夫の父に見初められ…絶世の美女・楊貴妃の栄華と悲劇の生涯

公開日:2019/3/19 更新日:2020/3/5

楊貴妃。彼女の名を聞いたことがない方は少ないのではないでしょうか。エジプトのクレオパトラ女王、日本の小野小町と並び称される世界三大美女のひとりです。彼女の伴侶と言えば、中国の唐王朝の玄宗皇帝なのですが、実は彼は彼女の最初の夫ではないんです。そのあたりには、彼女の容貌があまりにも美しすぎたという理由がありまして…。楊貴妃と玄宗皇帝のロマンス、悲劇的な最期など、ここでは楊貴妃という女性像と歴史への影響などをご紹介したいと思います。

楊貴妃という女性、そのイメージ

 

楊貴妃という女性、そのイメージ

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楊貴妃は、本名は楊玉環(ようぎょくかん)といい、719年に蜀の役人である楊玄淡(ようげんたん)の娘として生まれました。
日本はちょうどそのころ奈良時代に当たります。

蜀とは現在の四川省や湖北省付近で、中国西方の内陸です。
三国志で、劉備(りゅうび)や諸葛孔明(しょかつこうめい)らが建国した蜀の国があった場所ですね。

一般的には楊貴妃と呼ばれますが、貴妃とは中国の後宮における妃の位のひとつです。

トップは皇后で、貴妃は唐においては2番目の地位でした。
ですから、楊貴妃はかなり位の高い妃だったということになります。

彼女についてのイメージと言えば、玄宗皇帝に寵愛され、皇帝を堕落させてしまい結果として唐が傾くきっかけをつくったという感じでしょうか。
「傾国の美女」とはまさに彼女のことなので、もしかすると、悪女のイメージをお持ちの方もいるかもしれませんね。

確かに玄宗皇帝が彼女に溺れた結果、唐に内乱が起きてしまったわけですが、果たして彼女は悪女だったのでしょうか。

この記事では、彼女の美しさだけでなく、彼女が歴史に及ぼした影響や立ち位置についても見て行こうと思っていますので、どうぞお付き合いくださいね。

最初は玄宗皇帝の息子の妃だった!

 

最初は玄宗皇帝の息子の妃だった!

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両親を早くに亡くした楊貴妃は、その後は叔父の元で育ちました。

735年、16歳になると、彼女は玄宗皇帝の18子である寿王(じゅおう)に嫁ぎます。
18子とはいえ、皇子と結婚したのですから、それなりの身分もあったのでしょうね。

寿王は、母が皇帝の寵妃だったため皇太子擁立の運動が起きた人物でもありました。
時の宰相までもが彼を推したそうですが、母が亡くなってしまったために立太子とはならなかったんです。
もしかすると、楊貴妃は世が世なら皇后になっていたかもしれないんですよ。

楊貴妃は美しいだけでなく、頭が良くて音楽の才能もありました。
加えてちょっとグラマーな体型で、これらはすべて当時の美女の基準だったんです。
それをすべて満たしていた彼女は、まさにパーフェクトな美女だったということになります。

それに惹かれてしまったのが、夫である寿王の父・玄宗皇帝でした。
当時彼は55歳。
21歳の楊貴妃とは34歳の年齢差がありました。
しかしそんなことは当の本人にはどうでもいいことだったのでしょう。

そして、玄宗は彼女を強引なやり方で手に入れます。

まず彼女をお寺で出家させ、寿王とは別れたということにして、それから自分の妃として後宮に入れたんですよ。
一応、息子の嫁を奪うという形はさすがにまずいと考えていたようです。

とはいえ、このころはすでに2人が内縁関係にあったのは明白で、おそらく周囲はあらまあといった目で見ていたのかもしれません。

皇帝の寵愛、ハンパなし

 

皇帝の寵愛、ハンパなし

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745年、楊貴妃が玄宗の後宮に入ってから5年後のこと、ついに彼女は貴妃の位に上ります。
皇后に次ぐ地位についた彼女は、まさに人生の絶頂期に立つこととなったのでした。

しかし、彼女が望んだわけではないのですが、玄宗は彼女の一族を次々と取り立てていきました。
役人たちは、楊一族の頼みごとはまるで皇帝の命令のように取り扱ったといいます(今の日本の政治でもこんなことがあったような気がしますが…)。

そして、楊一族の家の門の前には、献上品を持ってきた使者たちが列を成したそうです。

この時、楊貴妃の又従兄弟にあたる楊国忠(ようこくちゅう)もまた取り立てられました。
実はこの人物、かなりワルな男だったので、この後に楊貴妃の評判を落とすいちばんの原因となったんですよ。
彼のイメージが楊貴妃のイメージになってしまった部分も多いんです。

楊一族を次々に高い地位に付けていく玄宗には、若かりし頃の名君の面影はなくなりつつあり、政治を顧みることはなくなっていきました。
彼にはもう楊貴妃しか見えていなかったようです。

彼女を連れ歩かない日はなく、彼女用の絹織物職人を700人、装飾品担当職人を数百人も雇い、湯水のようにお金を彼女のために使いました。

それだけでなく、役人が彼女に贈り物をすると、その役人が昇進したというんです。
そのため、役人たちの楊貴妃参りはすごかったんですよ。
しかし、それって賄賂と同じじゃないかと思いますよね。

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