たった15年なのに激動の歴史、「大正時代」で置きたこと

明治、昭和時代に挟まれ1912年~1925年まで続いた「大正時代」は年号がわずか15年と短く、日本史の教科書でも多く取り上げられることは少ない時代の1つ。しかしこの時代にはさまざまな出来事が発生し、それらが日本の歴史を変えてきた重要な出来事となっています。長きにわたった明治、昭和時代に挟まれた「大正時代」とはいったいどのような時代であったのでしょうか。今回は大正時代を「出来事」や「文化」などの側面から見てみましょう。

大災害・社会変革が起こった「出来事」

民主主義へ歩み出す「大正デモクラシー」

大正時代を振り返るうえで欠かせないキーワードとなるのが、「民主主義の発展」を目指し1910年代から1920年代にかけて発生した「大正デモクラシー」。

1890年(明治23年)11月29日に「大日本帝国憲法」が施行されましたが、当時の政治を取り仕切っていた「薩摩藩(現在の鹿児島県に相当する)」と「長州藩(現在の山口県に相当する)」などは「藩閥政治(一部の藩出身者だけで政治を行うこと)」体制を敷いており、憲法を守らず独裁的な政治を展開。
国民たちは「民意が反映されない政治」手法に不信感を募らせていったのです。

そうした中で1912年(大正元年)から1913年(大正2年)にかけての第1次、1923年(大正12年)からの第2次と2度の「護憲運動(憲法を守って政治を行うことを求める運動)」が発生し、前者では藩閥政治派・桂太郎を立憲政友会・原敬(はらたかし)が倒し「日本初の政党政治(政党を基礎にして行われる政治)」を実現。
後者では第24代総理大臣・加藤高明によって普通選挙法(1925年)が成立、25歳以上の男性であれば税金を払わなくても無条件で政治参加できるように。

そのほか思想の面では政治学者「吉野作造」が唱えた「民本主義(民衆の意向に従って政策が決定されるべきという考え方)」、法学者「美濃部達吉」の「天皇機関説(天皇は国家の一機関に過ぎないという考え方)」などが生まれ、こうした思想も加わってデモクラシーの風潮は社会に浸透していくことになります。

人類最初の世界大戦「第1次世界大戦」

大正時代には世界を巻き込む「第1次世界大戦」も発生。
多様な民族、宗教が集まり「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた「バルカン半島・サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)」で1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の「フランツ・フェルディナント」と妻がセルビアの青年に暗殺された事件から開戦。

同盟国側(ドイツ・オーストリア・イタリア)と連合国側(イギリス・フランス・ロシア)の2手に分かれて繰り広げられた戦いに日本も参戦、日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいた関係で連合国側の一員として物資供給を行うことに。
この際に日本はヨーロッパの国中から植民地にされていた中国に対し「21か条の要求」を提示し、ドイツが保持していた「山東省」の権益譲渡などを求めます。

この要求は中国側の大きな反発を招くこととなり、1919年に第一次世界大戦の講和会議として行われた「パリ講和会議」で中国政府は要求の無効を訴えますが、その後の「ヴェルサイユ条約」には盛り込まれないことに。
この結果に不満を抱いた中国民衆が全国的な抗日運動となる「五・四運動」を展開していくことになります。

全国的騒動に発展「米騒動」

全国的騒動に発展「米騒動」

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日本も参戦した「第1次世界大戦」は、別の大きな騒動を引き起こすきっかけにもなりました。
その1つが1918年(大正7年)に発生した「米騒動」です。
世界大戦の影響により日本の商品輸出が急増した「大正バブル」状態となっていましたが、その一方で国内の物価上昇が問題に。

中でも特に上昇したのが「米」の価格で、1918年(大正7年)1月に1石(約150kg)15円であった米の価格は20円、30円と高騰を続け、米が入手しにくい状況に。
さらに当時の寺内正毅内閣がロシア革命への干渉を目的とする「シベリア出兵」を実施すると政府による買占めが進行、国民の手に米は回らなくなりつつありました。
国民にしてみれば「こちらは米を買えず困っているのに何してくれるのだ」といった気持ちでしょう。

こうして政府への不満を募らせた国民たちはついに立ち上がります。
富山県の漁村の妻たちが米を求め米屋に押しかけると「米の移出」阻止への運動が活発化、その後全国へ広がりを見せると暴動の発生、軍隊が出動するほどの大きな騒動に。
最終的にはコメの安売り政策などにより騒動は沈静化しますが、この影響により寺内内閣は総辞職に追い込まれることになったのです。

関東地方を襲った「関東大震災」

大正時代には日本の歴史でも特に大きな震災が発生。
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒に相模湾で起こったマグニチュード(M) 7.9の「関東大震災」は東京を中心に千葉,埼玉,関東各県に甚大な被害を及ぼし、その死者は約 10万5000人と言われています。
2011年に東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)が発生するまでは、日本災害史上最大級の被害とも言われていました。

またこの震災は首相が不在であったことも有名で、震災が発生する8日前の8月24日に内閣総理大臣の「加藤友三郎」が急死。
総理の職務を「内田康哉」が臨時代理として行っていた中で発生しており、混乱冷めない翌9月2日に海軍大将「山本権兵衛」が第22代内閣総理大臣に指名され緊急で内閣が組閣されることに。

最近の大きな災害では2011年(平成23年)の「東日本大震災」が挙げられますが、この時は国民の政権不信が募った時期に発生しており、「政局混乱時に発生した災害」という点でこの震災と似ている感じる人もいるでしょう。
こういった時期に発生すればさらに混乱を招いてしまいますからね。

現在9月1日は震災が発生した日にちということから「防災の日」と設定されており、それだけこの震災が日本に与えた影響は大きかったのです。

女性による社会運動・社会進出が活発化

就ける職業は増加傾向に

大正時代は「女性の社会進出」も大きなキーワードになっています。
1911年(明治44年)に設立された「青鞜社」が発行した機関紙「青鞜」は女性の文芸誌という当初の目的から発展を遂げ、次第に「女性の言論・思想の自由」を展開するメディアに。
これが婦人解放運動を発展させるきっかけになっていきました。

女性が就く職業も多様になっていきます。
大正期以前は大半の女性が農業に従事していましたが、大正期に入ると教師や医師、薬剤師や事務員、エレベーターガールと職業も増加。
1920年(大正9年)2月2日に「東京市街自動車」で採用された初の女性車掌は真紅の襟に黒のツーピースという「ハイカラ」な服装で職務にあたり、当時としては破格の「35円」の初任給も話題に。
彼女たちは「バスガール」と呼ばれるようになり、現在毎年2月2日は「バスガールの日」に設定されています。

こうした働く女性たちは大正12年(1923)に雑誌「婦人画報」で「職業婦人」として取り上げられ、「良妻賢母」を求める世間の偏見を受けながらも「新時代の象徴」として知られるようになりました。
女性たちの強い意志が社会に変化を起こしたのです。

女性運動の先駆者「平塚らいてう」

1886年(明治19年)東京に生まれた「平塚らいてう(「らいちょう」と読む)」は、思想家、作家、評論家、フェミニスト、女性運動家として活躍、婦人参政権をはじめとした女性の権利獲得を行った人物。
25歳であった1911年(明治44年)に雑誌「青鞜」を発行。
若い女性たちによる文芸雑誌として創刊したこの雑誌はそれまで女性に求められた「良妻賢母」意識からの脱却を促し、発刊宣言である「元始、女性は太陽であった」という言葉は女性権利獲得の象徴的な言葉として有名になりました。

1920年(大正9年)には「新婦人協会」を設立、婦人参政権獲得への活動を行いますが体調を崩し東京・砧村(きぬたむら)に隠棲。
その後太平洋戦争が開戦すると茨城県に疎開し活動を離れることに。
戦後に活動を再開すると日本共産党の同伴者として婦人、世界平和活動に従事。
1953年(昭和28年)には「日本婦人団体連合会」初代会長、「国際民主婦人連盟」副会長に就任、最晩年まで女性の権利獲得に人生を捧げることに。

現在彼女が愛用した品々は長野県上田市に2006年(平成18年)に建てられた「らいてうの家」に残されており、遺品展示のほかに居室を再現した茶室などを見ることができます。

女性の参政権獲得を実現「市川房枝」

1893年(明治23年)に愛知県に生まれた「市川房枝」は、女子師範学校(現在の愛知教育大学)を出たのち教員や新聞記者を経て、1918年(大正7年)に上京。
ここで出会った「平塚らいてう(らいちょう)」とともに「新婦人協会」を設立。
女性の自由な集会結社を禁じていた「治安警察法」第5条第1項・第2項の改正を求めた運動を展開。
その後平塚と運営方針、意見の対立から協会を離れ渡米、現地で婦人団体の活動ノウハウを学び1924年(大正13年)に帰国。

1930年(昭和5年)には「第1回婦選大会」を開催し、公民権(婦人参政権)獲得をかけての運動を展開。
この際は権利獲得に至らなかったものの、その後戦後の1945年(昭和20年)には「戦後対策婦人委員会」を設立、引き続き権利の獲得を政府に要求。
これが12月の「衆議院議員選挙法改正」での男女普通選挙実施に繋がっていきます。

その後は自身で1953年(昭和28年)の「第3回参議院議員通常選挙」に立候補し当選、通算5期25年にわたり議員を務めました。
独特の政治活動を展開したことでも知られ、国会ではどこの政党にも属さず、選挙活動においても個人的な支援者が手弁当をもって行う「理想選挙」の手法を用いて行いました。
組織に頼らず自ら道を切り開いていったのです。

「ファッション・食事」はより現代風に

モダン文化が生まれる「女性ファッション」

大正時代は服装に大きな変化が起こった時代でもありました。
この時代に登場した女性たちは洋服を着こなし、その姿を表現した「モダンガール(略してモガ)」という言葉は大正15年の流行語に。
一方でこの格好をできるのは都会の一部の人のみで、個性的な風貌は周囲から冷ややかな目で見られることも多かったと言われています。

ファッション以外では、生活用品にも変化が現れます。
化粧品の大手「資生堂」が1917年(大正6年)に発売した「七色粉白粉」はそれまで白色しか存在しなかった「白粉(おしろい)」に豊富なカラーを導入した商品で、女性たちがさまざまなおしゃれを楽しめる画期的商品に。
この他布海苔(ふのり、味噌汁の具などに使用された海藻の一種)、うどん粉を使用することが一般的であった洗髪道具として「シャンプー」が初めて発売されたのもこの時期です。

髪型では大正初期に流行したのが「ひさし(庇)髪」。
髪の毛に「すき毛」や「アンコ」といった詰め物を入れ前髪を膨らませる髪型で、特に女学生の定番の髪型に。
大正後期から流行した「耳隠し」は髪にウェーブをかけ、額から両側の髪に流し耳を隠す髪型で、大正から昭和初期まで主流の髪型になりました。

洋服着用が一般的に「男性ファッション」

女性の服装が華やかになる中、男性の服装にも変化が生まれていました。
この時代に「サラリーマン」という言葉が一般的になっており、日本の財閥「鈴木商店」が従業員に洋服を着せて以降、仕事時に洋服とネクタイを着用する人が一般的に。

その他では山高帽子(高く丸い頭頂と軽く巻き上げた両縁が特徴)、ロイドメガネ(セルロイドでできたメガネ、アメリカの喜劇役者ハロルド・ロイドが着用したことでも知られる)、スネークウッド(木目が蛇のうろこのように見える)のステッキを身に着ける男性も増え、その姿は「モダンっガール(モガ)」に対し「モダンボーイ(略称モボ)」と呼ばれました。

おしゃれな「モボ」の一方で「バンカラスタイル」と呼ばれる服装も流行。
別名「蛮殻」とも呼ばれるこの服装は明治時代の「ハイカラ」に対抗する形で生まれたもので、立て襟のシャツに袴と着物、学生帽、下駄を身に着けるところが特徴。
冬はここにマントを羽織るのが主流と言われていたのです。

髪型では明治時代に登場した「七三分け」がこの時代も流行。
その後昭和時代の高度成長期まで定番の髪型とされるようになりました。

洋食文化がさらに広がる「食事」

明治時代から広まった洋食文化はこの時代にさらに発展。
明治時代から存在したカレーライスやコロッケ、オムライスなどの洋食がこの時代には中流階級にも広がりを見せ、1919年(大正8年)には東京・神楽坂に「公衆食堂」の第1号店が開店。
普通の家庭では和食が一般的でしたが、自分で作って食べる家庭も次第に増えていきました。

主な店では明治時代創業の果物専門店「銀座千疋屋(せんびきや)」の2階に設けられた「果物食堂フルーツパーラー」がオープン。
こちらは日本で最初の「フルーツパーラー(果物菓子・飲料を出す喫茶店)」で、1923年(大正12年)に生み出された「フルーツポンチ」は店の看板メニューに。

明治時代に登場し学生を主な客層とした飲食店「ミルクホール」は温めたミルクを出す店として繁盛し、ミルク以外に食パン、豆菓子なども販売していました。
またこの時代は現代でも愛される大ヒット商品も生まれており、森永製菓の「ミルクキャラメル(大正3年)」や「カルピス(大正8年)」、キューピーの「キューピーマヨネーズ(大正14年)」などはこの時代に生まれたものたちです。

多様な芸術が次々誕生「生活・文化」

デザイナーの先駆者が誕生「画家・芸術家」

デザイナーの先駆者が誕生「画家・芸術家」

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1884年(明治17年)に岡山県に生まれた「竹久夢二(たけひさゆめじ)」は、現代にも残る美人画を数多く残した画家の1人。
小学校時代に鉛筆画を学んだ彼は18歳で上京、日露戦争の未亡人を取り上げた「勝利の悲哀」が平民社機関紙「直言」に掲載され22歳でデビュー。

その後1909年(明治42年)に発表した画集「夢二画集―春の巻」が爆発的人気を得ることになり、抒情的な作風が特徴的な画家として活動。
手紙を読む人や口に手を添える人、見還る人など、さまざまな視点から捉えられた作品は「夢二式美人」と呼ばれ、女性たちから大きな支持を得ていました。

1876年(明治9年)愛媛県松山市に生まれた「杉浦非水(すぎうらひすい)」は東京美術学校(現東京藝術大学)で日本画を学び、洋画家「黒田清輝(くろだせいき)」が持ち帰ったフランス「アール・ヌーヴォー」のポスターをきっかけにグラフィックデザインの世界へ。

1908年(明治41年)に東京・三越呉服店の嘱託デザイナーになると店の宣伝ポスター、他では1930年(昭和5年)発売のたばこ「みのり」ポスターや「東京地下鉄道(現東京メトロ、1927年開業)」の開業広告ポスターも手掛け、創作図案研究団体「七人社(1924年設立)」の一員としても活躍。
現在まで日本のグラフィックデザイナーの先駆け的存在として知られ、現代に見てもおしゃれなデザインが高く評価されています。

現代でも人気の団体が設立「演劇」

現代の演劇界を代表する劇団「宝塚歌劇団」はこの時代の設立です。
もとは箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)の創始者「小林一三」が電車の利用客を増やすために「宝塚唱歌隊」として設立、16人の一期生を迎え翌年に第一回公演を実施。
その後1921年(大正10年)には花組と月組、3年後には大劇場と雪組も誕生し、現代にいたるまで絶大な人気を集めています。

また1917年(大正6年)に誕生した「浅草オペラ」はオペラ、オペレッタ(セリフと踊りを付けた歌劇)を上映し、安い値段や「ペラゴロ」と呼ばれる熱狂的なファンの存在もあって人気を博しました。
しかし「関東大震災」によって施設が壊滅的被害を受けると人気は衰退、1925年(大正14年)10月の上映を最後に閉館。

その他には動く写真に場面解説と字幕が加わる「キネマ」も流行。
この時代から大衆娯楽の中心となった「キネマ」はヨーロッパの映画、アメリカの短編喜劇なども公開され人気となり、上映していた「松竹キネマ合名会社」は映画の本場・ハリウッドから技術者を招くなど日本映画界をけん引する存在になりました。

当時では異例の大ヒットも誕生「流行歌」

当時では異例の大ヒットも誕生「流行歌」

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この時代は「レコード」の普及によって、多くの人の好まれる「流行歌」も多数登場するようになります。
「カチューシャの唄」は1914年(大正3年)に帝国劇場で上映された「復活」の第一幕と第四幕で「松井須磨子」が歌ったことで有名となり、日本人作詞作曲の歌曲として初の流行歌に。
その後京都の「東洋蓄音機」からレコードとして発表され、当時としては異例の2万枚(当時は数千枚売れれば大ヒットと言われていた)を売り上げました。

「宵待草」は画家「竹久夢二」が菓子を手掛けた歌曲で、1910年(明治43年)に避暑のため房総方面を訪れた夢二が経験した失恋を題材にしたもの。
1917年に開催された「第2階芸術座音楽会」において近藤義次が演唱、翌年には「セノオ楽譜(セノオ音楽出版社から発売された楽譜)」として楽譜が発行されました。

「ゴンドラの唄」は「カチューシャの唄」を手掛けた「中山晋平」によって作曲され、1915年(大正4年)上映の芸術座第5回公演「その前夜」の劇中歌として上演。
具体的なレコード売り上げについては不明とされていますが、現代まで多くの音楽家によってカバーもされる名曲の1つとなっています。

後世に名を残す児童雑誌が誕生「文学」

この時代には後世に名を残す児童雑誌が創刊されました。
1918年(大正7年)に創刊された雑誌「赤い鳥」は小説家・児童文学家であった「鈴木三重吉(すずきみえきち)」が政府の提唱する唱歌・に異議を唱え、「芸術性豊かな童話・童謡の創出」を目指して創刊。
雑誌では歴史に名を残す名作家を輩出したことでも知られており、文学面では「芥川龍之介」が「蜘蛛の糸」、「有島武郎」は「一房の葡萄(ぶどう)」を発表し、「ごんぎつね」で知られる「新美南吉」もこの雑誌で活躍しています。

その後雑誌は1923年(大正12年)の「関東大震災」、1929年(昭和4年)から1年間の休刊を挟みながら発行を続け、1936年(昭和11年)に鈴木が他界するまでに196冊発行。
日本児童文学・音楽の発展に大きく貢献することになったこの雑誌は、創刊50周年を迎えた1968年(昭和43年)、1979年(昭和54年)の2度全冊復刻されています。

またこの時代は文芸雑誌の活動も盛んで、武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)、志賀直哉によって1910年(明治43年)に創刊された「白樺」は「大正デモクラシー」が盛んな時代背景の中で人道主義(人間性を重んじ、福祉向上を目指す考え)・個人主義的な作品を制作。
それらの作品・作家は「白樺派」と呼ばれ、大正文学の中心的存在として有名になりました。

今も全国に残る「大正時代の建築物」

歴史的洋館や庭園が残る「旧古河庭園」

歴史的洋館や庭園が残る「旧古河庭園」

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一つ目は東京メトロ南北線「西ヶ原」駅から徒歩約7分の場所にある「旧古河庭園(ふるかわていえん)」。
政治家「陸奥宗光」が土地を購入し別宅としたのが歴史の始まりで、1914年(大正3年)に古賀財閥の3代目当主・古河虎之助が土地を購入すると1919年(大正8年)に洋館・洋風庭園・日本庭園が設けられた現在の形に。

洋館は1917年(大正6年)5月に竣工したイギリス・ロンドンの建築家「ジョサイア・コンドル」の作で煉瓦造、真鶴(神奈川県)産の新小松石(安山岩)で構成。
1923年(大正12年)の「関東大震災」では約2千人の避難者を収容、虎之助が引き払った後は貴賓の為の別邸や太平洋戦争時の「九州九師団将校」の宿舎などとして使用。
現在は「財団法人大谷美術館」が管理しており、館内見学できるガイドツアーや結婚式会場として活用されています。

日本庭園は京都の造園家であり「平安神宮神苑」などを手掛けた「小川治兵衛(1860~1933)」の作で、「池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん、大きな池を中心として周辺に橋、名石などを配置する様式)」の敷地内はシイ、モチノキなどの樹木が生え、夏は大滝の水音、秋は紅葉が見どころ。
洋風庭園にはバラ約100種が植えられており、春・秋の「バラフェスティバル」時は古風な洋館とともに楽しめます。
東京都北区西ケ原1-27-39

経済の記念碑的存在「日本工業倶楽部会館」

JR東京駅・丸の内北口から徒歩2分の場所にある「日本工業倶楽部会館」は1917年(大正6年)に当時の有力実業家により設立された法人「日本工業倶楽部」の建物で、建物は1920年(大正9年)に完成。

地上5階・鉄筋コンクリートの建物は建築家・横河民輔、ファサードは建築家・松井貴太郎が設計しており、「アメリカ型高層オフィスビル」の造りに「ユーゲント・シュティール様式(ドイツにおける「アール・ヌーヴォー」の呼称)」の要素を加えたもの。
正面中央パラペット(防水の窓を目的に屋根に設置される低い壁)の人像彫刻は当時の二大工業であった「石炭」と「紡績」を表現したもので、彫刻家・小倉右一郎(おぐら ういちろう)の設計。

経済・労働問題などの調査活動などが行われる「経済界の記念碑的存在」とされ1999年(平成11年)に登録有形文化財となりましたが、老朽化により2003年(平成15年)から一部を建て替え。
通常は会員、会員の紹介時のみ使用することができますが、ツアーや結婚式場として使用する際は内部を見学することができます。
住所:東京都千代田区丸の内1-4-6

地方の司法中心地「名古屋市政資料館」

地方の司法中心地「名古屋市政資料館」

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名古屋市営地下鉄・名城線「市役所駅」から徒歩約8分の場所にある「名古屋市政資料館」は、1922年(大正11年)に建設された建築物で、名古屋の歴史的建築が多く残る「文化のみち」エリアに残されています。

建物は「名古屋控訴院(現在の高等裁判所に相当する)、地方裁判所、区裁判所」として建設されたもので、1979年(昭和54年)に高等・地方裁判所が移転するまでは東海地方の司法中心地として使用。
裁判所が移転して以降はネオ・バロック様式の外観が特徴の歴史的建築物(1984年(昭和59年)に国の重要文化財に指定)として保管されてきましたが、1989年(平成元年)に現在の資料館として再生。

現在の館内には司法の公平を表現した美しいステンドグラス、各時代の裁判の様子を再現した裁判室展示などがあり、地下室には実際に使用されていた独居房の姿も。
また館内はテレビドラマ、映画のロケ地として使用されることもあり、「華麗なる一族」や「花より男子リターンズ2」などの舞台になっています。
住所:名古屋市東区白壁1-3

日本の女優第一号の家「文化のみち二葉館」

名古屋市営地下鉄桜通線「高岳駅」から徒歩約10分の「文化のみち二葉館」。
名古屋の歴史的建築が多く残る「文化のみち」エリアに残された建築物で、1920年(大正9年)に竣工されました。

この屋敷に住んでいたのは日本の女優第一号とされた「川上貞奴(かわかみさだやっこ)と電力王と呼ばれた実業家「福澤桃介(ふくざわももすけ)」で、敷地面積2000坪以上の敷地内に和洋折衷建築の建物が築かれ、その豪華な造りから当時家があった地名「東二葉町(現・白壁3丁目)」をとって「二葉御殿」と呼ばれていました。

その後2人が東京に拠点を移すと1937年(昭和12年)に敷地、建物を分割処分、東側は取り壊され西側は大同製鋼(現大同特殊鋼)の取締役・川崎舎恒三に売却。
2000年(平成12年)現在の「橦木町(しゅもくちょう)」に復元され2005年(平成17年)に資料館として開館、開館翌日には主屋・蔵が国の登録有形文化財に登録。

館内では「文化のみち」に関する展示、貞奴の生涯や愛用品の紹介、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)や城山三郎、小谷剛など、東海地方にゆかりのある文学者に関する展示・紹介もされています。
住所:名古屋市東区橦木町3-23

短くも濃密な15年「大正時代」

わずか15年で終わりを迎えた「大正時代」。
しかしその15年間は後の「戦後民主主義」につながったと評価される「大正デモクラシー」、より現代的な方向に進化を遂げたファッションの流行など、「短くも濃密な時代」であったのです。
当時の服装・髪型などの文化はメディアを通じて現代でも楽しめるようになり、当時建設された建物を見ることもできるため、歴史として学ぶ以外に実際に触れてみるのも良いでしょう。
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