世界史の奇跡!?江戸時代の歴史まるかじり

時代劇でおなじみ、江戸時代。この時代、世界史的にとんでもない時期なんです。〈パックス・ロマーナ〉すなわち(ローマによる平和)が続いたのは、200年。しかし〈パックス・トクガワーナ〉――(徳川家による平和)はそれより長く265年に渡ったのです。その265年の長い歳月のあいだに日本は成熟し、明治時代以降に爆発的発展を遂げることすら可能でした。この奇跡の265年・江戸時代の歴史ダイジェスト、身分制度、政治、文化、外交、数々の歴史上の人物――みーんなコンパクトにまとめてみました。読み終えたら、江戸時代のスゴさにポカーンとなる……かも?

江戸前期~江戸中期のスゴい将軍たち

江戸前期~江戸中期のスゴい将軍たち

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徳川家康が幕府を開いてから、暴れん坊将軍・吉宗公の時代までをまずは追いましょう。
まず4代目家綱までがいなければ、徳川家はこれまでの武家政権同様、平和を確立することができずに数十年で滅んでいたでしょう。
「徳川家千年の計」をはかった、家康、秀忠、家光ら徳川家3代の将軍、そして幕末の「あの人」の祖である1人の侍の存在が、この平和の時代を確立しました。
徳川家中興の祖・吉宗と、悪人扱いされることで名高い田沼意次……一気にかけぬけてみましょう。

〈徳川家千年の計〉を確立した家康、秀忠、家光、そして――

1603年、徳川幕府、開幕。
その後大阪の役で豊臣家とその勢力を一掃した徳川家康、そして2代将軍秀忠は、諸大名に対して「法律」を発布します。
〈武家諸法度〉です。
これは「武芸をおさめること」「謀反は禁止」などの基本的なことを定めた法律。
「武芸をおさめること」「謀反は禁止」など基本的なことが書いてありますが、「大船(戦艦)を作ることを禁止する」「諸大名は妻子を人質として江戸にとどめ置くこと」などを盛り込みました。
これをもって「武士の世を作るために、武士を統制する」という策に出ます。

就任演説で「余は生まれながらの将軍」であると言い放った3代将軍・家光。
彼はこの〈武家諸法度〉を完成させ、外国勢力から日本を護るためにいわゆる〈鎖国〉を実施。
徳川家体制を盤石にします。

そして太平の世を確立したもう1人の武士がいます。
江戸時代史上最初の〈大老〉保科(松平)正之です。
家光の異母弟、いわゆる「ご落胤」の彼は実兄・家光に見出され、幕府の大役を命じられます。
江戸に大火事があって天守閣が焼け落ちたとき「江戸復興のために天守閣は再建しない」という決断を下した正之。
また、このとき火消し(消防署)が設立され、火災に強い都市計画がなされました。
善政を敷き、徳川家265年平和の確立に貢献した保科正之。
彼のその子孫が、あの会津藩主・松平容保です。

改革者・吉宗、経済を大切にした田沼意次

保科正之に支えられた徳川綱吉のあと困った事が起きました。
なかなか跡継ぎができません。
若死に、早逝が続き、ついに直系がとだえます。
ついに〈御三家〉の登場です。
家康は徳川家が絶えないようにと「将軍家予備軍」として3つに分家を作っていました。
数々のゴタゴタの末に決まったのが、紀州徳川家出身、かの徳川吉宗です。

吉宗は改革者でした。
浪費の多かった面を徹底見直し。
当時、人びとの通貨の基準値だった米価の安定に心を砕きました。
このとき行った「キリスト教に関係のない洋書輸入の解禁」が日本の歴史を大きく動かします。

その吉宗のあとを継いだのが、田沼意次。
賄賂政治で悪名高い彼ですが、最近の研究では非常に有能な政治家であったことが判明しています。
財政難におちいっていた幕府。
そこで「金があるところから回せばいい」という経済的発想で、重商主義を発揮します。
しかしその後、節約志向で吉宗をリスペクトする松平定信との政争に敗れ、〈寛政の改革〉を行った松平定信に追い落とされるとき、節約重視で武士の権威をおもんぱかった定信によって行われたネガティブキャンペーンが現代に至っているのです。

江戸後期~幕末の鳴動

江戸後期~幕末の鳴動

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武士の世がどん詰まってきます。
財政難、大飢饉などで幕府、そして各藩の武士は日々財政難!一方で商人はじめとした町人文化は隆盛を極めていきます、が、それでも日本は戦のない日々、太平の世を満喫していました。
一方日本の外で世界情勢は転回します。
隣国にして大国・清が大敗北を喫した〈アヘン戦争〉のニュースがオランダ船や中国船を介して伝わるや、日本の知識人は一気に危機感をいだきます。
動脈硬化を起こしつつあった徳川幕府という組織。
その行く末や、いかに。

〈蘭学〉の爛熟、伝わってくる鳴動する世界情勢

〈アヘン戦争〉で清が敗北したのが1842年。
清の商人やオランダ船によりその報せはあっという間に日本に伝わります。
またナポレオン戦争の動静が日本にも届き、日本の知識人たちは大いに未来を憂います。

そのような中、1841年に水野忠邦は〈天保の改革〉を実施。
江戸時代3大改革は「節約!農本主義でサムライの権威を高める」ことに尽きます。
吉宗が実施した〈享保の改革〉のときはともかく、常に外国かぶれのインテリは邪魔者でした。
このときに蘭学者に対する大弾圧事件〈蛮社の獄〉があったのです。
日本を憂うる超一級の外国通知識人が、次々と獄死などするというこの事件において日本が被った損失は非常に大きいものでした。

とにかく幕府も各藩も財政難。
権威を確立するために必死の改革をしますが、水野忠邦の行った〈天保の改革〉は失敗。
ちなみにこの〈天保の改革〉前に実施されていた〈大御所政治〉で権勢を振るった11代将軍・家斉。
大奥に予算をつぎこみ、40人の側室を持ち子供を55人も作って、それをあっちこっちの藩に強制的に養子・嫁がせます。
そうして幕府とのつながりとしたのです。
いずれにせよ徳川幕府は動脈硬化を起こしつつありました……。

成熟する町人文化の黄金期〈化政文化〉

文化・文政期――尻文字をとって〈化政文化〉と呼ばれるこの26年間の時期は、まさに近世日本の芸術のルネサンスといってよいでしょう。
ちなみによく時代劇で舞台になるのも、この文化・文政年間。
どんな風景が広がっていたのか、ざっくり見ていきましょう。

民間の教育施設〈寺子屋〉により、庶民の識字率はかぎりなく100%に近かった日本!庶民が心躍らせて読んだ〈草子〉(小説)は曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」十返舎一九「東海道中膝栗毛」。
このあと紹介する俳諧のスーパーヒーロー・松尾芭蕉のあとを継いだ俳諧の歌人・小林一茶や与謝蕪村。
また私たちのイメージするカラー印刷の浮世絵は〈錦絵〉と呼ばれますが、この技法が確立したのが文化文政期。
円山派、歌川派、琳派など数々の画師がしのぎを削って傑作をものにします。
紹介しきれないのが残念でたまりません!

その一方で、日本の沿岸をおびやかすようになった外国船に対する防備も本格化していきます。
伊豆代官・江川太郎左衛門英龍は幕府の命により近代的な大砲を作る、反射炉という施設の建造に成功。
これは2015年に世界遺産になった〈韮山反射炉〉です。
近代化は開国よりも前にはじまっていました。
その末に、ついにペリーが来航します。
〈幕末〉と呼ばれる過渡期がはじまりますが……それはこの記事の一番最後にゆずることにしましょう。

江戸時代を調べるなら絶対外さないで!〈忠臣蔵〉

江戸時代を調べるなら絶対外さないで!〈忠臣蔵〉

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といっても、現代では「正統派」の〈忠臣蔵〉を見る機会は、あまりありません。
史実では吉良上野介がいい人だったり、浅野内匠頭乱心説が出ていたり、12月14日夜に雪は降っていなかったり……。
しかし〈忠臣蔵〉は江戸時代を動かし、日本人の日本人たる精神を形作った大切な〈大事件〉です。
赤穂浪士四十七士のドラマをダイジェストでご紹介。
動画配信サービスなどで傑作『忠臣蔵』を見ることができます。
機会があればご覧になってみてはいかがでしょう。
では、いざ元禄時代、松の廊下からはじまったあの事件へ!

完璧な「遵法精神」にもとづく「仇討ち」

古典的な「忠臣蔵」のあらすじを3行でまとめると「たびかさなる侮辱に耐えかね刃傷沙汰を起こし切腹に処せられた主君のために、遊郭で遊んだりしながら人の目をあざむいた大内蔵之介ほか総勢47人が、元凶・吉良上野介の邸に討ち入りして首をとり処分として全員切腹となった」事件。

ことの起こりは、天皇からの勅使を迎えるための役をおおせつかった、赤穂藩主・浅野内匠頭と吉良上野介の確執。
上役である吉良上野介から散々侮辱を受けた浅野内匠頭は松の廊下でついに堪忍袋の緒が切れ、抜刀。
吉良上野介に手傷を追わせます。
城内抜刀はご法度。
下された判決は「即日切腹」赤穂藩はお取り潰し。
一方吉良上野介にお咎めはなし、です。
これに赤穂藩士は憤ります「ご公儀のお沙汰は無法である」――「喧嘩両成敗」の世の中、このような判決が下されるのはたしかに法に反することでした。

残念ながら紹介しきれない数々のドラマが繰り広げられた末、主君切腹から2年が経過した、冬の夜。
ときに元禄15年12月14日。
雪降る夜に、47士は吉良邸へと討ち入ります。
一晩繰りひろげた激戦のあげく、ついに吉良上野介の首をとるのです。
赤穂浪士47士は法の裁きに従って、その後切腹を申し渡されます。

反幕府!?〈山鹿流兵学〉

〈忠臣蔵〉が江戸時代人、ひいては日本人におよぼした影響は絶大なものがあります。
その中でも幕末へ大きな布石となったのが〈山鹿流兵学〉でした。
で山鹿流兵学は関ヶ原の戦いや大阪の役の後、つまり太平の世になってから確立された兵学は遅れて出た、机上の学問とされていました。
この兵学を築いた山鹿素行は赤穂藩に召し抱えられます。

誰にとっても意外な事態が起こったのは、元禄15年12月14日、山鹿流兵学の陣太鼓が鳴り響きます。
机上の理論とされてきた山鹿流兵学で主君の仇をとったというこの一大事に、全国で〈山鹿流兵学〉は大フィーバー!外様大名はこぞって藩のオフィシャル兵学として〈山鹿流兵学〉を導入します。
あの吉田松陰が最初に学び、10歳にして藩主の前で講義したのも山鹿流兵学でした。

以後、〈忠臣蔵〉は反幕府をかかげる外様藩のバイブルとして、そして江戸時代庶民の精神に『忠孝』を教える物語として、現代にまで根強い人気を誇っているのです。
太平の世に、主君に対する忠義の心!この大事件は江戸時代の人びとの心をわしづかみ、『仮名手本忠臣蔵』として歌舞伎化され、時代をこえた大ヒットを飛ばします。
が、ここに幕末にまでいたる伏線が隠されているのです……。

日本が見ていた学問の地平――〈蘭学〉〈国学〉の発展

日本が見ていた学問の地平――〈蘭学〉〈国学〉の発展

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太平の世に刀も槍も鉄砲も用はありません。
長男以外は跡継ぎ予備軍として職につくこともできない家制度のもと、マジメな武士の次男、三男以降たちは冷や飯を食べながら、必死で学問を修めました。
ここで司馬遼太郎の言うところの「読書階級」が誕生したわけです。
彼らをはじめとした多くの学者、国を憂えた人びとによって、多くの学問が成長し、人を助ける道が切りひらかれました。
海外から渡来し、日本で成長した西洋の学問〈蘭学〉ニッポン再発見の学び〈国学〉の2つのジャンルをご紹介しましょう。

井の中の蛙、空の高さを知る――蘭学の芽吹きと成長

徳川吉宗が「名君」と呼ばれるに足る理由の1つ、それは「キリスト教関連以外の洋書の輸入を許可」したことです。
西洋の知識を知ることによって国力を強化することが目的でした。
オランダから渡来した学問ということで、西洋の学問は〈蘭学〉とひとくくりにされます。

その蘭学がまっさきに活用されたのは、人の命に関わる医学の分野でした。
前野良沢は長崎で入手した医学書を、杉田玄白、池田淳庵などとともに、辞書もない中1つ1つの単語を前後関係から推測しながら訳すという途方もない努力の末、翻訳に成功します。
ここに蘭学は芽吹き、西洋の医術は多くの日本人を救いました。

1824年に来日したシーボルトは、なんとドイツ人。
優秀な医師であった彼はオランダ当局の許可を得て「オランダ人のふりをして」やってきました。
外交政策の一貫として日本人に医学を伝授しました。
日本オタクのシーボルトは全国から集った弟子たちに、医学には関係ない日本文化などのリサーチを頼み、さらには伊能忠敬の日本地図まで入手します。
ただしこれがスパイ行為にあたるとして幕府はシーボルトを国外退去処分、弟子たちの多くも刑罰に処せられました。
しかしシーボルトは画期的な外科技術や、それ以外にも西洋の最新技術をもたらしてくれた、日本の恩人と呼ぶにふさわしい人物です。

〈国学〉による国の発展

建国以来、日本のお手本は言わずもがな、お隣の大国・中国。
そこから伝来した儒教は日本人の精神に大きな影響を与えました。

一方「日本だってスゴいんだよ!」と、日本再発見の学問〈国学〉が発展します。
仏教や儒教が人間の本性をおさえつけ、そうすることで秩序を与えると考える学問ならば、〈国学〉のコンセプトは「ありのままで」。
『古事記』に代表されるフリーダムな恋愛観、自然を愛する心、そんな日本元来の姿をふたたび見直す動きもあったのです。

その学者の代表格といえば、本居宣長。
彼は過小評価されていた、日本最古の歴史書『古事記』世界初の写実恋愛長編小説『源氏物語』などの徹底分析解説本を世に出します。
「日本って、いいなあ」そんな愛国心は日本人を日本人としていくための、大切な感情。
〈国学〉はそれを確立したスゴい学問なのです。

花開く文化――浮世絵、俳諧、歌舞伎の世界

花開く文化――浮世絵、俳諧、歌舞伎の世界

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平和ってすばらしい。
なぜならのんびりと花鳥風月を愛でることができ、そこから美しい文化が生まれるから。
争いの世にもたしかに優れた詩歌や絵画は生まれますが、何かに熱中するには平和が一番なのでしょう。
江戸時代には文化が百花繚乱と咲き乱れました。
ここではそのほんの一部をご紹介しましょう。
俳諧の祖にして旅の巨人・松尾芭蕉と、浮世絵の大家・葛飾北斎を紹介しましょう。

「夢は枯れ野を駆けめぐる」――松尾芭蕉の奇跡

この人が偉業を達成できたのは、日本が平和だったから。
そう言える日本史の人物の1人が、あの松尾芭蕉です。
言わずと知れた〈俳諧〉のスーパースター。
芭蕉の磨きぬいた〈俳諧〉は俳句の前身となり、和歌よりも短い5・7・5の世界最短の詩の型式を日本中に広めました。

中国の詩人・杜甫(とほ)にあこがれていた芭蕉はこんな思いを抱きます「自分もあの偉大な詩人のように、諸国放浪をしながら発句をしたいものだ――」夢は実現します。
交通網が発達し、安心安全の旅が望めるからこその、一大旅行。
松尾芭蕉はは弟子とともに、歌の巡礼とも言うべき旅に出ます。
「夏草や兵どもが夢のあと」「五月雨をあつめて早し最上川」「しずけさや岩にしみ入る蝉の声」など、この旅で多くの傑作が生まれています。
数多くの弟子を育てた松尾芭蕉の辞世「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」はまさしく彼の人生の集大成である最上の句でしょう。

季節や自然の移ろいと向かいあい、その風景をたった十七の音で聞く人に伝えてしまう。
松尾芭蕉の俳諧から発展した俳句は今、世界無形文化遺産として登録へと運動がはじまっています。

江戸時代を描き残した浮世絵のレジェンド・葛飾北斎

浮世絵は数々の流派の魅力的な画家がたくさんいるのですが、あえて選んだのはこの人!世界絵画史にも名を残す、『富嶽三十六景』『北斎漫画』の作者・葛飾北斎を紹介しましょう。

生涯に3万点以上もの作品を残した北斎。
日本人のスピリットにいつだって訴える〈富士山〉を、あるときは主人公に、あるときは借景にして描いた傑作『富嶽三十六景』。
この中で描かれた「雨を線にして描く」などの技法はゴッホら西洋の画家にショックを与え、西洋における絵画技法の発展にも寄与しました。
また彼は、葛飾北斎という画師の名を不動にした『富嶽三十六景』において、庶民の生活を今に残しています。
また日本初の漫画とされる『北斎漫画』は、

その後、輸入品の包み紙や裏紙として使われていた、浮世絵が西洋で大絶賛。
明治時代にいたって〈ジャポニズム〉ブームを起こし、日本に対する文化的リスペクトが西洋の人たちの中で生まれました。
こんなに文化レベルが高い国だったんだ!と、西洋列強に日本があなどられずにすんだのです。

〈士農工商〉はなかった!?柔軟な身分階級制度

〈士農工商〉はなかった!?柔軟な身分階級制度

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江戸時代には非常に厳格な〈士農工商〉制があり――これもウソです。
江戸時代、武士が町人になったりもします。
たまに百姓が武士になります。
商人が武士よりも強いのは珍しくありません。
外国の身分制度は日本とは比にならないほど固く、どんなに有能でも庶民の立身出世は望みえません。
こんな現象は日本以外の国ではほとんど見られません。
さてこの章では江戸時代の〈身分制度〉について、そしてその〈身分制度〉を限界突破した2人の男をご紹介しましょう。

藩によっても違った〈身分制度〉

〈士農工商〉というくくりもそれほど厳格ではありませんでした。
百姓階級の人がものづくりをして売ったり、商家で工業を行ってそれを販売したり。
ガッチガチな身分制度というイメージとは違ったようです。
功績を残した町人には〈苗字帯刀〉が許されました。
苗字を名乗ることと太刀を帯びることは武士の特権。
〈苗字帯刀〉は名誉市民の扱い。
武士と町人のはざまにある、という感じの人もいたのです。

武士は大きな権力としてリスペクトの対象にもなっていましたが、江戸時代末期には大名でさえあちこちに借金を頼むなど、ずいぶん権威が落ちていました。
また「お金で苗字を買う」ということも流行。
貧乏武家に養子となり、形式として「武士」となるという裏ワザも横行。
それくらい、お金がなかった武家もあったのですね。

ただしこのように柔軟な対応をすることで、国家にとって有益な人材を登用して使える、というのも事実です。
この柔軟さが江戸時代を長生きさせました。
次の項では江戸時代の身分制度の限界突破した2人の男をご紹介です。

二宮尊徳、伊能忠敬――身分制度を

国のためになるなら多少の融通はきかせる、それが江戸時代日本のすごいところ。
その代表格2人をご紹介しましょう。
二宮尊徳、そして伊能忠敬です。

二宮尊徳は小田原藩(神奈川県)の貧しい百姓出身。
幼いときに両輪を亡くし、養父母に育てられました。
行灯に使う油代をケチる養父母に対してアブラナを栽培して自分の油を確保するなど、不屈の人。
どんどん事業を拡大し、同時に小田原藩の財政改革に貢献して名を高めます。
そこに起こったのが〈天保の大飢饉〉でした。
二宮尊徳はその実績を認められ、55歳のとき徳川幕府から命を受けます。
「全国の各藩におもむき、農業を指導せよ」。
二宮尊徳は幕府の御用として日本全国に農業指導におもむきます。
二宮尊徳が訪れた場所には今も「二宮」という地名が残されています。

伊能忠敬は現在の千葉県の商人でした。
が、その正体は地図測量大好きのオタク!安心して天文学や測量学に没頭できるようになった隠居後ですが、50歳にして幕府天文方の役人の弟子になります。
その熱意と能力から幕府は、当時急務となっていた日本地図製作を彼に依頼しました。
その時伊能忠敬、55歳。
足掛け17年、歩きぬいた伊能忠敬と弟子の手によって出来上がった〈日本地図〉は寸分の狂いもないものでした。
日本を踏破し、自分の信念に生きた伊能忠敬の愛弟子が、この後紹介する間宮林蔵です。

世界を見た江戸時代人

世界を見た江戸時代人

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鎖国政策により、中国、李氏朝鮮、オランダ以外とは接点がなかった日本。
しかし世界は日本の存在を忘れることはありませんでした。
外国船はたびたび日本海岸に出没し、そのたびに海を持つ藩は防備に追われます。
そのような中、江戸時代後期には〈世界〉を見た日本人もあらわれました。
ここで紹介するのは、そんな3人の男たち。
10年をかけてロシアから帰還した不屈の漂流民・大黒屋光太夫、〈間宮海峡〉を発見した大冒険家・間宮林蔵、一触即発の北方危機を乗り越えるのに絶大な役割を果たした高田屋嘉兵衛です。

ロシア・エカテリーナ大帝の手にキスした漂流民・大黒屋光太夫

1隻の船が伊勢湾で二百十日の大嵐に遭遇します。
何隻もの船が沈没する中その船は生き残り、漂着したのはなんと現在の北方領土より北、アリューシャン列島。
乗組員は大黒屋光太夫を含めた17人の船員たち。
彼らは故郷・伊勢に帰還すべくロシアの首都・ペテルブルクをめざします。

光太夫たちを待っていたのは苦難でした。
多くの仲間の死、役人のたらい回し。
対トルコ戦争と対フランス革命で大わらわのロシアで、果たして帰ることは叶うのか……。
そんな中、協力者を得てついに光太夫はロシアの最高権力者・皇帝エカテリーナ2世に謁見します。
エカテリーナ大帝は超人でした。
なんとこの国難の中で「日本との交易は国益となりうる」として、その手がかりに大黒屋光太夫たちの帰国を認めたのです。

大黒屋光太夫はエカテリーナ大帝からメダルを賜り、特別船を仕立てられて日本へ帰還します。
ロシアに帰化した2人をのぞくと、最終的に生き残ったのは2人。
幕府とロシアの間で国交成立はなりませんでしたが、光太夫たちは10年の時をえて日本に帰ったのです。
大黒屋光太夫はその後小石川植物園で余生を送りました。
妻子をえて、ついには故郷・伊勢へ一時帰った記録もあります。

北方危機!間宮林蔵と高田屋嘉兵衛、2人の男

大黒屋光太夫の日本帰還から12年。
日本が戦争寸前までいった事件があります。
大黒屋光太夫帰還のおりに江戸幕府からあずかった証書をカードに、日露国交成立の交渉に来たロシア大使は、日本側の劣悪な態度に激怒。
なんと北方沿岸を荒らし回ります。
あわや国際的な戦争となるまで追いつめられました。

伊能忠敬の弟子・間宮林蔵は百姓階級から実力で武士まで来た男でした。
ロシア船の大砲に腰を抜かす上官に「私だけは逃げなかったとあとで証言してください!」と言って踏みとどまったといいます。
またこの一触即発の事態ののち、蝦夷地(北海道)や北方領土の重要性を理解した幕府の命を受けて北方領土を大冒険。
千島とカラフトの間を半島とされていたところを前人未到の領域を踏破して調査。
「間宮海峡」は彼の功績をとってつけられた名前です。

この騒動でもう1人足跡を残した人物がいます。
蝦夷地の一商人・高田屋嘉兵衛。
彼はこの騒動のさなか、船を沈められ捕虜として捕縛されてしまいました。
しかし高田屋嘉兵衛は「日露交渉の架け橋となり、戦争を回避する」べく、言語や風習などを手探りで学び、最終的にロシア側の責任者を動かし、一触即発の事態を避けることに成功しました。
高田屋嘉兵衛は一商人が全権大使となって国難を救ったという、世界史的に見てもすさまじい活躍をした人物です。

〈明治維新〉の正体

〈明治維新〉の正体

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ついにこの平和な時代にも終止符が打たれます。
ペリー来航、アメリカをはじめとしてオランダ、イギリスなど列強諸国との国交樹立。
その中で国際通貨である銀のレートをべらぼうに安く設定したために、すさまじい貿易赤字に。
またコレラが大流行、多くの死者を出します。
食い詰めた日本は行動に出ました。
この太平の260余年のあいだにつちかった様々なものが発揮される日が来たのです。
ペリー来航からたった15年で〈革命〉をなしとげ、アジア世界から脱却し、世界にがむしゃらに乗り出した〈明治維新〉とは、一体?その正体に迫りましょう。

日本人を日本人にした「革命」

ペリー来航。
全国諸藩は、この国難に対応しきれない徳川家に見切りをつけはじめます。
さらに事態を悪化させたのは、この忙しい中で発生した将軍のお世継ぎ問題、〈安政の大獄〉という思想弾圧によって発生した、幕府への不信感……。

ここで勃発したのが〈攘夷派〉VS〈開国派〉のバトル。
「夷狄(いてき。
外国人のこと)討つべし」の機運が高まるのと同時に、蘭学者たちを中心に「開国して外国列強と立ち向かうべき」という強い主張が叫ばれます。

新しいもの・めずらしいもの大好き日本人。
先にも書いたとおり、オランダ船経由でわりと海外情勢は入ってきていたのです。
しかし実際に開国をせまられ、外交慣れしていないウブな日本は動揺します。
幕末騒動の引き金となったのは、不平等条約と経済問題。
歴史を動かすのはどの国でも「空腹」です。
銀レートで大損した上、コレラ大流行で多くの死者を出した日本。
全国に〈志士〉と呼ばれる人びとが誕生し、国を動かすために奔走しはじめました。
国際的・また国内の重要事件が連続したこの15年間を〈幕末〉と呼びます。

日本人の前に開かれる〈世界〉

徳川幕府は「小さな政府」でした。
今で言うなら、一地方自治体に日本国政府が倒されるような事態だったのです。

この幕末期の内戦は、植民地獲得でしのぎを削る、イギリスとフランスの代理戦争でもありました。
幕府方をフランスが、倒幕派をイギリスが支援。
このまま内部分裂が深刻化すれば、隣国清国と同じように植民地化される――その危機感の中で数多くの志士が立ち上がりました。
徳川幕府の代理となるものを、人びとは見つけました。
いつどの時代だって日本人の精神的支柱であった〈天皇家〉への回帰――〈尊王思想〉です。

江戸時代の平和だった265年間、日本としてのアイデンティティを確立できたから、外国列強に立ち向かうことができました。
数多くの犠牲を出した末、1867年、大政奉還。
徳川慶喜は実権を天皇家に引き渡します。
日本は新しい世界へ、新しい領域へと足を進めます。
そしてその中で真の成長が、真の苦難が待ち受けているのです。

文化や思想の成熟、「日本人」を「日本人」にした、江戸時代

近世期に200年以上も平和であったという国は、世界を見渡しても日本の他に存在しません。
現在私たちを「日本人」たらしめている土台である、文化、思想の多くが江戸時代に確立されています。
その平和の中で平和ボケせず、常に国家を憂い行動しつづけた人がいるということは、私たちを奮い立たたせてくれます。
江戸時代に育んだ文化や学問が「日本人」外交デビュー後わずか数十年たらずで国際的地位を確立するという快挙を成し遂げるのですが……それはまた別の物語です。
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