驚異!明治時代、日本大躍進の歴史

明治時代は驚きの時代です。東洋のはしっこの島国、ウブな外交ビギナー国家・日本は、たった数十年で世界の列強に肩を並べました。司馬遼太郎の言葉を借りるならば「坂の上の一朶の雲を目指し」て邁進した日本人は、はたして何を目指して、どんな世界を見ていたのでしょうか?明治の日本人が体験した2つの大きな戦争、そしてその後の袋小路の先で、日本人はどのような苦悶をしたのでしょうか。ところどころ世界史の動きも入れながら見ていくと、その正体が見えてきます。日本史、そして世界史の上でも類を見ない驚異の発展期・明治日本の世界へ、いざ。

〈明治〉って?激動の世界の中で

〈明治〉って?激動の世界の中で

image by PIXTA / 31816675

そもそも明治時代って一体どういうものだったのでしょうか?この章では当時の世界情勢を最初におさえながら、大きく転換した日本という国の形を見ていきましょう。
世界史を見れば、日本史が見えてきます。
日本が漕ぎ出した国際社会は激動の〈帝国主義時代〉。
世界各地が軍事力によって西洋列強の植民地となっていく中、日本は「近代国家として列強に肩を並べなければ国が滅ぶ」――切々とそんな脅威の前にいたのです。
そして、新しいもの好きの日本人、勤勉な日本人は時代の新しい形をどんどん吸収していきます。
さて明治人が眼に前にしていた世界とは、一体。

嵐の国際社会デビュー――そのころ世界は

まず世界史の観点から明治時代をとりまく状況を見ていきましょう。
日本が世界に門戸を開いたころ、世界はイギリスからはじまった〈産業革命〉で大隆盛!ワットが蒸気機関を発明したとき日本は江戸末期ごろ。
ペリーの黒船は最新の蒸気船でした。
技術を制するものは世界を制す、イギリスは世紀の大発見によって世界のトップに躍り出ます。
蒸気機関技術は世界に伝播していき、日本にも到来するのです。

さて翻って世界地図を見ると、世界の大地の4分の1がイギリスの植民地!〈大英帝国〉はヴィクトリア女王のもとで栄光を謳歌していました。
それに続いてアフリカやアジアに植民地を持つフランス、ドイツ、東欧を支配し中国にも手をのばすロシア……〈列強〉と呼ばれる宗主国によって世界は構成されます。
〈植民地〉をめぐって世界中で戦争が繰り広げられることになるのです。
アメリカも〈米西戦争〉でスペイン相手に戦争をしてキューバとフィリピンを植民地としてゲット。

軍事力によって他国を自分のものにする〈帝国主義〉が時代の主流となっているそのさなか、日本は国際社会デビューしたのです。
西洋に押されないため、西洋に負けないため、日本も〈帝国主義〉的方針をとる必要がありました。
アジアをはじめとした国々は、西洋列強に呑みこまれないためにあがきます。
アフリカ諸国、インド、そして中国……。
日本はそれらの国の二の舞いになるわけにはいきませんでした。

大規模な国家改革と大進歩

さて日本は幕末すったもんだ15年間の挙句に、開国と自由貿易を決意。
鎌倉時代から続く武家政権下で、幕府より低い権限しか持つことがなかった〈天皇〉という存在が、国家権力のトップにふたたび据えられたのです。
〈天皇〉お一方を〈現人神〉としてあおぎ見ることによって、各藩の君主に忠誠を誓っていた日本人は〈日本人〉という国民に生まれ変わっていきました。

前の項のとおり、国際社会は弱肉強食。
なりふり構ってはいられません。
若き人材を育てるべく政府はガンガン留学生を西洋に派遣します。
国家の誇りと将来を背負っているわけですから、今の留学生とはなにもかもが違います。
そうして育った人材を官僚として採用し、日本は国家の基盤を盤石にしていきます。
また、国民性として勤勉で新しいもの大好きの日本人はどんどん西洋世界の知識を学ぶ意欲がありました。

1889年2月11日、アジア初の近代的憲法発布。
同年には貴族院・衆議院の二院制の国会成立。
……明治という時代がはじまってわずか22年間のあいだで、西洋が数百年かけて築いてきた〈民主政治〉〈立憲君主制〉の大枠を日本も学び実践しました。
西洋の猿真似でもいい、猿真似から本物に近づけばいい……日本はとにかく邁進しなければなりませんでした。

アジア人として、アジアとの対決〈日清戦争〉

アジア人として、アジアとの対決〈日清戦争〉

image by PIXTA / 26411698

1894年、日本は大きな戦争を経験します。
かつてリスペクト対象でありつづけた大国・中国です。
当時は〈清王朝〉が中国を統治していたので、日本と清国の戦争つまり〈日清戦争〉と呼ばれます。
日本は〈西南戦争〉という内戦を経験し、徴兵制などの整備も整っていました。
一方の中国はアヘン戦争以降、ボロッボロ。
大国のメンツと朝鮮という領土を目の前に、絶対に後に引けない中国。
日本は事実上、清のものだった〈李氏朝鮮〉の開国と独立を求めます。
この戦争以降、朝鮮半島そして満州地方は、日本はじめ東アジアのアキレス腱となるのです。

かつて慕った国・中国の現在

中国の歴史には2つのお決まりがあります。
「汚職と腐敗政治に怒った民衆が政権打倒をもくろむ」「政府軍より反乱軍が強い」です。
中国史で継続して平和だった時期でもっとも長い期間が数十年。
まさしく「乱の国」です。
その東洋の大国にして、有史以来ずっと日本のリスペクト対象だった大国中国・清はアヘン戦争・アロー戦争で大敗北。
かろうじて国体維持(皇帝は無事)という有様。
西洋列強に対し不平等条約を結ばされ、さらには国内情勢の不安定さから内乱が頻発。
内憂外患とはまさにこのことでした。

そんな中起こった日清戦争の正体は〈朝鮮半島の独立と利権争い〉。
事実上中国の属国であった朝鮮において、苦しい生活に業を煮やした農民が立ち上がります。
〈甲午農民戦争〉です。
朝鮮は乱の鎮圧のために、清と日本に協力を求めました。
〈甲午農民戦争〉を鎮圧したのち、日本と清は事後処理で対立します。

李氏朝鮮はそのころ鎖国状態にありました。
日本は朝鮮もまた開国し、中国から独立すべしと考えていたのです。
朝鮮半島の独立と開国を迫る日本、朝鮮を自国のものにしておきたい中国……両者はついに国際戦争に発展します。
日本は〈アジア〉から脱皮しつつありました。

〈日清戦争〉がもたらしたもの

結果から言うと、挙国一致体制で近代化を推し進めていた日本の勝利。
圧倒的な数と地の利を得ていたはずの中国は、軍も政府も内部がガタガタで思うような指揮をとれませんでした。
戦後処理において、清に対し日本は強気に出ます。
多くの領土割譲、朝鮮半島の独立、莫大な賠償金……。
が、ここで横やりを入れる国が。

中国東北部、朝鮮半島の北に位置する緩衝地帯にして要衝〈遼東半島〉をめぐってトラブルが起こります。
ここを日本におさえられると困るの清のみだけではありませんでした。
南下政策で朝鮮半島を狙っていたロシアです。
そこに、中国大陸植民地化を進める、フランス、ドイツが乗ってきました。
日本と清の交渉に「清に遼東半島を返却しなよ!」と、横からくちばしを突っこんできました。
〈三国干渉〉です。
これに対抗するだけの力は、外交力も国力としても、まだ日本にありませんでした。

しかし日本は莫大な賠償金と、初の植民地となる台湾、何よりもアジアの大国というメンツを手にします。
1つの敵に一致して対決した日本は〈国民国家〉として脱皮します。
そうして西洋列強に「不平等条約撤廃」を大声で主張しはじめるのです。

世界と日本の転換点〈日露戦争〉

世界と日本の転換点〈日露戦争〉

image by PIXTA / 27276718

日清戦争から10年。
日本史の一大転換点にやってきました。
ヨーロッパで最も大きな強国の1つ、ロシア帝国との対決です。
ポッと出の新興国が、ナポレオンさえ撃退したあのロシアに挑むという一見あきれた所業に、世界が仰天しました。
はてさて今回の原因も、朝鮮半島と満州地方の利権問題。
南下政策を進める超大国ロシア。
ロシアを食い止め、朝鮮をおさえておきたい日本――。
しかし両者には違いがありました。
ロシア側のもっとも大きな敗因、日本のもっとも重要な勝因、それは〈国〉として一枚岩であったかどうかでした。
この章では〈日露戦争〉に迫っていきましょう。

〈ヤコブ・シフ〉という巨人の賭け

ここでロシアの国内情勢に触れなければなりません。
一言で言ってしまうと、1861年大規模な身分制度改革〈農奴解放〉が行われたころから、ロシア国内はボロボロでガタガタの状態でした。
共同体が解体され、国内で共産主義や社会主義は横行し、皇帝家打倒をもくろむ勢力が増長します。
ナポレオンを撃退したあの輝かしい時代は過ぎ去っていました。

もちろん世界は「ロシアが勝つに決まっている」と思っていました。
日本に援助する国は皆無。
お金がなければなにもできない……日本政府は世界中を駆け回って資金調達に奔走します。
そこにあらわれたのは、ヤコブ・シフというユダヤ人の大富豪でした。

西洋の歴史において、情勢が不安定になったとき行われるのが、キリスト教徒にとっては共通の「敵」である〈ユダヤ人〉の意味もない虐殺です。
それを止めるようシフは何度もロシア帝国に勧告していましたが、ロシアは無視してユダヤ人弾圧を続けます。
そのロシアと戦う日本にシフは目を留めました。
2億ドルもの巨額の資金援助をして日本を助けたのです。
一枚岩の日本に対し、すでにロシアは内側から瓦解する兆候を示していました。
それは13年後、〈ロシア革命〉となって実現します。

「天気晴朗なれど波高し」陸と海、2つの決戦

日露戦争は1904年2月に勃発します。
そう、やっぱりここでも朝鮮半島と満州地方の利権問題。
陸の要衝である〈奉天〉〈旅順〉〈二百三高地〉この3つをめぐって陸海軍が激突します。
大英帝国は〈日英同盟〉に基いて日本側に立ち、清と大韓帝国はどちらつかずのままで自国領土を戦場とされるという事態になりました。

日本はまたしても挙国一致体制で戦争にあたります。
わずか約1年7ヶ月のあいだに、アジアの小国が西洋の大国の軍を撃破していくという予想外の事態に、大歓喜したのは日本だけではありません。
アジアやアフリカの諸国のみならず、ロシアの支配下に置かれていたポーランドやフィンランドなども熱狂しました。
さらにはロシア国内へ潜入した日本軍は、情報操作と革命扇動によって敵を内側から大きく揺さぶります。
日露戦争のさなかデモ隊に軍が発砲する〈血の日曜日事件〉が勃発。
ロマノフ王朝が揺らぎます。
内憂外患となったロシアに対して日本は追撃をかけます。

1905年9月、日本はロシア帝国に勝利。
しかしその後、外交的にはかなりギリギリのところまで追いつめられました。
膨大な犠牲を出したにも関わらず、樺太を割譲され満州地方を植民地にする足がかりを得るなどします。
しかしロシアの外交上手により、なんとロシアから戦争賠償金は払われませんでした。
日本は第一次世界大戦後にまで残る膨大な借金を抱えることとなります。

日本近代文学の誕生

日本近代文学の誕生

image by PIXTA / 10477067

「文化的にも西洋列強に近づくべきだ。
そうでないと本当の開化はやってこない」――文化人たちも動きだします。
それまでの、読むのに難解な文語体から、話し言葉と書き言葉が同じ様式〈言文一致体〉が登場。
さまざまな模索が行われます。
和歌や王朝文学からはじまり、草子に俳句と連なってきた日本文学は新たなステージに上りました。
明治時代の文学はひたすら実験作。
伝統的な日本人の季節を愛する美意識、万葉集からはじまる写実主義的な表現法、さらには貪欲なまでな新様式へのこだわり……。
日本文学はやがて爛熟し、のちにノーベル文学賞受賞者を排出する土壌を作り出すのです。

日本文学の巨人・夏目漱石

本当はこの人は努力の好きな凡人だったのかもしれません。
小さいころは漢文の書籍が大好き。
成績優秀を買われて政府から「イギリスで文学を制覇しておいで」と送り出されます。
日本と西洋の感性の違いにノイローゼを発症しつつ帰国後『文学論』という大著をものにします。
気晴らしにどうだと正岡子規が勧めた俳句で文才を発揮しはじめ「やってみたらどうだ」と勧められて小説を書き出し……。
かなりの努力家ですね。

その作品の多くは西洋文学の様式や技法を検討した上で、日本に置き換えたらどうなるかと模索した「実験作」でした。
おもしろくても小説としては、実は失敗作……漱石の作品は本当は、そんなものばかりです。
例えばかの『吾輩は猫である』は、英国の作家スターンの『トリストラム・シャンディ』を模倣したもの。
『こころ』『坑夫』などは同じく英国の作家コンラッド『闇の奥』の手法を借りたものです。
たとえ「失敗」を重ねたとしても、その失敗はあまりにも大きな実となって日本文学に残り、多くの種を蒔きました。

不安定で先の見えない日露戦争後の日本において「作家」夏目漱石は近代人の苦悶を描いていきます。
圧倒的な文章力で飽きさせることはありません。
さらには多くの弟子をとり、作家の集まり〈木曜会〉を開くなどして芥川龍之介はじめとする逸材を世に送り出したのです。

日本の詩魂の結晶〈樋口一葉〉という少女

生前は決して日の当たる場所に出ることがなかった、日本文学史に名を残す女流作家がいます。
旧士族の家に生まれ「奇跡の1年間」に『たけくらべ』『大つごもり』など文学史に残る作品を発表し、貧窮のただなかにわずか24歳で世を去ったこの作家を、森鴎外は「自分は誰がなんと言おうと彼女を支持する」と激賞しました。
樋口一葉です。
彼女もまた、文学の過渡期において大きな役割を果たしました。

多くの日本人が西洋に目を向ける中、彼女は純粋な「日本」の世界を描いていきます。
寺の息子と吉原遊郭に住む少女のはかない恋、そして吉原周辺の風俗を如実に描いた『たけくらべ』遊女が破滅して情死していくまでの悲劇『にごりえ』はじめとして作品の多くが、女の哀しさと同時に日本らしい情緒――着物に帯を締め、まげを結い、季節を愛する日本の原風景に似た姿が描かれています。

今となっては5000円札の人ですが、鍋の底をなめるような貧しさの中で生き、死んでいった、樋口一葉。
雅俗折衷体で書かれた文章のうつくしさ、情緒は現代語では絶対にその妙味は味わえません。
学校で習う程度の古文を知っていれば、ニュアンスで読める作品ばかりです。
ぜひとも機会があれば読んでみてください。

農村の危機、日本初の公害発生

農村の危機、日本初の公害発生

image by PIXTA / 2484624

さてここで学生時代の教科書を思いだしてください。
田中正造による明治天皇への「直訴」事件です。
「そんなこと、なんで実行したの?」その裏には、国の基盤である〈農村〉を想う血の滲むような思いがこめられていました。
地方の農村の〈小作農〉たちのあまりに貧しい暮らしぶりに、心ある人びとは憤ります。
そしてついに日本でも〈公害〉が起こりました。
大地を穢し多くの生命を犠牲にした〈足尾銅山鉱毒事件〉が発覚。
地方の弱者たち、そして日本そのものの基礎が危うい――文明開化の足音の影を見ていきましょう。

農村の悲惨「このままでは日本が滅ぶ」

文明開化で発展を遂げる日本ですが、農村はひどい状況でした。
特に〈小作農〉と呼ばれていた貧農の生活は悲惨きわまりないもの。
これには当時の税の徴収方法が絡んできます。
明治時代になってから全国の地主は「米がとれてもとれなくても、土地の価格の3%をかならず〈お金で〉納めること」を国から義務付けられます。
地主は収穫した米を売りさばき、お金に替えて納税していたのです。

そこで一番弱い立場に置かれるのが、農業従事者の〈小作農〉。
「耕作地を貸してもらっているお礼」という形で地主に作物やお金を納めます。
地主の収入は〈小作農〉に依存していきますが、汗水たらして働いている〈小作農〉たちの生活はというと、畳と布団のレンタル代でとぼしいお金が飛んでいくという有様。
典型的な資本家と労働者の優劣関係が形成されていました。
この格差は太平洋戦争後のGHQによる改革で〈農地解放〉が決行されるまで続きます。

そんな中で起こるのは〈農民運動〉です。
弱い立場の農民、そして農村を救うために数々の運動家や政治家が動きだしました。
農村は国の基盤です。
これを損なっては、国家が滅ぶ――問題を知る人びとの間では危機感が高まっていきます。

田中正造が命を賭けた〈足尾銅山鉱毒事件〉

命を賭けて日本の農村を憂いた男がいます。
田中正造――栃木県の政治家です。
日本で初めての公害〈足尾銅山鉱毒事件〉のために命を賭けた男でした。
栃木県と群馬県にある〈渡良瀬川〉で鮎の大量死、立ち枯れる木や稲――原因をたどると、そこには〈渡良瀬川〉上流にある〈足尾銅山〉がありました。
この公害により、作物を作れなくなった農村が廃村になるなど危機に陥ります。

衆議院議員だった田中は国会で演説するなど、この危機に動きます。
しかし一向に動かない国や大企業。
彼は最後のデモンストレーションに訴えます。
最高権力者・明治天皇への〈直訴〉――死を覚悟しての決行でした。
行幸馬車に訴状を持って駆け寄っていった田中でしたが、狂人として取り押さえられます。
しかしその直訴状の中身は新聞号外となって広く世間に知られることとなり、世論の感心は一気に〈足尾銅山問題〉へ向かいます。
ここに至ってようやく政府は動き、被害農民と足尾銅山を管理する会社の調停が、会社側の加害責任を認めて終わったのは、なんと太平洋戦争の後、100年が経過した1974年になってからです。

田中正造はその後も足尾銅山と渡良瀬川の公害を訴える運動を続けました。
全財産を運動の資金に使い果たしたため、亡くなったときにはほとんど無一文だったほどです。
国家の基礎である農村はこのように、志ある人びとにより命がけで守られてきたのでした。

〈社会主義〉〈無政府主義〉の台頭

〈社会主義〉〈無政府主義〉の台頭

image by PIXTA / 4353012

この時代にふしぎな勢力が出てきます。
〈社会主義〉〈無政府主義〉――マルクス、エンゲルスが『共産主義宣言』冒頭で言う「共産主義という怪物が」日本にも上陸したのです。
思想としては穏健……なはず。
しかしてその実質的な正体は〈テロ集団〉。
彼らは反体制、平等主義からはじまってついに、触れてはいけない場所へ触れてしまいます。
幸徳秋水、大杉栄らが起こしたこの事件の正体とは、一体。
このとき日本でついに誕生した〈共産主義者〉は国際的・国家的脅威として、第二次世界大戦後の冷戦まで存在するのです。

権力と体制への反抗者たち

と、その前に〈社会主義〉と〈無政府主義〉の内容をざっとおさらい。
一般に〈左翼〉と呼ばれる思想で、さらに細かな派閥があり、ここで説明するのは本当にざっくりとした内容。
〈社会主義〉はかのマルクス、エンゲルスが著した『共産党宣言』が有名です。
それまで歴史の中でないがしろにされていた労働者たちの権利を向上させ、もっと平等を求めるもの。
「みんなで壊してみんな仲良くしよう」というような内容です。
〈無政府主義〉はそこから発展して「権威や政府なんて全部なくして、みんなで調和の世界を作ろう!」というもの。

その調和に行き着くまでに運動家たちは、暗殺やテロリズムを必要とすると主張したのです。
無政府主義も共産主義も、既存権力への〈プロテスト(反抗)〉がその本質。
権力と体制をおびやかすとして無論のこと、各国の政府はその弾圧に追われます。
さらにそれに反抗して主義者たちは過激化を強めてゆき……。

こんなメチャクチャな運動でしたが、絶対に言葉では届かない悲惨を訴えるために、行動を起こす必要もありました。
悲しいかな、彼らのテロはたしかに民衆の声なき声を代表する形でもあったのです。

明治天皇暗殺計画〈大逆事件〉の正体

教科書にチラッと出てきて、どうやら重大事件っぽいのに詳細はスルーされた〈大逆事件〉。
この事件を内容に基づいて言い換えると〈明治天皇暗殺計画事件〉。
そしてもう1つ〈社会主義者・無政府主義者一斉撲滅事件〉という側面もあります。
日本政府は社会主義と無政府主義に非常な脅威を覚えていました。
なんとかして弾圧したい、当局にとってはこの〈大逆事件〉はその絶好の機会だったのです。

〈天皇暗殺〉ということを考えていたのは、幸徳秋水などたったの5人。
しかし実態は、身内だけで空想をひねくりまわしていたという程度だったようです。
暗殺用の爆発物を作るものの、内部で悶着があって、決行はなかなか行われず。
そんな中当局は、全国の社会主義者・無政府主義者に大きな影響を持つ幸徳秋水を、非常に厳重に監視していました。
明治天皇暗殺という計画を知った当局。
実際に爆発物を発見したことにより、これを絶好の機会ととらえた当局は全国で社会主義者・無政府主義者の一斉摘発・検挙をし、撲滅をはかったのです。

「天皇陛下・皇族への大逆(だいぎゃく)、謀反を起こそうとした重罪人」として秋水ら24人は死罪に処されます。
この事件の裁判は非公開、証人も呼ばれずに十分な審理もなく、結論ありきのものでした。
政府は社会主義者・無政府主義者を徹底弾圧することに成功し、人材のいなくなった社会主義者たちは冬の時代を迎えます。

苦悶深まる日本、明治天皇の崩御

苦悶深まる日本、明治天皇の崩御

image by PIXTA / 31816867

袋小路の中で迷走しはじめた日本。
しかし日本は前へと邁進しつづけます。
45年間つづいた明治が終焉するその前年、ついに幕末期から念願だった〈不平等条約〉の改正が成就。
さらには現在まで韓国との関係で尾を引く〈日韓併合〉が成立します。
西洋に追いつけ追い越せで、ついに肩をならべた日本。
おどろくべき躍進を続けた明治時代。
その時代も、1912年すなわち明治45年、巨大な柱であった明治天皇が崩御し終わりを告げます。
――ここに日本の成長期〈明治時代〉は終焉を告げ、日本は次の時代へ否応なしに進んでいくのです。

念願の不平等条約改正、そして……

この〈明治時代〉に日本人が願ってきたのはまさしく、幕末に結ばれた〈不平等条約改正〉の完全撤廃です。
明治という時代は〈不平等条約改正〉という「一朶の雲」へむかってきたと言って過言ではないでしょう。
そして1911年、明治がはじまってから44年。
ついにすべての不平等条約を完全回復します。
一段下に見られてきた「有色人種」の日本人がここまで短期間で、西洋を揺るがすほどに発展したというのは驚くべきことでした。

その後、日本は日露戦争で得た〈遼東半島〉と満州地方を事実上、植民地化します。
そこに固執することが太平洋戦争の〈大東亜共栄圏〉〈満州国〉へとつながっていくのです。
さらには〈日清戦争〉以降、宗主国である清、南下政策で狙ってくるロシア、そして日本との間で板挟みになっていた〈大韓帝国〉を日本領として併合。
ここにようやく〈帝国主義国家〉として日本は本格的にスタートラインに立ちました。

ともあれ日本は世界に大きなポジションを占めました。
当時の日本人が実感していたよりもずっと大きな位置を。
明治が終わってから約2年後、日本は第一次世界大戦において戦勝国となります。
ペリー来航からたったの約50年。
日本は西洋列強と同じ地位を得ることとなるのですが……それはまた、別のおはなし。

明治天皇の崩御、乃木大将、殉死

1912年、明治天皇は糖尿病から尿毒症を発病されます。
明治人たちの大きな精神的支柱だったこの天皇が世を去ることは、当然ながら大きなショックを日本、そして世界に与えました。

明治天皇は、新しい国がつくられる中さまざまな勢力が対立する中においてバランサーとして機能されました。
西郷隆盛による〈征韓論〉を押しとどめ、〈自由民権運動〉の国会開設の要求に対しては〈国会開設の詔(みことのり)〉を発して全体の均衡を保ちました。
また神格化された明治天皇の存在は、2度の大きな戦争において国民の大きな支えになってもいたのです。

大喪の礼(天皇の葬儀)の日、乃木希典陸軍大将は、妻・静子をともなって明治天皇に〈殉死〉します。
この旧時代的な忠誠行為に日本のみならず、世界が仰天しました。
日露戦争における陸軍の英雄・乃木希典が黄泉路まで主君のお供をするという美意識には賛否両論が起こりましたが、明治という時代の終焉における象徴的な事件でした。
ここまで大きなお方の下で安心して成長してきた感じのあった明治の日本人たちは、新しい歴史のステージへと上ることになるのです。

わずか45年の大躍進期、希望と混迷のはじまり

「坂の上の一朶の雲」にむけて、無邪気に突き進んできた日本人。
たったの45年で国際社会をのぼりつめ、大国の清、ロシアを打ち破ったその影には、一枚岩となって邁進してきた日本人たちの姿がありました。
一方で西洋から〈社会主義〉〈無政府主義〉という苦悶も輸入し、日露戦争後に、国際社会の流行から一歩遅れて獲得した〈帝国主義〉はその後太平洋戦争におよんで、日本を苦しめることとなります。
ともあれこの国と国民を憂い、さらに上を目指そうとする人びとによって、近代日本は育てられてきました。
苦悩し混迷しながらも、希望へむけて走りつづけた明治人の遺志を受け継ぐかどうかは、私たち次第です。
photo by PIXTA