「大化の改新」を果たした「中臣鎌足」とは?

日本史の勉強の際に必ず登場する出来事の1つとされる645年の「大化の改新」。日本の飛鳥時代に発生したこの出来事は、日本の歴史を変える大きな政治的改革として知られていますが、その中で登場する人物で有名なのが「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」。この改革を中心人物として仕切った彼は、いったいどのような人物であったのでしょうか。今回はそんな「中臣鎌足」について、彼が残した功績や家族関係、関係するスポットなどから見てみましょう。

改新前・蘇我氏へ感じた危機感

若いころから頭角を現す

若いころから頭角を現す

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中臣鎌足は西暦614年(推古天皇22年)に「和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)」あるいは「大和国大原(現在の奈良県明日香村)」で誕生したと伝えられています。
父は推古天皇などの天皇に仕えた大夫「(まえつぎみ)」に就いていた「中臣御食子(なかとみのみけこ、中臣弥気(なかとみのみけ)とも言う)」、母は天皇に仕えた「大伴連噛(おおとものむらじくい)」の娘である「智仙娘(ちせんのいらつめ)」。

若いころから中国史所に興味を持った鎌足は「六韜(りくとう、中国を代表する兵法書の1つ)の暗記に励むと見事習得。
隋・唐へ遣唐使として派遣されていた僧「南淵請安(みなぶちのしょうあん)」が開いた塾で儒教を学び、秀才として評価されるように。
このころからすでに歴史に名を残す準備は進んでいたのですね。

鎌足の生まれた「中臣家」は古くから神事・祭祀(さいし)を取り仕切る豪族であり、鎌足も644年(皇極天皇3年)に「神祇伯(じんぎはく、朝廷の祭祀を司る)」に任命されますがこれを拒否、摂津国(現在の大阪府北中部から兵庫県南東部にあたる)三島の別邸に退くことになります。

豪族・蘇我氏による独裁に危機感

鎌足が秀才として評価され始めた裏で、日本は大きな危機を迎えようとしていました。
日本では622年(推古天皇30年)に朝廷の政治を取り仕切っていた聖徳太子、628年(推古天皇36年)には推古天皇が亡くなり、大臣(おおおみ、天皇の補佐を務めた役職)を輩出する有力豪族「蘇我氏(そがし)」が政治の実権を握ることに。

権力を手にした蘇我氏は推古天皇が生前に継嗣(けいし、天皇のあととり)を定めていないことを知ると天皇の座に近かった聖徳太子の子「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」の擁立を嫌い、もう一人の候補であった「田村皇子(たむらのおうじ)」を「舒明天皇(じょめいてんのう)」として指名することに。

舒明天皇を立てた蘇我氏はますます自分たちの力を誇示するようになり、舒明天皇の子「古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)」を「皇極天皇(こうぎょくてんのう、後の斉明天皇でもある)」の次期天皇にするため山背大兄王を自害に追い込み、聖徳太子一族を滅亡させてしまいます。
一族を滅亡させれば自分たちの考える「独裁政治」を行うことができると考えたのでしょう。

この状況を知り日本の危機を感じ取った鎌足は「蘇我氏を滅亡させなければ」と決心することに。
しかし当時の鎌足は1人の役人にすぎず、自分の力だけでは国を動かすことは不可能でした。
ここから鎌足は目的を達成するために、協力してくれる味方を探し始めるのです。

中大兄皇子との出会い・戦いへ

出会いのきっかけは意外なところ

出会いのきっかけは意外なところ

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蘇我氏滅亡という大きな計画を実現すべく味方を探していた鎌足。
そこで最初に接近したのは皇極天皇の弟「軽皇子(かるのみこ、のちの孝徳天皇)」でしたが、器量の足らなさを理由に共闘することを断念、その他の味方を探すことに。

そんなある日「法興寺(飛鳥寺、596年(推古天皇4年)に蘇我馬子(そがのうまこ)が開基した日本最古の寺院)」西側の広場を訪れた鎌足は、蹴鞠(けまり)をして遊ぶ1人の青年に出会います。
青年が蹴った際に脱げた靴が鎌足の方へ転がってきましたが、その青年こそがのちの「天智天皇(てんじてんのう)」になる「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」でした。
青年が皇子であることを知った鎌足は転がってきた靴をひざまずいて渡し、「この人につけば目的は成し遂げられる」そんな思いを感じたのかそこで接触を図ることに。

すると皇子も鎌足と同じで蘇我氏をよく思っておらず、日本の危機を感じ取った2人は意気投合。
「共に組んで蘇我氏を打倒しよう」と同じ目的を持った2人は、意外なきっかけから出会いを果たすことになったのです。

蘇我氏滅亡へ「乙巳の変」

こうして皇子を味方につけた鎌足は、いよいよ蘇我氏滅亡へ本格的に動いていくことになります。
その舞台は645年(皇極天皇4年)の「三国の調」。
三韓(新羅、百済、高句麗)から進貢(三国の調)の使者が来日するこの儀式に大臣・蘇我入鹿(そがのいるか)が出席することを突き止めた2人は、ここを暗殺の舞台にすることに。

6月12日、斬る役を任されたのは「佐伯子麻呂(さえきのこまろ)」と「葛城稚犬養網田(かずらきのわかいぬかいのあみた)」でしたが、2人は緊張のあまり突撃に行けません。
その状況を打破したのは皇子本人で、儀式の会場に飛び込むと入鹿の襲撃に成功。
続いて子麻呂と稚犬養網田が入りここで入鹿を暗殺、翌日には入鹿の父・蘇我蝦夷(そがのえみし)が自害し蘇我氏は滅亡することに。

このとき皇極天皇への上奏文を読み上げていた「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ のいしかわまろ)」は入鹿の従兄弟でしたが、この際には皇子側に味方しており、上奏文の読み上げは「暗殺への合図」を意味するもの。
「目的のために敵方の人物も巻き込む」鎌足と皇子の見事な連携で蘇我氏を滅亡させたこの事件は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれ、後に続く「大化の改新」の第一歩となるのです。

大改革「大化の改新」へ取り組む

大改革「大化の改新」へ取り組む

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こうして蘇我氏滅亡を果たした2人は、いよいよ本格的な改革に取り組んでいくことになります。
この年に日本最初の元号となる「大化」となり、ここから有名な「大化の改新」と呼ばれる改革が進行。
中大兄皇子は孝徳・斉明天皇の皇太子となり、鎌足は最高顧問的位置づけとなる「内臣(うちつおみ)」に就任。

中でも代表的なものが646年(大化2年)に出された「改新の詔(みことのり)」。
この方では豪族が所有していた人民・土地を回収し天皇の所有とする「公地公民」、全国を「国」に分け「国司(国を治めるために設置される役職)」を置く「中央集権」、公民に「口分田(くぶんでん)」と呼ばれる耕地を貸し与え死後に国家へ返還させる「班田収授(はんでんしゅうじゅ)」、公民に税を負担させる「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」が定められました。

その他には身分に応じて墓の規模が決まる「薄葬令(はくそうれい)」制定、「伴造(とものみやつこ、朝廷に仕える者を統率・管理した者)」や「品部(しなべ、朝廷に仕えた人々の集団)」を廃止、特定部族による役職の踏襲を途絶えさせ、冠位制度の改訂、礼法の策定なども実施。
鎌足はこうした新政策の策定に陰で関わることとなり、急激な改革に反発する勢力をなだめる役割も担っていたとされています。

有能な「ナンバー2」として活躍

歴史的改革「大化の改新」を陰で支える鎌足は、皇子と仕事面以外での交流(学問交流もあった)を行うなど、深い信頼関係を築くことに。
649年(大化5年)に彼と対立していた「阿倍内麻呂(あべのうちまろ)」と石川麻呂が亡くなるとさらに勢力を伸ばし、647年(大化3年)には「七色十三階冠(ななしきじゅうさんかいかん)」制度下での「大錦(だいきん、13番目中7番目の位)」、654年(白雉5年)頃には5番目の位である「大紫冠(だいしかん)」に昇格。

668年(天智天皇7年)には中大兄皇子が天皇に即位、天皇から全幅の信頼を得ていた鎌足は実質ともに「ナンバー2」となります。
しかし鎌足はその翌年669年(天智天皇8年)に重病にかかってしまい、死を迎えようとしていました。
そんな鎌足を見舞った天皇は「七色十三階冠」の最高位である「大織冠(だいしょくかん)の位、「内大臣(ないだいじん)」の位を授けることを決定。
その後の時代に「大織冠」の位を授かった者はおらず、天皇がどれだけ鎌足の功績を評価していたかがわかりますね。
そして天皇から最高の栄誉を授かった鎌足は、その翌日に56歳で生涯を閉じました。

また鎌足はこのときに「藤原」の姓を受け、これがその後の奈良・平安時代に栄える藤原一族の先祖となります。

鎌足の地を受け継ぐ家族・妻

天皇から鎌足の妻へ「鏡王女」

天皇から鎌足の妻へ「鏡王女」

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鏡王女(かがみのおおきみ)は鎌足の妻であり、後に「藤原不比等」の母になる人物。
天武天皇の妃であった歌人「額田王(ぬかたのおおきみ)」とは姉妹関係であったとされていますが、はっきりしたことは不明。

彼女は最初に天智天皇の妻となりましたが後に鎌足の妻に変わり、鎌足が病気になると彼の病気治癒を祈って「興福寺」を建立したと伝えられています。
その後は683年(天武天皇12年)7月5日に病気療養中のところを天武天皇が見舞った様子が「天皇、鏡姫王の家に幸して、病を訊ひたまふ。
庚寅(五日)に、鏡姫王薨せぬ(秋七月 丙戌朔己丑 天皇幸鏡姬王之家 訊病 庚寅 鏡姬王薨)」と「日本書紀」に記されており、見舞った翌日に他界。

また彼女は「万葉集」に和歌を残しており、「神奈備の石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる(「神奈備乃 伊波瀬乃社之 喚子鳥 痛莫鳴 吾戀益」)」という歌は彼女が鎌足に向けたもので、「神奈備(かむなび、神がいるとされる森)の石瀬の社(いわせのもり、現在の奈良県生駒町あたりとされる)の呼子鳥(カッコウと言われる)よ、恋しい気持ちが募るだけだから激しく鳴かないでおくれ」という意味とされています。

鎌足の次男「藤原不比等」

鎌足は2人の息子を設けましたが、そのうちの1人が659年(斉明天皇5年)に生まれた「藤原不比等(ふじわらのふひと)」。
鎌足の次男として生まれた不比等は672年(天武天皇元年)に勃発した「壬申の乱(じんしんのらん)」時は天智天皇の第一皇子・「大友皇子(おおとものみこ)」方についていましたが敗戦、朝廷の中枢から藤原氏が追放されたことで下級官人から昇進していくことに。

しかし不比等はここから出世街道を歩んでいきます。
689年(持統天皇3年)頃になると天武天皇の皇子「草壁皇子(くさかべのみこ)」に仕えるようになり、判事にも就任。
天智天皇の娘「持統天皇(じとうてんのう)」の孫「珂瑠皇子 (かるのみこ)」を「文武天皇(もんむてんのう)」として擁立することにも貢献、政治の表舞台に登場するように。

その後は重要な法律の制定にも関与するようになり、日本最初の本格的法典「大宝律令(たいほうりつりょう、701年(大宝元年)に制定された)」、「養老律令(ようろうりつりょう、757年(天平宝字元年)に施行された)」の編纂(へんさん)に中心人物として携わりました。

さらに即位させた天皇に娘の「藤原宮子(ふじわらのみやこ)」を嫁がせると、2人の間に生まれた「首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)」のもとにもう一人の娘「光明子(こうみょうし)」を嫁がせ、自分の足場固めもしっかり行います。
こうしたしたたかさについては父親と似ているところがありますね。

不比等の娘でのちの皇后「光明子」

不比等の娘でのちの皇后「光明子」

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不比等と妻で女官でもあった「県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)」の娘として生まれた「光明子」は、本名を「藤原安宿媛(ふじわらのあすかべひめ)」と言い、鎌足から見て孫にあたる人物です。

彼女は16歳のときに文武天皇と不比等の娘・宮子の間に生まれた「首皇子(おびとのみこ、後の聖武天皇)」に嫁ぎますが、この結婚は不比等が藤原家の勢力拡大・天皇家に自分たちの家計を入れる目的で行われたとの説も。
不比等が720年(養老4年)に亡くなった後の724年(神亀元年)、不比等の息子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の力を借りて初の非皇族・人臣皇后に。

光明子は仏教に篤く帰依(きえ、神の力にすがること)し「東大寺の大仏」や「国分寺」の設立を進めた人物でもあり、帰依の心に基づいた「悲田院(ひでんいん、貧しい人を救済する施設)」や医療施設である「施薬院」を設置、現代で言う「社会福祉」事業を行っていました。
その他756年(天平勝宝8年)に天皇が亡くなると死後四十九日に天皇の遺品などを東大寺に寄進、これがのちの「正倉院」になっています。

他では能書家としても知られており、中国・燕(えん)の武将「楽毅 (がくき) 」について記した「楽毅論」の臨写本、「杜家立成雑書要略(とけりっせいざっしょようりゃく、雑事に関する日常の往復書簡の文例要略)」といった著作を執筆。
これらは正倉院に現在も残されています。

後世に残された和歌・家紋

天智天皇と関係する名言・和歌

天智天皇と関係する名言・和歌

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鎌足が残した有名な和歌の1つに「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」という「万葉集」に残されたものがありますが、これは「私は安見児を得た、皆が望んでも手に入れることのできない安見児を得ることができたのだ」という意味。

和歌に登場する「安見児(やすみこ)」とは天智天皇に仕えた「采女(うねめ)」と呼ばれる身分の女性で、天皇や皇后の食事・身の回りの雑務を専門に行う女官のこと。
天智天皇は1人の女官としてだけではなく「側室」にするほど気に入っていたとされ、相当な美人であったと伝えられています。

天皇についている女性ということで普通の人では当然近づくことはできませんが、鎌足が彼女を気に入っていることを天皇が知ると、あっさりと鎌足に与えてしまったのです。
これは鎌足と天皇の長い信頼関係が生んだ出来事と言え、この和歌は鎌足が気に入った女性を得たことの喜びが伝わるものとなっています。
天皇との良好な関係で気に入った女性をも得てしまう鎌足、恐るべしと言ったところでしょう。

この他名言では日本書紀に残された「大きなる事を謀るには、輔有るには如かず」というものがあります。
これは鎌足が中大兄皇子とともに成し遂げた「大化の改新」のときに皇子に向け発した言葉とされており、「改新のような大きなことを成し遂げるには、敵の中にも味方を見つけることが重要である」という意味。
改新の際には敵方の蘇我氏についていた「蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ のいしかわまろ)」が皇子側につけており、この言葉は皇子に大きく影響していたのかもしれません。

特徴的な藤原氏の「家紋」

鎌足から始まった藤原氏の繁栄は続き、平安時代の中頃からは藤原不比等の次男「(ふじわらのふささき)」から始まる「藤原北家(ふじわらほっけ)」が長く政権の頂点に立つように。
その藤原氏は「家紋」に特徴があります。

その藤原北家で使用される家紋の1つは「藤紋」と呼ばれるもので、古代から美しい花として愛されてきた「藤」の花が描かれたもの。
太い幹に絡みついて繁茂するその姿が「繁殖力の強さ・長寿」を表現するものとして使用され、天皇家と強い結びつきを持ち大きく繁栄していった藤原氏には最も適した家紋であったということです。
その中で公家(くげ)の「一条家」が使用する紋は「一条下がり藤」と呼ばれるもので、花房が垂れ下がっている形が特徴。

また藤原氏では藤以外の家紋を使用する家系もあり、「公家藤原」の「五摂家(ごせっけ、鎌倉時代に成立した藤原氏の嫡流)」最初の家系である「近衛家(このえけ)」では「牡丹(ぼたん)」を使用。
家の家祖である「近衞基実(このえもとざね)」の邸宅が「近衛大路(このえおおじ、現在の京都・出水通にあたる)」に面したことから「近衛牡丹」と呼ばれるように。
そのほか江戸時代末期まで関白(かんぱく、天皇に代わって政治を行う)を務めた「鷹司家(たかつかさけ)」も牡丹を使用し、「鷹司牡丹(たかつかさぼたん)」と呼ばれました。

鎌足にゆかりのある場所

大織冠の冠が発掘された「阿武山古墳」

「阿武山古墳(あぶやまこふん)」。
大阪府高槻市奈佐原(なさはら)・茨木市安威(あい)にかけて築かれた古墳で、高槻市営バス「消防署前」から徒歩約30分の阿武山山腹(標高281.1m)に位置しています。

古墳は1934年(昭和9年)に京都大学の地震観測施設の拡張工事を建設している際に発掘されたもので、その後は京都大学名誉教授の梅原末治氏らによって発掘調査を実施。
時代としては7世紀前半~後半の古墳とされており、直径約80mの古墳には花崗岩(かこうがん)の切石とレンガで造られた石室、中央の棺台上には「夾紵棺(きょうちょかん、漆を貼り重ねて造られた棺)が置かれていました。

発掘当時は墓室の規模や石榔(石室)構造、埋葬形態の特殊さから「貴人の墓」として話題となり、その棺の中には60歳前後の男性の遺体が安置。
その頭部には玉枕と冠がありましたがその冠は「大織冠」のものと考えられ、日本の人物では鎌足以外に与えられていないことから、鎌足の墓と考えられたことも。
1983年(昭和58年)8月30日には国の史跡に指定されており、山の中腹にある「阿武山見晴らし台」は絶景を楽しめる夜景スポットにもなっています。

鎌足を主祭神として祀る「談山神社」

鎌足を主祭神として祀る「談山神社」

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近鉄桜井駅から「桜井市コミュニティバス・談山神社」下車約5分の場所にある「談山神社(たんざんじんじゃ)」は、奈良県桜井市の多武峰(とうのみね)にある神社。
鎌足を主祭神「談山大明神」として祀っています。

神社がある多武峰(とうのみね)はかつて鎌足と中大兄皇子が「大化の改新」の談合を行った場所とされ、678年(天武天皇7年)に鎌足の長男で僧「定恵(じょうえ)」が唐からの帰国後に「十三重塔」を建立したのが神社の歴史の始まり。
現在残された塔は室町時代の1532年(享禄5年)に再建されており「木造十三重塔」としては世界唯一の建築物。
神社の名前は談合を行った「談い山(かたらいやま)」というところからきていると言われています。

現在は境内に咲く花々が見どころとなっており、季節ごとに楽しめる桜や新緑、紅葉が見どころに。
神社は「パワースポット」としての側面も持ち、「東殿」は鎌足の妻で縁結びの神とされる「鏡女王(かがみのおおきみ)」を祀ることから「恋神社」の別名が存在(神社へ続く「恋の道」もパワースポット)。
神が宿るといわれる「むすびの岩座(いわくら)」は撫でると恋愛や人間関係、事業など「むすびの願い事」を叶えてくれると伝えられています。
住所:奈良県桜井市多武峰319

子宝に霊験のある井戸もある「大念寺」

子宝に霊験のある井戸もある「大念寺」

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阪急バス「安威(あい)」バス停より徒歩5分の「大念寺(だいねんじ)」は、大阪府茨木市安威にある「浄土宗知恩院(ちおんいん)派」の寺院。
鎌足の長男「定恵(じょうえ)」の開基とされ、中世には鎌足の授かった位から「大織冠堂」と称したことも。
天正年間(1573~1592年)に専誉(せんよ)上人が来たことで浄土宗の道場となります。

鎌足の別宅があったとされる境内には「黄金竹(おうごんちく)」と呼ばれる黄色の笹竹が植えられており「むやみに刈ると熱病にかかる」、鎌足の首だけ改葬したため「黄金竹の先端だけ枯れる」という伝説が残されていることで有名。

敷地内にはパワースポットとして、仏さまにお供えする閼伽水(あかすい)を汲むための「閼伽井(あかい)」もあり、子どもに恵まれない女性が何度もお参り、井戸水を飲むと子宝に恵まれたという伝説も残される「子宝・子授けに霊験のある井戸」とも言われています。
本堂には「阿為神社(あいじんじゃ、鎌足の勧請で創建と伝わる)」から移された茨木市指定文化財の「木造毘沙門天立像」や「木造地蔵菩薩立像(雨乞い地蔵とも言う)」などが安置され、寺院の見どころに。
住所:大阪府茨木市安威3-17-3

鎌足にまつわる品々が見られる場所

皇子との出会いがわかる「神宮徴古館」

皇子との出会いがわかる「神宮徴古館」

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鎌足に関する絵画は三重県最大の観光スポット・パワースポットである「伊勢神宮」から車で約12分の場所にある「神宮徴古館(じんぐうちょうこかん)」にあります。
1909年(明治42年)に国内最初の私立博物館として開館した博物館で、式年遷宮や「社殿の復原展示」など伊勢神宮に関する資料を展示。

その博物館内に残る鎌足を描いた絵画は、1933年(昭和8)の皇太子(今上天皇)生誕記念に当時の一流画家たちが手掛けた日本の歴史画78点の中の1つ。
取り上げているのは鎌足が中大兄皇子の前でひざまずく場面で、これは蘇我氏打倒に向けた味方を探していた鎌足が蹴鞠をしていた皇子を見つけ、皇子の靴が脱げたところで丁寧に手渡した場面です。
日本の歴史が大きく動くきっかけとなった歴史的瞬間を表現しているのですね。

この絵画を描いたのは東京出身の日本画家「小泉勝爾(こいずみかつじ)」で、風景画・花鳥画を繊細なタッチで描いた作品を多数制作した画家。
そのほかには陶芸や版画、水墨山水(墨の濃淡のみを使って描かれる山水画)などを発表し、死後の1953年(昭和28年)には「山を切る道」が文化庁買上げとなっています。
住所:三重県伊勢市神田久志本町1754-1

藤原氏繁栄の姿が見える「奈良国立博物館」

藤原氏繁栄の姿が見える「奈良国立博物館」

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奈良国立博物館(ならこくりつはくぶつかん)は奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある博物館で、近鉄奈良線「近鉄奈良駅」からは徒歩約15分。

ここに所蔵されている「藤原鎌足像」左足を踏み下げ両手で笏(しゃく、束帯を着る際に右手に持つ細長の薄い板)を持つ姿となっていますが、これは鎌足を本尊とする「談山神社」の前身「多武峯(とうのみね)聖霊院」に安置された鎌足像が「天下に異変が生じると破裂する」と怖がられ、その像に基づいて造られたため。

作品は鎌足が大きく描かれ、左下には次男の「藤原不比等」、右下には長男で僧であった「定恵(じょうえ)」の姿。
鎌足を大きく描いているのは鎌足を「藤原氏の先祖」ということを強調するためで、この作風は「多武峯曼荼羅(とうのみねまんだら)」と呼ばれています。

その後ろに描かれた御簾(みす、宮殿や社寺で用いられるすだれ)には藤が絡みつく松が描かれており、これは「天皇家に寄り添い、政権を支える藤原氏の繁栄」を意味する表現。
藤原鎌足像は2点所蔵されており、1つは室町時代の1515年(永正12年)に描かれたもの、もう1つは安土桃山時代の16世紀に描かれたものとされ、両者には若干の色味の違いがあります。
住所:奈良県奈良市登大路町50

鎌足の名がついた桜が存在

鎌足の名がついた桜が存在

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藤原氏の先祖である鎌足の名前は花の名前にも残されており、それが「鎌足桜」と呼ばれるです。

鎌足の祖父である「猪野長官(いのうちょうかん)」は40歳過ぎても子宝に恵まれず、高蔵観音(千葉県木更津市)へ参拝に行ったところ娘が誕生。
しかし娘はなかなか嫁ぐことができず再び観音へ参拝、そのあと生まれた男の子がのちの鎌足でした。
鎌足は「大化の改新」後に観音へお礼参りに訪れ、持っていた桜の木の杖を指し旅装束に着替えると、杖が根付きそこから桜が咲いたとの言い伝えがあります。

桜は長く千葉県木更津市の「矢那(やな)」の旧家で育てられてきましたが、時代の経過により枯死寸前の危機に。
しかしそこから京都の桜作りの名人「第15代佐野藤右衛門氏」の手によって再生。
桜は4月中旬から下旬にかけて見ごろを迎える遅咲きの八重桜で、めしべの先が「鎌」のように曲がることも特徴。
またかつて観音周辺には「鎌足村(1944年(昭和19年)に木更津市に編入)」という村があった時代もあり、現在も「鎌足」の名を残す小学校が残存。

桜は2005年(平成17年)4月に木更津市の指定文化財になり、大阪造幣局(大阪市北区)や茨城県鹿嶋市(鎌足の出生地説がある)でも姿を見ることができます。

現代にも通用する「先を読む力」があった

今回取り上げた中臣鎌足の人生を見ていくと、彼が関わった「大化の改新」という功績はもちろんすごいですが、そこに達するまでに「誰と組めば目的を達成することができるか」、「その後に続く子孫にまでどのような影響を与えるか」など、相手の力量を見抜く能力や先を読む力に長けていたことも良くわかります。
こうした彼の力は現代にも通用するものと言え、仮に彼が現代に生きていれば「頭の切れるやり手のビジネスマン」として成功していたのかもしれません。
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