夫の父に見初められ…絶世の美女・楊貴妃の栄華と悲劇の生涯

公開日:2019/3/19 更新日:2020/3/5

楊貴妃は悪女なのか?

 

楊貴妃は悪女なのか?

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いくら2人が深く愛し合っていたといっても、玄宗が楊貴妃に溺れすぎたために政治を顧みなくなり、国が混乱してしまったことは事実です。
そのため、世の中の混乱のすべての原因を彼女に求める見方も根強いんですよ。
古代中国で殷の王を操った妃・妲己(だっき)などに例えたりもされています。

しかし、楊貴妃自身が政治に口出ししたり、影で玄宗を操ったりしたということはありませんでした。
確かに、身分不相応に取り立てられた一族が政治を牛耳ってしまいましたが、それが彼女のせいだということになってしまったんですね。

そして、それなりに嫉妬はしたものの、後宮の他の女性に対してひどい振る舞いをすることもありませんでした。

おそらく、彼女自身はお嬢様育ちのおっとりとした性格だったのではないでしょうか。
個人としては悪女ではなかったと思います。

唯一、彼女のわがままと言ったら、ライチが好きすぎて南方からわざわざ都まで運ばせたことでしょうか。
これも、国の財政をどうにかしたとかいうほどではありませんから、皇帝の妃としての可愛いおねだりだったのではないかと思いますよ。

楊貴妃を愛した玄宗の生い立ち

 

さて、ここからは楊貴妃の終生の伴侶・玄宗について見ていきましょう。

唐の9代皇帝となった玄宗は、楊貴妃よりも34歳年上でした。
後半生こそ楊貴妃に溺れて政治に関心を失ってしまいましたが、若い頃の彼は名君として有名だったんですよ。

玄宗は中国史上唯一の女帝で、一時的に唐を廃して周王朝を建てた武則天(ぶそくてん/則天武后のこと)の孫に当たります。
祖母が皇位を退いて唐が復活したのち、政権の混乱が起きましたが、それを見事に鎮めたのが彼であり、その功績によって皇太子となりました。

実は玄宗の兄が先に皇太子となっていたのですが、玄宗の才覚を認めて辞退したんです。
そして、玄宗もまたこの兄にはずっと敬意を持って接し続けたそうですよ。

712年に即位した玄宗は、当時27歳の青年皇帝でした。

積極的に政治に取り組んだ彼の前半の治世は、開元の治(かいげんのち)と呼ばれ、唐の全盛時代となったのです。

ところが、彼が老境に差し掛かったときのこと。

運命の女性が、彼の前に現れたのでした。

楊貴妃への耽溺

 

ちょうどその頃、玄宗は寵妃を失い、新たな女性を探し始めたところでした。

そんな時に彼の目に留まったのが、こともあろうに息子の妃だった楊貴妃だったのです。
当時玄宗は55歳、楊貴妃は21歳。
親子ほどの年の差があり、実際に息子の嫁だった女性に、玄宗は魅了されてしまったのです。
そして、とても諦めることができませんでした。

そこで彼は楊貴妃を出家させ、息子と離婚させます。
それから間もなく、彼女を自分の後宮に迎えたというわけです。

玄宗は楊貴妃に惚れきっており、それが彼を政務から遠ざける要因となりました。

長恨歌には、「春の宵は短く、日が高くなってから起き出す。
これより王は、早朝の政務を取りやめてしまった」とあり、玄宗の政治への意欲が低下していったことを示しています。



安史の乱で国を傾ける

 

玄宗が楊貴妃に溺れて政務を顧みない間、政権運営は宰相の李林甫に任されていました。
彼は性格に難がありましたが有能ではあったので、何とか政権は保たれていたのです。

しかし李林甫が死ぬと、実権は楊貴妃の又従兄弟・楊国忠に握られました。
そして彼が安禄山と実権を巡って争うと、そこから安史の乱が勃発してしまったのです。

安禄山の軍勢から逃れるため、玄宗は楊貴妃や楊国忠らと都落ちを余儀なくされました。
しかしここで楊国忠が護衛してくれるはずの軍隊に殺され、その軍隊に楊貴妃の死も要求されたため、すでに無力化していた玄宗はそれを受け入れなければならなくなったのです。

安史の乱の最中、玄宗は息子に位を譲って太上皇となります。
もはや彼に力はなく、乱が終結した後は都に戻れたものの、半軟禁状態に置かれることとなりました。

そして、楊貴妃の死から6年後、71歳で没したのです。

後半生は暗君とされた玄宗ですが、安史の乱の折には名君の名残を見せています。

都から逃げ出す際に楊国忠が宝物庫を焼き払おうとすると、敵が宝物を手にできなければ民への略奪がひどくなると言って止めました。
また、逃避行の最中には、追撃を防ぐために橋を落とそうという話が出ると、後から逃げようとする部下や民の退路を断ってはならんと言い、それもやめさせたのです。

皇帝らしく、民衆や部下のことをまず考えたのですね。
そんなところは、さすが腐っても皇帝だと言えます。

実は日本と友好な関係!?

 

玄宗は遣唐使としてやって来た留学僧とは懇意にしていたそうです。

また、聖武天皇時代の辺りでやってきた遣唐使・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)を取りたてました。
仲麻呂は李白(りはく)や王維(おうい)など中国史に名を残した大詩人たちとも交流を持ちましたが、船の難破などでついに日本に帰国することはかないませんでした。
望郷の思いで詠んだ和歌が、百人一首に収録されています。

その後、ベトナム地方の節度使にまで出世した仲麻呂ですが、玄宗に重用されたということはやはり楊貴妃にも面識があったと考えていいかもしれませんね。

そして、なんと安史の乱の際に楊貴妃と仲麻呂が日本に落ち延びてきたという伝説があるんですよ。
それについては次の項目でご紹介しますね。

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