ローマ在住者が伝授!「フォロ・ロマーノ」の観光完璧ガイド

公開日:2019/3/22 更新日:2020/3/6

年間、600万人の観光客がやって来る「フォロ・ロマーノ」。「コロッセオ」や「カンピドーリオの丘」、「パラティーノの丘」と並んで、古代ローマ遺跡では最も人気の高いスポットです。1980年に、「ローマ歴史地区」の一部として世界遺産にも登録された「フォロ・ロマーノ」。紀元前にまでさかのぼる「フォロ・ロマーノ」の歴史を見ていきましょう。

「フォロ・ロマーノ」の歴史

 

「フォロ・ロマーノ」の歴史

「フォロ・ロマーノ」というイタリア語で言われても、ピンと来ないのが実情。
その意味は?歴史は?「フォロ・ロマーノ」見学の前に、ざっとおさらいをしてみましょう。

「フォロ・ロマーノ」とはどんな意味?

 

「フォロ・ロマーノ」とはどんな意味?

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「フォロ・ロマーノ」はイタリア語、古代ローマの公用語であるラテン語では「フォルム・ロマヌム」という名称です。
「ローマの公共広場」という意味で、このあたりが古代ローマ時代の街の中心であったことを示しています。

実際、「フォロ・ロマーノ」には、政治の中枢である「元老院」、商業の中心である「商取引の市場」、法の中心である「裁判所」などがあり、市民集会もよく開かれていたそうです。

「フォロ・ロマーノ」はいつごろできたの?

 

「フォロ・ロマーノ」はいつごろできたの?

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「フォロ・ロマーノ」があるあたりは、古代は湿地帯で人が住みにくい場所でした。
そこに人が集まり始めたのは、紀元前10世紀から紀元前7世紀頃といわれています。

ロムルスによるローマ建国は紀元前753年、紀元前6世紀には「カンピドーリオの丘」や「パラティーノの丘」に挟まれた「フォロ・ロマーノ」のあたりの整備が本格的に始まったもよう。

また、ローマ建国まもなくの紛争の舞台にもなりました。
ローマ建国当時、ローマ人には女性が不足していたため、同盟相手のサビーニ人の女性を強奪、怒ったサビーニ人とローマ人の闘争が「フォロ・ロマーノ」周辺で展開したこともあったようです。

紀元前6世紀には、「フォロ・ロマーノ」の辺りに下水溝が整備され、道も凝灰岩で舗装がされ、政治や商業の中心となる広場が作られるように。
また、現在まで残る「ヴィア・サクラ(聖なる道の意)」も起源は紀元前6世紀。

やがて、王政ローマの特徴であった「政治集会」が「フォロ・ロマーノ」で開催されるようになります。

また、ローマが共和制に移行する紀元前5世紀には、「フォロ・ロマーノ」内にローマ人の神たちに捧げる神殿が次々に建設されます。

紀元前210年、「フォロ・ロマーノ」を大規模な火事が襲い、神殿や牢獄、数々の宮殿も焼失。

独裁者と呼ばれたスッラにより、カンピドーリオのある西側から再整備が進められ、その後ユリウス・カエサル、初代皇帝アウグストゥスにより「フォロ・ロマーノ」は完成。
その後も、歴代の皇帝たちが増築改築修復を繰り返します。

西ローマ帝国が滅亡すると、「フォロ・ロマーノ」は放置され、ルネサンスの時代には数々の宮殿建設の資材として使用される運命に。

20世紀の前半には、ムッソリーニによって「フォーリ・インペリアーリ通り」が敷設され、「フォロ・ロマーノ」は北と南に分断されることになりました。

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