「岐阜」の名は江戸時代には存在しなかった?織田一族の悲劇の舞台「岐阜城の歴史

岐阜城はどんな場所にあり、また「国盗り物語」で知られ、稲葉山城(岐阜城)を築城した斎藤道三はどのように成り上がって美濃一国を手に入れたのでしょうか?そして斎藤氏を倒し、城を手にして岐阜城と改名した織田信長とその後の城主たちの生涯は?また廃城となった岐阜城はその後どうなったのか?ということについて見ていきたいと思います。では、岐阜城はどんな場所にある?ということから見ていきましょう。

岐阜城とはどんな城?

岐阜城とはどんな城?

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岐阜城は鎌倉時代からある?

岐阜城は長良川に沿う海抜336mの金華山(きんかざん)山頂から麓にかけて築かれた壮大な山城。

JR岐阜駅または名鉄岐阜駅から岐阜バス「N80」高富行きなど長良橋方面行き、または「市内ループ線左回り」で15分片道210円。
「岐阜公園・歴史博物館前」で下車。
バス停下車後徒歩3分の岐阜公園内から金華山ロープウェイ3分、金華山山頂駅から徒歩8分です。

この山城を一躍海外にまで有名にしたのが織田信長で、信長は「井ノ口の城」と呼ばれた城を永禄10年(1567年)に中国の岐山(きざん)と曲阜(きょくふ)にならって岐阜城と改めました。

それ以前に存在した山城は稲葉山城とも称し、鎌倉時代の1201年に鎌倉幕府の執事の二階堂行政(ゆきまさ)により砦として築かれたもの。
これを司馬遼太郎の小説「国盗り物語」で有名な斎藤道三・義龍・龍興(たつおき)が改修しましたが、まだ土塁の山城。
そこで、信長は石垣づくりで、山上と麓の居館に2つの天守建築を持つ城郭を構築しました。

永禄12年、信長の元にルイス・アルメイダら宣教師が訪れ、その時の記録から岐阜城は、池泉が広がる庭園に面して3層4階の御殿風の天守が麓の居館に営まれ、金華山山頂には3層の天守があがっていたとみられています。
注目されるのは、この山上の天守には、信長に属した諸勢力(外様の被官衆)が差し出した、12歳から17歳までの人質の少年たちが生活していたことです。
本能寺の変で信長と共に死んだ森蘭丸などもこの一人だったでしょうか?

安土城築城から関ヶ原の戦い、そして現代に至るまでの岐阜城は?

また、最近の発掘調査から、麓の千畳敷への大手口と思われる個所が出土。
巨石を積み重ねた道路と虎口(こぐち)があったことが判明し、安土城の先駆け的な構えが岐阜城に存在していたことがわかりました。

また楽市楽座の保護など、当時としては斬新な政策は城下は大変賑わいました。

信長は天正4年(1576年)、安土城に移り、岐阜城主は信忠となり、本能寺の変の後は織田信孝が入城しますが、信雄(のぶかつ)と争い、城主の座を追われます。
その後池田輝政が入城し天守などを改築。
文禄末年には信長の嫡孫信秀(清洲会議のときの三法子、のち秀信)が入城、関ヶ原の合戦では信秀は西軍に味方し、その前哨戦で東軍の前城主・池田輝政に落とされ、天守閣や櫓は加納城に移され廃城となりました。

現在の城は昭和31年に復興され、鉄筋コンクリート造り3層4階で、岐阜市のシンボルとなっています。
城内は資料展示室、楼上は展望台。
日没から夜10時まで岐阜城はライトアップされ、暗闇の中にその姿が映し出されています。

斎藤道三とは?

98213:斎藤道三とは?

国盗り物語小説全4巻

「国盗り物語」の斎藤道三の話は違っていた?

斎藤道三といえば、油売りから戦国大名になった武将として、腕一つで国を盗っていった戦国大名らしい生き方をしたことで有名ですね。
通説では山城国の武士松波左近将監(まつなみさこんしょうげん)の子が京都の妙覚寺に入り、法蓮房と名乗りますが寺を飛び出し、大山崎の油や奈良屋又兵衛の娘と結婚しその婿となり、屋号を山崎屋、名を庄五郎(「国盗り物語」では「庄九郎」)として手広く油商売をやっていたそう。

たまたま美濃まで油売りに出たところ、かつての妙覚寺時代の同僚だった僧と再会し、そのつてで、守護土岐盛頼の弟頼芸(よりなり)に仕えることになりました。
その後、頼芸を新しい守護にすることに成功し、恩人の長井藤左衛門尉(とうざえもんのじょう)を殺し、さらに守護代斎藤氏の名跡を奪い、ついには土岐頼芸も追い出して美濃一国の戦国大名にのし上がったといいます。
頼芸の美人の妻も奪ったという話もありましたね。

ところが、昭和39年から始まった「岐阜県史」編纂の過程で、「六角承禎(じょうてい)条書写」という文書が発見され、従来の通説とは全く異なる道三の経歴が明らかになりました。

道三の国盗りは親子2代によるものだった?

道三の国盗りは親子2代によるものだった?

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その条書写によると、道三の父親は長井新左衛門というそうですが、元々は京都妙覚寺の僧だったそう。
僧をやめて美濃に下り、還俗してまず西村と名乗り、長井弥二郎に仕え、次第に頭角を現し、長井新左衛門と名乗ったといいます。

新左衛門が長井家を乗っ取り、守護の土岐政頼(まさより)を追放し、その弟頼芸(よりなり?よりよし?よりあき?いろいろな本によって読み方が違うのです)を守護に付け、新左衛門が死んだ後家督を継いだのが子の道三(長井姓の時にはたしか「規秀」(のりひで)という名前だったと思いますが、これも合ってるかがわからない所ですね)で、道三が長井家の惣領家を殺し諸職を奪い取り、斎藤家の当主が亡くなった後にその家督を継ぎ、斉藤利政と称して戦国大名になったそう。
道三のやったことを文字にしてみると、なかなか乱暴な感じがしますね。

家督を継いで4年目の天文11年(1542年)に父が守護職に付けた頼芸を尾張に追い、美濃支配の実権を掌握したそうです。

六角承禎の正室が土岐頼芸の姉だったそうで、これをふまえると、この「六角承禎条書写」に書かれている経緯が正しくなり、父子2代がかりの国盗りだったそう。
個人的には「国盗り物語」の道三が名前を何度も変えて成り上がる話が好きだったので、この話は衝撃的です。
「岐阜県史」の編纂が昭和39年から始まり、司馬遼太郎「国盗り物語」は昭和46年に初版が発行されていたので、入れ違いみたいな感じで「国取り物語」の頃には新しい説は取り入れられなかったということでしょうか。

僧→商人→武士へ、斎藤道三はどう変わっていった?

しかし、上の新説はあまり細かい内容が説明されておらず、これでは斎藤道三という人がどういう人かわからないと思うので、「国盗り物語」にあるような一代記を説明していきたいと思います。

道三は明応3年(1494年)に山城国(京都府南部)で生まれたとされていますが、生年も生誕地も諸説あります。
先祖代々北面の武士を務めていましたが、事情があり牢人に。
道三は11歳のころに京都妙覚寺で僧侶となり、「法蓮坊」と名乗ります。

後に還俗(僧侶から一般人に戻ること)し「松波庄五郎」(庄九郎とも。
国盗り物語ではこちら)と名乗り、油問屋の娘をめとり、油屋となり、山崎屋を称し、油売りの商人として成功し評判に。
その商法は「油を注ぐ時に漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。
油がこぼれたらお題は頂きません」というパフォーマンスで、美濃で評判に。

しかしある時、油を買った土岐家の侍に「あなたのその技を武芸に注げば立派な武士になれるのに。
惜しいことだ」と言われ、商売をやめて槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったといいます。

その後縁故で美濃守護代土岐氏の長井長弘の家臣となり、庄五郎は長井氏の家臣の西村氏の家名を継いで西村勘九郎正利を称しました。
これで3回名前が変わっていますね。

道三はどうやって美濃一国を手に入れた?

道三はどうやって美濃一国を手に入れた?

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勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現し、土岐守護の次男である頼芸の信頼を得るに至り、頼芸が兄政頼との家督相続争いに敗れると、勘九郎が策を講じ、大永7年(1527年)に政頼を急襲し越後に追いやり、頼芸を守護に据えることに成功。

頼芸の信頼を得た勘九郎は同じく頼芸の信頼を得ていた長井長弘を殺害し、長井新九郎規秀(のりひで)を名乗ります。
長井長弘は一度は新九郎の主人だった人のはずですが、それを殺せるというのは、新九郎は上昇志向の強いギラギラした人だったのでしょうか。

さらに美濃守護代の斎藤利良(としなが)が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗り、天文8年(1533年)には居城の稲葉山城を大改築しています。

やはりこの話は父新左衛門尉の経歴も混じっている感じはしますが、「国取り物語」が現在でも名作とされているために、こちらの方が有名になって仕方がないということもあるでしょうか。

そして、天文10年(1541年)、利政が頼芸の弟を毒殺したことにより、利政と頼芸が対立。
天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子を尾張に追放し、事実上の美濃国主になったとされています。

しかし、頼芸が尾張の織田信秀に助けを求め、信秀は天文16年(1547年)に稲葉山城を攻めますが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込みます。
籠城戦って守る一辺倒の作戦だと思っていたのですが、敵を壊滅寸前にまでもっていけるものなのですね。
もしくは織田軍が無理やり攻めすぎたのでしょうか?

道三が息子?の義龍に殺されたのはなぜ?

そして、ここで利政は信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の息子の信長に嫁がせ、

また「国盗り物語」なのですが、2人の出会いがドラマティックに描かれたシーンがあって印象的で、私は好きです。

そしてこれで信秀の後援を得て、美濃に戻った頼芸を再び追放し、美濃の盟主の地位を不動のものにするかと思われました。
天文23年(1554年)利政は子の義龍(よしたつ)に家督を譲り、自らは「道三」と名乗り隠居しますが、道三が義龍の弟達をかわいがり、義龍を廃嫡しようとしたため、義龍が叛旗を翻します。
この親子の戦いの原因ともされているのですが、実は義龍は土岐頼芸の子で、その事実を知った義龍が道三を恨むようになったから、とも。
義龍にとって道三は実の父親ではなく義父だったということですね。
さらに道三が義龍を廃嫡しようとしたのも、そこが原因なのでしょうか?

道三はすでに当主となっていた義龍を廃して二男を当主にしようとしていましたが、この陰謀を義龍が察知、病気と偽り、義龍を見舞いに稲葉山城を訪れた弟2人を殺害。

これが原因で弘治2年(1556年)、長良川を挟んで父子の対決となり、娘婿となった織田信長も尾張から救援しますが間に合わず。
道三はここで討ち死にして首を取られ、「美濃のマムシ」と呼ばれた波乱の人生を閉じました。
また、ここで道三が負けたのは、強固な山城でもあった稲葉山城(岐阜城)を義龍に押さえられてしまったからだとも言われていますね。
道三が自ら要塞にした稲葉山城を押さえられて道三が死ぬのは皮肉だと、「国盗り物語」にもありました。

織田信長が稲葉山城を岐阜城と改称

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撮影/カワタツ

斎藤氏を滅ぼし、織田信長が岐阜城主に

その後義龍は織田信長や北近江浅井久政(ひさまさ)と戦いますが、信長の侵攻がより激しくなってきたため勢力拡大は果たせず、永禄4年(1561年)に35歳で急死。

跡を子の龍興(たつおき)が継ぎますが、祖父や父の代からの家臣(森可成(よしなり)、明智光秀など)の他国への流出が相次ぎ、祖父や父と比べると優れている人物なわけではなく、家臣の信望は得ることができませんでした。

永禄6年(1563年)、再度侵攻した信長と新加納で戦い、家臣の竹中重治(しげはる、半兵衛)の活躍で信長を打ち破りました。

しかし、その後半兵衛と舅の安藤守就(もりなり)によって稲葉山城を占拠され龍興は逃亡。
その後半兵衛と守就に稲葉山城を返還されたものの、この事件で斎藤氏の弱体化が表面化。

永禄8年(1565年)には信長が中濃地方を勢力下におさめ、永禄10年(1567年)には安藤守就らが信長に内応し稲葉山城が落とされ、龍興は北伊勢の長島に亡命することに。

これにより信長は尾張・美濃の2国を領有する大名となり、稲葉山の城下の井ノ口を「岐阜」と改称し、ここから稲葉山城は岐阜城と呼ばれることに。

信長が岐阜城から安土城に移るまでの経緯は?

信長が岐阜城から安土城に移るまでの経緯は?

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信長はこの頃から「天下布武」の朱印を使用し、本格的に天下統一を意識し始めます。
そして、越前の朝倉氏の元に身を寄せていた足利義昭に三好氏の追討を要請され、信長はこれを承諾。
また甲斐の武田信玄が東美濃の高野口に進出したため、信長は武田信玄と戦ってもまず勝てないと思い、信玄の4男・勝頼に自分の幼女を嫁がせ、武田氏と友好な関係を築きます。
また義昭と共に武田氏と越後上杉氏の和睦の仲介も。

永禄11年に信長は義昭を奉じて上洛。
六角義賢(よしかた、前述の承禎)を倒し、三好三人衆を阿波へ追い出し、松永久秀らを臣従させます。

しかし、その後信長と不和になった義昭が離反し、義昭は朝倉氏や武田氏など周辺勢力に呼びかけ、「信長包囲網」を形成。

しかし信長は元亀元年(1570年)の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を倒した後、一向一揆などに苦しめられますが次々と抵抗勢力を駆逐。
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは鉄砲隊の使い方を革新的に改めた新戦法をとり武田勝頼を撃破。
さらに越前の一向一揆をせん滅し、翌年に工事が完成した安土城に入りました。

信長以後の岐阜城は?

信長以後の岐阜城は?

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信長の後継者で「総帥」とされた信忠はどんな戦いに参加した?

天正4年(1576年)、信長が安土城に移った後、岐阜城には信長の長男の信忠(のぶただ)が入ります。
信忠は前年の長篠の戦いの後に起こった岩村城の戦いで総大将として出陣。
夜襲をかけてきた武田軍を撃退し功を挙げます。

天正5年(1577年)の雑賀攻めで鈴木重秀らを降し、さらに信貴山城(しぎさんじょう)の戦いで再び信長に反抗した松永久秀を討伐。
武勇に優れた人だったのですね。

この頃より信忠は信長に変わって「総帥」として織田軍を仕切っていくことに。
本能寺の変で信長・信忠が死ななければ、信忠が信長の跡を継いでいたのでしょうね。

天正6年(1578年)播磨の上月城(こうづきじょう)を織田軍の羽柴秀吉が攻め、それを奪還するために毛利家の総帥・毛利輝元は10万人の兵を動員し上月城を包囲。
信長も上月城を奪還するため、信忠を総大将に明智光秀らを援軍に出し、三木城にいた秀吉も信忠の指揮下に入り、総勢7万2千人の織田軍の兵が播磨に展開。
しかし、こう着状態に陥ったため、戦略上の理由から信長は上月城からの撤退を指示し、籠城していた尼子勝久らは降伏し、上月城は落城。

天正8年(1580年)には佐久間信盛と安藤守就が追放されたため、信忠の領土は美濃・尾張2カ国に広がりました。

甲州征伐と本能寺の変での信忠は?

甲州征伐と本能寺の変での信忠は?

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天正10年(1582年)の甲州征伐では総大将として美濃・尾張2カ国の兵5万を率いて徳川家康・北条氏政と共に武田領へ侵攻。
信濃南部の武田方の拠点の飯田城・高遠城を攻略。
信忠軍の進撃の速さに武田勝頼は態勢を立て直すことができず、新府城を焼き捨てて逃亡。
そして、信長が武田領に入る前に信忠は武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いで自害に追い込み、武田家を滅亡させました。

この結果、信忠配下の川尻秀隆、森長可(ながよし)、毛利長秀が甲斐と信濃の領地を与えられたため、信忠の影響力は美濃・尾張・甲斐・信濃の4カ国に及ぶことに。

天正10年(1582年)の本能寺の変では、信忠は備中高松城を包囲した羽柴秀吉の元へ援軍として駆けつけるため、京都の妙覚寺に滞在していました。
斎藤道三が僧だった時にいたのも妙覚寺でしたが、この時に気付いて私は変な感じがしています。

信長の宿所の本能寺を明智光秀が襲撃した報を聞き駆けつけますが、信長自刃の知らせを受け、二条新御所に移動。
手回りのわずかな兵で善戦しますが、明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、とても敵わずに自刃。
享年26。

信忠はこの時京都から脱出できる可能性があり、逃げて再起を促す家臣もいたのですが、信忠は「これほどの謀反が考える光秀が京都の出口を塞いでいないわけがない。
私は無様に逃げるより潔く戦う」と。
潔い人ではありますが、信忠がこの時京都から脱出できていれば、秀吉の天下にはならなかったかもしれませんね。

本能寺の変の後の信長の三男・信孝は?

信忠が死んだ後の岐阜城は留守居役の斉藤利堯(としたか、斎藤道三の子)が城を掌握し、清洲会議で織田信孝(信長の三男)に美濃国が与えられ、利堯はその家臣に。

織田信孝は天正10年(1582年)6月13日の山崎の戦いで総大将とされましたが、実質的な総大将は羽柴秀吉。
6月27日の清洲会議は信孝と信雄(のぶかつ、信孝の兄で信長の次男)は閉め出されて4人の宿老での合議制に。
その結果、信孝は兄・信忠の領地だった美濃と岐阜城が与えられ、後継者に決まった信長の嫡孫・三法師の後見役を務めることになります。

しかし、天下人を継いだような態度を取る秀吉と対立し、織田家の不満分子の最大の実力者・柴田勝家に接近。
しかし11月2日、秀吉が前田勝家を通して勝家と和睦した後、勝家が雪のため領国の越前から動けないのをいいことに、秀吉は信孝のいる岐阜城を包囲。
東美濃を掌握し切れていなかった信孝はどうすることもできず降伏。
三法師を秀吉に引き渡して安土に送り、母や乳母、娘を人質にして和睦し、独立行動を取っていた森長可や、家臣の斉藤利堯らも信孝側を離れることに。

天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが始まると、勝家に呼応して信孝も挙兵。
しかし、秀吉は岐阜城を包囲し勝家を破り、勝家は北ノ庄城で自刃。
信孝も兄信雄に岐阜城を包囲された後に降伏し、野間(愛知県美浜町)の内海大御堂寺(野間大坊)に移され、信雄の命令によって自刃。

信孝は切腹の際、腹をかっ切って腸をつかみ出し、床の間に飾ってあった梅の掛け軸に臓物を投げつけたといわれ、切腹の場所となった安養院には短刀とその血の残る掛け軸が今でも残っているそうです。
享年26。

辞世の句は「むかしより 主(しゅう)をうつみの 野間なれば むくいをまてや 羽柴ちくぜん」で、「うつみ」(内海)と「討つ身」、「野間」と「飲ま」がかかっているのでしょうか。
「主を討って飲む」で「織田家を飲んだ」ことになり、織田家を乗っ取った秀吉への恨みが表わされているのですね。

信孝の後、岐阜城主はどのように変わった?

信孝の後、岐阜城主はどのように変わった?

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1583年、池田恒興(つねおき)が大垣城主になると、恒興の嫡男・元助(もとすけ)が岐阜城主に。
しかし、翌年の小牧・長久手の戦いで恒興・元助、共に戦死。

家督を恒興の次男で、後に姫路城を今の形で作った輝政(てるまさ)が継ぎ、美濃大垣13万石、さらに同じ13万石で岐阜城主に。
輝政は紀州征伐や富山の佐々成政(さっさなりまさ)征伐、九州征伐など秀吉の主だった戦争の大半に出陣。
天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置にも2800の兵を率いて参加。
そのため戦後に東三河に15万2000石に加増され、吉田城主に。

天正19年(1591年)、輝政がいなくなった後、岐阜城は豊臣秀勝のものになりますが、翌年の文禄の役で朝鮮の巨済島に渡り、半年ほど滞在した間に病いを発し、戦病死しました。
享年24。
岐阜城主ってみんな戦死・病死・自刃等が原因ではありますが、若くして死ぬ人が多いですね。

その後岐阜城は清洲会議で三法師と呼ばれていた信長の嫡孫・秀信の元に。
家臣団には織田信孝や豊臣秀勝の家臣や斉藤家一族、斎藤家臣、土岐一族など歴代の岐阜城主の家臣団を再結集した模様。
文禄の役では晋州城攻防戦で動員4018人で包囲部隊に編成されて渡海します。

信長の孫・秀信は関ヶ原の戦いでどう戦った?

関ヶ原の戦いでは、秀信は前年から戦支度を進め、慶長4年(1599年)、家臣の瀧川主膳に対し、石田三成が奉行職引退、佐和山蟄居となったことで、稲葉山・町口の防備を固めることを指示しています。

慶長5年(1600年)に入ると豊臣秀頼に拝謁して黄金200枚、軍俵2000ないし3000を与えられています。
これは関ヶ原の戦いへの軍資金となったのでしょうか?

当初、徳川家康の会津征伐に参加して7月1日に出陣する予定でしたが、軍装に整えるのに手間取り遅延。
この辺り、いかにも「おぼっちゃん」みたいな感じがしますね。

この間に石田三成から「勝ったら美濃・尾張の2カ国をあげるよ」と勧誘されて西軍に加勢。
秀信が西軍についたことで美濃の諸将の大半は西軍に付きました。
やはり「信長の孫が参加した」という効果は大きいのでしょうか?

三成からの援軍を得て、慶長5年(1600年)8月22日、木曽川を防衛戦として池田輝政・福島正則を迎え撃ち、総兵力は6530騎。
秀信自身も出陣し総指揮を取り、首級を討ち取るなど善戦しますが兵力差があり敗退。

追い詰められた秀信は22日夜、大垣城・犬山城に援軍を要請し、岐阜城に籠城。
籠城戦は23日の1日中続きましたが前日の戦いで兵力が激減していたことと、以前城主だった池田輝政が岐阜城の構造を熟知していたため、敗勢は覆し難く、秀信は弟の秀則と共に自刃しようとしますが、輝政に説得されて降伏し開城しました。

秀信はどういう処分になった?

秀信はどういう処分になった?

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攻防戦で激戦だったらしく、上格子門では激しい銃撃戦が繰り広げられ、二の丸門の戦いでは門内にあった煙硝蔵に火がつき、爆発炎上するほど。
武蔵砦や本丸七間櫓でも激戦が繰り広げられ、城方は数では劣っていましたが、秀則や織田兵部・斉藤徳元などの家臣が奮戦し寄せ手を食い止めましたが、侍大将クラスの討ち死にも多数。

また、落城時に最後まで生き残った家臣は切腹したそうで、崇福寺には秀信家臣38人が切腹した場所の床板を天井に貼った「血天井」が存在、この戦いの激しさがうかがえますね。

城を出た秀信は上加納の浄泉坊で剃髪し、尾張知多へ送られ「降伏した秀信に対する助命はいかがなものか?」という声も上がりましたが、福島家中には秀信家臣の縁者も多く、(小牧・長久手の戦いの後浪人した織田信雄の家臣がたくさん秀信や福島正則の家臣として仕えたために、親兄弟、伯父甥で戦ったものも少なくなかったそう)福島正則が「私の武功と引き換えに!」と助命を嘆願。
そのため合戦後に岐阜13万石は没収されて高野山に送られ、生き残った秀信家臣は福島家、池田家、浅野家に仕えました。

岐阜城は廃城となり、地名も「加納」に

しかし、祖父の信長が高野山を焼き討ちにしたため、秀信は入山が許されず10月28日まで待たされ、出家が許された後も迫害を受けたそう。

慶長10年(1605年)には高野山を出て麓に住み、追放されたそうですが理由はやはり祖父のとばっちりということで、この年に亡くなっています。
健康を害していたため下山して療養したとも言われていますが、自害だという説も。
どちらにせよ可哀想な最期ですね。
享年26。

なお、慶長6年(1601年)に徳川家康は岐阜城の廃城を決め、奥平信昌に10万石を与えて加納城を築城させ、岐阜城の天守や櫓、石垣などは加納城に、御殿建築は大垣市赤坂のお茶屋敷に移されたと言います。
岐阜城が山城で太平の時代には不便なだけでしかなく、また、かつて信長が天下取りの意思を込めて命名した「岐阜」という地名を家康が忌み嫌ったこと(徳川氏に代わる天下人を連想させる)が理由だそう。
ここで岐阜という地名も「加納」に変えられてしまったため、岐阜という地名は明治期に再建されるまで存在を消すのです。

「たかが名前に」と思ってしまいそうですが、江戸幕府が家康が一生かけて作った作品だと思えば、神経質になるのもわからなくはないですね。

明治期に岐阜城が復興されたのにはどういう経緯があった?

明治期に岐阜城が復興されたのにはどういう経緯があった?

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その明治43年(1910年)に岐阜城の復興天守が再建され、落成。
これは長良橋の廃材を利用し、岐阜市保勝会と岐阜建築業協会などの労働奉仕によって建てられたもの。

幕府が無くなり、家康が嫌っていた「岐阜の地名を戻せる!」と地元の人の悲願が叶った形でしょうか?加納から岐阜に名前を戻すことが可能だった良いタイミングだったのですね。

しかし、昭和18年(1943年)に失火で焼失。
しかし、募金で費用が集められ、昭和31年(1956年)に鉄筋コンクリート建築で復興天守が落成。
その後、昭和48年(1973年)に大河ドラマ「国盗り物語」による観光ブームで年間入場者が43万人を記録。
まだ20代の高橋英樹さんが信長の役をやったのですね。
私も見てみたいものです。

ここまで書いて、私も岐阜城に行ってみたいと思えてきました。
少し前に近くの犬山城に行ったのですが、「そのついでに岐阜城に行っておけば良かった」と思っています。
余談になりますが、その時は岡山から青春18切符の日帰りで行ったので時間が限られていたのもあったのですが。

成り上がりの戦国大名・斎藤道三が大改築し、信長など織田一族の悲劇の舞台となった岐阜城

岐阜城は海抜336mの金華山の山頂にある山城で、商人から成り上がった斎藤道三が大改築。
しかしこの経歴は父との2代によるものとされ、道三が息子義龍に殺された後、織田信長が斎藤氏を倒して「岐阜城」に改名して天下統一を目指します。

その後、信長の息子の信忠が城主になりますが、本能寺の変で信長と共に死に、信孝も賤ヶ岳で柴田勝家が敗れたことで自刃。
その後度々城主が変わり、信長の孫・秀信は関が原の合戦で元城主の池田輝政に敗れて高野山に追放、さらには家康が「岐阜」の名を嫌い、岐阜城は廃城とされ、町の名も「加納」に変えられてしまいます。

明治になり、地元の人々が岐阜城を復興し、司馬遼太郎の小説と大河ドラマの「国盗り物語」で有名に。

是非「国盗り物語」を小説で読んでみてください。
大河ドラマの方は、映像で見れる方法があるのでしょうか?そして、岐阜城に足を運べば道三や信長の視点を味わえるのではないかと思います。

それでは、読んでくれてありがとうございます!

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