「国母」として16人の子どもを生んだマリア・テレジアの歩んだ歴史

2017年5月13日、オーストリアの首都ウィーンではマリア・テレジアの生誕300年を祝う行事が行われました。マリア・テレジアというとわが国では「女帝」として知られていますが、彼女の母国オーストリアでは「国母」と呼ばれています。それに実はこの「女帝」という言い方は歴史的には正しくないのですよ。神聖ローマ帝国の皇帝は男性でなくてはならなかったので、マリア・テレジアは正式には「女帝」ではありません。夫のフランツ・シュテファンが皇帝になって「皇帝妃」となったのですが、ドイツ語でいうと「皇帝妃」も「女帝」も同じKaiserin。同じ時代にロシアには「女帝」がいたのですが、マリア・テレジアはあくまでも「皇帝妃」。しかし、「女帝」と呼ばれるだけのことはその生涯に成し遂げています。これからその生涯の足跡をたどってみることにしましょう。

マリア・テレジアの父カール六世はスペイン王にもなりました

マリア・テレジアの父カール六世はスペイン王にもなりました

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18世紀はハプスブルク家に最大の危機が襲ってきたのですよ。
ハプスブルク家は皇帝カール5世のときにスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分かれましたね。
スペイン・ハプスブルク家はそのカール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の息子フェリペ2世のときにピークを迎えましたが、ピークのあとはただ落ちて行くのみ。
スペイン王位はフェリペ2世のあと息子のフェリペ3世、そのあとフェリペ3世の息子のフェリペ4世、そしてフェリペ4世の息子のカルロス2世へと一見順調に継がれていきましたが、カルロス2世は幼いときからひ弱。
とても子どもを生むことなど期待できませんでしたから、スペイン王位をどうするかについて生きているときから問題になっていました。

スペイン・ハプスブルク家の男系が絶えてスペイン継承戦争が起こりました

1700年にカルロス2世が死んでとうとうスペイン・ハプスブルク家を継ぐ男系は絶えてしまいました。
オーストリア・ハプスブルク家には、皇帝ヨーゼフ1世とその弟カールがいましたから、そのカールにスペイン王を継がせるのが妥当。
実際カールは、1706年にマドリードでスペイン王に選出されてカルロス3世になっています。
しかし、カルロス2世の腹違いの姉はフランス王ルイ14世の妃になっていて、この2人のあいだには次にフランス王になるはずのルイという息子がいて、そのルイには3人の息子がいたのですね。
このうちのアンジュー公フィリップにスペイン王を継がせたいという遺言を、カルロス2世は残していたのですよ。

太陽王とも呼ばれるルイ14世は、5歳でフランス王に即位してから77歳で死ぬまで、一言でいえばフランス王国の拡大政策に生きた王でしたから、この遺書が本物であるにせよ偽物であるにせよ、それを根拠として自分の孫であるアンジュー公フィリップをスペイン王にしようとするのは当然の成り行きですね。
スペイン継承戦争はオーストリア・ハプスブルク家とフランス・ブルボン家との戦いである以上に、スペイン国内の諸侯やイギリスなど諸外国の利権がからみあっていたのですよ。
1711年にカールの兄である神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世が死んで、カールはこちらを継がなくてはならなくなったため、結局はブルボン家のフィリップをスペイン王フェリペ5世として認めることで一応の決着はついたわけです。

『国事詔書』はマリア・テレジアが生まれる前に発布されていました

カールの兄であるヨーゼフ1世には娘が2人いたのですが、皇帝を継ぐことのできる息子はいませんでした。
それで弟のカールが皇帝カール6世になり、スペイン・ハプスブルク家は断絶したけれども、オーストリア・ハプスブルク家はひとまず安泰だったのですね。
カールはスペイン王になるためにウィーンからマドリードに行き、そこで1708年に結婚。
1711年に兄が死んだためにその妻を残してウィーンに戻ったのですから、まだこの時点ではこの夫婦のあいだに子どもはいませんでした。
ウィーンとマドリードという「遠距離婚」だったこの2人が再会するのは1713年。
なんとしてでも男の子の誕生が待たれました。

ハプスブルク家はオーストリア大公国ではオーストリア大公、ハンガリー王国ではハンガリー王、ボヘミア王国ではボヘミア王と、いくつもの領邦でその領主として広大な領国を形成していました。
それらの領主権を男子だけではなく女子でも相続できると決めたのが『国事詔書』で、マリア・テレジアに継がせるために公布されたと言われることもあるのですが、それは誤解です。
『国事詔書』が公布されたのは1713年で、長男レオポルトの生まれたのが1716年、長女マリア・テレジアの生まれたのが1717年ですから、まだ誰も子どもが生まれていないときに公布されていたのですよ。

6歳のときに15歳のプリンスに初恋しました

6歳のときに15歳のプリンスに初恋しました

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カール6世はハプスブルク家に残されたただひとりの男性だったのですから、もしかして自分に男の子が生まれなかったときのために『国事詔書』をつくっておいたのかもしれませんね。
カール6世夫妻はマリアにひたすら祈りを捧げたかいあって、1716年4月13日、ちょうど復活祭の月曜日に男の子レオポルトが誕生して、その心配も杞憂かと喜んだのも束の間、11月4日に死んでしまったのですよ。
1717年5月13日に生まれた子どもが長女マリア・テレジア。
1718年9月14日に生まれたのが次女マリア・アンナ。
そしてひ弱な皇帝妃が最後に男の子の誕生を祈って生んだ子どもが、1724年4月5日生まれのマリア・アマーリア。
その三女も1730年4月19日に死んでいます。

マリア・テレジアは自由奔放に育てられました

『国事詔書』はマリア・テレジアをハプスブルク家の後継者にするために公布されたというのは誤解ですが、結果としては女性であるマリア・テレジアが後継者になるための法的根拠になったわけです。
ただ、ヨーロッパの国際社会において、一度は承認されたものが突然くつがえされることはふつうにあることで、この『国事詔書』もその運命にあったのですが、それが現実になるのはもう少し先のことですね。
ともかく、マリア・テレジアはウィーンの宮廷で、いわゆる帝王学をたたきこまれるのではなく自由奔放に育てられたのですよ。

マリア・テレジアの6歳のときの絵が残っていますが、金髪でちょっとお茶目なかわいい女の子。
宮廷では仮面舞踏会などが行われていましたが、それには必ず参加して朝まで踊り続けたということです。
もちろん、読み書きやイエズス会による宗教教育もきちんと受けました。
マリア・テレジアの活発さは勉強の面でも生かされたようで、歴史も言語も芸術も音楽も、もちろん舞踏も大好きだったようですね。
とくに歴史にはハプスブルク家の先祖たちも登場しますからよく勉強したし、言語では宮廷社会に必要なフランス語はもちろん、20世紀になっても高校の必修科目で生徒たちに嫌われていたラテン語もよくできたとのことですよ。
ラテン語はハプスブルク家の支配下にあったハンガリー王国の公用語だったので、いずれこれが本当に役に立つことになったということになります。

15歳のロレーヌ公フランツ・シュテファンに夢中になりました

ドイツ語ではロートリンゲン、フランス語ではロレーヌと呼ばれる地域は、この当時公国でした。
マリア・テレジアの父カール6世とロレーヌ公レオポルト・ヨーゼフは従兄弟同士で、ロレーヌ公は15歳の息子フランツ・シュテファンをウィーンの宮廷に送り、そこで教育を受けさせようとしたのでした。
このときマリア・テレジアはまだ6歳でしたが、これがのちに「女帝」と呼ばれる彼女の初恋だったのですよ。
マリア・テレジアも金髪の美少女でしたが、フランツ・シュテファンもそのマリア・テレジアが「美しいフランツォス」と憧れたほどの美少年。

この初恋が実ってこの2人は結

1736年2月12日にこの2人は結婚しました

1736年2月12日にこの2人は結婚しました

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1729年にロレーヌ公が死んだだめ、フランツ・シュテファンはウィーンを去って故郷に戻ってしまいます。
マリア・テレジアが12歳のときですが、フランツ・シュテファンのほうも美少女マリア・テレジアのことが忘れられず、1730年にフランスに行ってウィーン行く許可を求めたのですが拒否されてしまい、5月13日のマリア・テレジアの13歳の誕生日には食事が喉も通らなかったということですね。
相思相愛の美男美女カップルですが、このクラスの貴族ともなると、恋愛にも結婚にも国際情勢がからんでくるのですよ。

フランツ・シュテファンはハンガリー総督になりました

フランツ・シュテファンは3年間はじっと耐えていたのですが、とうとうロレーヌ公国をフランス王家出身の母に任せてウィーンに戻ることになりました。
ウィーンに戻るといっても、イギリスやオランダなどずいぶん遠回りをしたのですよ。
それはもちろん、ハプスブルク家の家領を相続するマリア・テレジアと結婚したあとの国際関係を円滑にするための外交。
ベルリンではのちに宿敵となるプロイセン王フリードリヒ2世と固い友情を結んでいます。
それはつまり、神聖ローマ皇帝の選出のときに有力諸侯であるプロイセン王がフランツ・シュテファンを支援するという約束をしたということですね。

こうしてウィーンに戻ったフランツ・シュテファンは、マリア・テレジアの父である皇帝カール6世からハンガリー総督に任命され、当時はハンガリー王国の首都だったプレスブルク(現在はスロバキア共和国の首都ブラチスラヴァ)に赴任。
プレスブルクはウィーンからドナウ川を船で1時間ほど下ったところにあり、小高い丘の上にに小さな宮殿が建っています。
その下の街のなかにある聖マルティン教会ではハンガリー王の戴冠式が行われていたのですよ。
こうして、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンはしばらく文通をしていましたが、1736年1月21日にフランツ・シュテファンから公式の求婚があり、2月12日にはウィーンで結婚式が挙行されたのでした。

無事に2人は結婚して次々と子どもが生まれました

6歳のときの初恋がとうとう実ったマリア・テレジアですが、政略結婚がふつうだった当時の貴族社会では例外ということですね。
幸せな恋愛結婚でしたが、一日も早く跡継ぎになってくれる男の子を生まなくてはなりません。
1737年2月5日に長女マリア・エリーザベト、1738年10月6日に次女マリア・アンナ、1740年1月12日に三女マリア・カロリーネというように、休む暇もなく次々と出産を続けたマリア・テレジアですが、3人の娘の母になったときはまだ23歳。
結婚したのが19歳ですから、すごいペースで出産していますね。

ロレーヌ公フランツ・シュテファンは、マリア・テレジアと結婚するに際してロレーヌ公国を手放していますが、そのかわりかつてメディチ家が支配していたトスカナ大公国を手に入れています。
ロレーヌ公という名前はそのまま持っていて、フィレンツェを首都とするトスカナ大公国の領主だったのですね。
1738年から1739年にかけてこの夫婦は3ヶ月間、領国であるトスカナ大公国を訪問していますが、出産の合間に政治もしなくてはならなかったわけです。
しかもまだ男の子が生まれていませんから、とにかくその誕生のために神に祈ることもしたことでしょう。

皇帝カール6世が死んでオーストリア継承戦争が起こりました

皇帝カール6世が死んでオーストリア継承戦争が起こりました

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三女が生まれた1740年は、マリア・テレジアにとって生涯忘れられない年になってしまいました。
この年の6月7日に長女のマリア・エリーザベトが死んでしまったのですね。
その後4人目の子どもの妊娠がわかったものの、10月20日には父の皇帝カール6世が突然死んでしまったのですよ。
まだ55歳、しかもハプスブルク家の跡継ぎの誕生を知らずに死んだのですから、さぞ心残りだったことでしょう。

プロイセン王フリードリヒ2世がブレスラウに無血入城しました

父のカール6世が死んだとき、マリア・テレジアは妊娠していたので父の死の床に入ることは許されませんでした。
カール6世の妃エリザベート・クリスティーネは身体が弱かったので幼くして死んだ長男と三女を含めてもたった4人しか出産していませんでした。
この皇帝妃のほうがカール6世よりも先に亡くなることを前提に、その場合には再婚して男の子を生もうなどと考えていたカール6世でしたが、この皇帝妃は皇帝よりも10年も長生きしたのですよ。
運命の女神は長女であるマリア・テレジアにハプスブルク家を託したのでしょうね。

『国事詔書』があったとはいえ、それはたんなる「紙切れ」ということになってしまったのですね。
マリア・テレジアにはかなり年上の従姉が2人いて、それぞれバイエルン選帝侯妃とザクセン選帝侯妃になっていましたから、ハプスブルク家の家領をめぐって相続争いが起こるのは必然の成り行き。
とくにヨーゼフ1世の次女でバイエルン選帝侯妃のマリア・アマーリエは野望が大きく、まっさきに相続を要求したのでした。
しかし最初に軍事行動をしたのはまったく相続権のないプロイセン王フリードリヒ2世。
まさか侵略されるなどとは予想もしていなかったハプスブルク家のすきをついて、1741年1月3日にシレジアの首都ブレスラウ(現在はポーランドのヴロツワフ)に無血入城したのですね。

マリア・テレジアはハンガリー女王ではなくハンガリー王です

マリア・テレジアはハンガリー女王ではなくハンガリー王です

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カール6世が死んだときマリア・テレジアは妊娠していましたが、1741年3月13日に待ち望んだ男の子が生まれました。
これがのちの皇帝ヨーゼフ2世ですが、プロイセン軍がシレジアに侵入したときマリア・テレジアのお腹はずいぶん大きかったことでしょうね。
無事に跡取りが生まれたので、なんとしてでもハプスブルク家の家領のすべてをこの子に残したいと考えたマリア・テレジアの指令を受けて、4月10日ハプスブルク家の軍隊はプロイセン軍に反撃。
広大なハプスブルク帝国からみればこの当時のプロイセン王国など弱小のドイツ領邦。
そういう油断もあったのかプロイセン軍が勝利したために、ハプスブルク家の家臣たちはマリア・テレジアにシレジアをあきらめることを進言。

もちろんマリア・テレジアはこれを拒否したものの、自分で戦いの場に出かけていくことなどできません。
マリア・テレジアは生まれた瞬間からオーストリア大公女なのですが、ハンガリーの王位はハンガリーの貴族たちの承認を得たうえで戴冠式をしなくてはなりません。
なお、ハンガリーの大貴族のことをマグナートといいますが、6月25日にこのマグナートたちによってマリア・テレジアの「ハンガリー王」の戴冠式が行われたのですよ。
こうしているあいだにフランスとプロイセンとが同盟したのでしたが、一度ウィーンに戻ったマリア・テレジアは、3月13日に生まれたばかりの長男ヨーゼフを連れてふたたびプレスブルクに。
マグナートたちの前で、この子のために力を貸してくださいと涙ながらに頼んだのでした。
この「ハンガリー王」の呼びかけにマグナートたちは剣を持って立ち上がったのですね。

バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝になりました

マリア・テレジアは無事に無事にハンガリー王になりましたが、カール6世のあと誰が神聖ローマ亭皇帝になるかが問題ですね。
マリア・テレジア自身が皇帝になれないので、夫のフランツ・シュテファンを皇帝にするほかありません。
しかしもとはロレーヌ公だったフランツ・シュテファンは現在ではトスカナ大公。
ロレーヌ公国もトスカナ大公国も神聖ローマ帝国の領邦ではなかったのですよ。
ですからフランツ・シュテファンが皇帝になることに反対が起こるのは当然ですね。
1741年7月31日にバイエルン軍がパッサウを占領してついにオーストリア継承戦争が始まりました。

神聖ローマ皇帝になれるのは男性でありかつ宗教的にもローマ・カトリックの諸侯。
ということは、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトこそその第一人者。
しかもその妃はすでに述べましたが、カール6世の兄でそれ以前の神聖ローマ皇帝ヨーゼフ1世の次女マリア・アマーリエですから、ハプスブルク家から皇帝位を取り戻す絶好のチャンスですね。
カール・アルブレヒトは9月15日にリンツを占領して上オーストリア大公に。
12月9日にはボヘミアの貴族たちに選ばれてボヘミア王になり、ハプスブルク家の家領はかなり奪われてしまいました。
翌年の1742年1月24日にフランクフルト・アム・マインで選帝侯たちによってドイツ王に選ばれ、2月12日に神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠したのでした。

フランツ・シュテファンが無事に神聖ローマ皇帝フランツ1世になりました

フランツ・シュテファンが無事に神聖ローマ皇帝フランツ1世になりました

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神聖ローマ皇帝は世襲ではなく、7人の選帝侯の選挙によってドイツ王が選ばれ、このドイツ王が戴冠して神聖ローマ皇帝になります。
本来は皇帝の戴冠式はローマに行ってローマ教皇の手によって行われていたのですが、ハプスブルク家のマクシミリアン1世からは父親が神聖ローマ皇帝の在位中に息子をドイツ王に選ばせておき、その父親が死んだときにドイツ王の息子が皇帝になるというシステムをつくりあげ、ハプスブルク家は皇帝位の事実上の世襲化を実現していたのですよ。
しかしここでヴィッテルスバッハ家のカール7世が誕生してしまい、皇帝位はハプスブルク家の手から奪われてしまったのですね。

カール7世はフランスの後押しで一気に皇帝になったのですが、そのときちょうどハプスブルク家の軍隊に首都ミュンヘンを占領される事態になっていたのでした。
その結果、マリア・テレジアは1743年5月11日にプラハでボヘミア女王の戴冠式をすることができて、プロイセンに奪われたシレジア以外のハプスブルク家の家領は安泰になったのですよ。
そして皇帝カール7世が1745年4月22日に死に、そのあとを継いだバイエルン選帝侯マクシミリアン・ヨーゼフは『国事詔書』を承認。
フランツ・シュテファンは9月13日にフランクフルトで皇帝フランツ1世として戴冠。
マリア・テレジアはこのとき28歳でしたが、夫のフランクフルトでの戴冠式に同行。
そしてこれがマリア・テレジアの最後の「外国旅行」だったのでした。

宿敵フリードリヒ大王との戦争は続きました

宿敵フリードリヒ大王との戦争は続きました

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プロイセン王フリードリヒ2世は、1701年に父のフリードリヒ1世がプロイセン王として戴冠してできたプロイセン王国を、自らを「国家の第一の下僕」と位置づけて強国にした啓蒙専制君主フリードリヒ大王として知られていますね。
オーストリア継承戦争のすき間をねらってハプスブルク家からシレジアを奪ったのですが、そのためにマリア・テレジアはフリードリヒ大王との戦いを続けたのですよ。

オーストリア継承戦争が終わってマリア・テレジアは内政改革に着手

フランツ・シュテファンが無事に神聖ローマ皇帝フランツ1世になってオーストリア継承戦争は終結したかというと、それとはまた別問題だったのですね。
この戴冠の年の夏にはまたプロイセンとの戦争が始まっています。
このときフランツ1世の弟のカール公はプロイセン軍に敗北。
オーストリアと同盟していたザクセン軍も敗北し、1745年12月25日にザクセンの首都ドレスデンで和平条約が結ばれ、プロイセンはシレジアの領有を認めさせたのでした。
そのかわりフリードリヒ大王も皇帝フランツ1世を認めたのですよ。
フランツ1世はもともとハプスブルク家の人ではないので、ここからハプスブルク・ロートリンゲン家が始まり現在に至っています。

1748年10月18日のアーヘンの和平条約によりオーストリア継承戦争も終結。
ドイツ諸侯も諸外国もハプスブルク・ロートリンゲン家の皇帝フランツ1世を完全に認めたわけです。
ようやく訪れた平和な時代にマリア・テレジアは内政改革に着手し、バラバラな家領の集合体であるハプスブルク帝国をひとつの国家にしようとしたのですね。
そうしないかぎり国力を強化することができないし、国家としての統一に成功していたプロイセン王国には勝てませんね。
しかし10以上もの「民族」が居住するハプスブルク帝国は、結局最後までうまくいかなかったと結論しておくことにします。

「ブランデンブルク家の奇跡」が起きて戦争は終わりました

マリア・テレジアが内政改革に着手したと述べましたが、皇帝フランツ1世はそのとき何をしていたのでしょうか。
もともと政治問題に関心がなかったフランツ1世はシェーンブルン宮殿に植物園や動物園をつくったり、錬金術の実験室をつくったりしていたので、マリア・テレジアが「女帝」と呼ばれるのも理由がありますね。
どうしてもプロイセンからシレジアを取り戻したかったマリア・テレジアはついに宿敵フランスとさえ同盟。
マリア・テレジアの末娘マリー・アントワネットがフランス王太子ルイ、のちのフランス王ルイ16世と結婚したのもその一環でした。

マリア・テレジアとロシアの女帝エカチェリーナとフランス王ルイ15世の愛人ポンパドゥール侯夫人の秘密の同盟を「ペチコート同盟」と呼ぶこともありますが、オーストリアとロシアとフランスを敵に回したプロイセンは、1756年に始まった七年戦争で追い詰められてしまったのですよ。
1757年6月18日のケルンの戦いでフリードリヒ2世は敗北しプラハから撤退。
10月16日の深夜にはオーストリア軍によって本拠地ベルリンまで占領されましたが、それでも抵抗を続けたプロイセン。
1759年8月12日にはフリードリヒ2世もついに敗北を宣言したのですが、それでもなお持ちこたえたプロイセンは、1762年に「ブランデンブルク家の奇跡」が起こって敵国が次々と休戦。
1762年12月30日の和平条約で最終的にシレジアはプロイセンのものに。
そのかわり、マリア・テレジアの長男ヨーゼフ大公がドイツ王に即位することが認められ、1764年3月27日にドイツ王ヨーゼフ2世が誕生。
こうしてハプスブルク家は皇帝位の事実上の世襲化をふたたび手にしたのでした。

フランツ一世が死んでマリア・テレジアは喪服を着続けました

フランツ一世が死んでマリア・テレジアは喪服を着続けました

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ながく続いた戦争も終わり、ようやく平和な時代になりました。
オーストリア継承戦争末期の1747年5月5日にシェーンブルン宮殿で生まれた三男レオポルト大公は、かつて父がロレーヌ公国と引き替えにして手に入れたトスカナ大公を継いでいました。
1764年に兄が無事にドイツ王ヨーゼフ2世となった翌年の8月5日に、3000メートル級のアルプスの山々に北と南をはさまれたインスブルックで結婚。
マリア・テレジアは家族総出でこの結婚式のためにウィーンを発ったのでした。

三男レオポルトの結婚式のときにフランツ1世が死んでしまいました

フェーン現象という言葉をご存じの方もいらっしゃるはずですが、これはもともとアルプス地方で吹く風のことを言ったもの。
空気は上昇するときに気温が下がりますが、山の頂から吹き下ろすときには1.5倍以上も気温が上昇するのですよ。
この熱風のせいなのかこれまでの疲れが出たのか、フランツ1世は息子の結婚式の終わった数日後、8月18日に突然死んでしまったのですよ。
マリア・テレジアにしてみると、かつてヨーゼフ2世を身ごもっていたとき父カール6世が死に、今度は三男のレオポルト大公の結婚式のときに最愛の夫フランツ1世が死んでしまったのですね。

マリア・テレジアは1765年8月18日の夫の死後15年間も未亡人として生きることになりますが、生涯ずっと喪服を着ていたのですよ。
この衝撃的な夫の死の3ヶ月後に「太陽までが私には暗く輝いている」と言って、一人で部屋にこもって「誰か」と話していたというエピソードが残っています。
そして自分と夫との29年6ヶ月と6日の結婚生活を「月にすると335ヶ月、週にすると1,540週、日数にすると10,781日、時間にすると358,744時間」と計算しています。
ウィーンの皇帝廟では、マリア・テレジアの遺体はなんとフランツ1世の遺体と同じ棺に納められています。
それほど深い夫婦愛だったということですね。

長男ヨーゼフ2世が共同統治者になりました

すでにドイツ王になっていた長男ヨーゼフ2世は父の死んだその日に神聖ローマ皇帝になっています。
戴冠式もなく自動的に父のあとを継いだのですが、ハプスブルク家の家領を相続していた母マリア・テレジアの共同統治者となったのはその1ヶ月後の9月19日。
本来ならば皇帝ヨーゼフ2世が完全な統治者となってもよさそうなところ、内政改革に手をつけてきたマリア・テレジアとしては、急進的な息子にすべてを任せることができず、国内政治ばかりではなく外交問題についても、しばしば母と息子とのあいだに争いが起こっています。

フリードリヒ大王との戦争を続けてきたマリア・テレジアでしたが、本来は平和主義者といっていいと思われます。
ベルリンを占領したときにもオーストリア軍の兵士たちに、市民を傷つけてはならないと厳命していますし、内政改革もできるところから少しずつやっていこうと努力しています。
周囲を顧みることなくしばしば独断的に物事を決定し実行しようとする息子ヨーゼフ2世にブレーキをかけたのですね。
1778年7月5日に起こったバイエルン継承戦争でも、マリア・テレジアは秘かにかつての宿敵フリードリヒ大王に平和を望むという趣旨の手紙を書き送っているのですよ。
16人もの子どもを生み育てたマリア・テレジアでしたが、1780年11月29日に息を引き取りました。

オーストリアではマリア・テレジアは今も「国母」と呼ばれています

ウィーンのリンク・シュトラーセに美術史博物館と自然史博物館が並んで建っていますが、その中央に立派な体格をしたマリア・テレジアが空に向かって何か言おうとしている像があります。
その足元には何人もの騎馬にまたがった将軍や官僚たちの像が「女帝」マリア・テレジアを支えています。
この像が象徴するように、ハプスブルク家の家領をひとつの国家にしようとしたマリア・テレジアこそ、今もこの国の「国母」として君臨しているのですよ。
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