「羽柴秀吉」とは?百姓以下の身分から成り上がった、土木工事と兵糧攻めが得意な天下人!

「羽柴秀吉」といえば、「豊臣秀吉」として日本人で知らない人はいないほどの歴史上の人物ですね。では、その秀吉はどのような身分から出てきて、どんな得意技を持って織田家で出世したのか?そして秀吉にはどんな軍師がいて、どんな戦いを勝ち抜き、また天下統一へのきっかけとは何だったのでしょうか?また天下を取った秀吉はさらにどんな戦いを行ったのか?ということについて説明していきたいと思います。まずは秀吉の幼少期から見ていきましょう。

秀吉の出自は?どのように出世していった?

秀吉は幼年期を過ごした中村に何をした?

秀吉は幼年期を過ごした中村に何をした?

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「豊臣秀吉」こと「羽柴秀吉」は尾張国(愛知県)中村(中村のうち中々村)で生まれたのが定説で、遠戚の加藤清正も中村の出自。
しかし、「清洲ミツノゴウ戸」出身であるという異説もあり、中村の場合の秀吉は百姓の出身で、「清洲〜」の出身だとすると都市民、つまりは職人もしくは商人だということになり、大きく違ってきます。

しかし、秀吉が幼年期を中村で過ごしたということは間違いなく、「祖父物語」で小早川隆景が天正18年(1590年)の小田原攻めに際し清洲の留守居役に命ぜられた時のことが書いてあります。

隆景が清洲から中村まで秀吉の供をしたとき「恥ずかしい話だが、自分はこの中村で育ち、わやく(無茶・非道)なることもして遠江(とおとうみ)に行き、松下石見に仕えた。
いざこの中村を百姓どもの切り取りにさせてみよう」といい、隆景は同意。

すると秀吉が「この村に仁王という子供がいるはずだ。
自分より少し年上だが、自分が仁王が刈った草を少し取ったら「遅く来て草も刈らないやつ!」といい鎌柄で我を殴った。
その遺恨は今でも忘れられないので、仁王を斬ってから取らせよう」と。

大きな権力を手に入れると、昔自分に悪いことをした人を懲らしめたくなるものでしょうか。
分からなくはないですね。

しかし、仁王もその子供もすでに死んでいて孫がいるだけで、秀吉は「孫なら遠いから仕方ない」と言って中村一円を百姓に与えたそうです。

家を出た秀吉は何をして生計を立てていた?

しかし、その2年後の高麗陣のとき、中村の人々が陣中見舞いにこなかったので、秀吉は「作り取り」を召し上げています。
これは中村も清洲も幼少期の秀吉を受け入れてくれなかったから、結局中村や村の人々に愛はなかったのだろうという話になりますね。

若き日の秀吉、すなわち木下藤吉郎は針を売って歩いていて、この針売りはあまり良い身分ではなかったということ。
また藤吉郎の妻だった「ねね」も連雀商人(れんじゃくしょうにん、行商人の一種)家の出で、この連雀商人も良い身分ではありませんでした。

日本史において信長・秀吉の時代は流動的でダイナミックな時代で、侍身分を解体した明治維新期にも匹敵。
秀吉は身分の流動性・上昇を代表する人物で百姓から成り上がりましたが、それ以下の身分から成り上がり、天下人・関白になった可能性もあるのです。

秀吉は母の再婚により尾張中村に移り住み、義父と折り合いが悪く親元を出ることに。
どこにも頼る人がなく、路頭に迷っていわゆる「ストリートチルドレン」に。
秀吉は清洲から遠江に移り、今川家臣の松下加兵衛(かへえ)が(静岡市)から浜松への路上で異形のものを見つけ、路上で猿まねをしていました。
浜松城まで連れて行かれた藤吉郎は飯尾豊前やその娘の前でその芸を見せ、道中、猿芸を続けながら針を売って生活していたことになります。

自分を助けてくれた者に秀吉はどう恩返しした?そして秀吉は織田家臣に

自分を助けてくれた者に秀吉はどう恩返しした?そして秀吉は織田家臣に

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このような芸でお金を稼げば「乞食」(こじき)同然と見なされた当時。
もし松下加兵衛が拾わなければ、秀吉は大道芸人、猿まねをして施しを受ける流浪乞食(非人)のままでした。
しかし、秀吉はこういう生活の中から生きる上での知恵というか、そういうものをを学んだのでしょう。
「人たらし」と呼ばれる持ち前の明るさと目端(めはし)の利く才覚を磨かれていったのです。
しかし、加兵衛にはある程度目をかけられていたそうですが、退転。
また秀吉は後に加兵衛に3000石の知行を与えて恩に報いています。

また、秀吉は自分の中の卑しい血を恥じていて、自分の血の繋がる弟や妹を殺したこともあるそう。
秀吉は縁者ならすべて登用したわけではなく、苦境にあったときの自分を支援してくれたものだけを登用したそうです。

秀吉の運命は実力主義の織田信長に仕えたことから切り開かれることに。
秀吉は清洲城の普請奉行・台所奉行などを率先して引き受け、大きな成果を上げて織田家中で頭角を現し、また信長の草履を懐に入れて温めた有名な逸話もあり、藤吉郎は信長に気に入られていくのです。

織田家中で秀吉はどのように出世していった?

永禄4年(1561年)8月、藤吉郎は浅野長勝の養女で杉原定利の娘・おね(ねね)と結婚。
式は藁(わら)と薄縁を敷いた質素なものとのこと。

永禄7年(1564年)の美濃国の斎藤龍興(たつおき)との戦いで、藤吉郎は松倉城主の坪内利定や鵜沼(うぬま)城主の大沢二郎左衛門らに誘降工作を行い成功。
永禄8年(1565年)の坪内利定宛の知行安堵状に初めて藤吉郎の名が現れており、「木下藤吉郎秀吉」として副署されています。
これは秀吉が信長の有力武将として認められたことを示しています。

永禄10年(1567年)に秀吉は蜂須賀正勝と共に信長の美濃攻めのキーポイントとなった有名な墨俣(すのまた)一夜城を作っています。
秀吉は放浪していた時代に政勝に仕えていたと言われ、政勝は川並衆という土豪を率いていた武士で、永禄3年(1560年)には信長に使えるように。

しかし墨俣は最前線で、斎藤氏の妨害も激しく、襲い来る敵と戦いながら資材を運び、建設作業を進めるのは至難のわざ。
佐久間信盛も柴田勝家も失敗するほど。
ところが秀吉と政勝はこれを5日ほどでやってのけます。

政勝は在地の武士や船頭、木こり、大工などを自前で集め、2150人の混成集団を作り上げ、材木の切り出しから加工までを流れ作業で行い、それをいかだにして下流に送りました。
墨俣では組み立てるだけという斬新な工法を用いて砦を築いたのです。

土木工事の得意な秀吉は墨俣一夜城の功績から一気に出世

土木工事の得意な秀吉は墨俣一夜城の功績から一気に出世

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そして、この砦によって美濃攻略への足がかりを築いた信長は翌年、稲葉山城を攻略。
以後信長は天下取りへ邁進していくのですが、秀吉と政勝の砦建設はそれに大きく貢献したのです。

秀吉は墨俣一夜城、備中高松城水攻め、石垣山一夜城に大坂城・伏見城など土木工事の得意な人という印象が私にはあるのですが、蜂須賀正勝などこういった工事の得意な家臣も多かったこともあるのでしょうか?

またこの年に竹中半兵衛を配下に付け、さらに永禄11年(1568年)、近江箕作城(みつくりじょう、観音寺城とも)の戦いで活躍。
同年、上洛の際に明智光秀・丹羽(にわ)長秀とともに京都の政務を任されています。

元気元年(1570年)には越前の朝倉義景(よしかげ)討伐軍に参加。
順調に進軍を進めていきますが、北近江浅井長政が突如裏切り、織田軍を背後から急襲。
浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命のピンチに陥りますが、秀吉は明智光秀や池田勝正とともに殿軍(しんがりぐん、後退する部隊の中で一番後ろの部隊のことで、一番危険)を務め、功績を上げました。

秀吉の天才軍師・竹中半兵衛とは?

半兵衛はどんな経緯があって秀吉にスカウトされた?

半兵衛はどんな経緯があって秀吉にスカウトされた?

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秀吉の躍進を支えた軍師として有名なのが竹中半兵衛。
半兵衛は元々は美濃の斎藤氏に仕え、少年時代は「はなたれ」とバカにされ、主君の斎藤龍興からも笑われていたといいます。

しかし半兵衛は実は早熟な天才。
11歳の時の父の不在中、押し寄せた賊徒を計略にはめ、退散させ、さらに16歳の時、美濃に進行してきた織田信長を「十面埋伏(じゅうめんまいふく)の陣」で撃退。

そして何より半兵衛の名を世間に知らしめたのは、21歳になった永禄7年(1564年)わずか16人程度の手勢だけで龍興の居城・稲葉山城を乗っ取ってしまったこと(逆に龍興の評判も「愚鈍だ」と下がってしまうのですが)。

この大事件は尾張にも伝わり、信長は美濃半国と引き換えに稲葉山城を譲るように迫りましたが、半兵衛は断り、稲葉山城を龍興に返すと隠遁してしまいました。

しかし、彼の実力がこのまま放って置かれるはずがなく、秀吉の三顧の礼(目上の人が格下の者に3度も出向いてお願いをすること)による要請を受けて半兵衛は信長に従い、秀吉の与力となりました。

以後半兵衛は秀吉を主人として立身出世を支えていくのです。

半兵衛の実力が発揮されたのが中国攻めで、秀吉はこの直前、柴田勝家と共に北陸攻めに加わっていましたが、勝家と仲違いして陣を撤収。
信長の怒りを買いながらも目立った処分は行われず、天正5年(1577年)に中国方面の司令官に任命されます。

半兵衛の計略とは?

実はこの裏にも半兵衛の計略があり、半兵衛は「北国よりも中国の播磨攻めに関わった方が得策です」と秀吉に勧めたのです。
半兵衛が秀吉の得意な戦術や性格を見て提案したのでしょうか?また、もし秀吉が北陸に残っていれば天下を取ることはできたのでしょうか?

半兵衛が立てる作戦の特徴は味方の損害をなるべく少なくして勝利する点にあり、天正6(1577年)3月、別所長治(ながはる)が毛利側に寝返り三木城に立て籠もります。
秀吉がこの三木城攻めに関わったとき、半兵衛の進言した作戦が大規模な兵糧攻め。
これを取り入れた秀吉は三木城の支城を落として三木城への補給路を遮断。
以後1年10ヶ月に渡り兵糧攻めは続けられ、天正8年(1580年)、城主の別所長治が切腹して降伏。

半兵衛は同僚の黒田官兵衛とは「二兵衛」と並び称され、親交深く、荒木村重(むらしげ)が反乱した際に、官兵衛が有岡城に囚われる事件が起こります。
官兵衛が戻ってるこないため「裏切ったな!」と考えた信長は、人質で官兵衛の子・松寿丸(しょうじゅまる)の殺害を半兵衛に命じますが、半兵衛はこの子を殺害したふりをして隠し、後年これを恩に感じた官兵衛は不遇の身となった半兵衛の子(半兵衛は36歳の若さで病死してしまうのです)を召抱えています。

一国一城の主となり、中国攻めの司令官となった秀吉は?

一国一城の主となった秀吉は長浜をどう統治した?

一国一城の主となった秀吉は長浜をどう統治した?

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姉川の戦いの後、秀吉は奪取した横山城の城代となり、浅井氏との攻防戦に従事。
その後小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の正面から京極丸を攻め落とすなど浅井・朝倉との戦いに戦功を立てました。

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領の北近江三郡に封ぜられ、今浜の地を「長浜」(「長」の字は「信長」の「長」)と改め、ついに一国一城の主にまで成り上がります。

この時に自分の姓を「木下」から「羽柴」に改めていて、「柴田勝家と丹羽長秀から一文字ずつもらい受けた」というのが有名な話ですが、資料的な根拠は存在しないそうです。

秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓が長浜に集まってきました。
このことに不満を持った秀吉は統治政策を引き締めようとしましたが、正妻ねねのとりなしで年貢や諸役をそのままにすることに。

「まあまあ、いいんじゃないの」と言うねねさんの言葉が想像できそうですね。
また、やはり秀吉も自分一人でここまで来れなかったんじゃないか?と感じ取れます。

さらに人材発掘に励み、旧浅井家臣団や石田三成などをここで登用しています。

天正3年(1575年)には長篠の戦いへ従軍。
翌年には北畠具教(きたばたけとものり)の旧臣が篭る霧山城を神戸信孝(かんべのぶたか、信長の三男)とともに落城させました。

天正5年(1577年)には北陸で上杉謙信と戦っていた柴田勝家の救援を秀吉は信長から命じられますが、前述の通り、勝家と仲違いし勝手に兵を撤収して北陸から引き上げてしまいました。

その後の手取川の戦いで勝家が謙信に敗れてしまったのもあり、信長は激怒し、秀吉は進退に窮しますが、織田家当主・織田信忠の指揮下で佐久間信盛らと共に松永光秀討伐の軍に従軍し、功績を上げています。

毛利攻めと備中高松城水攻めとは?

秀吉は信長の中国毛利攻めの司令官として出陣し、着実に戦果を上げ、播磨から備中・備後へ攻め入ることに。
天正7年に木津川口で織田軍の九鬼嘉隆が鉄甲戦を使って毛利水軍を破り、上杉謙信も亡くなったため、本願寺を支援するのは毛利だけに。

播磨の上月城の戦いで秀吉率いる織田軍と毛利軍が戦いますが、秀吉は上月城を見捨てて、城に入っていた尼子氏残党の尼子勝久は切腹し、尼子氏は滅亡。

さらに秀吉は播磨の三木城を攻め、前述の半兵衛の作戦で1年10ヶ月の兵糧攻めの末。
開城。
さらに秀吉は鳥取城も落とし、播磨・因幡を抑え、備前の宇喜多氏も織田側に付いたため。
次は備中に攻め入ることに。

天正10年(1582年)に秀吉は備中に着陣。
備中勢とのいくつかの小競り合いがあり、秀吉も毛利側もお互いを滅ぼそうとまで思ってはおらず、どちらも講和に持っていきたい方針。
後は講和の内容をどれだけ自分の臨む方向に持っていくか、そのための戦でした。

そして、備中高松城を攻めることになった秀吉ですが、高松城の周りは湿地の要害で苦戦。
戦いの途中で大雨が降り、周辺の沼が増水。
これを見た秀吉(黒田官兵衛という説も)は水攻めを思いつき、蛙が鼻から門前まで約3.3kmの堤を築き、秀吉は工事の状況を見計らって信長に援軍を要請。
「このまま毛利に勝って自分だけの手柄だけになってしまうと、信長様の怒りを買うかもしれない」と思ったのです。
少し前の時期に明智光秀が所領を奪われたり、中国攻めの司令官を任されるほどの秀吉でも、信長には気を使ってないと危ないと感じることが多かったのでしょう。

秀吉は水攻めをどのような経緯で思いついた?

秀吉は水攻めをどのような経緯で思いついた?

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水攻めはこちらからの攻撃もできない分城からの反撃もなく、高松城を孤立させて講和のタイミングを計るもの。
秀吉は加茂城・日幡城を攻撃するときに本陣から軍馬が通るための道路を建設。
この上に雨が降ると道路が雨をせき止め、これを見た秀吉は「もう少し堤防を高くすれば高松城を孤立させられるほどに水を溜められるかも!」と思い、水攻めを思いついたのだそうです。
半ば偶然によるものだったのですね。

後に石田三成らも水攻めを行いますが、これはこの場合と違って、最初から「水攻め」を行おうとしたことで失敗したのですね。
また、これも土木工事が得意だった秀吉だからこそ思いついたアイデアではないでしょうか。

これで秀吉は備中高松城を孤立させ、後は信長の到着を待つのみとなっていました。
しかし、天正10年(1582年)6月2日の夜明け、信長来援のため上方の情報に敏感になっていた秀吉は、本能寺の変の勃発と主君信長の死を知り、ここから急展開に。

それまでも何度か毛利側に勧告してきた秀吉でしたが、これらの講和は両者の条件が折り合わず暗礁に乗り上げたため、本能寺の変を知った秀吉は「今夜足守川の堤防を切って一気にケリを付ける!」と備中高松城に脅迫し、これを聞いた備中高松城主の清水宗治は切腹を決意。
これは宗治が勝手に決めたことで、毛利側には不利となるのですが、宗治は湖上で切腹しました。

本能寺の変から秀吉の天下取りの道はどう開けた?

「中国大返し」から秀吉にどんな道が開けた?

「中国大返し」から秀吉にどんな道が開けた?

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しかし、秀吉は領土の割譲の交渉で大幅に譲歩。
これは講和を早く切り上げて上方に戻ろうとした秀吉の策略でしたが、異変を知らなかった毛利側はこれに大喜び。
そして秀吉は明智光秀を討つために急ぎ軍を京へ向けました。
それは姫路までの70kmをわずか2日で駆け抜けるという神懸かり的なスピード。
これは「中国大返し」と呼ばれる有名な出来事ですね。
これを行えたのは、信長来援のために用意していた大量の物資があったからとも。

また、秀吉は講和が行えなくても足守側の堤防を切って水浸しにすることにより毛利側の追撃を防ぎ、京へ戻るつもりだったそうです。

姫路城に入った秀吉は、京を占領する光秀との決戦を前にして、将兵の士気を高めるため、城内の金銀、食料をすべて部下に与えて、覚悟のほどを示しています。
将兵たちの人心を掴んだ秀吉は、信長の息子信孝や信長の重臣たちを吸収し、光秀追討軍を作り上げていきます。

秀吉の迅速な進軍に驚いたのは光秀。
後手に回った光秀に勝ち目はなく、山崎の合戦で大敗。
敗走中、名もなき土民に殺されてしまうのです。
いわゆる「光秀の3日天下」ですね。

こうして信長の弔い合戦に勝利した秀吉は、天下統一に向けて動き出します。

清洲会議から賤ヶ岳の戦いを経て、関白へ

その方法は「人たらし」の秀吉の性格が発揮された巧妙なもの。
その最初の舞台となったのが6月、信長の後継者と遺領処分を相談する清洲会議。

この時参加したのは織田家宿老の柴田勝家と丹羽長秀(にわながひで)、信長の乳兄弟だった池田恒興(つねおき)、それに秀吉。
この中では秀吉の序列が一番下ですが、秀吉は長秀と恒興を事前に懐柔して冒頭から会議の主導権を握り、信長の嫡男・信忠の子で、わずか3歳の三法師を担いで、信雄(のぶかつ)を後継に推す勝家を孤立に追い込みました。

天正2年(1583年)に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った秀吉は、以降、天下統一を目指すと同時に大坂城築城に取り掛かります。
数年かけて作られた城は、城攻めが得意な秀吉らしく巨大かつ難攻不落の城塞。
同時に、派手好みの秀吉の趣味がよく表れていて、金色と青色の天守閣、内部も金色の大広間。
金色の宮殿と呼ばれる絢爛豪華な城で、秀吉の権力の象徴となりました。

派手好きな秀吉ですが、大坂城を金ピカにしたのは、自分の財力、つまりは権力を示す意味合いもあったのでしょうね。
大きな建物って基本的にはこういう意味合いで作られるものだと私は思ってます。

その後はこの大坂城を拠点にして、徳川家康と小牧・長久手で戦いますが、家康を頼みにしていた織田信雄と講和したことで家康は戦う理由がなくなり三河へ撤退し、のちに講和しています。

またこの戦いの最中に秀吉は従五位下左近衛権少将に任官され、また天正12年(1584年)には従三位権大納言に叙任され公卿となり、翌年には内大臣に。

一方、秀吉は四国の長宗我部、九州の島津を屈服させ、天下平定へと邁進。
四国征伐の最中に近衛前久(このえさきひさ)の養子となり、これにより関白宣下を受けました。

また天正15年(1587年)には京都に朝臣としての豊臣家の本宅となる聚楽第(じゅらくてい)を建設。
翌年には後陽成天皇と徳川家康や前田利家などの諸大名を呼び寄せ、忠誠を誓わせ、さらに刀狩りや海賊停止令を発布します。

ほぼ天下を手中に収めた秀吉はどんな戦いを行った?

秀吉の人間性「人たらし」が天下を取らせた?

秀吉の人間性「人たらし」が天下を取らせた?

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秀吉が短期間に政権を樹立できた理由の一つはその人間性。
秀吉は戦国武将には珍しく、人間味を発揮した人物でした。
信長は敵を虐殺したり、明智光秀や佐久間信盛などを領地を奪ったりしていましたし、対照的ですよね。
もしくは、秀吉はそれを反面教師にしていたりしたのでしょうか?

人情の機微をうまくつく外交術を駆使し、派手な演出で兵士たちの士気を高めました。
従軍中も多数の医者を引き連れ、将兵たちの安否を気遣うなど、細部への心配りも気が利いています。
譜代の家臣を持たない秀吉にとって、気配りで築いた将兵たちとの絆が躍進の原動力になったのです。

また秀吉はあくまでも庶民出身らしい感覚を持ち合わせており、その一つが人が「利」で動くことをよく知り、それを戦略に活かしたこと。
金銀を惜しみなくバラまいて諸大名を手なずけるなど、硬軟織り交ぜることを徹底しました。

兵もひたすら大切にし、鳥取城や三木城攻めにおいて兵糧攻めを選択したのもその一環ですし、また敵に対しても寛容。

兵糧攻めは兵をいたずらに殺さない意味もあったのですね。
攻撃する兵士からすれば「戦わなくて良いし、ご飯も食べられるので、良いことばかりなのかもしれない」とふと思いました。

小田原征伐とは?

その秀吉のやり方は天正18年(1590年)天下統一への節目となった関東の北条氏の小田原包囲戦にも表れています。
私も以前小田原征伐についての記事を書きましたが、小田原城は城下町がすっぽり入ってしまう難攻不落の城。

現在の群馬県利根郡みなかみ町にある名胡桃城(なぐるみじょう)は惣無事令により真田昌幸の領地と決まっていましたが、これを北条氏の猪俣邦典(いのまたくにのり)が奪取。
これを知った秀吉がそれを理由に「秀吉が真田の領土と決めた名胡桃城を奪い取ったのは、秀吉への反抗である」とし、再三の上洛の要請にも応じなかった北条氏政・氏直親子を討伐を決意。
これが小田原征伐が起きた火種となりました。

秀吉は全国の大名を総動員(いわばオールスター)して21もしくは22万の大軍を集め、陸と海の両方から攻め寄せます。
小田原城の支城を落とす一方、長束正家に米雑穀などの物資を大量に用意させるなど周到な準備を整え、小田原城を包囲し長期の兵糧攻めにとりかかりました。

過去に上杉謙信でも落とせなかった小田原城。
兵糧攻めの得意な秀吉は「これしかない!」という戦術だったのでしょうね。

小田原攻略のため石垣山城を築き、これを一夜で築いたように見せて城方を驚かせて戦意を喪失させた一方、ここに茶人の千利休や側室の淀殿を呼び寄せて茶会を催すなど、余裕のあるところを見せる一方、裏では内応工作を駆使。
唯一武州忍城(おしじょう)が石田三成に水攻めを行われたにも関わらず頑強に抵抗し、最後まで落とされませんでしたが、三ヶ月後、ほとんど兵を損ずることなく北条氏直を降伏に至らしめるのです。

その際、氏直が自らの命と引き換えに城兵の命を助けて欲しいと申し出ると、秀吉はそれを受け入れ、敵城兵の命を助けましたが、氏政と弟の氏照は切腹。
氏直は高野山に追放となりました。

この小田原攻め(伊達政宗もここで屈服)に続く奥州仕置により天下は統一され、戦国の世は一応の収束をみました。

しかし、天正19年(1591年)に弟の秀長と、後継者に指名していた鶴松が病死。
そのため甥の秀次を養子にして家督を継がせ、関白の地位を譲り、秀吉は太閤(前関白の尊称)と呼ばれるように。
また、室町幕府15代将軍だった足利義昭に「将軍になりたいから養子にしてくれ!」とも頼んだそうですが、これは断られています。

秀吉子飼いの猛将・加藤清正が活躍した文禄の役とは?

秀吉子飼いの猛将・加藤清正が活躍した文禄の役とは?

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しかし、天下を統一しても秀吉の野望はさらなる膨張を始め、秀吉は朝鮮に対して入貢を要求するも拒否され、これに憤慨し朝鮮出兵を計画。
文禄元年(1592年)、全国の大名に号令し肥前名護屋城を拠点として総勢16万もの大軍を渡海させました。

この文禄の役で活躍したのが、猛将・加藤清正。
父を幼くして失った清正は遠縁の秀吉とその妻おねを頼り、夫妻に育てられたまさに秀吉子飼いの武将。
賤ヶ岳の合戦で七本槍として活躍し、後に肥後熊本の大名となりました。

文禄の役では二番隊を率いて漢城を落として北上し、朝鮮の王子二人を捕らえて満州まで進出。
また清正はこの戦いで城ぜの攻撃兵器・亀甲車(きっこうしゃ)を考案し、秀吉のに賞賛されています。

しかし、朝鮮義兵の蜂起と朝鮮の宗主国・明の派兵により攻守は逆転。
こうした中小西行長が進めていた明との和平交渉を、清正が妨害したため、秀吉の怒りを買い、謹慎処分となってしまいます。

しかし、秀吉への忠義は変わらず、慶長地震では謹慎中の身を顧みず、秀吉の身を案じて伏見城へ駆けつけ、「地震加藤」と呼ばれました。

続く慶長の役では小西行長と反目しながら戦い続け、劣勢の日本軍にあって蔚山城の過酷な籠城戦を戦い抜くなどしています。
また、朝鮮の役での小西行長や石田三成との確執は、後の関ヶ原の戦いに大きな影響を及ぼすことに。

また文禄2(1593年)に側室の淀殿が拾(ひろい、後の秀頼)を産みますが、これにより秀次は「私は後継者の立場から追われるのではないか」と情緒不安定になり、後に秀次に謀反の疑いがかかり、秀次は切腹に追い込まれます。

実際の秀次はどうなったかはわかりませんが、大河ドラマ「真田丸」で描かれた秀次は好印象な人物だったので、辛い事件でした。

亡くなる直前の秀吉は?

一進一退となった文禄の役で士気の低下した日本軍は明から申し出のあった和平交渉に臨むことに。
交渉に当たったのは小西行長で、豪商の息子から秀吉に抜擢されて肥後の大名になった変わり種大名。

朝鮮出兵の無謀さをよくわかっていた行長は、捕虜にした朝鮮の将を介して朝鮮・明との講和交渉に尽力しますが、秀吉が勝利ありきの要求をし、明も日本軍の全面撤退を申し出たため、交渉は進まず。
また加藤清正が交渉を無視して軍を進めたため交渉が頓挫するなど苦労が絶えず。
それでも文禄2年(1591年)に漢城から撤退が決定。

以後は肥前名古屋を舞台に講和交渉が行われますが、秀吉が要求した講和条件が全て無視されたため交渉は破綻。
そのため行長と明側の沈惟敬が、それぞれ相手が降伏したという偽りの講和交渉で持って明と秀吉を欺く計画を立てたことに秀吉は怒り、慶長2年(1597年)2月、再度朝鮮出兵を命じました。

しかし、慶長の役は日本軍の快進撃で始まった文禄の役とは違い、9月初旬に黒田長政が稜山で敗退して以降苦戦の連続。
加藤清正や浅野幸長(よしなが)が戦っていた蔚山城は12月に包囲され、凄惨な様相に。
日本軍が撤退するきっかけになったのは秀吉が死んだこと。

慶長3年(1598年)、醍醐寺に庭園を造り、各地から700本の桜を植えて秀頼や奥方たちと1日だけの花見を楽しみました(醍醐の花見)。

その後秀吉の病は悪化していき、床に伏せるように。
そして、徳川家康・毛利輝元・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家ら五大老と前田玄以(げんい)や長束正家(なつかまさいえ)に遺言書を託し、また家康など諸大名に自分が亡くなった後の秀頼の後見を依頼し、8月18日にその生涯を終えました。

百姓以下の身分に生まれ、土木工事や兵糧攻めを得意として関白まで登りつめた秀吉

秀吉は百姓以下の身分に生まれた可能性があり、針売りと猿まねで生計を立て、正妻のねねや軍師・竹中半兵衛などに助けられ、織田家で出世していきます。

また墨俣一夜城や高松城水攻め、石垣山一夜城など土木工事が得意で、三木城や鳥取城、小田原城などを兵糧攻めにし、兵を死なせない戦術を好み、また「人たらし」という人間性も発揮しました。

秀吉に関しては、私は他の記事でも触れてきたので今回それが役に立ち、また過去の記事の内容を多めに触れてみたのですが、いかがでしたか?

出自など、秀吉の謎の部分もこれから解明されていけば、と思います。

では、ここまで読んでくれてありがとうございます!

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