混迷のはじまり。「満州事変」の歴史

日本史の暗部〈満州事変〉――教科書でちょっと触れただけでしたが、一体あれは何だったのでしょう?。柳条湖事件?関東軍って何者?満州国ってなんで作られたの?疑問だらけの日本近代史。しかし中国史や世界史の方面からもアプローチすると、それがしっかりとした形となって見えてきます。ただでさえカオスな、第2次世界大戦前後のアジア近代史を、今回はできるかぎりわかりやすく、いっしょにたどっていきましょう。わずか5ヶ月で東アジア地域情勢を激変させてしまった、そして日本の決定的転機の1つともなった〈満州事変〉に今回は迫ります。

〈満州〉って、どんなところ?

〈満州〉って、どんなところ?

image by iStockphoto

そもそも〈満州〉というのはどのような場所なのでしょう?中国東北部、西にモンゴルと中国、南を朝鮮半島、そこは北と東をぐるりとロシアと国境を接し、日本海にも面した〈因縁の土地〉です。
この満州の南端に、日本が日清戦争でモメた〈遼東半島〉もあります。
日本が満州を重視するようになるまで理由とは、一体どのようなものだったのでしょう?またこの土地には、滅亡した清朝皇帝家・〈愛新覚羅〉氏のふるさととしてのアイデンティティも絡まってきます。
日本・中国・ソ連の三つ巴になる〈満州〉をめぐる戦い。
まずは、その基礎知識から。

清朝皇族〈愛新覚羅〉氏のふるさと

満州事変が起こった当時、もうすでに新王朝は滅亡していました。
が、中国の歴史において満州という地域は非常に重要なアイデンティティを持つ場所でした。

中国は多くの民族によって構成されています。
中国というと〈漢民族〉が長く統治していたイメージがあるかと思いますが、実際にはそうでもないのです。

12世紀、この地に拠点を構える〈女真族〉が〈金〉王朝を樹立。
中国の北半分を制覇するに至ります。
その後モンゴル襲来のゴタゴタを乗りこえ、17世紀に〈満州族〉と名前を変えた彼ら〈女真族〉は、1616年にあの〈清王朝〉を打ち立てました。
最後の統一王朝〈清国〉の誕生でした。
中国大陸は満州族が治めていたのです。

皇帝一族のふるさととして、満州地方は大きな意味を持っていました。
その後〈辛亥革命〉により〈中華民国〉が誕生。
そのときある少年が紫禁城に幽閉されます。
その後彼は社交界にデビュー、日本によって皇帝に擁立されます。
ラストエンペラー〈愛新覚羅溥儀〉です。
それはまた、のちの章で。

日本が犠牲をかけて手に入れた〈租借地〉

ここで時間を満州事変より数十年前まで巻き戻しましょう。
日本とロシアが激突し、日本が世界史的な勝利をおさめた〈日露戦争〉です。
〈日露戦争〉において日本は賠償金を得られませんでしたが、そのかわり領土獲得を実現しました。
外交上手のロシア相手にギリギリの交渉をした挙句、「満州南部は日本のもの」と決まります。
しかし北部の権益はいまだにロシアが握っていました。

ちなみに〈日清戦争〉の折、〈三国干渉〉で泣く泣く手放した〈遼東半島〉もこの、満州という土地の南端の半島です。
なぜロシア、ドイツ、フランスの三国がわざわざくちばしを突っこんできたかというと、ここをおさえられると、自分たちの中国大陸における植民地化がうまいこと進まなくなるから。
ちなみにこの三国による「表向き」の干渉理由は「遼東半島を日本が得ると、首都北京がおびやかされ、また朝鮮半島の独立も有名無実化する」というものでした。
それほどに重要な要衝だったのです。

しかし、日本にとっては二百三高地戦をはじめとした「膨大な犠牲の末に手に入れた」という思い入れが強い満州地方――。
以降、日本陸軍は〈満州〉を聖域のように大切に想っていたのです。

〈中華民国〉の誕生と軍閥バトル

〈中華民国〉の誕生と軍閥バトル

image by iStockphoto

さて中国はアヘン戦争・アロー戦争から先、そして〈辛亥革命〉の果てにどのような状況になっていたのでしょうか?山のように結ばされた不平等条約。
中国の人びとは危機感をいだきます「このままでは国が滅ぶ――」しかし案外カンタンなことでは国は滅びません。
1912年、孫文らが〈三民主義〉を掲げて民主主義国家〈中華民国〉を建国します。
それもつかのま、袁世凱亡きあとは軍閥が群雄割拠するカオスな時代へ。
中国統一がふたたび実現するのは、毛沢東の共産党を待たねばなりません。
これはそんな、大陸が過渡期であった時代に起こった戦闘だったのです。

ふたたび大国・中国へ――国権回復運動

アヘン戦争・アロー戦争、日清戦争、第一次世界大戦――さんざん不平等条約を結ばされ、大国の威厳はガタ落ちとなった中国。
しかし世界史のお決まり「一度大国を経験した国はかならず復活する」に、中国も漏れることはありませんでした。

1912年〈辛亥革命〉成立。
清王朝は瓦解し、あたらしい国〈中華民国〉が誕生します。
が!大統領・袁世凱の死後は、中華民国に統一された政府が喪失。
その土地の実力者が〈軍閥〉を作ってドンパチ繰り広げる群雄割拠の戦国時代となりました。
つまり「おれがこの国ボス!」と派閥を作って内戦状態になったのです。

内部抗争でドロドロだったとはいえ「敵の敵は味方」そして中華の国を憂うる心に、みな違いはありません。
その後彼らは、自国領土を侵害する日本に共同で対抗することとなります。

当時のおもな〈軍閥〉たち

〈軍閥〉――「ぐんばつ」と読みます。
聞きなれない言葉です。
カンタンに言えば「派閥」しかも武力を持った軍隊が構成する派閥と言い換えることができるでしょう。
ここで今後メインになってくる軍閥たちをご紹介。

まずは〈国民党〉の蒋介石です。
彼はかの孫文が打ち立てた〈国民党〉を率いて、各地の軍閥と戦闘を繰り広げ、中国大陸の権力統一をはかります。
〈北伐〉と呼ばれるこの内戦で、蒋介石率いる国民党はなんとか中国の統一をはかろうとしますが、既得権益を守りたい日本やイギリス、さらに中国の共産化を狙うソ連、それに中国国内の〈共産党〉の動きによって妨害されつつ進みます。
ちなみにその蒋介石は、第二次世界大戦後台湾まで追いこまれます。
大陸は新たに毛沢東率いる〈共産党〉によって〈中華人民共和国〉を建国されるのですが――それはまた別の話。

もう1つ、〈張作霖〉という人物の率いる軍閥は、満州地方を拠点としていた親日派の軍閥でした。
彼についてはもう少しあとで詳しく見ていきましょう。
彼の軍閥は教科書にも乗っている「ある事件」により、一転して反日となるのです。

〈大東亜共栄圏〉〈関東軍〉そして〈満州〉――

〈大東亜共栄圏〉〈関東軍〉そして〈満州〉――

image by PIXTA / 13535181

〈日露戦争〉に勝利したことによって、世界の流行より一歩遅れて、日本は〈帝国主義国家〉となります。
一歩遅れて、というのも、西洋諸国は第一次世界大戦を経て、植民地では独立運動が活性化し、〈民族自決主義〉が主流となっていたからです。
一方、日露戦争の終結直後から、日本は次の戦争の相手をアメリカと仮定して動きはじめていました。
そんな中、〈帝国主義〉と〈アジア諸民族の平和共存〉という理想が奇妙にブレンドされた、対米戦争を仮定して作られた壮大なプロジェクト〈大東亜共栄圏〉の大きな狙いとはいったいどのようなものだったのでしょう?

〈関東軍〉という名の独立権力

関東、といっても日本の「関東地方」の関東とニュアンスはまったく違います。
中華民国の一地方〈関東州=満州〉を守護する軍隊。
それが〈関東軍〉です。
といってもこの〈関東州〉も租借地、つまり「日本の半植民地」状態という微妙な立ち位置の土地でした。

関東軍は、日本が権益を有する〈満州鉄道〉沿線を警護するための部隊として最初、誕生します。
ただの警備隊なのだから穏健な部隊なはずです。

しかし彼らはのちに暴走し、現場レベルの判断で勝手に戦闘を引き起こし、しかも処罰されることすらないという、意味不明な行動を起こします。
政府をはじめ天皇のご意向すらも無視して独断専行に走る関東軍。
なぜこのようなことをしたか、おさえておかなければなりません。
それを知るキーワードがあります。
〈大東亜共栄圏〉です。

〈大東亜共栄圏〉という「資源確保」

日本は日露戦争の後から、将来、かならず欧米列強との戦争になることを想定していました。
そのためには絶対に、何が何でも、満州と蒙古(モンゴル)は確保しておきたかったのです。
さて、なぜでしょう?

答えは〈資源〉。
食料、炭鉱、なによりも石油!いわゆる〈兵站〉と呼ばれる分野を強化するために、とにかく満州とモンゴルは重要な場所でした。
大東亜共栄圏は南洋にまでおよびますが、すべてはこの〈兵站〉〈資源〉面の弱点を強化するための作戦だったのです。

〈関東軍〉の石原莞爾はこの〈大東亜共栄圏〉に重きを置き、中国大陸を支配下に置くことで「日本政府には1厘も出させずに、戦争をする」という構想まで打ち立てていました。
彼らについてはまた後で語ることとしましょう。

〈張作霖爆殺事件〉

〈張作霖爆殺事件〉

image by iStockphoto

さて、ここで教科書でちらっと見た事件。
〈張作霖〉という重要人物が満州鉄道で暗殺された、そう〈張作霖爆殺事件〉です。
あれは一体どのような意味を持っていたのか?そもそも、張作霖ってだれ?混乱の連続のまま、短い近代史の時間を終えた方も多いのでは。
ここでは、当時の中国のキーパーソンであり、あるときまでは日本のパートナーですらあったこの人物を「用済み」として暗殺した、〈張作霖爆殺事件〉について追いましょう。

親日派の軍閥トップ、暗殺さる

まずは〈張作霖〉についておさらい。
彼は満州地方を当時治めていました。
かの日露戦争では日本側に大きく貢献したため、日本も彼を厚遇したという存在です。
つまり、張作霖は親日派の軍閥の長でした。

「なんで仲良しだった軍閥トップを殺しちゃったの?」という疑問がわいてきます。
答えはシンプル。
「用済みになったから」です。
ときの日本首相は張作霖の利用価値を認め、引き続き協力を求めていくつもりでいました。
が、日本陸軍――おもに〈関東軍〉によって「邪魔だ」と判断されたのです。

1928年6月4日。
張作霖は蒋介石率いる国民党との決戦をあきらめて、拠点である満州に帰る途上でした。
鉄橋を渡りかけたそのとき、300キロにもおよぶ爆弾が作動、爆発によって列車は大破し、張作霖は亡くなります。
彼は息を引き取るその直前に言い残しました。
「日本軍がやった」と。

事件に、政府は――

さて犯人は、満州地方を警備する日本陸軍の一部隊、関東軍。
彼らを締めるべきなのはもちろん、日本政府です。
しかし日本本国の上層部はほとんどなにも聞いていない状態でした。
つまり、関東軍の独断専行だったわけです。
陸海軍の頂点にいて〈統帥権〉を握る昭和天皇も、これにはいたくショックを受けました。

一方、関東軍側の言い分も聞いておきましょう。
満州地方を、親日派の軍閥経由で統治するのにはだれもが限界を感じつつあったのはたしかです。
そこで考えたのは、中国の軍閥を一掃したのち、都合のいい〈傀儡国家〉の建国をすること。
傀儡国家を利用して、日本が満州地方の統治を直に行うことをもくろんでいたのです。

以後、内閣や天皇は関東軍にストップをかけつづけますが、関東軍は暴走の一途をたどります――みずからが描いた世界の青写真を実現するためだけに。

ソ連という名の脅威

ソ連という名の脅威

image by PIXTA / 29335835

この一件が日本と中国だけのもめ事と思うなかれ。
東アジア近代史の裏ボス・ソ連登場です。
建国以来、「凍らない港(不凍港)」を求めて南へ南へと侵攻してきたロシア。
日露戦争以前から、ソ連(ロシア)は満州地方を狙っていました。
アロー戦争の事後処理で満州のすぐ北部、頭上に「東方を制圧せよ」という意味を持つ港町・ウラジオストクをゲットしたロシア帝国、その領土を受け継いだソ連もまた南下政策を推し進めます。
群雄割拠の中国にも変化が生まれます。
〈共産主義〉という名の怪物がこの地に上陸したのです。

ソ連と中国が激突!〈ソ中紛争〉

このころ満州地方には多くのロシア人が住んでいました。
大陸は多民族国家です。
陸伝いに、職や住居を求めてさまざまな人が行き交います。
ウラジオストクからほど近い満州にも〈白系ロシア人〉と呼ばれる、つまりはロシア革命以後の内戦から逃れてきた亡命ロシア人が多く住んでいました。
そのロシア人――自国民族を保護するという名目でもって、ソ連が満州に侵攻してきます。

さて大わらわ。
そこは一応中国の土地なわけです。
軍事行動を起こされる理由はありません。
もちろんソ連はどさくさに紛れて満州をゲットするつもりでした。
この戦闘の結果、機会化した近代装備を持つソ連は中国の軍閥を撃破します。
満州一帯の、本来ソ連が持ってた権益を回復する旨の協定を結びました。

この事件で、日本の満州における権益がソ連の登場によっておびやかされたことになります。
ちなみに〈白系ロシア人(亡命ロシア人)〉は日本軍にとって重要な情報源であったため、各地で迫害を受けます。
が、のちに〈満州国〉が作られた折、〈白系ロシア人〉たちは満州国で優遇されることになります。

共産化する中国

〈共産主義〉という怪物は中国に上陸します。
権力者=資本家を嫌い、今まで弱められていた労働者を立ちあがらせ、みんなで平等ないい国を作ろう!という革命思想は世界を駆けめぐり、ついに中国に根づきます。
〈満州事変〉のつい9年前に出来上がった新しい国、そして共産主義そのものは、世界中の資本主義国家にとって脅威として認識されていました。

〈共産主義〉はつまり最終的にどの国でも、1人の権力者と1つの党に権力を集中させる、全体主義国家となることを意味します。
が、数千年に渡って皇帝1人と宦官たちによって支配されていたという政治文化を持つ中国にとって、この政体は馴染みやすいものだったのかもしれません。

ソ連は〈共産主義〉という思想面を通して、満州地方を〈ソビエト化〉しようともくろんでいたのです。
つまり満州を正式にソ連の領土として組み込もうとしていました。

〈柳条湖事件〉――満州事変のはじまり

〈柳条湖事件〉――満州事変のはじまり

image by PIXTA / 4180965

さて前置きはここまで。
ついに事件の核心入っていきましょう。
〈満州事変〉は主に日本と中国のあいだに展開された紛争を指しますが、そのきっかけは非常に小さなことでした。
しかも、関東軍の自作自演。
「何が、したかったわけ?」と彼らに問えば「壮大な計画のため」と答えるでしょう。
ほんの小さな爆発が満州を揺るがし、最終的に東アジア全体を震撼させることとなった〈柳条湖事件〉。
〈満州事変〉はついにはじまりを告げます。

小さな爆発、大規模な行動

日本の管轄する、満州鉄道。
その鉄路が走る〈柳条湖〉という場所で、小さな爆発が起こります。
関東軍はこの爆発事件を、張作霖の息子・〈張学良〉の犯行、それも破壊工作として喧伝しました。
が、本当は関東軍による自作自演。
関東軍の将校たちが計画し、また自らの手で爆薬を仕掛けて爆発させたのです。
本当はたったこれだけのことでした。

しかし関東軍はこの「自作自演」で中国に言いがかりをつけ、「自衛のため」として部隊を展開、中国軍と戦闘に入ります。
彼らはなにがなんでも満州地方、そして中国全域を支配したかったのです。
そのためにはどんな手段でもとるつもりでした。

関東軍は専横と暴走をはじめます。
戦闘をするにあたっては、天皇から詔勅(お許し)を得てからでなくてはなりません。
しかしその詔勅もなく関東軍は戦闘を実行したのです。
中国と短期決戦を行い、ついに満州地方を武力行使で手に入れました。
しかし中国は内憂外患。
可能なかぎり戦闘を回避することを選びます。
そして世界で一番力のある機関の1つである「あそこ」に訴えを持ちこむのです。

石原莞爾の壮大な計画

行動には理論がともなっていなければ成功はしません。
関東軍はやみくもに行動していたのではありません。
では誰がこれらの行動を導いたのでしょう?〈石原莞爾〉という陸軍参謀です。

石原莞爾は『最終戦争論』という講演において、最終的に第二次世界大戦は日米の国家総動員戦争となり、戦闘機の空襲によって民間人や工場がまずやられるようになる、というような先見の明を示しています。
彼は、日本の天皇をトップに置いて東アジアの諸民族を統一する、現在のEUのような構想を考えていました。
それは東アジアの平和と安定、そして西洋の脅威に対抗する手段であると確信していたのです。

さてこの〈柳条湖事件〉も彼の計画でした。
これを契機として中国全土を制圧、その資源と資産をフル活用して「20年でも30年でも」戦争を続けられると考えたのです。
あくまでもこの人の頭の中は、今後展開されるであろう「最終戦争」に日本が勝利するための軍事的布石をひたすらに打つことで構成されていました。
なによりも石原莞爾は、中国は決して近代国家を自らの手で作ることはできないと思っていたのですが……それがどうなったかは、歴史がのちに証明していくことです。

〈満州国〉の建国

清王朝最後の皇帝、中国では〈廃帝〉と呼ばれるラストエンペラー〈愛新覚羅溥儀〉を擁立し、傀儡国家〈満州国〉を建国します。
日本、ひいては関東軍が満州を統治するための機関として――。
「どうしてそんなもの、作ったの?」と1度はだれもが首をかしげる、〈満州国〉建国の理由。
それは関東軍が掲げる、壮大な計画のうちの一環でした。
しかしこの傀儡国家建国により、日本は自分で自分の首をしめることとなるのです。

傀儡国家〈満州国〉の誕生

さて次に〈関東軍〉がとった行動は、獲得した領土を統治することです。
と、一口に「統治」とカンタンそうに言ってしまいますが、近代国家で領土を統治するにはいろいろと複雑な手続きが必要。
まず法律、それを執行する行政機関、政体に合った政府の樹立。
護る軍隊に加えて、秩序を正す警察も必要です。

さすがにそれをすべて、日本の政府が行うわけにはいきません。
なにかうまいことを考えて、満州地方を体よく統治する「機関」が必要でした。

そこで思いついたのはウルトラCの思いつき。
「政府が必要なら作ってしまえばいい」。
――日本の言いなりになる傀儡国家の建国をもくろんだのです。

ラストエンペラー〈愛新覚羅溥儀〉、擁立

さてここで1人の男が登場します。
満州を故郷とする女真族〈愛新覚羅〉氏の末裔、清朝の皇帝であった〈愛新覚羅溥儀〉です。
幼少期に〈辛亥革命〉により王朝が滅ぼされ、紫禁城へ幽閉の生活を強いられていましたが、その後紫禁城を追われて、いまは後ろ盾を求めてさまざまな有力者に接触していました。

彼はこの満州の地を「治める」のに適任でした。
血筋、政治的立場、そして利害。
日本が、また溥儀も、清王朝を復辟(ふくへき)させるためにパトロンが必要だったのです。
清王朝、愛新覚羅氏による国をもう一度――両者の利害が一致します。
溥儀は〈満州国皇帝〉となることに同意しました。

しかし彼はあくまで日本が都合よく満州を治めるためのあやつり人形。
日本の官僚に王族や皇族への尊称「陛下」ではなく一段下、臣下であることを示す「閣下」という呼称で呼ばれ、激怒したというエピソードもあります。

これに〈国際連盟〉は――欧米列強の視線

これに〈国際連盟〉は――欧米列強の視線

image by iStockphoto

と、ここまで来て気になるのは世界がどうこの事件をとらえていたかです。
もちろんこのような非調和的行動を、かつて「列強」とも呼ばれた西洋諸国が歓迎するはずがありません。
4年にも渡る本土決戦を経験し、戦争には懲りた西洋は平和路線をとろうとしていました。
武力による平和は古い!これからは話し合いでいろいろなことを決めよう!という決意でもって作られた〈国際連盟〉に、中国は訴えを持ちこみます。
「日本は不当に中国の領土を占領している」――欧米は、日本は、どのようにそれを受け止めるのでしょうか。

そのころの西洋、そして〈国際連盟〉

このころ、すなわち1931年当時、西洋はどのような情勢におちいっていたのか、まずは振り返らなければなりません。
ズバリ、その8年後に控えた第二次世界大戦の勃発前のカオスでした。

アドルフ・ヒトラーがドイツの政界で台頭していたのが、ちょうどこのころ。
〈満州事変〉の翌年すなわち1932年にはドイツ首相に就任します。
また第一次世界大戦後にアメリカが唱えた〈民族自決主義〉にもとづき、〈大英帝国〉はじめ列強の各植民地では独立運動が活発化。
激動の時代を迎えていたのです。

世界は混迷の道筋を歩もうとしていました。
そんな中で仲裁機関として期待されていたのが、〈国際連盟〉。
第一次世界大戦の戦勝国が常任理事国となり、世界の平和と安定を保つために話し合いでさまざまなことを解決するために作られた機関です。
日本もこの〈国際連盟〉の常任理事国でした。

〈リットン調査団〉の報告と孤立深まる日本

国際連盟は、満州国の正当性を調べるべく、リットン伯爵率いる〈リットン調査団〉を派遣します。
彼らは満州に足を運び半年間にわたってくまなく調査をしたのちに、国連に報告書を提出しました。
国家というものは独立していなければなりません。
さて〈満州国〉はどうか?きちんと独立国家としてあつかうことができるのか?

調査団はあくまでも、満州地方には中国の人民による政権の樹立が必要であると主張しました。
一方で不毛の地となっていた満州を日本が整備したことなどの貢献を認め、日本の既得権益も肯定しています。
が、出された結論はこうでした。

「柳条湖事件は自衛とは言いがたい。
満州国は日本軍ありきの国家であり、独立国家とは言いがたい。
満州地方には、中国人の主権による国家建国がふさわしい」調査団は紛争解決のため、日本と中国が不可侵条約・通商条約を結ぶべきであるなどの具体的提言も行いますが、それが実行されることはありませんでした。

〈満州事変〉のその先の世界

〈満州事変〉のその先の世界

image by iStockphoto

国際社会は大モメ。
ただでさえ不完全な仲裁機関であった〈国際連盟〉は機能不全を起こしてしまいました。
日本はリットン調査団が「アンフェア」なやり方であることに激怒します。
そこで最後の行動に出てしまいます。
このことはつまり、日本が開国後、数十年かけてよじ登ってきた、国際社会における〈列強〉の地位をフイにする形になるのですが……。
さまざまな布石の末、〈満州事変〉が勃発してからたった5ヶ月。
東アジア世界は一変していました。

「サヨナラ」日本、国連脱退

〈国際連盟〉は平和と理想を実現させるための国際的な機関でした。
第一次世界大戦のような悲劇を繰り返さないために、話し合いで平和を保とう、もし戦争の芽があればなんとかつみとろう。
そんな機関だったのです。
日本も第一次世界大戦の戦勝国、すなわち常任理事国として〈国際連盟〉に貢献していました。
かつて「5000円札の人」だった新渡戸稲造が、国際連盟事務局次長だったこともありました。

しかし〈満州国〉の建国が不当であると国際連盟に言われた日本は激怒。
せっかく多大な犠牲出し、陰謀を繰り広げて得た〈満州国〉を解体しろだなんて、そんなことを言われても後には引けません。
世論も黙ってはいませんでした。

ついに日本全権大使は、〈リットン調査団〉の報告に関する決議の席で「努力の限界」と言い放ち、その場から去ります。
それは日本が国際社会からの孤立をはじめることを意味していたのです。

対日共同戦線、成立へ

中国大陸国内の軍閥は〈反日〉で結束することとなりました。
「敵の敵は味方」ということで、あらゆる軍閥が日本を打倒するために結束して立ち上がります。
爆殺された張作霖の息子は父の軍閥を引き継ぎ、反日に転じます。
中国の統一をはかる〈国民党〉の蒋介石はじめ、国際連盟での仲裁が不可能とみるや、大陸での内戦は続行されます。
内戦はそれから2年間続き、ようやく停戦協定が結ばれたのは1933年のことです。
中国は最後まで〈満州国〉の存在を認めませんでした。

各派閥はバラバラに己の利害で動いていましたが「敵の敵は味方」――。
最終的にこれは〈対日共同戦線〉として成立し、日中戦争、そして太平洋戦争に転がりこんでいくのです。
それまでバラバラだった中国の各派閥が、日本を敵とすることで結束し、最終的に「強い中国」が復活した――と考えるのは、行き過ぎた推測でしょうか。

東アジアと日本、混迷のはじまり

あらためてこう見ると、当時の東アジアはカオス。
中国国内だけで軍閥が群雄割拠し、あちらこちらで内戦が繰り広げられており、日本では独立部隊が本国の移行とは別に勝手に動き、政府はそれを止めるすべを持たず。
壮大な〈大東亜共栄圏〉ビジョンにもとづいて動いていた〈関東軍〉でしたが、その構想は後年、多大な犠牲をもって否定されるに至ります。
〈満州事変〉について可能なかぎりわかりやすく、多方面からアプローチしてみましたが、少しはこの近代史のナゾに近づけましたでしょうか?
photo by PIXTA and iStock