漫画キングダムのその先は…?秦の始皇帝の歴史

中国は春秋戦国時代。紀元前770年~紀元前221年ごろの話です。その春秋戦国時代の終わりごろに誕生したのが「始皇帝(しこうてい)」。彼は当時中国に存在していた「秦」国の王でした。彼はかつて誰も成し遂げられなかった中華統一を果たし、王では満足せず、皇帝という称号を始めて名乗った人物です。しかしそのような彼も、順風満帆に中華統一できた訳ではなく、誕生の時から苦難の連続でした。彼がどのような人物であり、どのように統一を果たして行ったのか、また彼によって中国はどのように変わったのか、簡単にまとめてみました。

死と隣り合わせであった幼少期

 

奇貨居くべし

 

奇貨居くべし

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「始皇帝」は紀元前259年に誕生し、父は「子楚(しそ)」、母は「趙姫(ちょうき)」、生誕地は「秦」国ではなく、「趙」国の首都・邯鄲でした。
春秋戦国時代、中国には「燕」「趙」「韓」「斉」「魏」「楚」「秦」と7つの国がありました。
当時「秦」国の王であった「昭襄王(しょうじょうおう)」が、「趙」との休戦協定を結び、人質として「子楚」という人物を送っていたのです。
この「子楚」は公子ではあったが、秦王になる可能性はほとんどなく、「昭襄王」からすれば、たくさんいる子供の中の一人にすぎませんでした。
そして「昭襄王」の動き次第ではいつ殺されてもおかしくない立場であったため、「趙」国では人質としては価値が低く冷遇していたのでした。

しかし、その「子楚」の将来を一変させてしまう人物が現れたのです。

その人物は「衛」の商人であった「呂不韋(りょふい)」という者でした。

「呂不韋」は、「子楚」をたまたま目にして、「これ奇貨なり。
居くべし。」とつぶやいたのでした。
そして「子楚」のことを父に相談、「子楚」に投資することにしたのです。
「子楚」と会見できた「呂不韋」は、みすぼらしい恰好をしていた「子楚」にお金を渡し、「趙」国の有力者に名前を覚えてもらうように指導、自身は「秦」国に入り、「子楚」の父「安国君(あんこくくん)」の寵姫であった「華陽夫人(かようふじん)」に会い、このように言ったのでした。

「あなた様は寵愛を受けていますが、未だ子がなく、このまま年を取れば、地位が怪しくなります。
「子楚」は賢明であり、あなた様を母のように慕っております。
「子楚」を養子とし、「安国君」の跡継ぎとしてはいかがでしょうか」と。

子供が居ないことに元々不安を抱いていた「華陽夫人」はその言葉を聞き、「呂不韋」の思惑通り、「子楚」を養子とし、「安国君」の跡継ぎとしたのでした。

「始皇帝」は誰の子?

 

「子楚」を「秦」国の王にするという「呂不韋」の野望も思い通りに進んでいたその時、「子楚」が「呂不韋」に一つお願いをしてきたのでした。
それは「呂不韋」が寵愛していた「趙姫」を気に入ったので、譲って欲しいということでした。
「呂不韋」は非常に「趙姫」を愛していたのです。
その「趙姫」を「子楚」に譲ることは正直反対でした。
しかし、ここで「子楚」に嫌われてしまうと今までの努力が全て無駄になってしまうことになります。
「呂不韋」は、最終的に「趙姫」を「子楚」に譲ったのでした。
しかし、その時「趙姫」は既に「呂不韋」の子を身ごもっていたのでした。
ただ、そのことを隠し通し、生まれた子を「子楚」の子としてしまったのでした。
紀元前259年の正月に「子楚」の子として誕生した男児に「政(せい)」と名付けました。
その男児こそ、後の「始皇帝」となる人物です。

このような話も残っているぐらいなので「始皇帝」の父親が、誰であるか今となっては全くわかりません。
しかし、当時からこの話は、噂されていたみたいです。

次の漢の時代の書物である史記では、「始皇帝」の父親は「呂不韋」であると書かれていて、それがずっと信じられていましたが、現代では医学的観点や史記の矛盾から「始皇帝」の父親は「呂不韋」ではなく「子楚」であるという説も出てきています。

「始皇帝」命の危機

 

「始皇帝」命の危機

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「政」が誕生してすぐ「秦」国では「昭襄王」の皇太子が亡くなり、「安国君」が皇太子となったのでした。
このことは、「子楚」と「呂不韋」にとって転機でした。
もし、このまま「安国君」が次の秦王になれば、その次は「子楚」の番です。
「子楚」と「呂不韋」の野望はもう少しのところまで来たのでした。

しかし「子楚」と「呂不韋」にとって思わぬ事態が起きてしまったのです。

「昭襄王」が休戦協定を破り、「趙」国に侵攻、紀元前253年には首都である邯鄲を包囲したのでした。

怒り狂った「趙」国の人々が、「子楚」とその一族を殺そうと動き出しました。
しかしそのような時でも冷静沈着な「呂不韋」は、門番を買収して逃げる手配を整えた上で「子楚」を逃がし、「秦」国に戻るよう成功させたのでした。

しかし、さすがの「呂不韋」でも、この時に逃がすことができたのは「子楚」だけでした。

「趙」国に残された「趙姫」と「政」は、逃げることもできず、「趙」国の人々の憎悪を受けながら、地獄のような生活を余儀なくされたのです。

「いつどこで殺されるかわからない」という状況が、「政」の人格形成に大きな影響を与えたと言われています。
人間の顔色をうかがう能力、態度で瞬時に味方か敵かを見分ける能力など。
さらに人を疑い、怪しいと思ったらすぐに処罰するという冷酷な性格もこの時に形成されたといわれています。

このような生活が、約4年続いたのでした。

しかし「秦」国による邯鄲包囲は失敗に終わり、紀元前250年に「昭襄王」が亡くなってしまったのです。
そして「安国君」が「孝文王(こうぶんおう)」として即位しました。
「子楚」は皇太子となり、「政」は「子楚」の後継者となったのでした。
当時の国際慣習では、皇太子の家族の人質は国に送り返すという不文律があったため、「趙」国は仕方なく「趙姫」と「政」を開放して、「秦」に送り返したのでした。

「子楚」即位

 

「子楚」即位

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父「昭襄王」の跡を継いだ「孝文王」でしたが、なんと在位わずか3日で亡くなってしまったのでした。

そして「孝文王」の皇太子となっていた「子楚」が、「荘襄王(そうじょうおう)」として即位、「政」を皇太子の地位につけたのでした。
そして「子楚」は、「趙」での人質の時から世話になった「呂不韋」を丞相に任命、さらに洛陽の広大な土地を褒美として与えたのでした。

「呂不韋」が奇貨として目を掛けていた「子楚」が「秦」国の王となり、自らは「秦」の宰相に上り詰めたのです。
「呂不韋」の大ばくちが成功した瞬間でした。

その頃「昭襄王」亡き後、短期間で王が変わり、「秦」国内部がごたごたしている隙を狙って他の6国が動き出しました。
しかし、「荘襄王」と「呂不韋」は反対に戦いを通じて、「秦」国の勢力を拡大していくことに成功、「秦」国をより強大な国にしていきました。

しかし、紀元前246年に「荘襄王」がわずか在位3年で亡くなってしまいました。

そして皇太子であった「政」が秦王に、わずか13歳で即位したのでした。

しかし若い「政」に実権はなく、「秦」国は「呂不韋」や周囲の者に政治や外交を任せるのでした。

「始皇帝」と「呂不韋」

 

「呂不韋」の傀儡

 

「呂不韋」の傀儡

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「政」が秦王となっても実権はなく、「秦」国を動かしていたのは、仲父となった「呂不韋」でした。
しかし「呂不韋」は、「秦」国が巨大であるのに自身の権勢が他国に広まっていないことを恥じていました。
そして「魏」国の「信陵君(しんりょうくん)」・「楚」国の「春申君(しゅんしんくん)」・「趙」国の「平原君(へいげんくん)」・「斉」国の「孟嘗君(もうしょうくん)」に負けず劣らず、3,000人の食客を集め、1万人以上の召使を抱えたと言われています。

さらに3,000人の食客の言葉を集め編集、天地・万物・古今のことを全て記載した現代の百科事典のような「呂氏春秋」という書物を作成。
十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。
儒家・道家を中心とし、名家・法家・墨家・農家・陰陽家などの説も幅広く採用されている上、天文暦学や音楽、農学などの自然科学的な論説も多く見られ、自然科学史においても重要な書物であると言われています。

この書物の出来栄えを誇りに思った「呂不韋」は、「秦」国の首都・咸陽の市の門に書物を置いて「一字でも減らすか増やすかできた者には千金を与える」と宣言しました。

このようなことができる「呂不韋」は、秦王「政」とは比べ物にならないほどの権勢を誇っていたのです。

「呂不韋」の転落

 

「秦」国で王を上回る力を持つ「呂不韋」でしたが、頭を悩ませる人物が居たのです。
その人物とは秦王「政」の母親である「趙姫」でした。

元々男好きであった「趙姫」は、夫である「荘襄王」亡き後、元夫である「呂不韋」を誘ったのです。
「呂不韋」としても、「荘襄王」に自らの出世のために仕方なしに譲ったため、まだ未練があったのでした。
二人はすぐに男女の関係に戻ったのです。
しかし「政」の成長と共に、秦王の母と密通を続けるのは「呂不韋」にとってもかなり危険な行為でした。
そこで「呂不韋」は食客の一人であった「嫪毒(ろうあい)」という人物を利用することにしたのです。

「嫪毒」は、巨根の持ち主だったと言われています。
そして「呂不韋」は、宴会で「嫪毒」の巨根を軸に馬車の車輪を回すという芸をさせたのでした。
「呂不韋」は、このようなことをすることで、「嫪毒」のうわさを「趙姫」の耳に入るように仕向けたのです。
そして「呂不韋」の思惑通り「趙姫」は「嫪毒」を「欲しい」と言ってきたのでした。
しかしこれだけでは「嫪毒」を「趙姫」の近くに送ることはできません。
その時、「政」から「このようなみだらな宴会は慎むように」との苦言があったのです。
「呂不韋」はこのようなことをした「嫪毒」に罰として宮刑に処し、宦官にしたのでした。
しかし「嫪毒」を宦官にしたのは嘘であり、宮刑を執行したとの記録をでっちあげ、ひげを抜き取り、容貌を宦官に仕立て、男性器を残したまま「趙姫」の元に送り込んだのでした。

「呂不韋」の末路

 

「呂不韋」の末路

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「趙姫」は「嫪毒」を非常に気に入りました。
これで「呂不韋」も「ほっと一安心」と思ったのかもしれません。
しかし思惑通りに物事は運びませんでした。

「趙姫」は「嫪毒」を長信侯に封じ、多くの食客を抱えることになったのです。
また太原郡より以西を毒国とし、その力は「呂不韋」にも劣らないほどの権勢でした。
そして二人は人目を避けるように旧都・雍に移ったのです。
そこで「趙姫」は「嫪毒」との間に、二人の男児を生んだのでした。

この母である「趙姫」の動きを注視していた秦王「政」が22歳の時、「嫪毒」が「宦官ではない」との告発を受け調べることになり、密通が明るみに出たのです。
追い詰められた「嫪毒」は、「趙姫」の印璽で兵を集め、反乱を起こそうとしたが、事前に備えていた秦王「政」により返り討ちにあい、逃亡したが捕えられ、「嫪毒」は車裂きの刑、その一族や二人の男児も処刑され、「趙姫」は雍城に幽閉されたのでした。

「嫪毒」事件の背景を調べると「呂不韋」の関与が明らかになりました。
しかし「呂不韋」の今までの功績から弁護する者があらわれ、「政」は「呂不韋」の相国の罷免と河南での蟄居を命じることしかできませんでした。
しかし「呂不韋」の名声は中国中に知れ渡り、数多くの客人が後を絶たないため、反乱を企てかねないと思った「政」は「呂不韋」の権力をはく奪するため、一通の手紙を送りました。

「あなたは秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。
秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。
一族諸共蜀に行け。」

蜀とは当時、死罪をギリギリ免れたものが流される流刑地でした。
その手紙を見た「呂不韋」は、遅かれ早かれ誅殺されることを予感。
服毒自殺を遂げたのでした。

「始皇帝」による中華統一

 

「始皇帝」の眼力

 

「始皇帝」の眼力

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秦王「政」が「秦」国をまとめた時、「秦」は巨大な軍事力を誇り、他国は「秦」国とまともに戦える戦力をほとんど有していませんでした。
そのような時、「韓」国の「鄭国(ていこく)」という人物が、「政」に灌漑工事の必要性を説き、その重要性を理解した「政」は、「秦」国で大規模工事をおこなうことにしました。
しかしこの「鄭国」は「秦」国の財政を疲弊させるために送り込まれた人物でした。
そしてこの「鄭国」の工作が明るみに、このことから「政」の周りの大臣から「他国の人間を登用するのを止めましょう。
既に抱えている者は追放しましょう。」との意見が持ち上がりました。

しかしこの意見に反対したのが「李斯(りし)」。
彼は「楚」国の人で「呂不韋」の食客から頭角を現した人物でした。
「李斯」は、「秦」国の発展はさまざまな外国人の助力があって栄えさせてきたこと、人間は環境によって左右される生き物であると述べたのです。

じっくり両者の意見を聞いていた「政」は「李斯」の意見を採用。
引き続き外国人を登用して行く上、本来なら処刑されるはずの「鄭国」も引き続き工事をおこなわせたのでした。
この灌漑事業は鄭国渠と呼ばれ、現在の陝西省涇恵渠灌漑区に引き継がれています。

どのような人であれ、才能と必要なことを瞬時に見抜く力は素晴らしいものがあったのですね。

中華統一への道

 

紀元前236年、秦将「桓騎(かんき)」らが「趙」国の鄴に攻め込み、周辺の9城を奪い取ることに成功。
紀元前234年には「趙」国の平原に攻め込み、敵将を含む趙兵10万の首を切り落としたのでした。
さらに紀元前233年にふたたび勢い盛んに「趙」国に攻め込んだが、何と趙の大将軍「李牧(りぼく)」に敗れてしまったのです。
敗戦に命の危険を感じた「桓騎」は「秦」国を捨て「燕」国に亡命することにしたのでした。

その後も「李牧」の活躍により「秦」国は大苦戦。
秦王「政」は「李牧」とまともにやりあっても損害を増やすだけと考え、「李牧」を「趙」国の中心から外すように計略を仕掛けたのでした。
「趙」国の王の側近であった「郭開(かくかい)」に多額のわいろを贈り、王と「李牧」の仲を裂くように仕向けます。
その作戦が功を奏し、趙王は「李牧」を誅殺、代わりの者を大将軍に立てましたが、「李牧」にははるかに及ばない人物でした。
満を持して、秦将「王翦(おうせん)」が「趙」国に攻め込み、紀元前228年「趙」国を滅ぼしたのでした。
「李牧」が誅殺されてから、わずか3か月後のことでした。

また、秦将「内史騰(ないしとう)」には10万の兵を与え「韓」国に侵攻。
紀元前230年に、韓王を捕え「韓」国を滅ぼしていました。

「燕」国の抵抗

 

「燕」国の抵抗

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「趙」国を滅ぼした「秦」国は、次の狙いを「燕」国に定めました。
「燕」国は貧弱で、幾度となく「秦」国に攻め込まれたのですが、「燕」国の武力では太刀打ちできませんでした。
そこで「燕」国は太子の「丹(たん)」を使節として「秦」国に送ったのでした。
この「丹」は幼少期「趙」国に人質として送られていて、「政」と親しくしていたため、関係が改善されると期待されたからでした。
しかしその「丹」の目論見も外れたのでした。
秦王となった「政」は非常に冷たい人物になっており、「燕」国にとって災いを起こす人物と判断、逃げ帰るように戻ってきたのでした。

そして帰国した「丹」が「秦」国を抑えるために考えた策が、「政」の暗殺でした。

刺客に選んだ「荊軻(けいか)」との密談で、「丹」は「「政」に会うために何が必要か」と問われ、「荊軻」はこのように答えました。

「「燕」国で最も豊かな土地である督亢を差し出すこと。
元秦の将軍で、燕に逃亡してきていた「樊於期(はんおき)」の首。」

「樊於期」は「桓騎」と同一人物でもあると言われています。
「秦」国から逃亡した裏切り者の首は「政」にとって願ってもないことです。
しかし「丹」は非情になりきれませんでした。
領地の割譲は仕方がないとしても、「燕」国を頼って逃げてきた者を殺すことはできなかったのです。
その「丹」の苦悩を感じた「荊軻」は一人「樊於期」のところに行き、「あなたの首があれば私は秦王に近付くことができ、秦王を殺すことができるでしょう。」と頼んだところ、「樊於期」は喜んで首を差し出したのでした。

「荊軻」がもくろんだ通り、「政」は領土割譲のための地図と「樊於期」の首に大喜び、礼を尽くして接見しました。
そして秦王「政」の前で「荊軻」は地図の説明を始めようと開き、地図の巻物の最後に忍ばせていた匕首をつかみ、「政」に切りかかったのです。
「政」は袖を取られましたが、間一髪のところで破れ、逃げることに成功。
逃げ回っている途中、侍医が薬箱を「荊軻」に投げつけひるんだすきに「政」の剣が抜け、「荊軻」を切りつけ殺害、暗殺は失敗したのでした。

殺されかけた「政」は激怒し、「燕」国を総攻撃。
紀元前226年に「燕」国の首都・薊を陥落させ、燕王は暗殺計画の首謀者であった「丹」の首を講和の材料として講和を願ったのですが許されず、紀元前222年に燕王が捕えられ滅亡したのでした。

中華統一 「始皇帝」の誕生

 

秦王「政」は、中華統一のために、各国に軍を送ったのでした。

紀元前225年、秦将「王賁(おうほん)」は「魏」国に侵攻。
首都・大梁に黄河の水を引き込んで水攻めの上包囲。
「魏」国は3か月耐えたのですが、ついに降伏。
「魏」国は滅亡したのでした。

紀元前225年、秦王「政」は秦将「李信(りしん)」と「蒙恬(もうてん)」に20万の軍勢を与え、「楚」国を攻めさせたのでした。
しかし、この2名が大苦戦。
そこで秦王「政」は、引退していた「王翦」に将軍になるようお願いをしたのでした。
「王翦」は、先に「「楚」国に攻め入るのには60万の軍勢が必要。」と言い、秦王「政」に却下され、隠居していたのです。
秦王「政」は先日の非礼を詫び、60万の軍勢を与えると与えたのでした。
そして秦将「王翦」が代わりに「楚」国に侵攻、紀元前253年「楚」国を滅ぼしたのでした。

最後に残った「斉」国は、「秦」国と同盟を結ぶなどして戦争をほとんどしていない国でした。
秦王「政」も「斉」国の中心人物を買収し、攻め込んだ時にはほとんど抵抗しませんでした。
簡単に降伏し、紀元前221年、「秦」国による中華統一が成されたのでした。

そして秦王「政」は、いままでの王に変わる新しい尊称として皇帝という称号を使うことにしたのです。
今まで誰もが成し遂げたことの無い中華統一を完成させたことで、古の称号の最上級である泰皇とかつての五帝を組み合わせた称号でした。
新しい称号で地上界を支配する統治者として君臨することをあらわしたのです。

中華統一後の「始皇帝」

 

思想などの統一、大規模工事

 

思想などの統一、大規模工事

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「始皇帝」はさまざまな政治をおこなって行ったのです。
まず各国によって違う単位や文字の統一でした。
度量衡や通貨、荷車の軸幅の統一、また皇帝が使う文字は篆書体、臣下が使う文字は隷書体とし、各地で独自に使われていた単位や書体は廃止されたのです。
占星学・農学・医学・占術・秦の歴史を除く全ての書物を焼き捨てられ、儒教の経典である六経の一つである楽経はこの時失われたのでした。

さらに旧習を否定する「始皇帝」は、自らの政治を否定するような古い書物を全て焼き捨てたのでした。
そして、方士や儒者460人余りを生き埋めにし、虐殺したのです。

また「始皇帝」は、首都・咸陽に各地の富豪を強制移住させ財力を削ぎ、皇帝の居所にふさわしい阿房宮の造営、さらに驪山ですすめていた自身の陵墓建設を本格化させていったのでした。
地下水脈に達するまで掘られた陵の周囲は銅で固め、その中に宮殿などが造られたのです。
さらに水銀が流れる川が100本、天体を再現した装飾、侵入者を撃つ石弓、その他豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられた。

この始皇帝陵の建設には、最大70万人が動員されたと言われています。

さらに、北方の遊牧民の侵攻を防ぐため、巨大な防衛壁を造ったのでした。
万里の長城と呼ばれるこの防衛壁は、何十万人もの人々が動員され、数多くの死者を出したと言われています。
また、長江に流れ込む湘江と珠江の注ぐ漓江との間、約34kmに及ぶ大運河を造ったのでした。

死を恐れたのか?

 

中華統一した「始皇帝」に恐れていたことがあったのです。
それは老い、死でした。
仙術を得、不老不死を手にしたいと考えるようになったのです。
そのような「始皇帝」に取り入ったのが方士と呼ばれる不老不死を体得したと言う、怪しげな人たちでした。
その代表的な人物が「徐福(じょふく)」でした。

「徐福」は、「東の海に伝説の蓬莱山があり、そこには仙人が居ます。
不老不死の薬もありますのでそれを持ち帰ってきます。
私が行ってきますので、船と財宝を頂けないでしょうか。」と「始皇帝」に頼んだのでした。
「始皇帝」はこの時初めて海を見て、その神秘性に魅せられていたのです。
「徐福」に多大な金品と人を与え、蓬莱山に行ってくるよう指示を出したのでした。

しかし「徐福」の言う蓬莱山など存在しません。
見つけられず戻ってきた「徐福」に疑念を持ちます。
「徐福」も身の危険を感じ、二度目の航海の時には戻ってくることはありませんでした。
「徐福」は日本に渡ったとも言われ、各地に伝説があります。

「徐福」が居なくなっても、「始皇帝」は不老不死を諦めることはありませんでした。
さまざまな方士が代わる代わる「始皇帝」に取り入ったのです。

「始皇帝」による巡幸

 

「始皇帝」による巡幸

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「始皇帝」は、自分の存在を知らない中国の人々に対して、五度の巡幸をおこなっています。
それは威厳を見せつけるためもあったのですが、不老不死を求めての旅でもあったのです。

一回目の紀元前220年は、故郷に錦を飾るためと、北方の異民族へのにらみを利かせるための旅でしたが、二回目以降からは当方に巡幸することになります。

二回目の紀元前219年には、「徐福」と出会うことになるのです。
「徐福」に不老不死の薬を探させ、「始皇帝」は、天地に王の即位を知らせるための儀式である封禅をおこないました。

三回目の紀元前218年には、命を狙われたのでした。
「始皇帝」一行に重さ約30kgの鉄槌が投げ込まれたのです。
その鉄槌は「始皇帝」が乗った馬車ではなく、別の馬車に当たり「始皇帝」は無事だったのですが、「始皇帝」は激怒、全国に触れ回り、大規模な捜査がおこなわれました。
犯人は滅ぼされた「韓」国の貴族である「張良(ちょうりょう)」と「張良」が雇った男でした。
しかしこの二人は逃げ延びることができ、後「秦」国を滅ぼすのに活躍する人物となったのです。

四回目の紀元前215年にも、不老不死の薬を探す指示を出したのでした。

「始皇帝」最後の巡幸

 

五回目の紀元前210年、末子の「胡亥(こがい)」と「李斯」を連れ、東南に向かったのです。
これは方士たちが、東南方向から天子の気が立ち込めていると言ったからでした。
しかし、普段から不老不死の効果があると言われていた水銀入りの薬を飲み続けていた「始皇帝」の病状が悪化したのです。

とうとう最後まで不老不死を望み、求めていた「始皇帝」でしたが、死期を悟ったのか、長子の「扶蘇(ふそ)」を後継者とした遺書を宦官の「趙高(ちょうこう)」に託し、亡くなったのでした。
享年50歳。

しかし「始皇帝」の死が広まると世が乱れると危惧した「李斯」は「始皇帝」の死を隠したまま咸陽に向かったのでした。
そして死臭をごまかすために大量の魚を積んだ馬車を並走させ、「始皇帝」がさも生きているように振る舞ったのです。

ただ「始皇帝」の死を知る「趙高」が謀略を張り巡らしたのでした。
優秀な「扶蘇」が後継者になるよりは暗愚な「胡亥」が皇帝になった方が操れると踏んだ「趙高」は「胡亥」と「李斯」を味方に引き入れ、遺言を改ざんし、「扶蘇」を死に追いやったのでした。

「始皇帝」の死から2か月後、「胡亥」が二世皇帝につくと、「始皇帝」の遺体は驪山に葬られ、「趙高」の権勢が始まったのですが、そのような国に未来はなく、始皇帝の死からわずか4年後「秦」は後に「漢」の祖となる「劉邦(りゅうほう)」に滅ぼされたのでした。

稀代の改革者であった「始皇帝」

 

いかがでしたでしょうか。
「始皇帝」と言えば残虐な皇帝のイメージがあります。
しかしそのイメージは次の「漢」の時代に作られたものです。
「秦」を倒した「漢」からすると「始皇帝」は悪者にならないといけないのでした。
確かに阿房宮や始皇帝陵の造営、焚書坑儒はやりすぎかもしれません。
しかし時の権力者がこのようなものを建設したり、思想や文字を統一しようとするのは当たり前のことでした。
今まで誰も考えなかった郡県制の実施や運河の建設など、業績の数々は今もなお引き継がれているところがあるのです。

キングダムによって、「始皇帝」に対するみなさまの見方が変わることを祈ってやまないですね。

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