戦国大名のドラマを見続けて500年!掛川城の歴史

掛川城と聞いて、具体的なイメージは浮かぶでしょうか?掛川にあるのだな、ということは何となくお判りになるかもしれませんが、いったい、いつ誰が建てたものなのか、なかなかこれをご存知の方はいないかもしれません。実は現在放送中の大河ドラマ「おんな城主 直虎」にも少なからず関係のある城なんですよ。そして、この天守閣は日本でもとても貴重なものなんです。多くの城主に様々なドラマがあった掛川城、今回はその歴史についてご紹介していきたいと思います。

掛川城ってどんな城?

掛川城ってどんな城?

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掛川市は静岡県西部に位置し、かつては遠江(とおとうみ)と呼ばれた国の領内でした。

掛川の名の由来は、市内中心部を流れる逆川(さかがわ)がすぐに氾濫し、堤防が欠ける(決壊する)ことが多かったことから、「欠川→掛川」となったという説もあります。

そんな掛川の地に、掛川城は戦国時代の初期に建てられました。

掛川は東海道の要衝として、多くの戦国大名がこの地を巡ってせめぎ合いを起こしていました。
馴染みがある名前としては、今川氏・徳川氏・武田氏などです。

ここで主に掛川城の歴史が作られていったわけですね。

江戸時代になると立派な天守が建設されましたが、相次ぐ地震によって倒壊し、嘉永7(1854)年の大地震の後は修復されることもなく、そのまま明治時代に入って廃城となってしまいました。

現在の天守は、平成6(1994)年に復元されたものです。
日本初の木造天守としてとても貴重なものであり、毎年春にはたくさんの桜が咲き乱れる桜の名所として知られていますよ。

では、掛川城がたどってきた歴史を振り返ってみることにしましょう。

戦国時代の超大物・今川氏の城として誕生

戦国時代の超大物・今川氏の城として誕生

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掛川城の歴史は、現在の掛川城から500mほど東にある天王山に掛川古城が建てられたところから始まります。

時は戦国時代初期、文明年間(1469~1487年)の頃とも、明応6(1497年)~文亀元(1501)年の頃とも言われており、はっきりとはわかっていません。

この頃、駿河国(静岡県中部・北東部)は戦国大名・今川氏の本拠地でした。
そして、前述の通り東海道の要衝だったこの地に、城を造ることにしたのです。

城づくりを命じた今川家の当主は、今川義忠(よしただ)とも今川氏親(うじちか)とも言われています。
これは、城が建設された時期がはっきりしないためです。

城づくりを命じられた人物は、今川家の重臣・朝比奈氏でした。
具体的には、今川義忠と氏親に仕えた朝比奈泰煕(あさひなやすひろ)とされています。

建設された掛川城には、そのまま朝比奈氏が入り、城主となったのでした。

この後、今川氏の勢力が拡大するのに伴い、より大きな城を、ということで、竜頭山に現在の掛川城が造られることになりました。

これが永正9(1512)年から翌年にかけてのことです。

そして、今川義忠・氏親に続く義元(よしもと)の代に全盛を迎えた今川氏ですが、永禄3(1560)年に事態は一変したのでした。

さて、何が起こったのでしょうか。

桶狭間の戦いと今川氏の凋落

桶狭間の戦いと今川氏の凋落

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永禄3(1560)年に起きたのは、桶狭間の戦いでした。

尾張(愛知県)の新興勢力・織田信長に、当時最強をうたわれた今川義元が、あろうことか討たれてしまったのです。

誰もがまったく予想していなかった事態に、今川家内は混乱に陥りました。

そして悪いことに、義元の後を継いだ氏真(うじざね)は父に遠く及ばない人物だったのです。

そのため、今川氏から離反する家臣が続出しました。
その中には、幼少時に人質としてやって来てから今川の家臣となっていた徳川家康も含まれていたんですよ。

こうして、今川氏、そして掛川城を取り巻く状況は急激に変わっていったのでした。

掛川城、開城

掛川城、開城

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家臣たちの心が離れていくのを止められない中、今川氏に対して朝比奈氏は忠誠を誓い続けていました。

当時の当主・朝比奈泰朝(やすとも)は、今川氏真を何とか支えようとしていた、当時の今川家内ではかなり貴重な人物です。

そんな中、隣の甲斐(山梨県)の雄・武田信玄が今川領に攻め込んできました。
これにはたまらず、今川氏真は駿府の本拠地を捨て、自分を支えてくれる朝比奈泰朝の元に逃げ込んだのです。
もちろん、その行き先とは、掛川城でした。

この混乱に乗じて、三河(愛知県)からは徳川家康が攻め込んできました。
そして掛川城は徳川方に包囲されてしまったのです。

しかし、ここで朝比奈泰朝は奮戦し、攻防は半年にも及びました。

が、結局、和議を結ぶに至り、掛川城は開城して今川氏真と朝比奈泰朝は退去することとなりました。
行き先は、氏真の正室の実家でもある北条氏の勢力下・小田原でした。

これで、今川・朝比奈氏による掛川城時代は終わりを告げたのです。

新たな城主の時代

新たな城主の時代

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朝比奈泰朝が城を去り、その後には徳川家康の重臣・石川家成(いしかわいえなり)と康通(やすみち)父子が城代として入城しました。

石川家成は家康の重臣中の重臣とされる人物で、掛川城がいまだに重要な拠点だったことがわかりますね。

しかし、徳川時代も長くは続きませんでした。

天正18(1590)年、家康は天下人となった豊臣秀吉の命令により、関東(江戸)への領地替えを余儀なくされたのです。

そして、新たな城主となったのは山内一豊(やまうちかずとよ/かつとよ)でした。

この人物、名前を聞いたことがある方もいるかもしれません。

司馬遼太郎作品の「功名が辻」の登場人物で、その妻は「内助の功」で有名な女性です。

山内一豊は、さっそく城の拡張工事に取り掛かり、天守や大手門など立派な建造物を造り上げました。
これが現在の掛川城の基本部分となります。

また、彼は城下町の整備や治水工事などにも力を入れ、掛川城下の発展に大きな役割を果たしました。

そして慶長5(1600)年、徳川家康が決定的な覇権を手にした関ヶ原の戦いの後、山内一豊は土佐(高知県)へ国替えとなります

この後の掛川城には、徳川に古くから仕えた譜代大名たちが入城し、城主となりました。
やはり、この地は依然として重要視されていたわけです。

新たな城主としては、徳川家康の異父弟である松平定勝(まつだいらさだかつ)や、徳川氏の「超」重臣である井伊氏、本多氏などが挙げられます。

天守倒壊に見舞われた江戸時代

天守倒壊に見舞われた江戸時代

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江戸時代の後期になると、太田氏が掛川城主となりました。

この太田氏、太田道灌(おおたどうかん)という室町時代の名将の末裔です。
道灌は江戸城を最初に築城した人物でもあり、文武両道の優れた人物でしたが、謀殺されるという悲劇的な最期を遂げてしまいました。
JR日暮里駅前に立派な銅像があるので、もしかするとピンとくる方もいらっしゃるかもしれません。

そんな太田氏支配の時、掛川城は天災に見舞われました。

安政元(1854)年の安政東海大地震により、天守など城の大部分が倒壊してしまったのです。
この頃はちょうどペリーの黒船が来航した直後でもありました。

とにかく城の体裁を整えようということで、地震の翌年から二の丸部分に掛川城御殿という建物を建設しました。
ここは政務を執る場所として使用され、明治元(1868)年まで使用されたのです。

しかし、壊れた天守が再建されることはありませんでした。

そして明治時代に突入し、明治2(1869)年、掛川城は廃城となったのです。

その後の掛川城、天守の復興

その後の掛川城、天守の復興

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長らく廃城となった掛川城跡は公園となり、天守台などがそのままになっていました。

それを見た市民有志により、平成6(1994)年、天守が再建され、翌年には大手門も再建されたのです。

かつて東海の名城と呼ばれた優雅な姿は、日本初の木造復元天守としてよみがえりました。

当時の記録に基づき、当時の材料や工法で忠実に復元された掛川城天守は、現在もその美しい姿を保ち続けているのです。

掛川城にまつわる人物:今川氏

掛川城にまつわる人物:今川氏

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ここからは、掛川城に関係の深い人物について見ていきたいと思います。

まずは、築城を命じた今川氏から始めましょう。

今川氏は、足利将軍家の一族である吉良(きら)家の分家であり、将軍家と関係の深い親族という高い身分を持った守護大名でした。
そのため、足利宗家の継承権まで持っているほどだったんですよ。

守護大名とは、幕府が各地に置いた国の軍事権を持つ豪族のことで、室町時代半ばを過ぎると個人的に力を持ち、やがて戦国大名化していきました。
今川氏もそのひとつだったんです。

掛川城の築城を命じたのは、今川義元の祖父に当たる義忠か、父に当たる氏親とされています。
そして、命を受けて築城・入城したのが、今川家内でも筆頭に近い重臣の朝比奈泰煕・泰能父子でした。

まさに今川の黎明期に完成した掛川城でしたが、氏親の後を継いだ義元によって、その存在はさらに重要化していくのです。

今川義元は軟弱と思っていませんか?

今川義元は軟弱と思っていませんか?

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今川義元を評する際、「海道一の弓取り」という形容がされることがよくあるんです。

海道とは東海道のこと、弓取りとは弓を持って戦う武士、つまり戦国大名のことを指します。
この異称で評されたのは、義元と、後の徳川家康のみです。

義元のイメージには常にマイナスのものが付いて回ります。

例えば、貴族趣味だったとか、おしろいを塗っていたとか、お歯黒をしていたとか…。

確かに、現代の私たちから見れば軟弱なイメージかもしれません。

が、これらはすべて家柄の高い大名にしか許されなかったことなのです。

下剋上の世の中と言われ、力がすべてという風潮がメインになりつつも、やはり根底には高貴な存在を崇拝する風潮があった当時としては、義元がこのように装うことは大きなメリットがあったと考えられるんですよ。

戦場で輿に乗っていたということで、太っていたとか馬に乗れないとかいろいろ言われてしまうこともよくあるのですが、輿を使うということ自体も、幕府から特別の許可をもらっていないとできないことだったんです。

義元の数奇な人生

そんな義元、実は幼少時は仏門に入っており、家を継ぐとはみなされていませんでした。
将来的にもお坊さんになると、おそらく自分でも考えていたはずです。

しかし、運命とは誰にも予測できない方向に回り始めることもあるもので…。

家督を継いでいた兄たちが相次いで亡くなってしまうと、五男にすぎなかった義元に継承権が回ってきたのでした。

すると、当然、それを良く思わない一派との対立が始まります。
その相手は異母兄であり、今川氏は内紛に明け暮れることとなりました。

それをようやく収め、勝者となったのが、義元だったのです。

こうした危機を乗り越えてきた彼は、祖父と父、兄から受け継いだ今川氏を当時最強クラスの戦国大名に押し上げていきました。

彼は内政にも外征にも長け、諸大名からは恐れられるようになり、やがて天下を取るのではないかとさえ思われていたんです。

しかし、彼は桶狭間の戦いで足元をすくわれました。

本来なら歯牙にもかけない存在だった織田信長の奇襲に対応できず、討ち取られてしまったのです。

後を継いだ氏真、この人物こそ軟弱な公家趣味の人物で、周囲の支えなくしては大した決断も何もできない男でした。
彼が義元の後を継いだことが、今川衰退への大きな一歩だったのです。

そして、武田信玄や徳川家康に攻め込まれるに至り、氏真は先祖が守ってきた本拠地・駿府を放り出して、重臣・朝比奈氏の守る掛川城へ逃げ込むこととなったのでした。

以後、氏真は戦国時代を何とか生き延びてはいくものの、戦国大名としての今川氏はここで滅亡したと言っても過言ではありません。

今川氏の忠実なる部下・朝比奈氏

今川氏の忠実なる部下・朝比奈氏

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掛川城を語る上で欠かせない朝比奈氏ですが、掛川城を築城したとも言われる朝比奈泰煕・泰能父子は、今川に仕えた重臣でした。

特に泰能は、今川氏親・氏輝・義元と代々仕えてきた宿老という立場で、重臣の中でもトップクラスの地位にあったのです。

今川義元のもとには、世紀の軍師と呼ばれる太原雪斎(たいげんせっさい)という名参謀がいたのですが、泰能はそれと肩を並べる存在だったのですから、朝比奈氏の存在の大きさというのがおわかりいただけるかと思います。

加えて、泰能は今川氏親の妻にして義元の母でもある寿桂尼(じゅけいに)の姪を妻にしており、今川本家とも姻戚関係にありました。

当時、岡崎城主であり徳川家康の実父である松平広忠(まつだいらひろただ)が死去した際、岡崎城を接収する大役もつとめています。

父・泰煕の代から掛川城主となった泰能は、今川氏の西方面への外征で大きな役割を果たしました。

彼は桶狭間の戦いの3年前に病没してしまいますが、すでにこのとき太原雪斎も失っていた今川氏としては、泰能の死は追い打ちをかけるような大きな打撃だったんですよ。

しかし、その後を継いだ泰朝も、祖父や父と同様、今川氏を支えていく存在となりました。

出来が悪くても主は見捨てない・朝比奈泰朝

朝比奈泰能の息子である朝比奈泰朝は、弘治3(1557)年に父が亡くなると、朝比奈家の家督を継ぎました。

今川にとってラッキーだったのは、彼が桶狭間の戦いのときに義元の率いる本隊にいなかったことです。
このため、泰朝は命拾いすることになりました。

あまりにも偉大だった義元が思いがけず討死してしまうと、今川家内は混乱し、不安となった家臣たちに離反が相次ぐようになりました。

そんな中、泰朝は出来のよくない主・氏真を見捨てることなく忠義を尽くし続けたのです。

最近、大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放送もあって、朝比奈泰朝の名前が少し表舞台に出てくることが多くなりました。

というのも、泰朝は氏真の命令で、井伊家の若き当主・井伊直親(いいなおちか)を殺害したからなんですよ。
今川へ弁明に向かう直親を、騙し討ちにしたわけですから、氏真はおろか、泰朝に対しても評価が厳しくなってしまいますよね。

揺るがぬ忠義にひたすら泣ける

しかし、泰朝には泰朝の正義があったのです。

永禄11(1568)年には武田信玄の侵攻によって駿河を追われてしまった氏真を、泰朝は見捨てもせずに自身の掛川城に迎え入れました。

何代にもわたって主従関係を築き続けてきた間柄ですから、泰朝にとって氏真を切るという選択肢はなかったのでしょう。

氏真を庇護しているということで、この機に乗じて攻め込んできた徳川家康は、掛川城を包囲して攻撃を仕掛けてきました。

明らかに不利な形勢の中、泰朝は氏真を守って5ヶ月間奮戦します。

ただ、いつまでも籠城戦が続けられるわけもなく、ついに泰朝は掛川城を開城することにしました。

そして、氏真に従って伊豆、小田原へと向かったのでした。
氏真の正室・早川殿は北条氏の娘であり、その庇護に頼ったのです。

泰朝はそのときも他の勢力に援助を頼んだりするなど、とにかく氏真に尽くし続けました。

いったいどこからそんな忠義心がわいてくるのかと思いませんか?

ただ、これ以降、泰朝の消息ははっきりしていません。

氏真は北条の庇護下にもいられない状況となると、なんと徳川家康の保護を受けるようになりました。
しかしその時に泰朝は同行していないようなんです。

一説によると、家康の重臣・酒井忠次(さかいただつぐ)に仕えたとも言われています。

苦境の中、主君を守り続けた忠誠心とその有能さがあれば、もしかしたら再仕官の道もあったかもしれませんよね。

個人的にではありますが、掛川城主の中では典型的な「忠義の士」であり、いちばん印象的な人物だと思います。

奥さんの方が有名?山内一豊

奥さんの方が有名?山内一豊

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歴代掛川城主の中で、おそらくいちばん知名度が高いのはこの人、山内一豊だと思います。
徳川家康が関東に移封された後に掛川城に入った人物です。
当時は豊臣秀吉に仕えており、その命令でした。

司馬遼太郎の小説「功名が辻」の登場人物であり、こちらもまた大河ドラマの主人公となりました。

ちなみに、彼の場合は奥さんの方が有名だったりもします。

「内助の功」という言葉をご存知かと思いますが、これは山内一豊の妻のことなんですよ。

詳しくは少し後でご説明しましょう。

父も兄も殺され、流浪の日々

天文14(1545)年に織田家の重臣・山内盛豊(もりとよ)の三男として生まれた一豊ですが、想像を絶する苦難をこの後受けることとなります。

父が仕えていたのは織田信安(のぶやす)・信賢(のぶかた)でしたが、実は彼らは信長とは別の家系の織田家でした。
そのため、彼らが信長と対立すると、その部下である一豊の父や兄たちもまた、信長からは敵とみなされてしまったわけです。
信長に睨まれるなんて、死亡フラグと同じことですよね。

これが本当かどうかははっきりしませんが、一豊の兄は、信長の手勢とされる盗賊に城を襲撃され、討死してしまいます。
加えて、父・盛豊も信長に攻められて討死してしまったのでした。
これが永禄2(1559)年、桶狭間の戦いの前年のことです。
このとき、一豊はまだ15歳でした。

家長と後継ぎを失った山内家は、一家離散となり諸国を放浪することとなります。
この間、少年から青年へ成長していく一豊は、様々な主に仕えました。

そして、巡り巡って父の仇でもある信長に仕えることとなるのですが、そこまでに4人の主を替えています。
そして信長の下で、後の主となる豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎秀吉)に出会ったのでした。

頭角表し、出世街道へ!

元亀元(1570)年、一豊26歳のとき、ついに初陣のときが訪れます。
26歳で初陣というのは当時にすればかなり遅い方ですが、今まで主君を変えて流浪の生活を続けていたならば、戦場経験がなかったのも納得ですね。

一豊の初陣の場は、織田・徳川連合軍と浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)連合軍が激突した姉川の戦いでした。

この時、一豊は頬に矢を受ける重傷を負いながらも、敵の猛将を討ち取るという大功を立てました。
初陣でこの成績は、すごすぎる大手柄です。

この手柄もあり、周囲から認められるようになりました。

ちなみにこのとき彼の頬に刺さった矢は、高知県安芸市歴史民俗資料館に所蔵されています。

天正10(1582)年、本能寺の変で信長が死ぬと、今度は豊臣秀吉に従い、各地の戦に参加し、確実にキャリアと信頼を積んでいきました。

ついに掛川5万石の城主となる!

秀吉が天下を手中に収めた後、一豊は秀吉の後継者として当時指名されていた豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の家老となりました。
つまりは、信頼されていたからこそこの地位に任命されたということです。

そして、秀次が尾張や伊勢付近に領地を増やしたため、一豊はその付近の遠江・掛川に5万石の領地を拝領することとなりました。
もちろん入るのは掛川城。

5万石といえば立派な大名です。
一家離散からここまで家を立て直した彼にとっては、何とも感慨深かったことでしょう。

この掛川城で、一豊は精力的に内政に取り組みました。
城下町の整備、天守の建造、大井川の堤防建設による治水工事など、現在に至るまでの掛川の街の基礎をつくり上げたのです。

しかし、この直後、主である秀次が謀反の疑いにより切腹させられてしまいました。
本来なら、家老としてその罪に連座し切腹は免れることができないはずでしたが(現に他の家老は切腹しているものもいました)、一豊は秀吉の命令により逆に秀次らを取り調べる立場になったのです。
そして、秀次の処刑後はその領地の一部も与えられました。

その後は再び秀吉の家臣となりますが、やがて秀吉が亡くなると、豊臣政権内部でも不安定さが露出し始めます。
徳川家康の台頭と、石田三成との対立です。

徳川寄り、豊臣寄りの大名が続出するなか、一豊はいったいどちらを選んだのでしょうか。

妻の助言で徳川方でも大出世!

慶長5(1600)年、一豊は徳川家康に従って会津(福島県)の上杉征伐に向かっていました。

その途上で、石田三成が挙兵したという報せが届いたのです。
関ヶ原の戦いの勃発でした。
それは、大坂で人質となっていた妻が機転を利かせ、いち早く夫へ手紙を出したからこそ判明したのでした。

家康に従ってきた諸将たちは、家康に付くか三成(豊臣)に付くか去就に迷います。

しかしそこで、一豊はいち早く、自らの掛川城を家康に提供し、東海道での足掛かりとなる意思を表示し、諸将たちを取りまとめたのです。

この素早い意思表示は家康からの評価を一気に高め、戦後、一豊は掛川5万石から土佐(高知県)9万8千石へと領地を倍増されたのでした。

新天地・土佐での苦難

掛川から土佐へと栄転した一豊ですが、思いもよらぬ苦労が待ち受けていました。

一豊の前に土佐を支配していた長宗我部(ちょうそかべ)氏に仕えた家臣団は、新たな領主に仕えることを拒み、反乱を起こしたのです。

一豊は有能な人物は旧領主の家臣でも登用するなど、懐柔を試みましたが、暗殺の危険などはかなり後まで付いてまわったようなんですよ。

有名な逸話としては、高知城築城工事を一豊が視察する際は、自分と似た背格好の家臣たちを影武者として引き連れており、その数はなんと5人もいたそうなんです。

しかし、城下町の整備や人心掌握に努めた結果、山内氏は土佐で認められていったのでした。

「内助の功」の立役者・山内一豊の妻

「内助の功」の立役者・山内一豊の妻

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山内一豊の妻・見性院(けんしょういん)は、良妻賢母の典型として有名な女性です。

前述のように、石田三成の挙兵を夫に手紙で知らせたのですが、その際には家康に忠誠を誓うようにとの手紙も添えています。

また、これは若い頃の逸話になりますが、嫁入りの持参金で夫に立派な馬を買ってあげたんです。

当時の一豊は、織田信長の多数の家来のひとりにすぎず、目立ってもいませんでした。

その時、戦の前に家臣の馬を集めて検分する馬揃えというものが行われた時、見性院が一豊のために買った立派な馬はひときわ注目を集め、信長もそれに目を留めて加増してくれたというのですから、妻としては最高のアシストをしたわけです。

武士にとっての馬は、自身をアピールするための有効な手段でした。
それを見性院はちゃんと心得ていたんですね。

このように、多くの個性豊かでドラマチックな人物が住んだ掛川城。

現在に残る具体的な構造を見ていきましょう。

現在の掛川城は見どころがたくさん

現在の掛川城は見どころがたくさん

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現在の掛川城において、当時の姿で現存しているのは二ノ丸御殿という建物です。

これは江戸時代後期、文久元(1861)年に建設されたままの姿なんですよ。
前に少し触れましたが、天守はこれ以前の地震で倒壊してしまったので、政務を執ったりする場所として建設されたんです。

二ノ丸御殿は、政務所としての他、藩の公式な式典の場、藩主の公邸など多くの役割を持っていました。

畳を敷き詰め、それを襖で仕切る部屋割りも当時のまま残されています。
こちらは見学できるので、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

他に現在の掛川城で見ることができる建物は、城下町に時刻を知らせる太鼓が置いてあった太鼓櫓や、明治初期に豪商が買い取って屋敷を建てた竹ノ丸、掛川公園内にある二ノ丸茶室などです。

建設時期や由来などは異なりますが、すべて掛川城を彩る貴重な建物ばかりですよ。

そして、平成6(1994)年に戦後初の木造天守として復元された天守は、掛川のシンボルとして今も優雅な姿を披露しています。

当時の記録に基づいて復元したということなんですが、これは、山内一豊が高知城の天守建設時に掛川城を参考にしていたとされているため、現在きちんと残っている高知城天守を逆にモデルとして復元したんです。

東海の名城は、桜の季節に訪れたい

桜の名所としても知られる掛川城は、やはり桜の季節には一度訪れてみたいものですね。

二ノ丸茶室で掛川名産の掛川茶をいただきながら、東海の名城とうたわれた掛川城を眺める時間は、何にも増して格別なものではないかと思います。
そして、歴代城主たちやそれにまつわる逸話に思いを馳せれば、掛川城が名城と称された理由もご理解いただけると思いますよ。

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