ボロ負けは覚悟の上?倭国から日本への転換点「白村江の戦い」とは?

白村江の戦いというと、皆さんピンとくるでしょうか?「古代史の授業の時に名前を聞いたことがある」位の人が多いんじゃないかと思いますが、実は日本の歴史にとって重要なのです。戦いの前の朝鮮半島はどんな国が争いを繰り広げ、それに倭国(日本)がどう関係し、戦いに参加していくことになるのでしょうか?また倭国軍が朝鮮に上陸する前の士気はどれほどのもので、負けると分かっていても出兵せざるを得なかった理由とは?そして上陸後、白村江の戦い本戦はどう推移した?そして戦いの後、中大兄皇子(天智天皇)らはどんな国家体制を築いたのか?ということについて見ていきたいと思います。

朝鮮で何が起こって日本は出兵することになった?

6〜7世紀の朝鮮半島の情勢は?

6〜7世紀の朝鮮半島の情勢は?

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6世紀から7世紀にかけての朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の3つの国がありましたが、新羅は高句麗・新羅に圧迫される存在。

倭国(日本)は半島南部に領有する任那(みまな)を通じて影響力を持っていたことが「日本書紀」から知られています。
なんだか意外ですが、朝鮮半島に日本の領地があったのですね。

しかし、その任那と、加羅という国は倭国から百済へ割譲されたことと、新羅により侵食され、562年に新羅に滅ぼされました。

475年には百済は高句麗の攻撃を受けて首都が陥落。
しかし、その後熊津(ゆうしん)へ遷都して復興、さらに538年には泗沘(しび)へ遷都。
当時の百済は倭国と関係が深く(倭国朝廷から派遣された重臣が駐在)また高句麗との戦いにおいて、たびたび倭国から援軍を送られています。

一方581年に建国された隋は文帝・煬帝(ようだい)の治世に4度の高句麗遠征を行ったものの、いずれも失敗。
その後隋は国内の反乱で618年に煬帝が殺害されて滅亡。
そして新たに建国された唐は628年に国内を統一。
唐は2代太宗・高宗の時に高句麗に3度に渡って侵攻を重ね、征服することになります。

百済に付く?唐に付く?迫られる倭国の決断

新羅は627年に百済に攻められた時に唐に援助を求めましたが、この時は唐が内戦中で断られます。
しかし、高句麗と百済が唐と対立したため、唐は新羅を支援することに。
また善徳女王の元で力を付けた金春秋(こんしゅうじゅう)は積極的に唐に近づく政策を採用し、654年に武烈王として即位。
たびたび朝見して唐への忠誠心を示しました。

645年ごろから唐は百済侵攻を画策。
また百済は新羅侵攻を繰り返し、654年に大干ばつによる飢饉が朝鮮半島を襲いましたが、百済の義慈王(ぎじおう)は飢饉対策を取らず、皇太子の宮殿を修復するんなど、民を省みない行動に。
義慈王の酒乱を諌めた佐平(百済の官職)の平仲が投獄されて獄死するほどで、657年にまた干ばつが発生したときは草木がなくなったと言われるほど。

このような百済の退廃を、唐は防衛の不備・人心の不統一や乱れという情報として入手。
唐は秘密裏に百済への出兵計画を進め、倭国の遣唐使を洛陽にとどめ、百済出兵の情報が漏れないようにしました。

この朝鮮半島の情勢は大化の改新の最中の倭国にも伝わり、高まる警戒感。
唐が倭国から遠い高句麗ではなく、伝統的に交流のある百済を攻撃したことで、朝廷内で百済に付くか唐に付くか、二者択一を迫られます。
この後2度遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたためです。

大化の改新は唐と戦うための改革だった?

大化の改新は唐と戦うための改革だった?

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大化の改新に始まる国政改革の一つの大きな目標は、朝鮮半島での対唐戦争に勝つこと。
そもそもそのために中央集権化を急いできたのです。

具体的に見ると、戸籍・計帳は徴兵できる人がどれくらいいるかを調査するもので、班田収授も兵士を家族経済で支えられるようにする政策ともいえます。

そして、日本で大化の改新があった前後、海を隔てた朝鮮半島と中国では、あちこちで政権交代が起こるなど、情勢は日々変化していました。

特に朝鮮半島の動きは活発で、当時最も勢い付いていたのは新羅(しらぎ)。
これに対し高句麗(こうくり)と百済(くだら)が手を組んで戦いを繰り広げていました。

日本では改革が始まったばかりでしたが、大国・唐は644年からほぼ連年、高句麗遠征軍を送っており、対唐戦争への参加は現実に迫っていました。
不充分でも今のままで戦いに乗り出すしかなかったのです。

大分後の時代になりますが、日露戦争の時と状況が似ていますね。
日露戦争はロシアが満州を侵略しようとした戦争で、満州を取られていたら、日本はロシアの植民地になっていた、そういう戦争でしたので。

朝鮮出兵のために倭国政府は国内でどんな準備をした?

国際関係の情報も制度的な知識や先進的な文物も、ほとんど朝鮮は唐を経由して入手。
長年の外交交渉や援軍の派遣などを通じて、国家間の権利・義務の約束もできていました。
日本ではたとえば「任那(みまな)の調」と呼ばれていたような何がしかの権益が、成り行き次第では消えてしまい、逆にここでその危機を救えば、またそれなりの朝鮮半島での権益が上積みされたでしょうし。

日本はかつて派兵要請の代償に、百済の武寧王(ぶねいおう)から仏教を公伝。
そのように主に百済と連携しつつ、4世紀後半以降なにがしかの利権を手にし、そうした歴史的経緯もあり、迷わず百済支援を表明。
しかし一方では人質として金春秋(こんしゅんじゅう)を受け入れるなど、新羅との新たな関係樹立も模索していました。

ともあれ戦いに先立つ大化3年(647年)、斉明天皇が即位すると、阿部比羅夫(ひらふ)を北陸に派遣。
渟足(ぬたり)柵、磐船(いわふね)柵を置き、政府支配下にない蝦夷(えみし)たちに備えさせました。
敵の侵略を阻むための柵とはどんなものだったのでしょうか?道を幅広く塞いで高いようなもの?

また、日本海沿岸地方を津軽まで探らせ、蝦夷に軍事的威嚇も加えました。
後顧の憂いを断つというか、日本海沿岸から朝鮮半島に補給をするつもりだったのでしょうか?

唐の侵攻に対し百済はどう対応した?

唐の侵攻に対し百済はどう対応した?

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高句麗は百済・日本と同盟を結び、新羅を包囲する戦略を取り、唐にも激しく抵抗。
唐は攻めあぐねる状況が続き、そこで作戦を変更。
高句麗・百済の敵である新羅と手を結んだのです。
「敵の敵は味方」というわけで仲間意識が生まれたのですね。

唐はまず国力の弱い百済を狙い、新羅は649年に百済に久々に大勝。

高句麗の抵抗に手を焼いた唐も作戦を変更。
658年の高句麗遠征に失敗すると、660年に新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方(そていほう)を神丘道行軍大総官(日本でいう「征夷大将軍」みたいな称号?)に任命し、劉伯英(りゅうはくえい)将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じました。

唐軍は海から、新羅は陸上からの水陸2面からの同時作戦を行い、唐13万、新羅5万の大軍。
これほどの大軍が今から1300年も昔に動員できたのって、自分には不思議な感じがします。
豊臣秀吉が慶長の役で動員した兵の数でも14万人ですから。

百済王を諌めて獄死した佐平の平仲は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(たんけん、現在の大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言しましたが、やはり王はこれを採用せず。
また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言。

しかし、王や官僚は流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、炭と白江を唐軍が通過した後に迎撃するべきだと主張。
くだらない考え方ですね。
百済軍の考えが定まらないうちに唐軍はすでに炭峴と白江を越えて侵入していました。

黄山の戦いはどう展開した?その結果は?

百済の本営は前述の通り機能してない状況でしたが、百済の将軍たちは奮闘。
階伯将軍の決死隊5000が3つの陣を構えて待ち伏せし、新羅は太子法敏(ほうびん?のちの文武王)、欽純(きんじゅん)将軍、品実(ひんじつ)将軍がらが兵5万を3方に分けて黄山(ふぁんさん?)を突破しようと試みますが百済軍はこれを阻止。

黄山の戦いで階伯ら百済軍は4戦に勝利しますが、敵の圧倒的な兵力を前に将軍たちは戦死。
この黄山の戦いで新羅軍も多大な損害を受け、唐との合流の期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎めて新羅の金文穎(きんぶんてん?)を斬ろうとしましたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのならば、唐と戦う!」と言い放ち斬られそうになりましたが、蘇定方の部下が取りなして許されました。

唐軍は白江を越え、ぬかるみにひどく手こずりましたが、柳のむしろを引いて上陸し、熊津口の防衛戦を破り王都に迫りました。
義慈王らは佐平の平仲らの進言を聞かなかったことをひどく後悔。

唐軍は王都を包囲し、百済王族から投降希望者が多数出ましたが、唐軍はこれを拒否。
義慈王は熊津城に逃亡しますが後に降伏し百済は滅亡しました。

百済が滅亡し、残った百済の将軍たちは?

百済が滅亡し、残った百済の将軍たちは?

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660年に百済が滅亡した後、唐は百済の旧領を羈縻(きび、周辺の異民族に対する統治政策の呼称)支配の下に置き、唐は劉仁願(りゅうじんがん)将軍に王都泗沘(しび)城を守備させ、王文度(おうぶんたく)を熊津都督して派遣。
唐はまた戦勝記念碑として「大唐平百済国碑銘」(だいとうへいくだらこくひめい)を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て 内には妖婦を信じ 刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られました。
「百済が滅んだのは自分たちが良い行いをしなかったから」と言いたいのでしょうか。
この大唐平百済国碑銘は現在も扶餘郡(ふよぐん)の定林寺の五重石塔に残っています。

しかし、幸いなことに百済は分権的な国家体制で、つまり王室が無くなっても、鬼室福信(きしつふくしん)などの百済遺臣はほぼ無傷で健在。
彼らは互いに連絡を取りながら反唐戦争を継続し、領域としては制圧されていなかったのです。
大将である王が倒されてしまっただけで、百済の領土は残り、残った家臣も生き延びていたのですね。

唐の目的は高句麗討伐で、百済討伐はそのための障壁を除去する意味合いでしたが、唐軍の主力が高句麗へ向かうと、鬼室福信や黒歯常之(こくしじょうし)らが復興運動を開始。

百済の残党たちはどう戦い、日本に何を要請した?

8月3日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅郡から任存(にんぞん、現在の忠南礼山郡大興面)を防衛。
9月3日には劉仁願将軍が泗沘城に駐屯し、侵入を繰り返しました。
百済残党は撃退されますが、泗沘の南の山に4、5個の柵を作り、駐屯と侵入を繰り返し、こうした百済残党に呼応して20余城が復興運動に参加。

唐軍本体は高句麗に向かっていたため救援ができず、新羅軍が残党の討伐へ。
10月9日にはニレ城を攻撃、18日には攻略。
20余城は降伏し、20日には泗沘の南の山に駐屯していた百済軍を攻撃して、なんと1500人を斬首。
これ以上抵抗する百済残党を出さないための見せしめでしょうか。

しかし、鬼室福信や僧侶の道深(どうちん)、黒歯常之や達率余自信の周留城(するじょう)などは健在。
百済の将軍たちは倭国に対し、人質として倭国に滞在している百済の王子・余豊璋(よほうしょう)の返還と百済復興の援軍を要請してきたのです。

「王子を返還せよ」というのは、義慈王が家族とともに唐の首都の長安に送られ、その後病死し、後継者がいなかったからですね。
とにかく、今と違って朝鮮半島まで渡るのは何ヶ月もかかりそうな話ですし、「早く後継者を立てないと軍の士気が保てない!」という将軍たちのさけびだったかもしれません。

勢い良く海を渡ろうとした日本軍。しかし…

勢い良く海を渡ろうとした日本軍。しかし…

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倭国がこの事態に衝撃を受けたのはいうまでもなく、唐・新羅が次に狙うのは高句麗、そして倭国だと察したからです。
新羅と唐の大群に挟まれた高句麗を日本が助けるのは無理なことで、決着がついてしまうのかと暗い思いの日本政府。

当時政権を掌握していた中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は朝鮮出兵を決意。
翌年1月には女帝である斉明天皇が自ら軍を率いて大和を離れるという異例の出陣が敢行。
また順次徴兵した兵を組織しつつ西へ。
出兵の目標は百済王国の復興。
しかしこれにより唐と新羅を敵に回すことが決定的に。

軍が愛媛県松山市から九州へ出陣する際、万葉の女流歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)によって詠まれた「熟田津(にぎたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」という歌が有名で「熟田津(正確にはどこの地名なのかわかっていませんが、愛媛県の道後温泉の辺りだと言われています)で船に乗るために月が満ちるのを待っていると、潮も船が出られる条件と一致したので、さあ行こう!」という意味。
戦いに向かう兵士たちの威勢の良さが感じ取れますね。

しかし、同年7月に斉明天皇が出兵の疲れからか、本営の置かれていた筑紫(福岡県)の朝倉宮で急死。
額田王がせっかく昂揚感溢れる句を詠んだのに、倭国軍の船出は悲壮感でいっぱいだったのです。
いきなり大将が死んだ倭国軍。
これから海を渡るのに、士気の方は大丈夫だったのでしょうか?

朝鮮半島に渡った日本軍は?

人質から王になった余豊璋がどんな事件を起こした?

人質から王になった余豊璋がどんな事件を起こした?

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出がけに靴のヒモが切れたら縁起が良くないなど、日本には悪い予感を暗示するいくつかの迷信があります。
遠征途中での天皇の死も「虫の知らせ」のようなものだったかもしれません。

斉明天皇亡き後、中大兄皇子は早急に兵たちの混乱を取りまとめ、9月には5000の兵と共に余豊璋を百済に送り出しています。
翌年にはさらに救援軍が百済へと送り込まれ、百済復興への気運が高まりました。

661年5月、第1派倭国軍が出発。
指揮官は安曇比羅夫(あずみのひらふ)、狭井檳榔(さいのあじまさ)、朴市秦造田来津(えちはたのたくつ)。
豊璋王(余豊璋)を護衛する先遣隊で、船舶170余隻、兵力1万余人。
翌年には第2派が出発。
指揮官は上毛野君稚子(かみつけののわこ)、巨勢神前臣譯語(こせのかむさきのおみおさ)安倍比羅夫。

663年、豊璋王は福信と対立し、これを斬る事件を起こしたり、また要害の地を捨てて生活しやすい場所に移ったところを新羅軍に攻撃されたりして、次第に領地を狭めていきましたが、倭国の援軍を得た百済復興軍は百済南部に侵攻した新羅軍を駆逐し、

新羅の百済攻撃を抑えることに成功。

しかし、やはり余豊璋は人質としても日本で30年も暮らしたので、百済に住んでいた家臣とは意見が合わないのでしょうか?もしくは人質生活だったので王の様な華々しい生活に憧れていて、ほぼ滅亡した国家といえども、王にされて贅沢を我慢することができなかったということでしょうか。
とにかく、「いくら要害でもこんな所に住むのは、くだらん!」なんてことを言ったのでしょうね。

白村江の戦いで、それぞれどんな戦法を取った?

一方、百済の再起に対して唐は劉仁軌率いる水軍7000名を派遣。
唐・新羅軍は水陸並進して倭国・百済連合軍を一気に撃滅することに決め、陸上部隊は唐の将・孫仁師(そんじんし)、劉仁原(りゅうじんげん?)および新羅の金法敏(文武王)が指揮。
劉仁軌、杜爽(とそう?)および元百済太子の扶余隆(ふよりゅう?)が率いる170隻の水軍は熊津港に沿って下り、陸上部隊と会合して倭国軍を挟み打ちにしました。

倭国・百済連合軍は前述の福信が斬られた事件の影響で白村江への到着が10日も遅れたため、唐・新羅の巨軍(660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅軍5万の兵力と相当するものとされています)が待ち伏せていた錦江河口の白村江(はくそんこう、もしくは「はくすきのえ」、朝鮮半島南西部、現在のクム川の河口)に対して突撃。

海戦を行い、倭国軍は上毛野稚子(かみつけのわかこ)、巨勢神前訳語(こせのかむさきのおさ)、阿部比羅夫(あべのひらふ)ら3将軍が後軍の3段態勢を作り、4度の波状攻撃。
怒涛の攻撃を行います。

倭国軍と唐軍の戦いはどんな様子で、どんな結末に終わった?

倭国軍と唐軍の戦いはどんな様子で、どんな結末に終わった?

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「日本書紀」によると、まず最初の戦いで倭国軍は唐軍に負け、一旦退却し、そして唐軍が守りを固めているところへ日本の将軍と百済の王が先を争うように攻め込み、「我等先を争はば、敵自づから退くべし」(先を争うように攻めれば、敵は自分から退却していくだろう)という極めてずさんなもので、唐の軍に左右から攻め込まれたといいます。
勢い良く突撃し過ぎて敵の中に入り込み過ぎたということでしょうか?軽率で本当にずさんですね。

この時点ですでに船を回すことすらできなかった日本・百済の連合軍は唐軍の猛攻を受け、火計・干潮の時間差などの作戦にもかかり惨敗。

同時に陸上でも唐・新羅の連合軍は倭国・百済連合軍を破り、これで百済復興勢力は崩壊しました。

結局、百済王は高句麗へ亡命し、百済は歴史から永久に姿を消しました。
九州の豪族の筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)も唐軍に捕らえられ、8年間も抑留されたのちに帰国を許されたという記録も。

これが2年半に及ぶ「白村江の戦い」の結末です。
やがて高句麗も滅ぶことに。

他にも中国の正史「新唐書」、朝鮮半島の「三国史記」などにも詳しく戦記が記載されていて、いずれも唐軍の圧倒的な強さを伝えています。

中でも「旧唐書」で語られている「(唐軍を率いる)劉仁軌(りゅうじんき)は倭兵と白村江で遭遇、4戦する内に倭軍の船400隻を焼き、煙は天にみなぎり、海水は倭兵の血で赤く染まり」という下りは、日本軍が壊滅していく様子を生々しく物語っています。

空が煙でいっぱい、海が赤く染まるというのはこの世の終わりの様な壮絶な風景ですね。
生き残った日本兵の心境を考えると、異国の血で仲間がたくさん殺されて、それこそこの世の終わりの様な気分だったのではないでしょうか?

戦後、中大兄皇子は日本で何を行った?

日本軍はなぜ負けた?戦後の中大兄皇子は何をした?

日本軍はなぜ負けた?戦後の中大兄皇子は何をした?

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敗因には百済軍の内乱及び倭国軍との協調不足、軍備の差など様々な要素が考えられます。
百済軍の中、もしくは倭国との連携など、コミュニケーションがと取れていなかったのですね。

だがむしろ、「なぜ負けたのか?」ではなく「なぜ戦ったのか?」と言えるほど、戦力の差は歴然としていたそうです。

「国破れて山河あり」と言ったのは8世紀の詩人・杜甫(とほ)でしたが、旧百済人にとって、ふるさとの山河はすでに自分たちのものではありませんでした。
百済の人も「とほほ…」とため息をついたでしょうね。

結局大敗を喫した倭国軍は亡命を希望する百済人を大量に引き連れ、唐・新羅水軍に追われながらも、失意のまま日本に帰国しました。

唐側の勝利に終わった白村江の戦いは、中国史上屈指の大国として歴史に名を残した統一王朝である唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく書き換えられたプロセスでもある戦いでした。

白村江の戦いと並行して唐は666年から高句麗へも侵攻。
3度の攻勢により668年には高句麗を滅ぼし、安東都護府(あんとうとごふ)を置き、白村江の戦いの後高句麗に亡命していた豊璋王は捕らえられ幽閉。
これで東アジアで唐に逆らうのは倭国のみとなり、唐と新羅が今度は日本に侵攻してくる可能性が高くなりました。

中大兄皇子へ反感が起きたのはなぜ?

中大兄皇子は帰国してすぐに国防の強化を図り筑紫の北側には「水城」(みずき)と呼ばれる堤防を建設。
博多にあった太宰府を背振山(せぶりやま)の南まで動かし、また対馬に金田城(かねたのき)、太宰府に大野城、讃岐に屋島城(やしまのき)など、朝鮮式の山城を築城し、戦いに備えました。

さらに東国の防人を北九州の守りにつかせ、緊急連絡のために都まで烽(とぶひ、「飛ぶ火」とも。
山上などに壇を設け、草や薪を燃やして昼は煙、夜は火によって、隣接した烽に都まで順次伝える設備)という狼煙(のろし)の設備を設けさせました。
中大兄皇子が朝鮮で見て得た知識で建てた城ということになりますか。

しかし、中大兄皇子に敗戦の責任を問う豪族たちも多かったそう。
百済救済の出兵は中大兄皇子が多くの群臣の反対を押し切って強引に決定したことだったからですね。
同盟による義理などで出兵せざるを得なかったのです。

そこで中大兄皇子はそうした反感の声を抑えるため、そしてさらなる戦いのために、首都防衛の意味も込めて都を大和から近江へと移し(大津宮、滋賀県大津市)、自らも正式に皇位の座に就きました。
第38代天智天皇の誕生です。

この遷都は国防政策の一環としても意味がありましたが、この強行策は同時に豪族や民衆にますます反感を与え、不満を募らせることに。

天智天皇の国内改革はどう実を結んだ?

天智天皇の国内改革はどう実を結んだ?

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ある意味、兵士が負け戦と知りながら戦った(出陣の時の威勢の良さも逆にそれによるもの?)であろう白村江の戦い。
その中で失ったものはいろいろあったはずですが、一番の損失は政府に対する国民の信頼だったかもしれませんね。

しかし、国内改革は実をつけ始め、天智天皇9年には全国的な戸籍として庚午年籍(こうごねんじゃく)が完成。
かつて国造(くにのみやつこ)の支配下だった人達の本籍地・性別・年齢などはこれですべて政府が把握。
これと並行して時間がかかる50戸ごとへの編成も続けてなされ、改革派それなりに順調に進んでいきました。

敗戦直後に心配された唐の侵攻は、高句麗滅亡後に唐と新羅が朝鮮半島の支配圏を巡って対立したためとりあえず回避されたそう。
やはりこの2国は「敵の敵が味方になった」だけで、組んで倒した敵がいなくなれば敵に戻ってしまったのですね。

詳しく書くと、戦後唐は百済・高句麗の故地に羈縻州(きびしゅう)を置き、新羅にも羈縻州を設置する方針を示しました。
一度は味方になった国に占領地と同じ扱いをするとはきびしいですね。

白村江の戦いは日本にとってどういう意味合いの戦争だった?

これに対し669年、唐は高句麗の遺臣らを蜂起させ、670年、唐が西域で吐蕃(とばん)と戦っているスキに新羅は友好国だったはずの唐の熊津都督府を攻撃し、唐の官吏を多数殺害。
他方で降伏を願い出て硬軟両用で唐と対峙。
何度かの戦いの後、新羅は再び唐の冊封を受け、唐は現在の清川江以南の領土を新羅に管理させるという形を取り、両者の和睦が成立。
唐軍は675年に撤収し、新羅の朝鮮半島統一(現在の韓国と北朝鮮南部)が成立しました。

白村江の戦いでの敗北は、元寇や第二次世界大戦のときと同じように、日本が海外勢力の支配下に置かれる危険性が高かった戦い。
この敗北で倭国は日本列島は奪われなかったものの、朝鮮半島の領地と権益を失い、外交・国防・政治において統治システムの根本を改革し直す必要にを迫られることに。
唐との友好関係を模索されるとともに、急速に国家体制が整備・改革され、律令国家の建設が急いで進み、倭国は「日本」へ国号を変えました。

白村江の戦いは倭国内部の危機感を醸成し、日本という新しい国家の体制の建設をもたらしたと考えてられています。

天智天皇の後の日本の国家体制は?

天智天皇の後の日本の国家体制は?

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また、671年に天智天皇が急死すると、その後天智天皇の息子の大友皇子(おおとものおうじ、弘文天皇)と大海人皇子(おおあまのおうじ)が皇位を巡って対立し、翌年に古代最大の内戦である壬申の乱(じんしんのらん)が起き、これに勝利した大海人皇子は天武天皇として即位。

天武天皇は専制的な統治体制を備えた国家の建設に努め、遣唐使は一切行わず、新羅からは新羅使が来朝するようになりました。
また日本から新羅への遣新羅使も頻繁に派遣され、その数は天武治世だけで14回にも。
これは強大な武力を持つ唐に対し、新羅と共同して対抗しようという作戦の一環でしたが、686年に天武天皇が没してからは再び両国の関係は悪化しています。

天武天皇の死後もその専制的統治路線は持統天皇によって継承され、701年に大宝律令が制定されたことにより「倭国」から「日本」へと国号を変え、大陸に倣った中央集権国家の建設はひとまず完了。
「日本」の枠組みがほぼ完成した702年以後は、文武天皇によって遣唐使が再開され、粟田真人(あわたのまひと)を派遣して唐との国交を回復しています。

ちなみに白村江の戦いは語呂合わせで年号を覚える方法があり、「む、無残(663年)!負けと知ら(唐・新羅)れる白村江」とのこと。
皮肉が効いている感じがしますね。

倭国・百済軍は唐・新羅の連合軍にボロ負けし、この後日本の外交・国防などの政策が大きく変わることに

唐と新羅の連合軍は百済・高句麗を破り、新羅は滅亡。
倭国軍は準備が不充分で負けることは分かっていましたが、同盟国の百済を見捨てるわけにもいかず、

百済復興軍に加勢するために海を渡ろうとしますが、斉明天皇が急死するなど前途多難。

そして、白村江で倭国と百済の連合軍は唐・新羅の連合軍にボロ負けし、日本に戻ることに。

その後中大兄皇子は天智天皇として即位。
唐と友好関係を樹立し、大津に遷都するなど、外交・国防・政治に力を入れて日本を守ろうとします。

そして、その後大宝律令が成立し、「日本」の国号を使うようになります。

さて、私は古代史について書くのが今回が初めてだったのですが、いかがでしたでしょうか?

私自身、秀吉の朝鮮出兵よりも前の時代に、日本の軍が海を渡って大軍同士で戦ったことがあることに驚きました。

この時代にも、もっと知識をより深めていきたいです。

では、ここまで読んでくれてありがとうございます!

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