なぜ起きた?なぜ終わった?「鎖国」とはどのような出来事?

公開日:2020/3/6 更新日:2020/3/6

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日本の歴史を語る中で欠かせない出来事の1つ「鎖国」。江戸時代に発生したこの出来事は「海外への渡航や通商、交通を大きく制限する」ことを意味するもので、「国際的に孤立した状態を招く出来事」と呼ばれてきましたが、詳しくどのような出来事であったのでしょうか。今回はその「鎖国」について起こった経緯、期間中に発生した出来事、鎖国が終わった後の事情などについて見てみましょう。

鎖国はなぜ起こったのか「背景」

秀吉のキリスト教弾圧から始まる

長い鎖国の歴史が始まるのは1549年(天文18年)のこと。
この年に宣教師「フランシスコ・ザビエル」が来日し、日本に初めてキリスト教を伝来。
それ以降貿易船を通じて宣教師たちが次々と海を渡り、キリスト教の普及を行っていきました。
その後「神の下では平等」という考え方のもと信者は一般市民だけでなく、戦国大名の中にも増えていったのです。
この状況を危惧したのが戦国大名「豊臣秀吉」でした。
キリスト教拡大を抑えたい秀吉は1587年(天正15年)に「キリスト教宣教の制限」を出しますが、宣教師たちは日本にとどまって布教活動を続行。
そこで秀吉は大量に増えたキリシタン(キリスト教信者)が朝廷に対して反乱を起こし「身分制度を維持できなくなる」こと、ポルトガル人による日本人の奴隷売買をやめさせるなどの目的から1587年(天正15年)に「バテレン追放令」を実施。
しかしこのころは南蛮貿易による利益優先で考えていたこともあり、実行は限定的なものでした。

決定打となるのは1596年(文禄5年)に発生した「サン・フェリペ号事件」。
土佐国浦戸(うらど、現高知市)に漂着したスペイン船「サン・フェリペ号」から秀吉が船荷などを没収。
これに対し航海長が世界地図を示し「スペインは大きな国で、日本がどれだけ小さい国であるか」といった趣旨の発言をすると秀吉は「日本征服を計画しているのでは」と疑いキリスト教弾圧を強化。
翌年には26人のカトリック信者が秀吉の命令により処刑、殉教する事件も発生することになります(日本二十六聖人殉教)。

家康時代は黙認姿勢をとっていた

時代が江戸時代に入ると江戸幕府将軍・徳川家康もキリスト教の勢いに警戒心を抱いていましたが、「貿易で利益を得られるのであれば」という理由で布教活動を黙認していました。
しかしそのような姿勢をとっていた家康の考えを変えさせる事件が1609年(慶長13年)に起こります。
この年に元キリシタン大名の「有馬晴信」の朱印船がポルトガル領マカオに寄港、酒場で「マードレ・デ・デウス号」船員と乱闘事件を起こし、60人近い日本人水夫が殺され積荷まで奪われる大事件に発展。
この事件は「マードレ・デ・デウス号事件」と呼ばれる事件に。
1612年(慶長17年)にはキリシタンで事件時に有馬の監視役をしていた武将「岡本大八(おかもとだいはち)」が有馬から賄賂(わいろ)を受け取る「岡本大八事件」が発生、岡本は火あぶりの刑に処されます。

これを受けた家康は「貿易は許可するが、布教を含めキリスト教を禁止」する「禁教令」を制定。
幕府の直轄地であった江戸・京都で教会の取り壊し、宣教師の追放を実施し始めます。
さらに翌年になると禁止の範囲を全国に拡大、追放された宣教師たちは長崎に集められ、そこからマカオやマニラに送還されることになりました。

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