1200年前のクリスマスの日に始まったヨーロッパの歴史!カール大帝の戴冠によってどんなもの?

紀元800年のクリスマスを祝うためにフランク王国のカールは、サン=ピエトロ大聖堂に行き、祈りを捧げていました。その時突然、教皇レオ3世がカールに冠をかぶせたのです。とってもロマンティックなシチュエーションだと思いませんか?しかも、これが誰もが憧れるヨーロッパの始まりとなったんです。こんな素敵な歴史が、世界にとってどんなものだったのか不思議に思いませんか?今回は、カール大帝の戴冠の歴史に触れてみたいと思います。

カール大帝ってどんな人

カール大帝ってどんな人

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742年4月2日に、当時カロリング朝をひらいたピピン3世の子供として生まれました。
768年に弟のカールマンと分国統治をしましたが、771年に弟が早世したため、その後、カール大帝が亡くなる814年まで単独政治が続きました。

文武両道の優れた才力の持ち主だったカール大帝。
古典文学を好んで読んでおり知的人物でした。
このカール大帝は、あるスポーツが大好きで、宮殿内にはその施設まであるんです。
なんだと思います?正解は水泳なんですよ。
もちろん施設とは、プールのことです。
馬術も得意で大食感でグルメだったともいわれています。
ちょっと親しみが持てそうな人物ですね。
トランプのハートのキングは、カール大帝がモデルとなっています。

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でも、結構頑固な人で、戦争でも負け知らずだったとか。
ベルギーのリエージュには、現在のカール大帝の銅像が立っており、威厳ある姿を見ることができます。
それでは、中世以降にキリスト教のヨーロッパ王国の太祖となり、「ヨーロッパの父」と呼ばれた、カール大帝の戴冠についてお話ししますね。

フランク王朝は一度衰退していた

フランク王朝は一度衰退していた

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かつて、フランク王国を起こしたのが、メロヴィング家のクローヴィスです。
711年には最初の民族大移動をした西ゴート王国がウマイヤ朝に滅ぼされるなど、ウマイヤ軍がフランク国王領内に侵入してきていました。
これは、キリスト教の領地にイスラム教が入り込むという宗教においての戦争でもありました。

732年の「トゥール=ポワティエ間の戦い」という大きな戦争も起こりましたが、この戦いにはフランク王国が勝利し、ここで、カール大帝のピピン家が権威を確立しました。
ピピン家はカールの子孫を意味する「カロリング家」と称されるようになり、その後、封建社会へと進んでいく「カロリング朝」が生まれました。

王と教皇は親密な関係にあった

王と教皇は親密な関係にあった

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カール大帝の父「短躯王(たんくおう)ピピン3世」は、教皇に王位を承認してもらう代償に、「ピピンの寄進」と呼ばれる偉業を成し遂げています。
教皇にとって脅威の存在だったゲルマン派のランゴバルド王国の侵入を阻止しました。

そして、ピピン3世は、イタリア遠征を行います。
ピピン3世は、ランゴバルド王国を倒した戦利品として奪い取ったイタリア北東部の「ラヴェンナ地方」を教皇に捧げています。
これが「ピピンの寄進」と呼ばれるものです。
その後、ピピン3世はローマでも寄進を行っており、カール大帝も774年に中部イタリアの地を寄進しています。

カール王の誕生

カール王の誕生

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ピピン3世が亡くなると、当時、成人していたカールとその弟カールマンが後継者となり、カールは、アウストラシアとネウストリアを治めました。
カールマンはブルグント、プロヴァンス、ラングドックを継ぎました。
しかし、二人の仲は悪かったといわれています。
711年にカールマンが亡くなると、その妻子はランゴバルド王国へと亡命しています。

この時、カール大帝は、かつてのフランク王国全域を手中に収めたのです。
一方、ローマ教会は、ビザンツ皇帝の支配下にあったコンスタンティノープル教会と対立していました。
そのため、ローマ教会は、ビザンツ皇帝に勝てる者の力を必要としていました。
そのお眼鏡にかなったのが、カールでした。

カール大帝が戴冠までに行った功績

カール大帝が戴冠までに行った功績

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王を継承したカールの功績は目覚ましいものでした。
彼は、積極的に遠征を行い、領地を確実に増やしていきました。
北ドイツにいたゲルマン人の一派「ザクセン」を征服し、イタリア北部の教皇を脅かす存在だったランゴバルドは、カールによって滅亡しました。
ドナウ川の中流からイベリア半島の後ウマイヤ朝も攻撃しており、全勝しています。

このように征服に征服を重ねた結果、西ヨーロッパが統一されていったのです。
ここまで大きくなった領土を監督するために、地方行政官として伯を置き、伯を監督する巡察使も派遣し中央集権化を確立しました。
古典が好きだったカールは、古代ローマ文化の復活を目指し文化復興の運動を起こし、首都アーヘンではカロリング=ルネサンスを花開かせたのです。
これが後に、ルネサンスへと成長していきます。

カール大帝の戴冠

カール大帝の戴冠

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これらの活躍をじっと見ていた当時の教皇レオ3世は、カールを大帝にすることを密かに決めていました。
もちろんカール自身には内緒で進められたことです。
ローマのサン=ピエトロ大聖堂の祭壇で、ひざまづいているカールに教皇は、いきなり皇帝として認めるとする冠を彼の頭の上に置きました。

どんなに嬉しかったことでしょうね。
これまでの苦労が吹っ飛んだのでは?それだけでなく、教会にいた群衆は一斉にカールが皇帝になったことを喜び、歓喜の声をあげたといわれています。
後にカールの戴冠の光景は、色々な画家の手によって、フレスコ画や絵画に描かれています。

カール大帝の戴冠が行われたのには理由があった

ローマ教会とビザンツ皇帝が犬猿の仲だったことは、先ほど少しお話ししたと思います。
ローマ教皇は、キリスト教を守る政治勢力としての役目を、カールを大帝とすることで取り付けたのです。
ピピン王の時代にキリスト教世界を守った実績もある、カロリング家一族の出身だったことも信頼されたことといえるでしょう。

これまでの業績により、教皇レオ3世は、カールがフランク王国を復興させる王に相応しいとして、戴冠を強行したのです。
カールへの戴冠をしたと同時に、皇帝復活の宣言を行い、正式に西ローマ帝国を復興させました。
所謂、古代のローマ帝国とゲルマン帝国、ローマ教会の国の3つが融合した新体制が成立した瞬間でした。

カールへの戴冠によって成し遂げたこと

カールへの戴冠によって成し遂げたこと

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これは、西ヨーロッパ統一ということも現しており、政治的、文化的、宗教的にも独立した中世の西ヨーロッパの世界が誕生したということです。
なんだか、カール大帝の功績を見ただけに、ちょっとジーンとしてきませんか?これまでのカール大帝が文武両道という才能の持ち主ということもあったでしょうが、彼の努力が西ヨーロッパを造り上げた結果といっても過言ではないでしょう。

独自の政治姿勢を貫き、ローマ教会はフランス王国を後ろ盾にし、ビザンツ皇帝から独立した存在になることができたのです。
西ヨーロッパを樹立すると共に、文化においても西ヨーロッパ文化圏も確立しています。

カール大帝と教皇レオ

カール大帝と教皇レオ

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カール大帝の人生は才力を武器に、フランク王国を復活させた英雄的存在の人物でした。
実は、カール大帝はビザンツ帝国から圧力を受けていたレオを助けたという過去があったのです。
レオは、ビザンツ帝国の関係者と名乗るものに暗殺されそうになったことがあり、アルプスを越えてカールに庇護してもらったことがあり、カールの戴冠は、レオがローマに無事に戻った後に行われているんですよ。

カールは献身的なキリスト教徒だった

カールは献身的なキリスト教徒だった

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伝説では、この戴冠はレオが独断で行ったといわれていますが、これだけの才覚を持ったカールが知らないわけないと思いませんか?一説によると、カールは知っていたら、ローマにはいかなかったという説も残っているのですが…。
でも、その裏には、カールはキリスト教徒としての使命感によるものだったのではないでしょうか?

カール大帝が残した言葉には、「二つ目の言語を持つということは、二つ目の魂を持つということだ」という言葉が有名ですが、「平和なくして、神を喜ばせることはできない」や「余の務めは、聖なるキリストの教会を作ること」があるそうです。
キリスト教への信仰心は強かったようですね。

本当の意味でのヨーロッパは、カールへの戴冠から始まった史実です

文武両道なんてとってもかっこよい王だったように見えるカール大帝。
伝記作者のアインハルトは、彼のことを、身長約195cmで小太り。
ふさふさの銀髪と甲高い声が印象的だったようです。
お酒は飲まずに、焼肉が大好きだったとか。
世界中の人々が憧れる地、ヨーロッパの世界を誕生させた彼の功績に感謝の気持ちが湧いてくるのは、私だけでしょうか?
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