金沢城の今昔-加賀百万石の城はどのようにして誕生したのか

金沢城と言えば”加賀百万石”前田家の居城としても知られる、難攻不落の名城。現在では『金沢城公園』として、隣接する名園『兼六園』と共に金沢を代表する観光地として多くの人に親しまれています。平成に入ってから、門や壁、櫓など、城内の修復・復元作業が着々と進んでおり、見所満載・迫力満点。そんな金沢城はどのようにして造られ、守られてきたのでしょうか。金沢城の成り立ちや歴史を追いながら、その魅力に迫りたいと思います。

金沢城築城前の加賀とは?

金沢城築城前の加賀とは?

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先史時代の遺跡も多い町・金沢

金沢城がある金沢市の中心地は本州のほぼ中心に位置し、山も海もあり、また、犀川や浅野川といった清流のほかにも湧き水が豊富。
さらに古くから各所で砂金が出るなど、土壌に恵まれた土地でもありました。
そんな金沢市、加賀藩のイメージが強いですが、それよりずいぶん前から多くの人々の営みがあったと考えられています。
それを証拠に、市内および隣接市では数多くの大きな遺跡が見つかっていて、縄文式土器など貴重な遺構が数多く出土しているのです。
金沢には先史時代から多くの人々が集落を作って暮らしていたものと思われます。

政治の舞台としては、平安時代の律令制のもと、823年に越前国から分離して加賀国という国が設置されたのが始まり。
熊坂荘(くまさかのしょう)などいくつかの荘園が置かれ、田畑の数は多かったようです。

室町時代になると、この地に富樫一族が守護大名として入ってきて統治するようになります。
しかし富樫氏の守護職の地位は安泰とは言えず、幾度となく地の有力者たちに脅かされ続けました。
加賀では富樫氏と有力豪族たちの間の政争が100年以上に渡って続けられていったのです。

加賀一向一揆

加賀一向一揆

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1488年、守護職であった富樫(冨樫)政親(とがしまさちか)が、一向宗(いっこうしゅう)の門徒が起こした一揆によって攻め滅ぼされるという事件が起きます。
世に言う加賀一向一揆(かがのいっこういっき)です。

それより10年ほど前、蓮如という名の浄土真宗の僧が北陸地域にやってきて、浄土系のグループを次々と統合して廻っていました。
浄土系を統括するのは本願寺です。

蓮如は各地を廻りながら、富樫政親の要請を受けて長く続く守護職にも関わりを持ち、敵対勢力の追放に貢献。
本願寺の勢いに恐れをなした政親は、逆に本願寺の門徒の弾圧を始めます。
一向宗(浄土真宗)を大切にしてもらえると思っていた蓮如や多くの門徒たちは、残念ながら政治に利用され使い捨てられたようなものだったのです。

これに不満を抱いた門徒たち。
政親の敵対勢力たちと結託し、蓮如が諌めるのも聞かず、高尾城(たこじょう)にいた政親を攻め、自害させます(長享の一揆:ちょうきょうのいっき)。
膨れ上がった門徒たちの数は20万にも及んだとか。
彼らの憤りと、政親を亡き者にしようと目論む有力者たちの策略が相まって、騒動は一向に収まる気配を見せません。
京の都でも将軍足利義尚自ら、加賀のこの事態を何とかしたいと考えたようですが、京は京でまだ応仁の乱の傷が癒えていません。
そのうち、一向宗の偉い人たちがどんどん加賀にやってきて、加賀は実質、本願寺が統治するような形になっていきました。

金沢御堂の時代

金沢城址は、犀川と浅野川という2つの清流に挟まれた、金沢平野を一望できる小立野台地(こだつのだいち)と呼ばれる台地の先端部分にあります。
見晴らしもよく防衛にも長けた地形で、城を築くにはもってこいの場所。
この場所に1546年、金沢御堂(尾山御坊、御山御坊とも呼ぶ)という、本願寺の寺院が建立されました。
城にふさわしいこの場所に、まず建てられたのは城ではなく、寺だったのです。

寺といっても、空堀や柵を備え、まわりに石垣を廻らせた「要塞」とも呼ぶべき施設であったと伝えられています。
本願寺の門徒たちはこの場所に強固な建物を建て、以後、この場所が加賀本願寺の、しいては加賀一向一揆の拠点となっていきます。

加賀一向一揆は、富樫政親が滅びて蓮如がこの地を去った1488年から実に100年間、”百姓の持てる国”として近隣の戦国大名と肩を並べるほどの国力を維持し続けるのです。

金沢御堂の周辺には、農地の他に鍛冶屋や鋳物師、醸造所などがでい、実際に寺町としても大変な賑わいを見せました。

御堂陥落

御堂陥落

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この周辺地域には、先に述べたように先史時代から多くの人の営みがあったようで、土器や青銅器、古墳、勾玉、瓦、農具などが数多く出土しています。
先史から飛鳥、奈良、平安と、長きに渡って豊かな暮らしがあったことが伺えるのです。

しかし、それに比べると、さらに多くの人々が暮らしていたはずの鎌倉、室町時代の遺構は圧倒的に数が少ない。
おそらく、加賀一向一揆の混乱の中で、町の防衛のために建物は次々に取り壊され、建て替えられていったためではないかと考えられます。
もしかしたらそれ以前の過去の遺構も、かなり壊されてしまったかもしれません。

大名ではなく、一向宗の門徒主導で100年もの間、自治が執り行われていた加賀。
”百姓の持てる国”とは言いますが、庶民はそれまで大名たちに納めていた年貢とほぼ同じものを、本願寺に納めていました。
庶民の暮らしぶりはそれほど変わらなかったかもしれませんが、日本各地で起こっていた一揆は守護大名たちへの不満の表れであったと考えてよいでしょう。

とにかく、このようにして金沢の地は15世紀~16世紀にかけておよそ100年の間、本願寺が納める国として機能し続け、16世紀中盤に入ると、守護職であるはずの富樫氏の影響力は完全に失われ、本願寺は金沢御堂を中心として周辺の戦国大名と対峙するようになっていくのです。

異例の継続を見せた加賀一向一揆でしたが、16世紀後半、時代とともに現れたある人物によって幕引きとなります。
織田信長です。

加賀百万石の城・金沢城の歩み

加賀百万石の城・金沢城の歩み

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信長vs本願寺

事はまず、大阪で起きました。

天下統一に動き始めていた織田信長は、1570年から1580年にかけて、現在の大阪府中央区にあったとされる石山本願寺を制圧すべく動いていました。
世に言う『石山合戦』です。
当時の時代背景として、信長が掲げる天下布武を成し遂げるために、本願寺勢力の排除は避けて通れないものでした。
信長は単なる宗教弾圧ではなく、石山という土地にこだわったと考えられています。
それほど当時の本願寺は、攻守の要となる場所を牛耳っていたのです。
信長は10年にも及ぶ長い歳月をかけて本願寺を激しく攻め立て、ついにここを落としました。
補給路を断たれ食糧不足に陥ったたためだそうで、石山本願寺は信長をしても武力で落とされることはなかったのです。
このことからも、難攻不落の要塞であったことが伺えます。

石山本願寺があった場所は、実はよくわかっていないのだそうです。
しかし、後にその場所に、豊臣秀吉が”大坂城”を建てた、という説があります。
現在、大阪城内には、石山本願寺の推定地として石碑が建てられています。
考えてみればごく当たり前の話で、あの信長が落とすのに10年かかった場所。
細長くせり出した高台の先端にある、城を築くのに理想的な地形であることは、攻めあぐねた側ならわかること。
盤石であることは実戦で立証済みです。
石山本願寺があった場所を拠点にしようと考える大名がいてもおかしくないでしょう。

1580年、石山本願寺が落ちた後すぐ、金沢御堂も陥落します。
陥落前の数年間は、浅倉氏、上杉氏と周辺の大名との対立が激化し、とうとう織田信長自らが平定に乗り出し、100年もの間続いた加賀一向一揆の勢いにも陰りが見えていました。

金沢御堂から金沢城へ

金沢御堂から金沢城へ

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石山本願寺の陥落によって勢いが弱まった一向一揆。
その余波は、間もなく加賀にも訪れようとしていました。

金沢御堂を攻め落としたのは前田利家ではなく、織田氏の家臣であった佐久間盛政(さくま もりまさ)でした。
盛政は当時としてはかなりの巨漢であったと伝わっており、その勇猛さから「鬼玄蕃」と呼ばれ、稀代の軍略家と称された戦国武将です。
16世紀半ば頃、織田信長のもと、数々の戦で功績をあげ続け、1577年、信長の命で加賀一向一揆の鎮圧に当たります。
そして1580年、ついに金沢御堂を落とし、加賀一向一揆を終息に向かわせました。
佐久間盛政は金沢御堂を改築して「金沢城」と改名し、初代城主となったのです。
金沢城というと前田家の城というイメージがありますが、最初に城を築いたのは佐久間盛政でした。

石山本願寺の例もありますが、金沢御堂もまた、城として申し分のない立地に建っていました。
加賀一向一揆の後半、各大名との対立が激しくなる中、攻め落とされることなく本願寺の拠点として建ち続けた金沢御堂です。
その後の金沢城が「難攻不落の城」と呼ばれるようになったのもごく自然な流れと言えるでしょう。
石山本願寺同様、金沢御堂も長年に渡る諸大名との戦いで疲弊しきっており、武力による陥落というよりは”時が来た”というべき状況だったのかもしれません。
本願寺はとうとう、金沢御堂を明け渡しました。

しかし、残念ながら、金沢御堂の様子や、盛政が築いた初期の金沢城の詳細など、詳しいことはわかっていません。
石山本願寺同様、陥落前後の様子を知る遺構がほとんど残っていないのです。

最も、盛政自身は金沢城に入場した後も戦に明け暮れており、城作りまで手が回らなかったとも考えられています。
金沢城を確固たるものにした立役者はやはり、前田利家とその子孫たち、ということになるでしょう。
しかし、この時はまだ、前田利家は能登の七尾城を拠点としていました。
金沢城はいつ、前田家の居城となったのでしょうか。

金沢城・前田家の城へ

金沢城が誕生してわずか2年足らずの1582年、日本を揺るがす大事件が起きます。
天下統一間近の織田信長が、本能寺にて没したのです。
様々な事情を抱えながらも、力に屈し信長に付き従うことを決めた大名たちは揺らぎました。
羽柴秀吉と柴田勝家の溝が深まり、織田勢力は真っ二つとなり、やがて賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)が始まります。

このとき、柴田勢の一員として戦場へ出ていた佐久間盛政は鬼玄蕃の異名どおり、勝家の制止も聞かず敵陣を猛攻。
敵陣の砦を奪うなど最初は優勢でしたが、深追いし過ぎて撤退の機会を見誤り、予測よりはるかに早く引き返してきた秀吉側の軍勢に攻撃されてしまいます。
このときの勢いがそのまま、賤ヶ岳の戦いの勝敗を決めることとなりました。

この戦については、前田利家は非常に苦しい立場に立たされていたと伝わっています。
秀吉と利家は織田家家臣の頃から苦楽を共にした盟友でありながら、柴田勝家とは主従関係にありました。
勝家は利家を頼り、秀吉との和睦の道を模索していたとの説もありますが、一度火がついた戦いの勢いを止めることはできなかったようです。
そんな二者の板ばさみで苦しんだせいか、利家は戦の最中に突如戦線離脱しています。

とにかく、この戦いで勝利を収めた秀吉は織田家旧臣たちをまとめ、前人未到の天下統一へと動き出します。
石山本願寺跡に城を築いたとされるのもこの頃です。

佐久間盛政は秀吉によって捕らえられ、京都市内を引き回された後斬首。
前田利家は秀吉から石高の加増を受け、金沢城へ移ることになりました。

利家はこうして、能登七尾にあった城から金沢城へと移ってきました。
以後、彼の子孫たちは13代に渡って金沢城主となり、能登、加賀、越中の3国を納めることになったのです。

前田利家とは

前田利家とは

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ここで、加賀百万石の礎を築いた前田利家について少し振り返ってみたいと思います。

前田利家(1539年~1599年)は尾張国の荒子村の出。
前田家の四男坊として育ち、少年時代より織田信長に仕えていました。
槍の名手だった利家は武功をあげ続け、柴田勝家の与力として活躍。
主に北陸方面の平定に尽力し、能登で23万石をとる大名となりました。
若い頃は血気盛んで無頼者で通っていたようですが、信長の信頼を得て武将としての頭角を現し始めます。
才色兼備と言われた妻をめとり、信長の居城安土城の下屋敷に住んでいたときは、羽柴秀吉夫妻と隣人でした。

柴田勝家自刃の後、利家は佐久間盛政亡き金沢城に拠点を移します。
利家は武芸に長けていただけでなく戦術でも辣腕をふるっており、その知恵と経験は金沢城の城固めにも大いに役立ったことでしょう。

若いころは柴田勝家に付いていましたが、後に秀吉に従い、徳川家康や上杉景勝らと共に豊臣政権五大老に名を連ね、豊臣政権天下統一に尽力。
秀吉の頼みで、豊臣秀頼の後見人も務めます。

しかし、秀吉が亡くなると、五大老の力関係にも変化が。
徳川家康が力をつけて豊臣一門を脅かすようになります。
台頭する徳川の勢いは利家を持ってしても止めることができません。
秀頼の身を案じながら、利家は秀吉の後を追うようにこの世を去ります。
1599年のことでした。

翌年1600年10月、関ケ原の戦いで徳川家康の覇権は決定づけられます。
利家亡き後、他の大老たちに家康に抗う力はなく、やがて時代は戦国から江戸へと移っていくのです。

前田家の存亡をかけた戦いと金沢城

前田家の存亡をかけた戦いと金沢城

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前田家と金沢城

金沢城は前田利家入城以後、明治維新までのおよそ300年、前田家の城として栄えました。

しかし、徳川から見れば、前田家はずっと厄介な存在だったはずです。
豊臣五大老の中でも、家康と対等に渡り合えるのは利家だけでした。
関が原以後、前田家は外様大名となり、いつ、お家取り潰し・金沢城明け渡しを言い渡されてもおかしくない状態にあったのです。

結果的には、前田家は取り潰されることもなく、金沢城から出ることもなく、加賀藩は存続し続けることができました。
利家の死後、2代当主となった前田利長は関が原の際に徳川方に付き、実の母を人質に出し、徳川秀忠の娘を前田家に輿入れさせるなど、様々な方法で徳川家との縁を固めていったのです。
もともと、織田氏家臣・豊臣家大老の大大名であった前田家。
こうした努力が実り、領地や石高を減らされることなく、外様としては異例の優遇措置を受けることができたのです。

そのことを予見してか、前田利家は金沢城の城作りにも力を入れていました。

少し時間を戻して、前田利家の城作りの様子から金沢城の様子を追ってみましょう。

金沢城主となり能登・加賀・越中の3国を治めることとなった前田利家は、領地内で検地を行い、年貢だけでなく労働力の徴収も行いました。
正確な記録はありませんが、金沢城の補強・増築のための人員を集めたのではないかと思われます。
おそらく利家は、本丸をはじめ二ノ丸、三ノ丸といった城郭を石垣や土塁で築き上げ、天守閣を建造。
櫓なども築き上げていったとようです。

残念ながら、このころの金沢城の様子は、残念ながらまだはっきりとはわかっていません。
しかし、近年の発掘調査によって少しずつ様相が明らかになっており、今後の調査に期待がかかっています。

戸室石と高石垣

戸室石と高石垣

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1592年(文禄元年)、前田利家は朝鮮出兵のため京都に向かいます。
その際、息子利長に金沢城の留守役を任せるわけですが、このとき利家は利長に「本丸の高石垣を作れ」と命じました。
高石垣とは文字通り高い石垣のこと。
かつての安土城や、秀吉が築き上げた大坂城は、高い石垣で囲われた城で、利家も、城とはかくあるべきと考えていたのかもしれません。

利長は父の命を受け、金沢城の南東にある戸室山という山で採れる安山岩を切り出し、高石垣を築き始めます。
いわゆる戸室石という石で、金沢城の石垣のほとんどがここから採掘された石でできているのです。
利長の作業は苦労の連続だったと伝わっていますが、途中、利家が京都から手配した篠原一孝(しのはらかずたか)という城作りの名人が作業に加わり、何とか高石垣を完成させることができました。

金沢城の魅力のひとつとして、石垣の美しさを上げる人は多い。
この時期に作られた石垣は「文禄石垣」とも呼ばれ、現在でも本丸跡東側で見ることができます。
やや平たく削られた石が猛々しく積み上げられた石垣は一見の価値ありです。

ところで、金沢城の成功は、この戸室石にあったといっても決して言い過ぎではないでしょう。
戸室山は金沢城からおよそ10㎞ほど離れた場所にあり、角閃石安山岩という種類の石がたくさん採れました。
この山から取れる石は、青みを帯びたものと赤みを帯びたものがあり、それらを積み上げることで大変美しい石垣が出来上がったのです。

また、戸室山は、当時の石切りの様子がよくわかる貴重な遺構としても、非常に注目を集めています。
平成15年から行われている戸室石切丁場の調査では、周辺に石の採掘跡が700以上確認されており、およそ12㎞に及ぶ石引道のルートや、運び出しの様子なども具体的にわかってきて、全国的に大変注目を集めているのです。

三階櫓と惣構

前田利家の死後、豊臣五大老の関係も微妙なものに。
徳川の揺さぶりが始まります。

まず、後を継いだ利長に、徳川家康暗殺の疑いが。
利長はやむなく、実母を江戸へ人質として差し出すという苦渋の決断を強いられます。
徳川に脅威を感じた利長は、当時前田家に身を寄せていたキリシタン大名高山右近の力を借りて、金沢城のまわりの守りを固める工事を始めました。

利長はまず、城のまわりに惣構(そうがまえ)を設けます。
惣構とは城下町を囲んだ堀や土塁、土居のこと。
金沢城には内・外二重の惣構が設けられましたが、1599年にまず内惣構が、続いて三代藩主利常の頃(1610年)に外惣構が完成しました。
内惣構の中には寺院や町屋の他に田畑や農村の集落も混在していて、非常にのどかな景観であったと考えられています。
一見、農業・生活用水を整備したようにも見えますが、もちろんこれは城の守りのため。
内・外惣構が完成したことで、金沢城は城下町ともども、その防御はより一層強固なものとなりました。

利長が内惣構を完成させた頃、1602年に落雷があって金沢城の天守が消失してしまいます。
この時の利長の心中はいかばかりか。
徳川からあらぬ疑いがかからぬよう、豪華な天守の再建は止め、代わりに三階櫓(さんかいやぐら)を天守の代用としたと考えられています。
また、異母弟の利常の夫人に徳川秀忠の娘珠姫を迎え、自らは一線を退く決意を固めました。
このようにして利長は、父と共に築いたものを失わぬよう懸命にふるまい、徳川に屈する姿勢を明確にしたのです。

このとき築いた三階櫓は、1759年に焼失するまでの約150年間、天守閣に代わって金沢城のランドマークとしてその役割を果たしてきました。
また、惣構の堀が城下町を潤し続けたことは言うまでもありません。

百万石を守った”ブレない姿勢”

百万石を守った”ブレない姿勢”

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父利家の代から恩義のある豊臣に付くか、揺るぎない地位を確立しつつある徳川に付くか。
家臣たちの思いも決して一枚岩ではありませんでした。
利長は苦悩の末、豊臣側の家臣を切り捨て、徳川に忠誠を誓いましたが、それで収まるほど穏やかな状況ではなかったと思われます。

利家の後をついで城主となった利常は、内政に力を入れ続けました。
徹底して農業改革を行い、税収を安定させることに成功。
一度は傾きかけた加賀藩の財政を立て直します。
また、金工芸や染め物など文化工芸品に力を入れていきました。

それから十数年が経過し、徳川による政治体制が確立して戦のない平和な時代が訪れます。
加賀藩は5代目綱紀が藩主となり、文化工芸にますます力を入れることで藩はさらに豊かになっていきました。

加賀藩というと、金箔や加賀友禅などが有名ですが、他にも、この時代の藩の財政を支えた工芸品はたくさんあります。
そのひとつが「加賀毛針」。
鮎釣りなどに使う、美しい毛飾りのついた釣り用の毛針です。
泰平の世になると、加賀藩士たちはこぞって毛針を作るようになりました。

加賀藩はもともと徳川に付いていた、力のある大名です。
徳川は常に、前田家に謀反の動きがないか、目を光らせていました。
武芸の鍛錬などすれば何か言いがかりをつけられてしまうかもしれませんが、といっても藩士たちに何もさせないわけにもいきません。

そこで藩は、侍たちに釣りをするよう命じます。
金沢城は犀川と浅野川という二つの川に挟まれた地形。
また、釣りはやりようによっては心身の鍛錬にもなります。
餌の代わりとなる毛針作りも、手先の器用さなどを磨くよい方法となりました。

金箔や友禅などの工芸品の技術を磨くことも、徳川の目を逸らすためであったとも考えられます。
結果、加賀藩の財政は大いに潤い、徳川と衝突することなく存続することができたのです。

様々な表情を見せる金沢城の石垣たち

様々な表情を見せる金沢城の石垣たち

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文禄・慶長の石垣

徳川からあらぬ疑いをかけられぬための工夫は、金沢城の中にも見られます。
先ほど登場した三階櫓もそうですが、もうひとつ、城内に残る石垣を見て歩くと、前田家が抱えていたお家事情を伺うことができるのです。

”石垣の博物館”と呼ばれるほど、金沢城の石垣は実に様々な表情をしています。
戸室石の赤と青の美しさはもちろんのこと、石の切り出し方や積み方も多種多様です。

初代城主利家が利長に命じて作らせた石垣は”自然積み”とも言われ、石切り場から切り出した自然のままの石材を積み上げたもの。
現在の金沢城公園内では、本丸跡の東側の「東の丸北面石垣」で見ることができます。
荒々しく積み上げられた石と石の間には隙間があり、一見無造作に積まれているように見えますが、実は排水がよく、構造的にも安定しているのだとか。
現に「東の丸北面石垣」は築かれてから既に400年が経過していますが現在でもその姿を保っています。

二代利長から三代利常に変わる頃、時代が戦国から徳川の時代に変わろうという頃の石垣は「慶長石垣」とも呼ばれ、自然石を割って作った割石という石を積み上げた野趣あふれるもの。
現在の金沢城公園内では「尾坂門」や「河北門」、「本丸南面石垣」、そして「辰巳櫓南東隅角」などで見ることができます。
一部崩壊して近年修復された部分もありますが、多くの石垣は当時のままの様子を見学することが可能です。

このころになると、ただ積み上げるだけでなく、文禄の頃にはまだ未熟だった隅角の石の積み方(算木積み:長方形の石を短辺・長辺交互に積んでいく技法)の巧みさが目立つようになります。
また、門など目立つところに巨石を用いた個所も見られ、石積みの技術がどんどん向上していく様子がわかって非常に興味深いです。

中期:粗加工石を用いた石垣

大坂の陣の後、徳川の時代が始まって十数年の間に、三大藩主利常によって石垣の技術も大きく向上します。
石は石切り場から切り出されたのち、ノミなどで部分的に加工され、隅角はきっちりとまっすぐ切られた石を積んでより美しい算木積みが見られるように。
石を加工する技術の向上が見て取れます。

ただ、この時期の石垣は何度も作り直しされているため、石垣の下に、前の代の石垣が眠っている可能性があるのです。

金沢城では何度も大火事が発生しており、1631年に起きた寛永大火もそのうちのひとつ。
建物の大半が焼失したため、二ノ丸を拡張し、三ノ丸との間に堀を築いたりと大規模な改築工事を行っているのです。
その際、石垣の積み直しも行っていて、現在の金沢城公園内の二ノ丸のまわりの石垣のほとんどがこの時代に作られた(あるいは再興された)ものと思われます。

また、この時代に積まれた石には”刻印”が刻み込まれているのも特徴。
金沢城の石垣石の刻印は、 石を切り出す時の作業分担などを示すために付けられたと考えられていますが、どういう意味があるのかについては、諸説あるようです。

この石の刻印、大坂城や江戸城、名古屋城などでも見られます。
これらの城には”天下普請(てんかぶしん)”という共通点があり、石の刻印はそれによるものなのです。
天下普請とは江戸幕府が各大名に命じて行わせた土木事業のことで、つまり上記の城は、一大名によって建てられた(修復された)のではなく、全国の大名が少しずつお金や労働力を出し合って築いたもの。
豊臣に加担した大名たちへの財政的な締め付けを意図しているとの見方もありますが、みんなで負担しあって大名間の上下を無くすためであったと思われます。

金沢城は天下普請による城ではなく、建築・修繕もすべて加賀藩によるものですが、この時期に作られた石垣には200種類以上もの刻印が。
しかし、この後、少し年数が経つと、石から刻印は一切姿を消します。
単に作業分担のためなのか、それとも他に何か意味があったのか……。
金沢城公園散策の機会がありましたら、ぜひ、石の刻印にも注目してみてください。

後期:多種多様な切石積み

1600年代中盤頃から、石垣にひとつの大きな特徴が見られるようになります。
きっちりと四角形に加工された大ぶりな石を隙間なく積み上げ、戸室石の赤や青みがかった色がより一層際立つ美しい石垣。
特に五代城主となった前田綱紀の時代には、表面が平らで滑らかな、優美な石垣が数多く築かれました。

特に際立って美しいのが、玉泉院丸庭園のまわりに見られる石垣群。
中でも「色紙短冊積み石垣」と呼ばれる石垣は、防御というより芸術の域に達しているとみていいでしょう。
下から順に石を積んでいくべきところを、縦に長い石を差し込むように組み上げており、石垣の作り方としては無駄なことをしているようにも思われます。
戸室石の色の美しさも相まって、前衛アートのようにも。
この石垣は玉泉院丸庭園から見ると、まるで庭の背景のようにも見えます。
まさに”見せるための石垣”。
綱紀の好みであったとも言われています。

城であるからには、石垣は作らなければなりません。
ただでさえ金沢城は、火事によって幾度も建物が焼失し、堀の作り替えや修繕を余儀なくされていました。
しかし一方で、しょっちゅう石垣を作っていたのでは、城を強固にして徳川に逆らおうとしているのでは?と変に勘繰られる恐れもあります。

石を綺麗に切り整えて美しく積み上げたり、横に積めば効率が良いものを、わざわざ石を縦向きに置いて余計な作業を増やしたり。
さらに時代が進むと、石と石とが隙間なくピッタリ積み上げられたものや、まるでパズルのように多角形を組み合わせたものなど、手の込んだ石垣が数多く見られます。
軍備や防御目的ではなく、あくまで城を美しく見せるための石垣作りである、とでも言っているかのようです。

このようにして金沢城は、徳川に睨まれることなく、加賀百万石の名にふさわしい美しい石垣に囲まれて優雅に存在し続けることができました。
同じく本願寺の拠点として栄えた土地に建てられたとされる大坂城は最期まで徳川に抗い、廃城の後徳川によって作り替えられる運命を辿りました。
一方の金沢城は、お家存続を第一に考え徳川に付き従うことで、徳川の世が終わりを告げるまで前田の城として存続し続けることができたのです。

江戸時代以降の金沢城

江戸時代以降の金沢城

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幕末の金沢城

300年もの間、前田家の城として存続し続けた金沢城にも、やがて転換期が訪れます。
徳川の世の終焉、黒船来航、そして明治維新が目の前に迫ってきていました。

加賀藩では異国船への警戒を強める一方で、西洋式の砲術や大砲の鋳造などに力を注ぎます。
1853年、ペリー艦隊が浦賀に来航し、日本に開国をせまりました。
日本が開国に踏み切ったのは翌年のことです。

このころ、金沢城の本丸の北側には、鶴丸倉庫が再建されました。
大火で焼失していたものを建て直したのですが、以前よりかなり大きな建物になっています。
城内に残る、数少ない江戸時代の建物です。
その後、やはり本丸のそばに、同じく以前焼失してそのままになっていた三十間長屋も再建されました。
これらの建物は武器蔵として利用されたのではないかと考えられ、幕末の緊張した様子をうかがい知ることができます。

幕末の加賀藩は、13代金沢城主斉泰(なりやす)が徳川将軍家斉の娘を正室として迎えていたことなどから、幕府に味方する”佐幕”の立場をとっていました。

しかし、開国論が盛んに唱えられるようになると遅ればせながら藩政改革に乗り出します。
ですが長州や薩摩のような重要な立場に立つことは叶わず、無念のまま隠居。
1866年に息子の慶寧(よしやす)に城主を受け渡します。
しかしその翌年、徳川慶喜が大政奉還を決意。
鳥羽・伏見の戦いが勃発します。

慶寧は始め、佐幕として戦に参加しますが、幕府劣勢と知り新政府側に付くことを表明。
1869年には版籍奉還を願い出て金沢藩知事となります。
しかしその体制も長くは続かず、結局、藩体制自体が終焉を迎えたため、金沢藩も廃藩。
慶寧は金沢を後にし、東京へと移っていきました。

明治以降の金沢城

明治以降の金沢城

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1871年、前田家が出ていった後の金沢城は、新政府の陸軍省の管轄下に入ります。
このとき、残されていた建物のほとんどが取り壊され、主に二ノ丸とその周辺に軍隊の施設として整備されていきました。
本丸や二ノ丸の柵や塀の多くは撤去され、金沢城の景観は大きく変化していったのです。

その後、第二次世界大戦の敗戦によって旧陸軍は解体され、金沢城内に置かれた各施設は占領軍の支配下に移ります。
金沢城跡地の利用については様々な意見が交わされ、最終的に1949年、金沢大学のキャンパスとして利用されることとなりました。
明治に入ってから陸軍の拠点として活用されてきた金沢城は、若者たちの学び舎として、学問の中心地へと変貌を遂げたのです。

三ノ丸に教育学部、二ノ丸に法学部、新丸付近に理学部とグランドや体育館。
金沢大学は、手狭になり平成に入ってから移転が決まるまでの40年余りの間、”お城の中の大学”として多くの人に親しまれてきました。

金沢大学が移転した後、金沢城跡地は石川県の管轄となります。
金沢城は紆余曲折を経てようやく再び、石川県民のもとへ戻って来たのです。
金沢城跡は少しずつ段階的に、城址公園として整備されていきました。

これからの金沢城

現在の金沢城址は、一度は解体され埋もれてしまった城の遺構の調査・復元を行うとともに、「金沢城公園」として人々に広く開放されています。

城内へ足を踏み入れると、建物が少ないせいもあって、非常に広く感じるはずです。

ところで、現在の金沢城にも、天守閣はありません。

歴史研究や観光の観点から、失われた天守閣を復元している地域はたくさんあります。
もう徳川の顔色をうかがう必要もないのだから、金沢城にも立派な天守閣を作ってもよさそうなもの。
櫓や門などは復元作業が進んでいるのに、天守閣を作って観光の目玉にしてもいいのでは、という意見も出てきそうです。
もちろん金沢城の魅力は天守以外にもたくさんありますが、やはり城を訪れる観光客のほとんどは、一般的には立派な天守閣の雄姿を期待しているはず。

天守を復元しない理由は「資料不足」なのだとか。
天守閣は1602年に落雷で焼失しており、どのような形をしていたかわかっていません。
その後作られた三階櫓は焼失した天守閣を模しているとの見方もあり、三階櫓の図面は残っているので天守の形を再現することはできそうです。
しかし、それでも天守の復元は考えられていません。

天守を復元しない理由はもうひとつ、復元するなら当時と同じ素材を使って木造建築を目指したい、というところにあるようです。
天守閣のような大きな建物を木造で、となると、材料集めから作業に至るまで、いくつもの問題をクリアしなければなりません。

現代建築技術で外観だけ天守の形を整えた建物でも、十分集客につながると思われますが、金沢の人たちはそれを望まなかった。
少しずつでも工夫しながら”本物”を復元していきたい。
これが、金沢城に天守閣がない、本当の理由なのでしょう。

金沢城の魅力は”魅せる石垣”にあり!

金沢城公園をまわると、石垣の美しさに魅せられます。
お城というとどうしても天守閣を期待してしまいますが、金沢城の石垣には優にそれを上回る魅力が。
とにかく美しい。
また、天守閣はありませんが、櫓や塀などは細部に渡ってこだわって復元されており、迫力満点です。
特に美しいのが三の丸の正面にある「河北門」。
明治15年頃に撤去されてしまいましたが、平成22年に復元が完了。
石垣の石は戸室山から切り出した石を使っていて、眩いばかりに輝いています。
歴史に翻弄されながら今日に至る金沢城。
当時の形を少しずつ取り戻しながら、多くの人たちの憩いの場として今日も静かに時を刻んでいるのです。
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