秀吉が勝つと戦勝祝いを送りました。

秀吉をもてなすために作られた広島城

賤ヶ岳の戦いの後は秀吉を天下人と思って接近。
人質を差し出して臣従することに。
その後は秀吉の命令で天正13年(1585年)の四国攻め、翌年の九州攻めににも先鋒として出陣し武功を挙げ、秀吉の天下統一に貢献。
しかし、戦いの最中に病で吉川元春・元長父子を失いました。

天正16年(1588年)に上洛、豊臣姓と羽柴の名字を下賜され、羽柴安芸宰相と称されました。
しかし、豊臣姓はともかく、「羽柴」の姓をもらうのは、輝元の内心ではどう思っていたのでしょうね?秀吉は足軽出身だったので、生まれながら大大名だった輝元には、気になることだったのではないでしょうか?

そして、広島城の築城工事が天正17年(1589年)3月頃から始まり、同19年(1591)年に輝元が入城。
築城は島普請ともいい、デルタの埋め立てと濠を作ることに力が注がれ、海水と元からある河川を堀として海に浮かぶような城を作ろうとしたのですね。
また広島城が建てられた太田川の三角州が交通の要衝だったことも築城の要因だったそうです。

輝元は豊臣大名の中でも有力な立場だったので、秀吉は黒田如水(じょすい、官兵衛)に助言役を命じ、竣工した城は秀吉が京に建てた聚楽第によく似た形だったそう。

この時点での輝元の築城目的は、自らの本拠としてではなく、秀吉が朝鮮出兵の際に肥前名護屋に向かう途中での宿にするためだったそうで、実際に秀吉は文禄元年(1592年)に広島城に入り、当時の広島城は今の規模ではなく単郭が基本の縄張りで、秀吉好みのきらびやかさだったそうで、発掘で金箔の瓦も見つかっています。

関ヶ原で敗れ、毛利家は大減封

関ヶ原で敗れ、毛利家は大減封

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そして、輝元は2度の朝鮮出兵にも主力軍として3万の兵を派遣。
慶長2年(1597年)には小早川隆景が死去し、隆景の養子として秀吉に押し付けられた秀秋に仕えることが嫌だという家臣も多く、毛利本家に帰参する家臣も。

しかし、毛利本家ではこれらの家臣は外様扱いされ、出奔(逃げて姿をくらますこと)する者も。
また三原など隆景の遺領が毛利本家に変換される処理の問題も。
そして同年に五大老に任命され、秀吉が死ぬ直前、幼少の秀頼の補佐を任されます。

安芸のの郡山城から広島城へ毛利氏の本拠が移るのは慶長4年(1599年)の間ですが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で、輝元は石田三成に西軍の総大将にされ大坂城に入城。
本戦には毛利秀元と吉川広家が出陣。
しかし、広家は「西軍は負けるに違いない」と思っていたため、黒田長政を通じて家康と本領安堵と家名存続を交渉。

本戦では吉川勢が毛利勢を抑える形で不戦のまま終了。
しかし、広家は「輝元は実際に戦場にいたわけではなく、西軍とは関わりがない」と弁明しましたが、実際に大坂城で輝元が西軍へ関与した書状が多数押収され、家康は輝元を改易し、吉川広家に周防(すおう)・長門(ながと)の2カ国を与えて家督を継がせようとしました。
家康としては毛利家から奪った所領を、東軍の大名に褒美として与えたかったのですね。

しかし、広家の家康への直談判で毛利家の存続を訴えたため、輝元の息子秀就(ひでなり)に対し(輝元は隠居)防長2カ国を安堵とし、毛利本家の改易は避けられました。
しかし、毛利家の所領は中国地方ほぼ全土から防長2カ国のみという大減封に。
ここで減封された恨みが300年後の幕末まで伝えられて長州藩の討幕へのエネルギーになったと言われています。

毛利氏以後の広島城主は?

福島家から浅野家に受け継がれた広島城

そして広島城には代わって福島正則が入城します。
しかし、正則は元和3年(1617年)の大洪水による城の修復と、三の丸普請の無届けを幕府に咎められ安芸備後50万石を没収され減転封され、嫡男忠勝に家督を譲り隠居。
さらに忠勝が早世したため改易に。
幕府が正則を改易に追い込もうと無理やり罪をでっち上げたという話もありますね。

その後は浅野長晟(ながあきら)が紀伊和歌山から加増移封され42万6千石で入城し、次の光晟(みつあきら)が庶兄の長治(ながはる)に5万石を分知し支藩の三次(みよし)藩を立藩。
検地や税制改革、西国道の整備や運輸整備などの藩政改革に務め、「広島町中御掟法」は後の広島市のもとになった藩法です。

4代綱長の時の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主浅野長矩(ながのり)が江戸城内で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつける刃傷事件が勃発。
綱長は広島本家にも処分が下ることを恐れ、赤穂浅野家筆頭の大石内蔵助(くらのすけ)に「敵討ちなど絶対にするな」と厳命し、一党から党員を抜け出せたりしましたが、翌年12月15日に内蔵助らが吉良邸に討ち入り、世論が内蔵助ら47士をもてはやしたため、綱長は手のひらを返し、浅野家の宣伝のため内蔵助の遺児良武を1500石で召し抱えました。

私も森村誠一「忠臣蔵」で小説を読んだのですが、飛び火を危惧した広島藩の横槍がかっこ悪いというか、そういう感じを受けました。

江戸から現在までの広島城

5代吉長は享保10年(1725年)、藩校の講学所(現在の修道中学校・修道高校)を設立し、享保15年(1530年)に弟の長賢に広島新田藩3万石を分知。
また元文4年(1739年)に宮島の大鳥居を修築し、また湯治場「湯の山温泉」は吉長ゆかりの温泉として知られています。
「江戸7賢人」の一人とされ、広島藩中興の名君とも。

6代宗恒(むねつね)の時代には、父吉長の代から幕命による比叡山延暦寺の堂塔修復や大火・飢饉などで財政が窮乏し、このため倹約と藩政改革に着手しこれがほぼ成功。

7代重晟(しげあきら)は倹約のため休校していた藩校を再興するため学問所を開設、明治期に修道館となり、現在も続いています。
また庭園「泉水屋敷」(現在の縮景園)の大規模改修を行い、これにより現在に近いものに。

8代斉賢(なりかた)のときに藩政は安定へ。
また藩の地誌「芸藩通誌」を編纂。

9代斉粛(なりたか)の時に天保の大飢饉などで財政は火の車に。

11代長訓(ながみち)のとき、財政再建のための藩政改革を断行。
政治刷新や有能な人材の登用、洋式軍制の導入などで改革に成功。
第2次長州征伐のとき停戦を主張し、岡山・徳島藩主とともに征長の非と解兵を請願。
明治4年に長訓が東京に移る際には一揆が起こっています。

廃藩置県により広島県が成立すると広島城内に県庁が置かれ、城内の江戸期の建物は解体されたり火事にあったりして、次第に少なくなります。

明治期には大型船が利用できる宇品港が開港したため広島には軍の施設が多く建ち、日清戦争のときには大本営が置かれました。
また外堀の悪臭や汚水の対策のため外堀が埋め立てられ、そして昭和20年(1945年)に原子爆弾が投下。
広島城の天守閣は倒壊し、門や櫓は焼失。

しかし、平成6年までに木造で現在の姿に復元されました。

毛利元就が大きくした大毛利家の象徴、広島城は大坂城に負けないくらい立派だった

毛利元就が大きくした大毛利家の象徴、広島城は大坂城に負けないくらい立派だった

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広島城は毛利輝元によって建てられた海の城で、朝鮮出兵のときに豊臣秀吉をもてなすため、金箔の瓦が見つかるなど、大坂城に近い大きさの秀吉好みの派手な装いでした。

そして、輝元の祖父・元就が尼子・大内氏・大友氏などと大きな戦いを何度も行って、中国地方一の大名へ。

輝元のとき、秀吉に臣従しますが関ヶ原の戦いで敗北し、領地を大幅に削られ広島を離れます。

その後は福島氏・浅野氏に支配され、忠臣蔵事件や財政の窮乏などの危機もありますが無事に明治時代を迎え、昭和になり原子爆弾投下で広島城は焼失。
しかし、現在は再建され、その立派な姿を残しています。

広島を観光する上で参考になりますでしょうか?広島城に縮景園、原爆ドームに平和記念資料館、そして宮島と厳島神社など、たくさんのスポットがありますが、今回紹介したように、厳島の戦いを思い浮かべながら宮島を観光するとまた違う発見があるかも?

それでは、読んでくれてありがとうございます!

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