夫の父に見初められ…絶世の美女・楊貴妃の栄華と悲劇の生涯

楊貴妃。彼女の名を聞いたことがない方は少ないのではないでしょうか。エジプトのクレオパトラ女王、日本の小野小町と並び称される世界三大美女のひとりです。彼女の伴侶と言えば、中国の唐王朝の玄宗皇帝なのですが、実は彼は彼女の最初の夫ではないんです。そのあたりには、彼女の容貌があまりにも美しすぎたという理由がありまして…。楊貴妃と玄宗皇帝のロマンス、悲劇的な最期など、ここでは楊貴妃という女性像と歴史への影響などをご紹介したいと思います。

楊貴妃という女性、そのイメージ

 

楊貴妃という女性、そのイメージ

image by iStockphoto

楊貴妃は、本名は楊玉環(ようぎょくかん)といい、719年に蜀の役人である楊玄淡(ようげんたん)の娘として生まれました。
日本はちょうどそのころ奈良時代に当たります。

蜀とは現在の四川省や湖北省付近で、中国西方の内陸です。
三国志で、劉備(りゅうび)や諸葛孔明(しょかつこうめい)らが建国した蜀の国があった場所ですね。

一般的には楊貴妃と呼ばれますが、貴妃とは中国の後宮における妃の位のひとつです。

トップは皇后で、貴妃は唐においては2番目の地位でした。
ですから、楊貴妃はかなり位の高い妃だったということになります。

彼女についてのイメージと言えば、玄宗皇帝に寵愛され、皇帝を堕落させてしまい結果として唐が傾くきっかけをつくったという感じでしょうか。
「傾国の美女」とはまさに彼女のことなので、もしかすると、悪女のイメージをお持ちの方もいるかもしれませんね。

確かに玄宗皇帝が彼女に溺れた結果、唐に内乱が起きてしまったわけですが、果たして彼女は悪女だったのでしょうか。

この記事では、彼女の美しさだけでなく、彼女が歴史に及ぼした影響や立ち位置についても見て行こうと思っていますので、どうぞお付き合いくださいね。

最初は玄宗皇帝の息子の妃だった!

 

最初は玄宗皇帝の息子の妃だった!

image by iStockphoto

両親を早くに亡くした楊貴妃は、その後は叔父の元で育ちました。

735年、16歳になると、彼女は玄宗皇帝の18子である寿王(じゅおう)に嫁ぎます。
18子とはいえ、皇子と結婚したのですから、それなりの身分もあったのでしょうね。

寿王は、母が皇帝の寵妃だったため皇太子擁立の運動が起きた人物でもありました。
時の宰相までもが彼を推したそうですが、母が亡くなってしまったために立太子とはならなかったんです。
もしかすると、楊貴妃は世が世なら皇后になっていたかもしれないんですよ。

楊貴妃は美しいだけでなく、頭が良くて音楽の才能もありました。
加えてちょっとグラマーな体型で、これらはすべて当時の美女の基準だったんです。
それをすべて満たしていた彼女は、まさにパーフェクトな美女だったということになります。

それに惹かれてしまったのが、夫である寿王の父・玄宗皇帝でした。
当時彼は55歳。
21歳の楊貴妃とは34歳の年齢差がありました。
しかしそんなことは当の本人にはどうでもいいことだったのでしょう。

そして、玄宗は彼女を強引なやり方で手に入れます。

まず彼女をお寺で出家させ、寿王とは別れたということにして、それから自分の妃として後宮に入れたんですよ。
一応、息子の嫁を奪うという形はさすがにまずいと考えていたようです。

とはいえ、このころはすでに2人が内縁関係にあったのは明白で、おそらく周囲はあらまあといった目で見ていたのかもしれません。

皇帝の寵愛、ハンパなし

 

皇帝の寵愛、ハンパなし

image by iStockphoto

745年、楊貴妃が玄宗の後宮に入ってから5年後のこと、ついに彼女は貴妃の位に上ります。
皇后に次ぐ地位についた彼女は、まさに人生の絶頂期に立つこととなったのでした。

しかし、彼女が望んだわけではないのですが、玄宗は彼女の一族を次々と取り立てていきました。
役人たちは、楊一族の頼みごとはまるで皇帝の命令のように取り扱ったといいます(今の日本の政治でもこんなことがあったような気がしますが…)。

そして、楊一族の家の門の前には、献上品を持ってきた使者たちが列を成したそうです。

この時、楊貴妃の又従兄弟にあたる楊国忠(ようこくちゅう)もまた取り立てられました。
実はこの人物、かなりワルな男だったので、この後に楊貴妃の評判を落とすいちばんの原因となったんですよ。
彼のイメージが楊貴妃のイメージになってしまった部分も多いんです。

楊一族を次々に高い地位に付けていく玄宗には、若かりし頃の名君の面影はなくなりつつあり、政治を顧みることはなくなっていきました。
彼にはもう楊貴妃しか見えていなかったようです。

彼女を連れ歩かない日はなく、彼女用の絹織物職人を700人、装飾品担当職人を数百人も雇い、湯水のようにお金を彼女のために使いました。

それだけでなく、役人が彼女に贈り物をすると、その役人が昇進したというんです。
そのため、役人たちの楊貴妃参りはすごかったんですよ。
しかし、それって賄賂と同じじゃないかと思いますよね。

安禄山の接近と楊一族のやりたい放題

 

安禄山の接近と楊一族のやりたい放題

image by iStockphoto

玄宗の寵愛を一身に受け、人生の絶頂期を迎えた楊貴妃には、その威光にあやかろうと多くの人物が接近してきました。

その中に、一風変わった男がいたんです。

その名は安禄山(あんろくざん)、生粋の漢民族ではなく、北方や中央アジアの遊牧民族の血を引く、いわば異民族でした。

玄宗に取り入って信頼を得た安禄山は、節度使という地位を得ます。
これは地方の軍隊や財政を統括する重要な役職で、彼はなんと3つの地方の節度使を兼任するまでになったんですよ。

そして彼は、年下の楊貴妃の養子になりたいと願い出たんです。
しかも玄宗はそれをOKしたというのですから、もう何が何だかわかりませんよね。
それほど、玄宗に気に入られていたということなんです。
もちろん、楊貴妃もそうでした。

しかも、楊貴妃の養子になっただけでなく、楊貴妃のきょうだいとも義兄弟になったんです。
どれだけ取り入るのがうまいのか、安禄山。

玄宗や楊貴妃の前ではひょうきんに振る舞い、面白いヤツと思われていた安禄山ですが、実はしたたかに政治の実権を狙っていました。

安史の乱の勃発と楊貴妃の最期

 

安史の乱の勃発と楊貴妃の最期

image by iStockphoto

政治を仕切っていた宰相・李林甫(りりんぽ)が死ぬと、楊貴妃の又従兄弟の楊国忠が実権を握り、楊一族はまさにやりたい放題するようになりました。

そんな楊一族、ひいては楊貴妃にまで人々の反感は高まっていたのですが、安禄山は楊国忠とは特に仲が悪かったのです。

楊国忠が安禄山を排除しようと玄宗にあることないことを吹き込んだこともあって、互いにこのままだと潰されるという危機意識が高まった結果、安禄山は反乱を起こしました。
これを安史の乱といいます。

彼の軍隊は都(長安/今の西安)を目指して進軍してきたため、玄宗は楊貴妃や楊国忠らと宮廷を脱出して、楊貴妃の故郷でもある蜀を目指して逃げていくこととなったのです。

しかし、長安から西に約40㎞行ったところの馬嵬(ばかい・陝西省興平市)に至ると、日ごろから楊国忠に不満を持っていた兵たちが、なんと彼を殺してしまいました。
しかもそれだけでなく、彼らは楊貴妃の殺害を玄宗に要求してきたのです。
国が混乱し、楊一族の専横を招いたそもそもの元凶こそ楊貴妃だという主張でした。

玄宗は、楊貴妃は関係ないと庇いましたが、軍隊は彼女の殺害が実行されなければ動かないとかたくなです。

このままでは安禄山に追いつかれ、唐王朝が滅亡してしまう…皇帝として、玄宗は彼女を殺害することを決心したのでした。

玄宗はやむなく楊貴妃に自殺を命じます。

彼女には白絹が渡され、梨の木にそれをかけて首を吊りました。
享年38。
「死んでも恨むことはございません」と、静かに玄宗の命に従ったそうです。

こうして、絶世の美女・楊貴妃は悲劇的な最期を遂げることになりました。

玄宗の寵愛を受けたがゆえに結果として唐の混乱を招いたため、一族の罪もすべてその身に負って、自分で自分の命を絶たねばならないという悲劇に行きついてしまったのです。

では、彼女の死後、玄宗や唐はどうなったのか、少し見ていきましょう。

楊貴妃の死後の状況

 

楊貴妃の死後の状況

image by iStockphoto

楊貴妃を失った玄宗は深く嘆き悲しみましたが、もうどうすることもできませんでした。
一方、楊貴妃の養子となっていた安禄山もまた、数日泣き続けたといいます。

彼女の遺体は郊外に埋められたため、後に長安に戻った玄宗は改葬しようとしますが、重臣たちに反対されていったんは中止せざるを得ませんでした。
しかし、彼らに隠れて密かに改葬を行ったといいます。
その際に、残されていた香袋が、形見として玄宗に献上されたそうです。

その後、半軟禁状態となった玄宗は彼女の絵を描かせ、それを毎日眺めて暮らし余生を過ごしました。

安史の乱自体もまた長期化の様相を呈し、安禄山が息子に殺された後は、息子たちや部下たちによってさらに混迷の度を深めました。

玄宗は乱の最中に退位しており、後を継いだ皇帝たちが、何とか乱を収集したのです。

しかし、これによって唐の力はかなり弱まることとなってしまいました。
玄宗が即位してしばらくのうちは全盛を誇り、歴代中国王朝の中でも抜群の安定感を誇っていた唐が、楊貴妃も関係したこの安史の乱によって傾いていったわけですね。
彼女は意図せずとも、国を傾けてしまったのです。

中国四大美人のひとり・楊貴妃

 

さて、ここからは楊貴妃という女性自身について見ていきたいと思います。

18子とはいえ、皇帝の息子に嫁いだということはそれなりの身分と教養、容姿に恵まれていたことは否定しようもありません。
そして、その中で容姿がずば抜けていたことは、現代に伝わる文献などでもわかりますよね。

中国の歴史には「中国四大美人」という4人の美女が登場します。

春秋戦国時代の西施(せいし)、漢の王昭君(おうしょうくん)、三国時代の貂蝉(ちょうせん)、そして楊貴妃です。

彼女たちを表現する「沈魚落雁 閉月羞花」という言葉があるのですが、これは、「川で洗濯をする西施の美しさに魚が泳ぐのを忘れ、異民族に嫁いだ王昭君が故郷を思って琵琶を弾くとその美しさと調べに雁も落ちてくるほどだった。
そして貂蝉が物思いにふける姿はあまりに美しく、月が雲に隠れてしまい、楊貴妃が後宮の庭の花に手を触れると、彼女の美貌と匂い立つ香気に花も恥じらい頭を垂れてしまった」ということなんです。

花も恥じらう、という言葉はここから来ているんですね。

その美しさ、天井無し

 

楊貴妃の美しさを伝える当時の史料や文学作品は数々残されていますが、楊貴妃の時代から少し後、806年に詩人・白居易(はくきょい)によって作られた長編詩「長恨歌(ちょうごんか)」がとても有名です。
実はこれ、紫式部の源氏物語にも大きな影響を与えている詩なんですよ。

玄宗と楊貴妃のロマンスを描いたこの長編詩には、随所に楊貴妃の美しさを伝える表現があります。

「彼女が振り返って笑えば、後宮の美人たちも色あせてしまうほどだ」とか、「花のような美しい顔」とか、「芙蓉のような顔、柳のような眉」などと彼女の美貌を伝えているんです。
芙蓉とは蓮の花のことで、特に古代中国では美人を形容する言葉でした。
柳のような眉というのも、美しいアーチを描いた眉のことで、これもやはり美人を指す言葉なんですよ。
「柳眉を逆立てる」なんてことわざもありますよね。

肌も美しく、雪のような肌という表現も詩の中で見られます。

加えて、とても良い匂いがしたそうなんです。

それが彼女の体臭なのか香料のせいなのかはっきりしないのですが、先にご紹介した「羞花」のように、彼女の良い香りに花もはじらうほどだったということですよ。

いい匂いのする美女、これで男性が落ちないわけがありませんよね。

すべてにおいて超一流の才能

 

美しいだけでなく、楊貴妃は聡明で歌舞音曲にたいへん優れていたと伝わっています。
琵琶や打楽器などはプロ級で、後宮の楽人も及ばないほどだったそうなんですよ。

また、彼女のために玄宗が作曲した幻の曲「霓裳羽衣(げいしょううい)の曲」というものがあり、彼女はそれに合わせて美しく舞ったといいます。
ただこの曲、経国の曲だということで忌み嫌われ、安史の乱の後に散逸してしまったんですよ。
そして後に復元されたため、完全オリジナルは玄宗や楊貴妃のみぞ知る、というところですね。

彼女の聡明さ、機転の利く様子を表したエピソードもあります。

ある時玄宗が皇子と碁を指していましたが、玄宗が負けそうになりました。
それを見た楊貴妃、イヌを放して碁盤をめちゃくちゃにさせ、勝負をあいまいにしてしまったのです。
玄宗はそれをひどく喜んだそうですよ。
プライベートとはいえ、皇帝を負けさせずにしっかりと立てた彼女は、皇帝のプライドをくすぐるのが上手だったと言えますね。

ちょっとふくよか、でもそれがいい

 

今でこそ、女性は痩せている方がいいなんて風潮がありますが、昔はそうでもありませんでした。
中国の影響を受けた日本でも、平安時代にはふくよかな女性が美人とされましたが、その大元の中国でもまた、ふっくらとしているのが女性の美の条件でもあったんです。

楊貴妃もまた、ふっくらとしたグラマーな女性でした。

女性のすぐれた容姿を指す言葉として、中国には「環肥燕痩」という言葉があります。
「環肥」とは楊貴妃のことを指しており(楊貴妃の本名は玉環)、「燕痩」とは前漢の成帝(せいてい)の皇后・趙飛燕(ちょうひえん)のことを指しています。
ふっくらとした楊貴妃に対し、趙飛燕は痩せ形の美人だったそうですよ。

しかし、楊貴妃は自分がふっくらしているのを少し気にしていたところもあるようです。

玄宗は彼女の前では趙飛燕の話題を避けたとも言われています。
ところがある時口を滑らせ、楊貴妃を「そなたなら風に飛ばされてしまうこともないだろうな」とからかってしまい、彼女の機嫌をいたく損ねてしまったそうです。
慌てて、美しい屏風を贈って機嫌を取ったそうですが…。
玄宗、もう少し女性の気持ちを考えないといけませんね。

こういうところがあったと知ると、可愛いなと思いませんか?

それなりに嫉妬もします

 

美しさと皇帝の寵愛に恵まれた楊貴妃ですが、ひとりの女性らしく時には嫉妬をすることもありました。

玄宗は彼女がいちばんといえど、やはり皇帝です。
後宮には何百人もの美女がおり、時にはちょっとそっちへ…ということもあったでしょう。

すると、楊貴妃はそれに嫉妬してしまうこともあったそうなんです。
それが度が過ぎたのかどうかは不明ですが、何度か玄宗の不興を買って楊一族の屋敷に送り返されるということもあったんですよ。

しかしたいていは楊貴妃がしおらしく謝り、それを玄宗が受け入れてさらに愛が深まる…ということでした。
ごちそうさまです。

パーフェクトな美女でも嫉妬してしまうこともあるんですね。
嫉妬して喧嘩してしまっても、素直に謝るというのが、楊貴妃の性格を表しているように思います。
そんなところも玄宗に愛された理由なのではないでしょうか。

二人の恋物語「長恨歌」

 

白居易による詩編「長恨歌」には、栄華をきわめた2人の様子だけでなく、その後の悲劇も描かれています。
そして、2人の魂の再会も描かれているんですよ。

王と妃が出会い、愛を深めていく様子と、反乱が起きたことで2人が都を追われ、その途中で妃が殺されてしまうというストーリーは、まさに玄宗と楊貴妃の人生そのものを描いています。

史実から離れ、文学作品としての長恨歌の魅力が発揮されるのが、残された王(玄宗)が亡くなった妃と再会を果たす後半部分です。

妃を失い嘆き暮らしている王のもとに、ある道士が訪れます。
人の魂を探し出すことができるという彼に頼んで、王は妃の魂を探してもらうことにしました。

そして、妃の魂が仙人の住まう山に暮らしていることが判明します。
彼女は王の魂の元に現れて生前の恩に深く感謝し、2人は永遠の愛を誓って別れるのでした。

その時に、「願わくば、天にあっては比翼の鳥となり、地上にあっては連理の枝となりましょう」という言葉が交わされるのですが、この「比翼の鳥」と「連理の枝」が2人の愛の深さを物語るキーワードとなります。

「比翼の鳥」とは中国の伝説上の鳥で、雄と雌がそれぞれ目と翼をひとつずつ持ち、飛ぶときは対になって寄り添うように飛ぶと言われています。

一方、「連理の枝」とは、並んで生えている別々の木が、枝同士で絡まり合ってひとつになっている様子を言います。
昔、愛し合っているのに別々の墓に葬られてしまった夫婦がおり、その墓から生えた2本の木の枝と葉が互いを求めるように絡み合っていたという故事が元です。

これらは両方とも仲睦まじい夫婦の様子を指しており、永遠の愛の象徴でもあるんですよ。
つまり、玄宗と楊貴妃の愛は美しいロマンスとなって後世に伝えられていったんです。

楊貴妃は悪女なのか?

 

楊貴妃は悪女なのか?

image by iStockphoto

いくら2人が深く愛し合っていたといっても、玄宗が楊貴妃に溺れすぎたために政治を顧みなくなり、国が混乱してしまったことは事実です。
そのため、世の中の混乱のすべての原因を彼女に求める見方も根強いんですよ。
古代中国で殷の王を操った妃・妲己(だっき)などに例えたりもされています。

しかし、楊貴妃自身が政治に口出ししたり、影で玄宗を操ったりしたということはありませんでした。
確かに、身分不相応に取り立てられた一族が政治を牛耳ってしまいましたが、それが彼女のせいだということになってしまったんですね。

そして、それなりに嫉妬はしたものの、後宮の他の女性に対してひどい振る舞いをすることもありませんでした。

おそらく、彼女自身はお嬢様育ちのおっとりとした性格だったのではないでしょうか。
個人としては悪女ではなかったと思います。

唯一、彼女のわがままと言ったら、ライチが好きすぎて南方からわざわざ都まで運ばせたことでしょうか。
これも、国の財政をどうにかしたとかいうほどではありませんから、皇帝の妃としての可愛いおねだりだったのではないかと思いますよ。

楊貴妃を愛した玄宗の生い立ち

 

さて、ここからは楊貴妃の終生の伴侶・玄宗について見ていきましょう。

唐の9代皇帝となった玄宗は、楊貴妃よりも34歳年上でした。
後半生こそ楊貴妃に溺れて政治に関心を失ってしまいましたが、若い頃の彼は名君として有名だったんですよ。

玄宗は中国史上唯一の女帝で、一時的に唐を廃して周王朝を建てた武則天(ぶそくてん/則天武后のこと)の孫に当たります。
祖母が皇位を退いて唐が復活したのち、政権の混乱が起きましたが、それを見事に鎮めたのが彼であり、その功績によって皇太子となりました。

実は玄宗の兄が先に皇太子となっていたのですが、玄宗の才覚を認めて辞退したんです。
そして、玄宗もまたこの兄にはずっと敬意を持って接し続けたそうですよ。

712年に即位した玄宗は、当時27歳の青年皇帝でした。

積極的に政治に取り組んだ彼の前半の治世は、開元の治(かいげんのち)と呼ばれ、唐の全盛時代となったのです。

ところが、彼が老境に差し掛かったときのこと。

運命の女性が、彼の前に現れたのでした。

楊貴妃への耽溺

 

ちょうどその頃、玄宗は寵妃を失い、新たな女性を探し始めたところでした。

そんな時に彼の目に留まったのが、こともあろうに息子の妃だった楊貴妃だったのです。
当時玄宗は55歳、楊貴妃は21歳。
親子ほどの年の差があり、実際に息子の嫁だった女性に、玄宗は魅了されてしまったのです。
そして、とても諦めることができませんでした。

そこで彼は楊貴妃を出家させ、息子と離婚させます。
それから間もなく、彼女を自分の後宮に迎えたというわけです。

玄宗は楊貴妃に惚れきっており、それが彼を政務から遠ざける要因となりました。

長恨歌には、「春の宵は短く、日が高くなってから起き出す。
これより王は、早朝の政務を取りやめてしまった」とあり、玄宗の政治への意欲が低下していったことを示しています。

安史の乱で国を傾ける

 

玄宗が楊貴妃に溺れて政務を顧みない間、政権運営は宰相の李林甫に任されていました。
彼は性格に難がありましたが有能ではあったので、何とか政権は保たれていたのです。

しかし李林甫が死ぬと、実権は楊貴妃の又従兄弟・楊国忠に握られました。
そして彼が安禄山と実権を巡って争うと、そこから安史の乱が勃発してしまったのです。

安禄山の軍勢から逃れるため、玄宗は楊貴妃や楊国忠らと都落ちを余儀なくされました。
しかしここで楊国忠が護衛してくれるはずの軍隊に殺され、その軍隊に楊貴妃の死も要求されたため、すでに無力化していた玄宗はそれを受け入れなければならなくなったのです。

安史の乱の最中、玄宗は息子に位を譲って太上皇となります。
もはや彼に力はなく、乱が終結した後は都に戻れたものの、半軟禁状態に置かれることとなりました。

そして、楊貴妃の死から6年後、71歳で没したのです。

後半生は暗君とされた玄宗ですが、安史の乱の折には名君の名残を見せています。

都から逃げ出す際に楊国忠が宝物庫を焼き払おうとすると、敵が宝物を手にできなければ民への略奪がひどくなると言って止めました。
また、逃避行の最中には、追撃を防ぐために橋を落とそうという話が出ると、後から逃げようとする部下や民の退路を断ってはならんと言い、それもやめさせたのです。

皇帝らしく、民衆や部下のことをまず考えたのですね。
そんなところは、さすが腐っても皇帝だと言えます。

実は日本と友好な関係!?

 

玄宗は遣唐使としてやって来た留学僧とは懇意にしていたそうです。

また、聖武天皇時代の辺りでやってきた遣唐使・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)を取りたてました。
仲麻呂は李白(りはく)や王維(おうい)など中国史に名を残した大詩人たちとも交流を持ちましたが、船の難破などでついに日本に帰国することはかないませんでした。
望郷の思いで詠んだ和歌が、百人一首に収録されています。

その後、ベトナム地方の節度使にまで出世した仲麻呂ですが、玄宗に重用されたということはやはり楊貴妃にも面識があったと考えていいかもしれませんね。

そして、なんと安史の乱の際に楊貴妃と仲麻呂が日本に落ち延びてきたという伝説があるんですよ。
それについては次の項目でご紹介しますね。

楊貴妃の墓が日本にある!?

 

楊貴妃の墓が日本にある!?

山口県長門市の二尊院(にそんいん)という寺には、楊貴妃の墓とされているお墓があります。

寺に伝わる話によると、楊貴妃を殺すよう玄宗に要請した将軍が、玄宗のあまりの嘆きぶりに哀れをもよおし、楊貴妃を殺すと見せかけて船に乗せて逃がしたというものでした。
それが長門の向津具(むかつく)半島に漂着したというのです。
楊貴妃は間もなく死んでしまったそうですが、人々は哀れに思ってその遺体を葬ったということでした。

そして、楊貴妃が玄宗の夢枕に立ち、自分が日本で死に成仏できずにいるので供養して欲しいと頼みます。
そこで玄宗は使者を遣わせましたが、使者はその寺がわからずにとりあえず京都の寺に仏像2体を置いていきました。
後に楊貴妃が埋葬された寺が判明すると、日本では京都の寺におさめられた仏像と同じものを1組作り、京都と二尊院とでそれぞれ1体ずつを分け合ったということです。

現在、二尊院の境内には「楊貴妃の里」という中国風の庭園があります。
そこには彼女の享年(38歳)にちなんで高さ3.8mとした白大理石の楊貴妃像があるんですよ。
これは、彼女が亡くなった中国の馬嵬坡(ばかいは)に建てられているものと同じものです。
そして、二尊院にあるこの像は彼女が住んだ都・長安(現在の西安)の方角である西を向いています。

実はこの時、楊貴妃に阿倍仲麻呂が同行していたという伝説もあるんですよ。
オペラになったりもしています。
真相はいかに…というところですが、こういう歴史ロマンも面白いですよね。

傾国の美女。だが楊貴妃は真の悪女ではない

 

安史の乱が起きたのは、玄宗が楊貴妃に溺れて政務を顧みなくなったために唐の屋台骨がきしみ始めたからでした。
確かに彼女が一因ではありますが、あくまで彼女はそこに存在し、玄宗の妃であっただけで、彼女は政情に介入はしていないのです。
打算的に彼女に近づいた安禄山でさえ、彼女の死に数日間も涙を流したといいますし、彼女は美しさだけでなくその性格も「できた」女性だったのではないでしょうか。
彼女の行動について、悪評は史実には残されていません。
それが何よりも証拠だと思います。
photo by PIXTA and iStock