恋の歌、怨霊、摩訶不思議な平安時代の歴史

平安時代――文字通り、まことに平安な時代でした。少なくとも国内で目立った乱は「平将門の乱」など7度だけ。390年間続いたこの平安の世は豊かな文化や芸術をはぐくみ、日本人独自の感性が確立されていった時代でもあります。はなやかな貴族文化、壮麗な寺社仏閣、怨霊や呪いがまかり通った時代……この記事では和歌や文学の世界もからめながら、くまなく平安時代の歴史を紹介いたします。そこはときにファンタジー、ときに浪漫、そしてまたあるときは優美な権力闘争。ただの「雅」だけではなかった平安時代へ、いざ。

平安時代のはじめ

平安時代のはじめ

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その平安の390年の礎を築いたのは、桓武天皇という帝でした。
縁起がよろしくなかった、わずか10年の寿命だった都・長岡京を廃し、新天地・平安京へと遷都した桓武天皇は、大規模行政改革を行いました。
ほかさまざまな政策を実施、新しい日本という国の形を作りあげます。
このころまではまだ、天皇が主導権を握っての政治。
しかしある事件から、ある一族が表に出てきます。
この390年に渡る平安時代において大きな位置を占めた藤原氏台頭の理由とは。
謀略に満ちた平安前期。
その歩みを見ていきましょう。

桓武天皇の行政改革、そして平安京遷都

平安時代のはじめを作った、桓武天皇。
カリスマのこの帝は天皇家の力を高めるべく、また国家を統一していくべく、数々の改革を行いました。

学校で習った〈律令制度〉って覚えていますか?平安時代のはじまりを作った帝・桓武天皇の一大事業はこの〈律令制〉の大改訂にありました。
〈律令制〉とは日本初の、刑法、民法、行政法をとりまとめた制度。
飛鳥時代に作られたこの制度は限界をあらわしはじめ、朝廷に大きな負担となってのしかかっていました。
桓武天皇は法整備を一新することで、日本を新たなステージへ導こうとしたのです。

大規模行政改革を決行した、桓武天皇。
その後、数代に渡って天皇が主導権を握って政治を行いました。
増えすぎた役人ポストの定数削減が実現。
東北と九州地域以外の兵士や軍団をなくしました。
東北は桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征伐を実行、九州地方は大陸からの来るかもしれない脅威を思ってのことでした。

藤原氏さいしょの一歩〈承和の変〉〈応天門の変〉

平安前期もなかなか謀略に満ちた時期でした。
桓武天皇自身が、天皇家の系譜をめぐっての攻防に巻きこまれた方であり、その後も皇位継承権をめぐって数々の事件が勃発しました。
その中でもその後に大きな影響を与えた、つまり藤原氏に大きな影響を与えた事件を取り上げましょう。

まず〈承和の変〉です。
この事件は、表向きは皇位継承権争い。
しかし実態は、自らが天皇の叔父として権力を握りたい!藤原氏による謀略でした。
2つにわかれた派閥の闘争の結果、橘諸兄からはじまる名門・橘氏が失脚。
これによって、藤原氏はそれまで皇族が行っていた摂政・太政大臣を人臣ではじめてのぼりつめます。
また866年には平安京の門・応天門を放火したとして伴善男が告発され、流罪に。
「海ゆかば水漬く屍、山ゆかば草むす屍、大君の辺にこそ死なめ」という天皇家へのラブレターを絶唱した大伴家持の子孫、超名門の大伴家が失脚します。
これらの策略でもって多くの政敵を排除した藤原氏は、朝廷で絶大な権力を得る足がかりを作りました。
これらの影響の1つとして、死罪が事実上廃止されたという事実があります。
公の記録に残っているのは数件のみ、非武力的なふしぎな治世が敷かれる時代が以降、360年以上も続きました。

〈六歌仙〉の物語

〈六歌仙〉の物語

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〈やまとうたは人の心を種として万の言の葉とぞなれりける〉紀貫之が編纂した『古今和歌集』の序文です。
その『古今和歌集』に選抜されている6人の和歌の達人〈六歌仙〉のうち、在原業平、小野小町、僧正遍昭をあつかいましょう。
そして不遇にして芸術の天災・〈陽成院〉をご紹介します。
彼の母の二条の后・高子につらなる縁、ふしぎな因縁……。
日本が世界に誇る〈和歌〉の一大黄金時代を築いた〈六歌仙〉の物語です。

小野小町、僧正遍昭のひめやかなロマンス

小野小町と呼ばれる、陸奥の田舎から出てきた美少女が天皇の後宮に入内したのは……実は時期もなにもかもよくわかっていません。
しかし伝承に忠実に物語をすすめるなら、彼女は仁明天皇のもとに更衣(女官の位の1つ)としてはべり、珠のような美貌で他を圧倒し、かつ和歌の達人でした。
その言霊パワーはすさまじく、たとえばこんな伝説が残っています。
ある日照りの烈しい年、朝廷では雨乞いの行事を行いました。
そこで小野小町が神楽舞をしながら〈あめにます神も見まさば立騒ぎあまのとがはのひぐちあけ給へ〉こんな歌を詠むとたちまち雲がわいて雨が降ったといいます。

そんな彼女と恋を交わしたのは、僧正遍昭。
彼は小野小町が入内した仁明天皇に厚く恩をこうむっていましたが、仁明天皇が崩御したのちに出家します。
彼は五節の舞姫であった小野小町を見て〈天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ乙女の姿しばしとどめむ〉という歌を詠みました。
これは入内していく小野小町を慕ってのこと。
出家前も出家後も2人のラブレターのやりとりは続き、それは『古今和歌集』などに採録されています。

小野小町や僧正遍昭が歌を詠み交わしたのは、仁明天皇の御代のころ。
仁明天皇は先に解説した〈承和の変〉に遭遇し、病弱ゆえに若くして崩御します。
小野小町たちの時代からすでにイケイケだった藤原氏。
仁明天皇から3代先の天皇となった人物を、次の項でご紹介しましょう。

「恋ぞ積もりて」恋の因果・陽成院、在原業平

「昔男ありけり」で有名な『伊勢物語』の主人公・在原業平と二条の后・高子の悲恋から話をはじめましょう。
2人はなんと駆け落ち!しかし高子は連れ戻され、二条天皇に入内。
皇太子となる皇子を産み落とします。
この陽成院貞明の教育係には母の昔の恋人・業平がつけられました。
ふしぎな縁といいますか……。

業平はある日、二条天皇の后となった高子から「あの見事な紅葉の屏風に一首お詠みなさい」とネタを振られます。
そこに歌ったのが百人一首でも最も著名な一首といっていい、この歌です――〈ちはやふる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは〉。

さて業平の死後、陽成天皇として10歳のときに即位した皇子はなかなかクレイジーなお方。
釣殿に后を吊るしてめった打ちにしたり、馬で大暴れしたり。
しかしその奇行の大半は藤原基経が自分に都合のいい皇子を即位させようとしてのネガティブキャンペーン。
いずれにせよ運命に翻弄された不遇の皇族です。
そんな彼はこんな恋の歌を残しています。
〈筑波嶺の峰より落つるみなの川恋ぞ積もりて淵となりぬる〉後朝の文、つまり愛する后に宛てたラブレターです。
ともあれこの陽成院のケースに見られるように、すでにこのころから藤原氏が主要な実権を握るようになってきていました。

怨霊にして神・菅原道真公、伝説の陰陽師・安倍晴明

怨霊にして神・菅原道真公、伝説の陰陽師・安倍晴明

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夢枕獏の小説、岡野玲子によって漫画化もされ映画にもなったあの伝説の陰陽師・安倍晴明。
彼が活躍したのは、ちょうど平安時代も中期に入ったころです。
藤原時平の陰謀によって左遷され、太宰府で憤死した菅原道真公は「帝釈天、閻魔大王ほか神々の許可を得て藤原時平一族に祟ることとした」と宣言。
雷神となって平安京を荒らし、時平一族は短命に終わるという結果につながります。
そののち数十年も人びとは道真の怨霊におびえて暮すことになります。
そんな中で出世した驚異のマジカルパワーを持ったカリスマ陰陽師・安倍晴明とは一体何者だったのでしょう?そして安倍晴明が果たした真の役割とは、一体。

菅原道真公って一体何者?

宇多天皇そして醍醐天皇に仕え、藤原時平と大バトルを繰り広げ、大宰府に左遷された末に憤死し「日本ではじめて神様になった人間」としても有名な菅原道真公。
11歳で漢詩を作る天才少年であった道真はまず日本で一番偉い学者・文章博士となりました。
彼の見事な意見書で大事件の収拾をつけるなど、その聡明でガンガン出世を成し遂げます。
醍醐天皇の御代に移ってからは、左大臣を藤原時平、右大臣を菅原道真がつとめツートップで国政をとります……が。
藤原氏の権限をおそれ、彼らがおさえつけられる傾向にあった当時。
道真は邪魔者でした。
藤原氏のお家芸「謀反のでっちあげ」で道真は大宰府に左遷。
そして九州の地に憤死します。

6年後、時平が39歳の若さで急死。
また御所の清涼殿に落雷があって多くの死傷者が出るなど〈雷神〉として道真は祟りを振りまきます。
以後40年に渡ってこの藤原時平の系譜は「祟り」に怯えることとなります。
道真左遷のおり反対論を出した1人だけが長生きしたという事実を見ると当時の人びとが「祟り」と理由づけるのも納得してしまいまうかも……。

菅原道真は漢詩の達人でした。
『恩賜の御衣今ここにあり 捧持(ほうじ)して毎日余香(よこう)を拝す』――左遷された今も天皇から褒美に賜った衣はここにある。
捧げ持って毎日染みこんでいる香を懐かしく拝しているのだ、と絶唱しています。

宇宙の理を解明する〈陰陽師〉安倍晴明の正体

安倍晴明というと、映画で主演した野村萬斎さんのあの年齢不詳でたおやかなイメージ。
ですが実際に公式の記録に登場するのは40歳。
かなりおっさんになってからの活躍、というより当時としては「おじいさん」です。
その彼にはさまざまな伝説がついて回ります。
有名なのは「百鬼夜行に遭遇した話」「蛙を木の葉で殺した話」いずれも法力やを用いて、神仏や怨霊と相対するファンタジーな世界。
そんな彼は一体どのような役割を歴史に果たしたのでしょうか?

〈陰陽道〉とは中国から学問をベースに日本で発達した、天文学や暦学をあつかう、れっきとした学問。
古来から知識を握る人間は権力をも握ります。
宇宙の理を明らかにし、先を読む〈陰陽師〉は国家機密を握る国家公務員でした。

その陰陽道という学問の歴史で圧倒的なカリスマを誇ったのが安倍晴明です。
安倍晴明はただオカルトな術を使うだけにあらず。
すさまじい知恵を持った人物でした。
占いも元を正せば統計学。
彼は占いや祈りで天皇や皇族を導きます。
その豊かな知識で先を読み、人びとを安心させ心に平和を招いた……安倍晴明の真のスゴさはそんなところにあったのかもしれません。
この晴明を重用したのがそう、あの藤原道長です。

一大権力者・藤原家の正体

一大権力者・藤原家の正体

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一口に「藤原氏」と言ってみますが、あちらこちらに本家、分家と散らばっています。
その中でも代表格はそう、あの〈藤原摂関家〉です。
「望月のかけたることもなしと思へば」と歌った藤原道長が台頭するまでにはどんなプロセスがあったのでしょう?そもそも藤原家って一体?平安時代に花を咲かせた藤原摂関家、そしてあの女性たちのつむぐドラマについてもご紹介しましょう。
中世の日本を導いた貴族・藤原家の正体へ迫ってみましょう。

〈藤原摂関家〉2つのお家芸

平安時代前期、桓武天皇時代から数代のちまでは天皇が政治のリードを握っていましたが、しだいに実権を臣にゆずっていく形となります。
その中で大きな力を握ったのがそう〈藤原氏〉です。
もとを正せば祖先は〈大化の改新〉で大役を果たしたあの中臣鎌足という、日本でもっとも由緒ある一族のひとつ。
本家分家と分かれた中〈藤原北家〉と呼ばれる一族が栄えました。
権力獲得の最初の足がかりは先に紹介した〈承和の変〉〈応天門の変〉。
菅原道真も追い落とし、40年に渡って早死が続く祟りに関しても、安倍晴明の存在によって安心を得ます。

単なる「噂」から「謀反」まで事を発展させて他の一族を追い落とす謀略のお家芸、そして後宮政治で平安時代を駆け抜けた藤原家。
藤原家の娘は数多く天皇家に入内(天皇のもとへお嫁に行くこと)し、〈中宮〉という最高の地位へまでのぼりつめました。
親戚関係を理由にして政治に介入していく、それが藤原家の戦法だったのです。

平安時代を裏であやつった藤原家、こう書くと雅の影に隠れて非道のかぎりを尽くした一族のように聞こえなくもないですが、日本人の感性のベースをかたどる〈国風文化〉形成の巨大なパトロンとなりました。
いずれにせよ彼らが、戦乱のほぼまったくない平安の世をおさめ、国家を導き、天皇家をさまざまな形で支えてきたことに変わりはありません。

藤原道長が娘・子孫に賭けた野望

藤原家といったら道長、というくらい名高い、平安時代中期を盛り上げた〈藤原道長〉。
〈この世をばわが世とぞ思ふ〉――この世はぜんぶ俺のもの!と言い放った彼は一体どのような人物だったのでしょう?一言で言うと「謀略・子育ての成功者、強運の持ち主」。
実は道長は五男坊、当主とは遠い地位にいたのですが兄たちが次々と死去。
道長は兄の嫡男も追い落として、娘の彰子を一条天皇に入内させます。

そこに繰り広げられていたのは、平安時代を代表する後宮バトル『枕草子』の筆者・清少納言の仕えた定子と、『源氏物語』の作者・紫式部が仕える彰子の女の戦いでした。
先に入内して〈中宮〉となっていた定子は後ろ盾がなく、ただ愛のみを頼りにするしかなくなります。
最終的に一条天皇は彰子を中宮に立てました――すなわち藤原道長は勝利。
ここに藤原摂関家は天皇の外戚として3代にも渡って中宮を排出し、それを手がかりにして栄華を極めるのです。

皇族と貴族、身分は違っていますが「天皇が自分の息子・孫」というのはものすごい強み。
天皇を補佐するという形で、政治をほとんどコントロール。
といってもその強い権力から「王が正しい政を欲するのに、讒臣(ざんしん)一族が国を乱してしまう」と一条天皇が愚痴を書き残しています。
それでも身内の義理だけで中宮にし、子供を天皇にするともいけませんから、よくできた貴婦人を育てることのできた道長は子育て成功者といえるでしょう。

文学史の奇跡・王朝文学

文学史の奇跡・王朝文学

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〈王朝文学〉――日本中世期、主に貴族の男女によって作られた小説や詩は、現代日本の私たちの感性にも大きな影響を与えています。
その中でも日本人の共通認識を作ってしまった奇跡の小説『源氏物語』をご紹介。
また世界最短の詩の型式の1つ〈和歌〉はこの時期に成熟し、平安末期に完成しました。
世界史的に見ても中世において、女性による散文・韻文・詩歌の芸術は世界に類を見ません。
まさしく〈王朝文学〉は世界文学史に残る奇跡です。

「もののあはれ」の誕生――奇跡の小説『源氏物語』

いつの天皇の御代だったでしょう……そんな言葉ではじまる、光源氏の物語。
女流作家・紫式部が書いた世界初!写実散文恋愛長編小説。
読みば読むほど味が出て、恋を知れば知るほどその深みがわかる、1000年を越えて愛されるスルメ小説です。

筆者は『源氏物語』を何回も読みこんでいる源氏物語フリーク。
恋を求める女の子、生涯の伴侶を求める婚活女子・男子必読の書でもあるんですよ!詳しくはWonder tripの記事〈【書評】恋の教え、結婚の教え、人生の教え――紫式部『源氏物語』〉に紹介してあるので、そちらもぜひご覧になってください。
母親の面影を求めて数々の女人を渡り歩く光源氏の姿はたしかに最低男の鑑ですが時にせつなく、思わず感情移入してしまいます。
彼をとりまく女人たちはたくましく美しく、かっこいい。
魅力的な人物と予測不能な物語展開に平安の読者は大フィーバー、女房たちは競って原稿を筆写して、それが現代に伝わっているのです。

スゴさを語ればキリがありませんが、無数の読者を得た『源氏物語』は日本人に「もののあはれ」というコンセンサス(共通認識)を作りました。
そこに描かれた四季を愛でる心は現代人の私たちの遺伝子に組みこまれています。
文学の影響って、すごい。
そんなことを私は『源氏物語』を読むたびに感じます。

古今和歌集、新古今和歌集……成熟する「和歌」の世界

現存する日本初の歌集『万葉集』が奈良時代に編纂されてから、その時々の天皇は時代時代のすぐれた和歌を歌集にして後世に残してきました。
〈六歌仙〉の時代の直後に編まれた『古今和歌集』にはじまり『新古今和歌集』などです。
のち、鎌倉時代初期の歌人・藤原定家によって飛鳥時代から鎌倉時代初期の傑作和歌ダイジェストが『百人一首』にまとめられています。

平安時代の雅ライフを形作っていたのは他ならぬ〈和歌〉でした。
『源氏物語』をはじめとする王朝文学には、ただの雑談にまぎれてその場に応じた和歌を詠み、それに即興で〈返歌〉(返しの歌を詠むこと)するというハイレベルな交流が描かれています。
和歌の才能があるということだけで出世のいとぐちになりました。
頭の回転が速く、教養があり、人や自然の機微に通じた人は非常に尊敬されたのです。

『百人一首』は時代を下る形で和歌がナンバリングされています。
順番に見ていくと、素朴すぎるほど素朴な歌から、美しい技巧と情緒が重視されるようになり、やがて武士の世が近づくにつれて寂しい歌が多くなります。
平安末期には様式が完成されてしまった芸術型式のため、鎌倉初期に藤原定家や西行、源実朝が良作を作ったのを最後に発展が止まります。
次に「5・7・5・7・7」の詩に革新が生まれるのは明治時代まで待たなければなりません。

平安の斜陽、院政の登場

平安の斜陽、院政の登場

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平安時代に斜陽がさしはじめます。
〈院政〉と呼ばれる政治体制を生んだのは巨魁・白河院。
みずからの子・鳥羽天皇をさしおいて最強の権力を握り、権勢を振るいました。
天下のすべてを掌握したかに見えた白河院、そしてその後すべての権力者の前に立ちはだかる「賀茂川の水、双六の賽、山法師」すなわち「天災、博打、過激思想家」――〈天下三不如意〉以外はすべて思いのままにしたという白河院。
平安末期を代表する三人の「隠居した権力者」に迫ってみましょう。

巨魁・白河院、転機の人・鳥羽院

院政のはじめを作ったのは、白河院。
この方の父・後三条天皇は天皇家が権力を振るう上での目の上のたんこぶ、藤原摂関家を外戚としていませんでした。
ここに藤原摂関家の血筋は天皇家から途絶えます。
171年ぶりに天皇親政時代の到来でした!

白河天皇は皇位継承権のゴタゴタを避けるために、わずか8歳の息子・堀河天皇に譲位、〈白河院〉を名乗ります。
父親の権限をもって権力を振るいますが、堀河天皇は病弱で29歳にして崩御。
そのあとには白河院の孫・鳥羽天皇が立ちました。
が、鳥羽天皇も白河院の院政下で実質的に権力を握れず。
巨魁・白河院は43年に渡って〈治天の君〉として国家のトップに君臨しました。

白河院の死後、鳥羽院も院政を敷きます。
ここでも繰り広げられたのは後宮バトル!中宮・待賢門院璋子から生まれた崇徳天皇は生後3歳で即位し、彼もまたその後院政を敷く――のかと思いきや。
鳥羽院は次の皇位継承者を、寵愛していた后・美福門院得子の皇子・近衛天皇に指名。
さまざまな謀略が繰り広げられたあげく、崇徳天皇が院政を敷く望みはなくなります。
そこに近衛天皇が幼くして崩御――継承者は近衛天皇の異母弟で鳥羽院の皇子・後白河天皇。
我慢の限界。
崇徳院は立ち上がります。
ここに〈保元の乱〉が勃発するのです。

強運の勝負師・後白河院の戦い

鳥羽院の亡きあと、皇太子のいない近衛天皇の夭折にともなって会議は大紛糾。
そんな中、ある親王が「一番無難」と見なされます。
「無難」な親王――鳥羽院の皇子〈後白河天皇〉、即位。
崇徳院は権力を握る機会を失い、ここに崇徳院VS後白河天皇の戦い〈保元の乱〉が勃発しました。
後白河天皇はこのとき、武力を誇りつつあった平清盛を味方につけて勝利。
その後〈平治の乱〉を経て平家と密接な協力関係を結びます。

「力」を味方につけた後白河院は一気に権力を握りました。
その後彼は、興隆する平家と親戚関係を結びつつ、自分の息子・二条天皇を差し置いてやはり院政を展開。
この強権を疎んじた息子の二条天皇や、のちに〈鹿ヶ谷の陰謀〉はじめ各方面で対立した平清盛、〈源平合戦〉では木曽義仲……多くの政敵によって幽閉されたり流罪にされたりしつつ、その都度復活して政治の舞台に復活した不死鳥な政治家。
平清盛・源頼朝とタメを張った、後白河院はすさまじい勝負師でした。

後白河院は文化人としても非常にすばらしい人物でした。
〈和歌〉をクラシック音楽に例えるなら、ロックンロールな詩歌〈今様〉をこよなく愛し、今様歌集『梁塵秘抄』を編纂して現代に伝えています。

平清盛の登場と平安の終焉

平清盛の登場と平安の終焉

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沙羅双樹の花の色、生者必滅の理をあらわす。
おごれるものは久しからず……平安時代の終焉は平清盛が作ったといっていいでしょう。
〈保元の乱〉〈平治の乱〉と、2つの乱で天皇家と盤石の関係性を築き上げ、後宮政治で血縁関係まで結んだ平家。
一族で独裁政治を敷き、日本を新たなステージに押し上げました。
しかし平清盛という1人の巨人の死と同時に一族郎党は壇ノ浦に散ります。
武士の一族である〈平家〉が台頭したことによって非武力的な政治は終わりを告げ、そして東の地から本格的に武士の世がやってくるのです。
平安時代の終わりを見届けましょう。

貨幣経済の誕生と平家の一党独裁

〈平氏〉は源氏、藤原氏と並んで神を祖先に持つとされる、もっとも古い一族の1つ。
平安時代に与えられてきた役割は〈皇室の守護〉つまり〈軍隊・警察〉としての役割です。
ただし当時の〈侍〉はあくまでも貴族の配下にある者でしかなく、身分は高いとは言えませんでした。
そこに登場したのが、平清盛の一族です。
〈保元の乱・平治の乱〉で軍事力と独自の財産を頼りに、有力武士や政敵を排除した清盛の一族は〈平氏〉ではなく〈平家〉と、ワンランク上の呼ばれ方をすることになります。

平清盛はカリスマワンマン社長でした。
朝廷の主要ポストは平家一家独占。
家族仲良く国家運営をしていました。
後に源氏が身内で切った張ったを繰り返したのとは対照的です。

朝廷は平安初期にリスクが多いとして廃止された遣唐使。
以後民間レベルでしか外国との交流がなかった日本でしたが、約300年ぶりに公式に外国との正式な外交を再開します。
当時、世界的な貨幣であった宋銭を日本に導入。
日本ではじめて近代的な貨幣経済が誕生したのです。
平清盛はあたらしい時代を切り開いたカリスマでした。

しかし、新しいもの大好きで意気投合していた後白河院とはパワーバランスの関係で次第に確執が生まれます。
〈鹿ヶ谷の陰謀〉で後白河院が平家に反旗を翻そうとしていることを、密告者のリークによって知った清盛は激怒。
後白河院を幽閉に追いこむのです。
「平家にあらずんば人にあらず」という言葉すら生まれたこの時代、すでに次の時代への胎動は生まれていました。

源氏、立つ。武士の世が来る

1180年に1人の武士が動きます。
〈平治の乱〉で伊豆流罪となっていた名門・清和源氏の嫡男・源頼朝です。
頼朝の舅は関東に根を張る一族・北条氏。
頼朝が政治の天才なら弟・源義経は軍事の天才でした。
政治的にはあの後白河院がバックボーンになります。
共通の目標は「平家、打倒」。
清盛独自のビジョンにもとづいての〈福原京〉遷都に関する大規模な経費流出や一族独裁によって盛り上がる不満。
そして戦う一族・平家は貴族となり、もう武人の性格は失われつつありました。

平家の血を引く高倉上皇が崩御。
そして巨人・平清盛も熱病で亡くなります。
巨大な存在を喪った平家を率いるだけの人材はいませんでした。
源氏率いる一大軍団は東の地から京都に攻め入り、ついに壇ノ浦で平家を滅ぼします。
平家なきあとの朝廷を動かすに足る有力な貴族はおらず、政治の実権はやがて東国へと移っていくのですが……それはまた別の物語です。

1192年、朝廷は〈征夷大将軍〉という、昔の武人のありがたそうな称号を選び、頼朝に授けます。
ここに源頼朝は〈鎌倉幕府〉を開幕。
〈平安京〉に住まう貴族主導の政治は終焉を迎えるのです。
関東に実施的な権力が置かれ、680年間続く、武士の世が到来します。

謀略と後宮に賭けた、貴族たちの歴史・平安時代

365年続いた非武力政治の時代・平安時代。
平安初期から中期のちょっとマジカルな世界から、藤原家の台頭と隆盛、院政時代にはじまる武士の台頭までを一気に駆け抜けてみました。
平和に雅な生活をエンジョイしていたと思われていた貴族たちも、こう見ると終始、謀略やクーデターとの戦い。
過去に蹴落とした政敵の怨霊におびえ、娘を後宮に入れて天皇の世継ぎを産ませる女の戦い、天皇と藤原家・平家との飽くなき確執……ちょっと平安時代のイメージが変わりましたか?
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