夫の父に見初められ…絶世の美女・楊貴妃の栄華と悲劇の生涯

公開日:2019/3/19 更新日:2020/3/5

安禄山の接近と楊一族のやりたい放題

 

安禄山の接近と楊一族のやりたい放題

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玄宗の寵愛を一身に受け、人生の絶頂期を迎えた楊貴妃には、その威光にあやかろうと多くの人物が接近してきました。

その中に、一風変わった男がいたんです。

その名は安禄山(あんろくざん)、生粋の漢民族ではなく、北方や中央アジアの遊牧民族の血を引く、いわば異民族でした。

玄宗に取り入って信頼を得た安禄山は、節度使という地位を得ます。
これは地方の軍隊や財政を統括する重要な役職で、彼はなんと3つの地方の節度使を兼任するまでになったんですよ。

そして彼は、年下の楊貴妃の養子になりたいと願い出たんです。
しかも玄宗はそれをOKしたというのですから、もう何が何だかわかりませんよね。
それほど、玄宗に気に入られていたということなんです。
もちろん、楊貴妃もそうでした。

しかも、楊貴妃の養子になっただけでなく、楊貴妃のきょうだいとも義兄弟になったんです。
どれだけ取り入るのがうまいのか、安禄山。

玄宗や楊貴妃の前ではひょうきんに振る舞い、面白いヤツと思われていた安禄山ですが、実はしたたかに政治の実権を狙っていました。

安史の乱の勃発と楊貴妃の最期

 

安史の乱の勃発と楊貴妃の最期

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政治を仕切っていた宰相・李林甫(りりんぽ)が死ぬと、楊貴妃の又従兄弟の楊国忠が実権を握り、楊一族はまさにやりたい放題するようになりました。

そんな楊一族、ひいては楊貴妃にまで人々の反感は高まっていたのですが、安禄山は楊国忠とは特に仲が悪かったのです。

楊国忠が安禄山を排除しようと玄宗にあることないことを吹き込んだこともあって、互いにこのままだと潰されるという危機意識が高まった結果、安禄山は反乱を起こしました。
これを安史の乱といいます。

彼の軍隊は都(長安/今の西安)を目指して進軍してきたため、玄宗は楊貴妃や楊国忠らと宮廷を脱出して、楊貴妃の故郷でもある蜀を目指して逃げていくこととなったのです。

しかし、長安から西に約40㎞行ったところの馬嵬(ばかい・陝西省興平市)に至ると、日ごろから楊国忠に不満を持っていた兵たちが、なんと彼を殺してしまいました。
しかもそれだけでなく、彼らは楊貴妃の殺害を玄宗に要求してきたのです。
国が混乱し、楊一族の専横を招いたそもそもの元凶こそ楊貴妃だという主張でした。

玄宗は、楊貴妃は関係ないと庇いましたが、軍隊は彼女の殺害が実行されなければ動かないとかたくなです。

このままでは安禄山に追いつかれ、唐王朝が滅亡してしまう…皇帝として、玄宗は彼女を殺害することを決心したのでした。

玄宗はやむなく楊貴妃に自殺を命じます。

彼女には白絹が渡され、梨の木にそれをかけて首を吊りました。
享年38。
「死んでも恨むことはございません」と、静かに玄宗の命に従ったそうです。

こうして、絶世の美女・楊貴妃は悲劇的な最期を遂げることになりました。

玄宗の寵愛を受けたがゆえに結果として唐の混乱を招いたため、一族の罪もすべてその身に負って、自分で自分の命を絶たねばならないという悲劇に行きついてしまったのです。

では、彼女の死後、玄宗や唐はどうなったのか、少し見ていきましょう。

楊貴妃の死後の状況

 

楊貴妃の死後の状況

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楊貴妃を失った玄宗は深く嘆き悲しみましたが、もうどうすることもできませんでした。
一方、楊貴妃の養子となっていた安禄山もまた、数日泣き続けたといいます。

彼女の遺体は郊外に埋められたため、後に長安に戻った玄宗は改葬しようとしますが、重臣たちに反対されていったんは中止せざるを得ませんでした。
しかし、彼らに隠れて密かに改葬を行ったといいます。
その際に、残されていた香袋が、形見として玄宗に献上されたそうです。

その後、半軟禁状態となった玄宗は彼女の絵を描かせ、それを毎日眺めて暮らし余生を過ごしました。

安史の乱自体もまた長期化の様相を呈し、安禄山が息子に殺された後は、息子たちや部下たちによってさらに混迷の度を深めました。

玄宗は乱の最中に退位しており、後を継いだ皇帝たちが、何とか乱を収集したのです。

しかし、これによって唐の力はかなり弱まることとなってしまいました。
玄宗が即位してしばらくのうちは全盛を誇り、歴代中国王朝の中でも抜群の安定感を誇っていた唐が、楊貴妃も関係したこの安史の乱によって傾いていったわけですね。
彼女は意図せずとも、国を傾けてしまったのです。

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