「天下統一」が果たされた激動の30年・「安土桃山時代」とはどのような時代?

長きにわたる「室町時代」と「江戸時代」に挟まれた時代「安土桃山時代(あづちももやまじだい)」。この時代は1573年(元亀4年)から1603年(慶長8年)のわずか30年間しかありませんが、その30年間は日本の歴史に欠かせない「天下統一」などが含まれている時代でもあります。それではその「安土桃山時代」とはどのような時代であったのか、今回は「時代前後に活躍した人物・出来事」や「文化」などから見てみましょう。

信長の活躍・室町の終わり

「うつけもの」と呼ばれた若き信長

「うつけもの」と呼ばれた若き信長

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1534年(天文3年)に織田信秀の子として生まれた信長は、13歳の時に元服(大人になる儀式の古都)を迎え、15歳で美濃(現在の岐阜県)の戦国大名・斎藤道山の娘であった濃姫(のうひめ)と結婚。
17歳のときには父の死によって織田家の跡取りを任されることに。

しかし当時の信長は周りから見ればとにかく「変わり者」でした。
自分の身分にふさわしくない格好をして歩いたり、黒やカキを歩きながら食べたりと、奇抜ないでたちや振る舞いが目立っていたのです。
また父の葬式の際には身だしなみを整えず遅れて登場、さらに線香を父の仏前に投げつけて帰るという「事件」をまで巻き起こすありさま。
父の葬式に遅れて登場するのも驚きですがさらにこの振る舞いとは、見ていた人々は「こいつが跡取りでは、先が思いやられる」と思っていたかもしれませんね。

こうした振る舞いから「うつけ者(からっぽという意味。
常識外れの人物を指す。)」と呼ばれるようになった信長でしたがこの男がのちに歴史に名を残すとは、当時の人々は全く想像していなかったことでしょう。

奇襲で名を挙げた「桶狭間の戦い」

そんな信長が大きく名を挙げたきっかけが1560年(永禄3年)の「桶狭間(おけはざま、現在の愛知県豊明市と名古屋市緑区にまたがる地域)の戦い」でした。
全国統一を目指していた駿河(するが、現在の静岡県)の戦国大名・今川義元(いまがわよしもと)は、進路の途中にあった尾張国に近づこうとしていました。
このとき今川郡の人数2万5千人に対し信長の織田軍はわずかに2000人余り。
人数だけ見ればどう考えても勝ち目はありませんが、信長はここで大きな奇襲に打って出ることに。

時は5月19日、織田の丸根砦(まるねとりで)と鷲津砦(わしづとりで)に今川軍が攻め入ったという報告を受けた信長。
当時今川の元にいた徳川家康(当時は松平元康)が「大高城」に大量の兵量を送り込んでおり、ここで「桶狭間と呼ばれる場所を通って行くしか道がない」ことを突き止め「ここが絶好の攻め場所だ」そう信長は考えました。

すると信長の狙い通りに今川軍は桶狭間へ。
今川軍はここで農民たちから酒や餅のおもてなしを受けていましたが、この農民たちが実は信長のスパイ。
休息をとって気を抜いている中でおまけに天気はどしゃぶりの雨、そこに攻めあがる信長の織田軍。
一気に攻めあがると軍の兵士が対象の首を取り見事戦いを制することに。
時の天気、地理的条件を予測し不利な条件を覆した信長の戦術眼は見事に的中、ここから信長の名は天下に響き渡ることになります。

近畿での勢力を強固に「姉川の戦い」

近畿での勢力を強固に「姉川の戦い」

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「桶狭間の戦い」における奇襲作戦で名を挙げた信長は、さらに戦いで勝利を重ねていくことに。
1562年(永禄5年)に三河で勢力を固めていた「徳川家康」と同盟を結び、1568年(永禄11年)にはのちの室町幕府将軍「足利義昭」を従えて京都に。
そのほかでは近江国(現在の滋賀県)の「浅井長政」に妹を嫁がせ勢力拡大を図っていましたが、そこに立ちはだかったのは越前国(現在の福井県)の戦国大名「朝倉氏」でした。

元亀元年(1570年)4月に信長は朝倉氏の本部・越前への侵攻を開始しますが、ここで信長にとって大きな誤算が発生。
味方に付いていたはずの浅井氏が敵方に回ってしまったのです。
浅井氏は織田家と縁戚関係を結ぶ一方で朝倉氏とも近い関係にあり、「織田との関係もあるけど朝倉を裏切ることもできない」ということで最終的に朝倉氏側につきました。

困った信長は一時岐阜へ退散、家康に援軍を依頼し迎え撃つことに。
姉川(あねがわ、現在の滋賀県)に向かった信長はここで戦いを始め、はじめは朝倉・浅井連合軍が優位に戦いを進めますが次第に織田軍が盛り返し、最後は織田・徳川連合軍の勝利に。
この戦いの勝利によって、信長は近畿圏での勢力をより強めることとなり、敗れた浅井・朝倉両氏は力を失っていくことになります。

反対勢力を打倒「延暦寺焼き討ち」

朝倉・浅井氏を打ち破った信長は、反対勢力を武力でねじ伏せて進んでいきます。
この頃は石山本願寺の僧・蓮如(れんにょ)によって始まった一向一揆(いっこういっき、浄土真宗本願寺教団(一向宗)の信者たちが起こした権力に対する抵抗運動)が勢いを増していた時期で、信長はこうした勢力を武力で弾圧。

この状況に耐えかねた本願寺はついに信長相手に一揆を起こすことを決意、全国の一向宗徒に呼びかけることに。
ここから「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」などが建ちあがり「石山合戦」と呼ばれる戦いが開始されることになります。

その戦いの中、信長が行った大きな一手が「比叡山延暦寺の焼き討ち」です。
当時「仏教の権威」とされていた「比叡山延暦寺」ですが、信長が敵対していた朝倉・浅井両氏をかくまうなど信長に対し徹底抗戦の構えを見せていました。
そこで信長は1571年(元亀2年)に延暦寺の焼き討ちを敢行、僧侶だけでなく女性や子供も巻き込み殺したのです。
仏教の権威であり誰も逆らうことのできない「延暦寺の焼き討ち」は大きな注目を集め、1580年(天正8年)には石山本願寺本部も制圧。

またこの頃には将軍・足利義昭と対立(信長の力が強すぎ、自身の力が弱すぎると不満に思っていたため)、1573年(天正元年)には将軍を追い出し、ここに室町幕府滅亡となるのでした。

武田氏を滅ぼす「長篠の戦い」

武田氏を滅ぼす「長篠の戦い」

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幕府を滅ぼした1573年(天正元年)にはライバルも滅亡に追い込むことに。
この年の「三方ヶ原(みかたがはら、現在の静岡県浜松市北区三方原町)の戦い」で「武田信玄」率いる武田軍に完敗、家康は遠江(とおとうみ)や三河の領地を武田氏の支配下に置かれた危機的状況に陥っていましたが、途中で信玄が亡くなり最大の危機は回避。
しかし今度は信玄の息子・勝頼が領地・三河国に攻め込み。
長篠城を包囲して戦いに。

ここで家康は信長に援軍を依頼、連合軍として戦いを展開することに。
連合軍は設楽ヶ原(したらがはら)に鉄砲隊を配備すると大量の鉄砲で武田軍の撃ち落とし作戦を決行。
このとき連合軍は騎馬隊が強いことで知られた武田軍対策として馬を防ぐ「馬防柵」を設置、そこから足軽鉄砲隊を配置し迎撃したとされています。

またこのとき鉄砲隊を3段に分け次々に打たせた「三段撃ち」を行ったとも言われていますが、当時の鉄砲は撃ってから次を撃つのに時間がかかると言われており、これについては事実かどうかはっきりしていません。
子の戦いは連合軍の作戦が成功し武田軍を撃破、敗れた勝頼は2年後に自ら命を絶ち、ここに武田氏は消滅。
これでますます力をつけた信長は、いよいよ改革を本格化させていくのです。

「楽市楽座」制度で商業を活発に

力をつけた信長は1579年(天正7年)に大きな城を築きます。
琵琶湖のほとりに完成した「安土城(あづちじょう)」は信長の天下統一の拠点となる城で、高い石垣の上に5層7階、頂上に天守閣が建つ造り。
内部は絵師「狩野永徳(かのうえいとく)」が描いた墨絵の部屋などが飾られており、当時の日本の芸術・技術の最高峰と言われていました。
しかし信長死後に焼失、現在城自体は存在しておらず、城の跡が「国指定の特別史跡」として残されています。

このほか信長は商業制度にも手を付けました。
スローガンに「天下布武(てんかふぶ、武力で全国統一すること、旗印に永楽銭(えいらくせん))」を掲げた信長は城の城下に家臣・商工業者を呼び「城下町」を形成。
さらに市場における税を廃止する「楽市」、「座(商工業者・芸能者の同業者組合)」を廃止する「楽座」の2つを掲げた「楽市・楽座」制度を導入。
加えて地方領主が通行人から通行料をとるだけになっていた「関所」も廃止。

このような改革を施すことにより、一部の人間による独占販売権などの利益独占を解消、新興商工業者の育成も可能に。
「座」に加入しなくても自由に見えが開けるようになり、市場の商業活発化を促すようにしました。

志半ばで倒れる「本能寺の変」

志半ばで倒れる「本能寺の変」

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周りの敵を次々に打倒、経済の活発化にも取り組み「天下統一」が目前に迫っていた信長でしたが、その野望はまさかの裏切りによって絶たれることに。

1582年(天正10年)、中国征討中の家臣・豊臣秀吉を助けるため中国地方に向かっていた信長は途中で京都の「本能寺」に宿泊し休んでいました。
するとそこに突然襲ってくる軍、それは家臣であった明智光秀(あけちみつひで)です。
本来増援を命じられて丹波亀山城(京都)に先に向かっていたはずの光秀でしたが、ここで謀反(むほん、臣下が君主に背く)を起こすのでした。

家臣による裏切りで寺を取り囲まれ、追い込まれた信長は寺に火を放ち自ら死を選ぶことに。
光秀がなぜこのような裏切りに走ったか理由はわかっていませんが、これで信長の野望は達成を前に絶たれることに。
信長と会見したことのある宣教師ルイス・フロイスはこの事件を「信長の大いなる慢心によるもの」と表現していますが、信長にとっては最後に「見えない敵」にやられてしまったのですね。

その後君主・信長を撃った光秀は信長の残党追補を行い、さらに信長が安土城に残していた財宝を強奪、家臣などに分け与えます。
このとき光秀の「下剋上」は成功したかに見えました。

信長から秀吉の時代へ移る

天下統一の夢は秀吉へ引き継がれる

天下統一の夢は秀吉へ引き継がれる

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この信長の死に立ちあがったのが「豊臣秀吉」です。
1537年(天文年)に尾張国の下層民の家に生まれた秀吉は、低い身分からのちに大きく昇進を果たした人物。
そんな彼はまだ小大名であった頃の信長に仕え始めると、1573年には来た近江に支配人を務めることに。
農民の家に生まれた人物がここまでの地位を得るのは当時非常に難しいことでした。

1582年(天正12年)に信長が倒れたとの報を聞いたとき、秀吉は中国地方で高松城を攻めている途中でしたが、「ここで光秀を倒せば天下統一に近づける」と考えたか急いで毛利氏と講和を結び京都へ急行。
その後向かった山崎(京都)での戦いで光秀を見事破ることに。
一方秀吉に敗れた光秀は逃げ帰ろうとしましたが帰る途中で農民に刺されて倒れることに。
現代でも有名な「三日天下」という言葉はこの光秀の最期から来ていると言われています。

こうして信長の後継者候補に名乗りを上げた秀吉は、さらにその後の「賤ヶ岳の戦い」では同じく後継を争っていた柴田勝家を破り自害に追い込むことに。
こうして周辺の敵を倒した秀吉は、信長の果たせなかった天下統一に向けて動き出していきます。

家康との戦い・天下統一へ

天下統一へ動き出した秀吉でしたが、戦う相手はまだ残っていました。
1584年(天正12年)に信長の次男・信雄(のぶかつ・のぶお)が秀吉と対立、信雄は徳川家康に援軍を頼むことになります。
家康と秀吉は小牧・長久手(いずれも愛知県)を舞台に戦うこととなり、秀吉はおいの秀次に命じて家康を孤立させることにしますが、家康は長久手で秀次軍を破るとすぐに小牧へ戻り戦闘を続けることに。

最終的に長期戦は不利と判断した秀吉が信雄と単独で、続いて家康とも講和を結び戦いは終結。
勝負としては「引き分け」という形ですが、先に講和という形で手を打ち「臣従(しんじゅう、臣下として仕えさせる)」させることに成功した点では秀吉の勝ちといったところでしょうか。

翌1585年(天正13年)には土佐国(現在の高知県)の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降伏させ四国統一したのち日本で初の「武家関白」になり、翌年には「太政大臣(だいじょうだいじん)」に就任、このときに豊臣の姓を授かります。
さらに同年には大名を引き連れ薩摩国(鹿児島県)で戦国大名・島津義久を撃ち、九州も平定。
1590年(天正18年)には北条氏征伐のため小田原城(神奈川県小田原市)を取り囲むと北条氏を降伏に追い込み東北を平定。
信長時代から続けられた天下統一の夢は、秀吉によってここに達成されることになったのです。

身分制度を確立する「太閤検地・刀狩」

身分制度を確立する「太閤検地・刀狩」

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秀吉は天下統一へ向かう中である改革も行っていました。
その1つ目が「太閤検地(たいこうけんち)」と呼ばれるものです。

「検地」とは田畑の持ち主や面積、予想生産量の調査を行うために実施されていた検査で、「太閤」とは「関白などの位を息子に譲った太政大臣の敬称」で秀吉を指す言葉。
それまでの検地は各地の戦国大名が独自のやり方で実施しており、場所によって検地の基準があいまいでした。
そこで秀吉は「全国共通の基準で検地を行うことにしよう」ということで実施を始め、検査基準を厳しく正確にできるのものとしたのです。

さらにもう1つ実施したもので有名な改革が「刀狩」と呼ばれるもの。
それまでいた身分の低い兵士の多くが農民で、その農民が団結して一向一揆を起こすことを防ぐ目的で実施しました。
秀吉は農民から刀を取り上げることで「農民は農業に集中し、しっかり年貢を納めなさいよ」と考えていたのです。
この改革の導入により、武士と農民の身分制度をより強固なものにしていきました。

ちなみに当時の検地で使用された「検地尺」や「一升ます」は重要文化財となっており、田畑の等級などを記した「太閤検地帳」も「松山市教育委員会」の所有で残されています。

のちの鎖国へとつながる「キリスト教弾圧」

この時代はキリスト教に対する弾圧が始まった時代でもありました。
秀吉は1587年に最初のキリスト教禁止令を発令しましたが、これは「神のもとに人々はみな平等である」というキリスト教の考え方が、身分制度を固めようとした秀吉にとっては大きな脅威であったため。
しかしこのときは日本に来る宣教師たちによる文化、「南蛮貿易(なんばんぼうえき、ポルトガルとの貿易)」による利益も多かったため、それほど強制力のあるものではありませんでした。

しかし1596年(文禄5年)に発生した「サン・フェリペ号事件」が発生すると、秀吉はキリスト教に対する態度を硬化させていきます。
この事件は土佐国浦戸(うらど)(現,高知市)にスペイン船「サン・フェリペ号」が漂着、その船から秀吉が船荷などを没収したことへの航海長の抗議などから、秀吉が「スペインが日本征服を計画している」と疑ったもの。
翌年には26人のカトリック信者が秀吉の命令により処刑・殉教する事件も発生し、キリスト教を取り巻く環境は厳しくなっていきました。

秀吉のキリスト教弾圧はのちに続く江戸時代にも影響を与え、これがのちに200年以上続く「鎖国時代」につながっていくのです。

さらなる上を目指し「朝鮮出兵」へ

さらなる上を目指し「朝鮮出兵」へ

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夢の天下統一を果たした秀吉は、今度は海外の支配に着手することに。
その舞台となったのが「朝鮮半島から中国大陸」でした。
1592年(文禄元年)に秀吉は15万人の大軍を送り、はじめは優位に戦いを進めながら長期戦になったことにより敗戦。
一度は引き返すことに。
その後秀吉は「明帝の娘を后妃に迎える」ことなどの7ヵ条を条件に講和を持ち掛けますが聞き入れられず。

条件が受け入れられなかった秀吉はこれを不服とし、1597年(慶長2年)に今度は14万人の軍隊を朝鮮半島に送りますが惨敗。
1598年(慶長3年)に支配を達成できないまま秀吉は帰らぬ人になり、それとともに兵は引き上げることに。
この事件は当時の年号をとって「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」、朝鮮半島では当時の干支(かんし)から「壬辰(じんしん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)」と呼ばれています。

ここで秀吉が朝鮮半島に与えた衝撃は大きく、このあと日本と朝鮮半島は国交断絶に繋がることに。
国交回復は家康の時代に入った1607年(慶長11年)に朝鮮からの使者(朝鮮通信使)が訪れるまで待たれることになります。

関ケ原の戦い・江戸幕府の幕開けへ

1598年(慶長3年)になると秀吉は重い病に倒れ、6歳の息子・秀頼(ひでより)の助けを頼み帰らぬ人となります。
このとき秀吉の臨終を見守ったのは秀吉の政治を支えてきた「五奉行(ごぶぎょう、豊臣政権の実務を担った政治家的人物を指す)」と「五大老(ごたいろう、政権の政務を担った有力大名)」の面々でしたが、「五奉行」の石田三成は「五大老」の中で最も権力を持っていた家康と対立するように。

秀吉の死から2年後の1600年(慶長5年)、三成と家康は関ケ原(岐阜県)で西軍、東軍に分かれて戦うことに。
これが有名な「関ケ原の戦い」です。
小競り合いを続けた戦いは東軍へ寝返ることになっていた小早川秀秋(こばやかわひであき)が西軍を攻撃しはじめると東軍有利に、西軍を総崩れにして勝利を収めました。
敗れた西軍の光成は逃れようとしましたが見つかり、家康の命令で処刑。

天下人としての立場を確保した家康は1603年に(慶長8年)に「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」に就任。
全国の武士を率いる最高の位についた家康は「江戸幕府」を開き、これが15代にわたって続く徳川家の歴史の始まりとなったのです。

桃山時代の時代背景・流行文化

「政略結婚」が一般的に行われていた

「政略結婚」が一般的に行われていた

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安土桃山時代は「政略結婚」が盛んに行われた時代でもあります。
「政略結婚」とは政治的な目的の達成を狙って行われる結婚のことで、この時代には大名の娘や姉妹などをほかの大名に嫁がせ、同盟関係の強化・相手方の内情を探る「スパイ」として送り込むために行われていました。

織田信長はこのような結婚に絡んだ人物で、美濃国(現在の岐阜県南部)の戦国大名・斎藤道山(さいとうどうざん)の娘・濃姫(のうひめ)と結婚。
他では妹・お市の方(おいちのかた)を近江の戦国大名・浅井長政(あさいながまさ)に嫁がせ同盟関係を結ぶことに成功しています。
しかしこの関係は長政が信長と敵対、後の「姉川の戦い」につながってしまったことで失敗。
彼女は信長の死後に柴田勝家のもとに嫁ぎますが、勝家が敵対する秀吉との「賤ヶ岳の戦い」で敗れると勝家とともに自害してしまいました。

こうした結婚はもちろん本人たちの意思とは関係ないところで進められたものですが、政治的な駆け引きには重要不可欠なものであったのです。
本人たちがどのように考えていたかは今ではわかりませんが、「駆け引きのためには仕方ない」という思いはあったのかもしれません。

現代に通じる食文化が入ってきた

この時代は食事面で外国文化が少しずつ入ってくるようになった時代で、外来品としては南瓜(かぼちゃ)や玉葱(たまねぎ)、ジャガイモ、トウモロコシが入ってくるようになります。

食事としてはポルトガルから伝わった「天ぷら」が有名になりますが、この頃の日本では揚げるときに使う油が貴重な時代であったと言われており、庶民にも普及するのは油の生産量が増える江戸時代になってから。
またこの時代は茶の湯が流行していた時代で、禅寺で修行僧が空腹・寒さをしのぐために懐に温かい石を入れたことから名が付けられた「懐石料理」も誕生。

菓子ではポルトガル人・オランダ人などによって伝えられた「南蛮菓子」も出てくるようになり、これらには「ビスケット」や「カステラ」、「金平糖」といった菓子が含まれて居ました。
これらの菓子は日本に来たキリスト教の宣教師たちが布教活動時に配布していたこともあり、1569年(永禄12年)に来日したポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは京都で信長と面会した時に持参していました。
少しずつ現代に通じる食べ物が普及してきていたのですね。

他には「兵糧丸(ひょうろうがん)」と呼ばれる団子も作られており、これは小麦粉、そば粉、きな粉、すりごま、白玉粉に酒などを加え、小さい球状に丸めたもの。
団子は長期保存が可能なため、戦いで家を長く離れる武士が持っていくことが多く、腹持ちの良い貴重な食材と言われていました。

次々に完成する豪華な城

次々に完成する豪華な城

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この時代の文化では信長の「安土城」や秀吉の「大阪城」など、石垣や天守閣を備えた豪華・華やかな城が戦国大名によって多く完成しました。
その中で「無敵の要塞」として知られたのが兵庫県姫路市にある「姫路城」。
秀吉の居城として使用されたこともあるこの城はもともと1346年(貞和2年)の創建ですが、安土桃山時代にかけて本格的な城郭に拡大。

複雑な造りが特徴的な城で、正面の「菱の門」から侵入すると「い」、「ろ」、「は」、「に」と続く門を通らなければ天守閣にたどり着けないようになっていました。
さらに天守閣へ向かう途中の城壁には鉄砲などを放つ「すき間」なども設けられており、敵からすれば大変難解な城であったことでしょう。

福島県会津若松(あいづわかまつ)市にある「若松城」は1384年(南北朝時代の南朝では元中元年、北朝では至徳元年)創建でこちらもこの時代に城郭を拡張、七層の天守閣が築かれました。
現在城自体は残されていませんが、「若松城跡(わかまつじょうあと)」として国の史跡に指定。

これらの城は平地の丘にそびえる「平山城(ひらやましろ)」、平地に石垣などを掘って造る「平城(ひらじろ)」と呼ばれるもので、城が軍事面と政治面両方で大きな役割を果たすようになったためにこのような方式になったと言われています。
軍事面でのはたらきのみが求められた時代から進化してきたのですね。

千利休が生んだ「わび茶」文化

この時代は室町時代に発展した「茶」の文化がさらに発展した時代でもありました。
戦国時代に入ると武士の間で流行しはじめ、信長や秀吉の時代には茶の道具も高級なものになり、2人は「茶頭(さどう)」と呼ばれる先生を呼び楽しんだと言われています。

そのような時代に有名となったのが「千利休(せんのりきゅう)」。
和泉国(現在の大阪府南西部)堺に生まれた彼は2人の茶の師匠でもあり、秀吉とは政治の話もするなかであったと言われていました。
「部屋も道具も質素でよい、客に対し誠意をもっておもてなし、茶を立てる心が最も大事である」と唱える「わび茶」の文化を完成させたことで知られ、こうした功績から今井宗久(いまいそうきゅう)や津田宗及(つだそうぎゅう)と並ぶ「天下三宗匠(てんかさんそうしょう)」と呼ばれています。

しかし深い信頼関係にあった秀吉とはのちに不仲となり、1591年(天正19年)には切腹を命じられてしまいます。
切腹を命じられた理由については「茶道の考え方で対立した」など様々な理由が考えられていますが、はっきりしたものは不明。
それにしても深い関係から切腹を命じられることになるとは、これも古い時代ならではと言えるものですね。

歌舞伎の基礎・豪華な障壁画が誕生

歌舞伎の基礎・豪華な障壁画が誕生

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安土桃山時代には新しい芸能文化が生まれました。
その芸能文化で有名なものが「歌舞伎踊り」と呼ばれるものです。

この踊りは出雲大社の巫女であった「出雲阿国(いずものおくに)」という女性が始めたもので、もとになっているのは「ややこ踊り」と呼ばれる幼い少女(ややこ)による踊り。
この踊りでは奇抜・派手な格好の踊り手が能や狂言、念仏踊りなどを取り入れた踊りを披露し、女性が男装をして踊ることもありました。
この踊りは後に発展を続け、江戸時代に誕生した「歌舞伎」の基礎になったと言われています。

またこの時代は豪華な障壁画が造られた時代でもあります。
特に有名なものは信長・秀吉に仕えた絵師「狩野永徳(かのうえいとく)」が手掛けたもので、信長の「安土城」や秀吉の「大阪城」のふすま絵、屏風絵に作品が飾り立てられていました。
城はいずれも焼失してしまったため当時の作品を見ることはできませんが、現存する「唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)」や「洛中洛外図(らくちゅうらくがいず、京都の市街と郊外を描いた屏風)」から当時の姿を想像することができます。

戦国時代との区別ははっきりしない

今回取り上げた「安土桃山時代」は「戦国時代」と重なるところがあり、時代の境目は区別が難しいところ。
戦国時代は「応仁の乱(1467年)」に始まり「室町幕府の滅亡(1573年)」、「天下統一(1590年)」までなど諸説あり、安土桃山時代も「室町幕府滅亡」から「江戸幕府が開かれる」まで、美術界では豊臣氏が滅びた時代(1615年)までと意見が分かれています。
区別の難しさは、それだけ混乱した時代であった証拠なのかもしれません。
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