隠岐ユネスコ世界ジオパークに認定の隠岐の島!かつては二人の天皇が流された遠流の国だった

ダイナミックな地形に不思議な生態系、古代には隠岐国として栄えた奥深い歴史を持つ離島です。世界が認めた隠岐の大自然や歴史と文化ってどんなものか気になりませんか?今回は、隠岐に島流しになった二人の天皇の歴史を中心にご紹介したいと思います。

日本海の秘境と呼ばれる隠岐ってどんなところ?

日本海の秘境と呼ばれる隠岐ってどんなところ?

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隠岐の島は、島根半島の沖に浮かぶ大小180もの島々の総称です。
4つが有人島で形成されており、文化や政治の中心地「島後」や3つの島から成る「島前」などが主な観光地となっています。
ローソク島として有名な奇岩や、日本の滝百選に選ばれた壇鏡の滝、パワースポットの八百杉をはじめ、絶景スポットの白島海岸や那久岬、浄土ヶ浦海岸など、さすがジオパークといえる観光スポットが目白押し。

日本最古の牛突きや隠岐民謡、隠岐古典相撲などの伝統文化もたくさんあり、島を巡りながら自然や歴史に触れれば、新たな日本の魅力を体感できるはず。
それでは、隠岐が遠流の国だった歴史を振り返ってみたいと思います。

神話から始まった隠岐

神話から始まった隠岐

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隠岐の島は実は古事記にも登場する古い歴史を持っています。
島前の知夫里島には赤い壁の景勝地があり、そのすぐ側には岩屋古墳を始めとした古墳群が発見されており、古くから人が住んでいたことを確認しています。
また、島後では、打製石器の原料となる黒曜石が産出されており、この石は能登半島や朝鮮半島でも見つかっています。
紀元前5000年ごろには発達した文化があったようで、大陸との玄関口として活躍した地だったことが伺い知れます。

驚くことに古墳は、200基も確認されているそうです。
また、大化の改新のころには、木簡に「隠伎国」という表記があったことも確認されています。

朝鮮半島と日本のはざまで苦労した隠岐

朝鮮半島と日本のはざまで苦労した隠岐

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隠岐国は地域柄、満洲から朝鮮半島北部と現ロシアの沿海地にあった「渤海(ぼっかい)」や朝鮮半島南東部にあった「新羅」などとの争いに巻き込まれることが多かったようです。
763年には、渤海から帰国する日本の使節団が日本海で遭難しており、隠岐に漂着しています。

869年ごろは日本と新羅は緊張関係にあり、弩師(弓の軍事教官)が置かれました。
888年には新羅国人が35人漂着し、新羅船が辿り着いたこともあったようです。

流刑地となった隠岐の中世

流刑地となった隠岐の中世

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遠山の金さんなどの時代劇で、「隠岐へ遠島を申し付ける」とお奉行様が悪人に言い渡すシーンが見られますが、実は隠岐は江戸時代の罪人が送りこまれる前は、政治犯の配流の地となっていたのです。
天皇や公家、役人など様々な人が配流されましたが、その中でも有名な二人がいます。

それが、後鳥羽上皇や後醍醐天皇です。
他にも、平安時代の歌人の小野篁(おののたかむら)などもいます。

どうして、隠岐が配流の地に選ばれた?

どうして、隠岐が配流の地に選ばれた?

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なぜ、隠岐が配流の地となったか、不思議に思いませんか?一説によると、いくら配流になるような政治犯であっても、貴族が飢えて死んでしまうといったことがあってはならないという思惑もあったようです。
昔から既に黒曜石以来の文化が発達しており、現在も名産となっているサザエなど豊富な魚介類に恵まれ、農作物も豊かだったからこそ選ばれたのではないでしょうか?

それだけ、隠岐は昔から安全に暮らせる素敵な地だったことが分かってきます。
でも、隠岐は決して豊かな地ではなく、平地が少なく痩せた地だったんです。
四圃式農法の牧畑など人々の知恵と工夫があったからこそ、貴族が流されるほど豊かな国へと成長しました。

配流された後鳥羽上皇が残した実筆の遺言書

配流された後鳥羽上皇が残した実筆の遺言書

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隠岐って、意外に雅な地なんです。
どうしてかというと京都から天皇たちが流されてきたために、京文化が入り混じった独特の文化ができました。
その要因になった一人、後鳥羽上皇が流された理由について触れてみましょう。

源頼朝が亡くなり源氏の将軍が断絶しました。
帝としての地位だけでなく軍事力も掌握しようと、北条氏の討滅を図ったのが後鳥羽上皇です。
彼は、承久の乱を起こし、承久3(1221)年の42歳の時に海土郡に流されました。
上皇は流されたもののすぐに戻れるだろうと楽観視していましたが、願いは叶わずこの地で一生を終えています。

実は、後鳥羽上皇が亡くなる13日前に自筆で書いた遺言書が残されています。
これは、後鳥羽天皇宸翰御手印置文(国宝)といい手形が付いているんです。
それには、わが子孫を皇位にしなければ、魔物となってこの世に災いを成すというものでした。

その執念が叶ったのか崩御の3年後には、孫で土御門天皇の遺児「御嵯峨天皇」が即位しています。
ちょっと怖いようですが、この地に流された19年の重みと、いつかは政治の世界に戻るという秘めた思いも感じられますね。

隠岐を脱出した後醍醐天皇

後鳥羽上皇が亡くなって100年後の元弘2(1332)年には、今度は後醍醐天皇が45歳で配流されました。
配流される原因になった元弘の乱とは、鎌倉幕府討滅のために後醍醐天皇が企てたクーデターです。
これは、後醍醐天皇の側近・吉田定房の密告により、六波羅探題に知られたため隠岐に流されました。

でも、後鳥羽上皇と違ったのは、自分の力で脱出を試みたのです。
護摩を焚きをして幕府調伏の祈祷をしたり、出雲鰐淵寺に願文を授けたりと自ら行動を起こしています。
守護の佐々木氏の厳しい監視の中、暗闇に紛れて隠岐を脱出し、山陰諸国の武士の協力を得て鎌倉幕府討伐を企てました。
足利尊氏,新田義貞らが挙兵したこともあり、ついに鎌倉幕府は滅びたのです。

両者の配流時代の差

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誰かが助けてくれるだろうと19年も悶々と過ごした後鳥羽上皇と、自ら発起し憎き鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇とは、同じ隠岐に流された者なのに、両者の生き方は全く違ったものになっています。

天皇と上皇という地位の違いや政治的な目的の差などはあるものの、やはり時代背景も起因しています。
100年の間に政治が社会的な矛盾として深まっており、周りの環境の変化など歴史的な面白さもあるようです。

近世の隠岐と黒船来航

近世の隠岐と黒船来航

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慶長5(1600)年、豊臣家三中老の一人だった堀尾吉晴が出雲・隠岐の国主となりました。
寛永11(1634)年から室町時代の隠岐・出雲の守護家の子孫である京極忠高へと変わりました。
寛永15(1638)年には、出雲入りした松平直政が、松江藩の安塚理地として隠岐は政府の天領とされています。

事件が起きたのは、明治元年(1868)のことです。
隠岐でも、黒船の接近と重税に苦しめられていました。
関東周辺で黒船による騒動が起きるのは分かりますが、「なんで隠岐のような日本海の地に黒船が?」って思いませんか?でも、黒船は、日本海にも頻繁に出没していたのです。
その動きに幕府は松江藩に、「隠岐を守るように」と命令を出しました。

黒船に対する大きな船を買い、その船を動かすための人足が必要になりました。
松江藩は、隠岐の働き盛りの男衆を兵隊にとってしまったのです。

世界初の自治政府を樹立した隠岐騒動

世界初の自治政府を樹立した隠岐騒動

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最初は隠岐の島民も松江藩に素直に従っていました。
しかし、松江藩の強引なやり方には、堪忍袋の緒が切れてしまったのです。
「隠岐は、天皇陛下の島だ」と勤王の若き庄屋が農民3000人を集めて武装蜂起し、松江藩の郡代を追放した上で、自分たちの政府を作りました。
これが、世界で初めて出来た自治政府です。

その後、江戸幕府は、慶応3(1867)年10月14日に大政奉還し天皇に政権を返還しました。
日本は天皇のもと明治政府が納めることになりました。
隠岐の人々は、自治政府を認めるよう要求しましが、叶うことはありませんでした。
その後、廃藩置県で松江藩が島根県となり、隠岐も島根県に含まれました。
これで、世界初の自治政府は終焉となりました。
日本海に浮かぶ美しい島で、色々な歴史ロマンが生まれていることに驚きを隠せませんね。

隠岐は神話から生まれ天皇の島となり、今では世界も認めるジオパークとなった素晴らしい地です

何億年も続いて造られた大地の成り立ちと、この地で育まれた独自の生態系と豊かな歴史が認められ、隠岐ユネスコ世界ジオパークに選ばれました。
今回は、隠岐の歴史についてクローズアップしてご紹介しましたが、こんなに美しい島を知らないなんて、日本人なのにもったいない気がします。
ぜひ、機会があったら訪れて、この美しい島の魅力に陶酔したいものですね。
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