【歴史】ペルシア戦争の意義って?ギリシア・ポリスの自由のための戦争だった?

紀元前499年から紀元前449年にかけてギリシアのポリスとアケメネス朝ペルシアとの間で、50年間に亘って起こった戦いです。自分たちの自由のためとはいえギリシアってどんな思いで、大国アケメネス朝ペルシアに戦いを挑んだのでしょう。今回は、ペルシア戦争って両国にどのような意味をもたらせたのか紐解いてみたいと思います。

古代ギリシアとは?

古代ギリシアとは?

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古代ヨーロッパを語る上で、古代ギリシアと古代ローマの二つは外せません。
古代ギリシアは言うまでもなくヨーロッパの文明の源流とされるギリシア文明をもつ学問に優れており、古代ローマは実用性を重んじた政治力をもっていたといえるでしょう。
でも、古代ローマは、古代ギリシアなしでの存在は考えられません。

そもそもギリシア文明は古代オリエントから出来上がったものです。
紀元前2000年ごろに、東地中海沿岸に青銅器文明が誕生しました。
これをエーゲ海文明と呼び、紀元前1600年にはミケーネ文明がギリシアで生まれています。
どうしてかは分かっていませんが、ミケーネ文明は突如として紀元前1200年に消えてなくなりました。
その後、ギリシアは歴史から400年もの間、姿を消したのです。

ギリシア・ポリスってどんなもの?

ギリシア・ポリスってどんなもの?

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ギリシアが歴史から姿を消した400年を暗黒の時代と呼んでいます。
やっとギリシアが歴史上戻ってきたのは、紀元前8世紀のことでした。
この頃のギリシアは、各地に都市国家を設立しています。
この都市国家を「ポリス」と呼んでいます。
古代ギリシアにあったポリスは数百もあったそうです。
中でも有名なものには、アテネやスパルタ、テーベなどがあります。

このポリスたちは、独自の政治がありました。
でも、共通点も多くギリシア語を話し、ギリシア神話に基づく信仰も同じでした。
ポリス中心部の丘の上にはアクロポリスという見張り台があり、その周辺に人々が集落を作り住んでいました。
このアクロポリスには、神殿もあり信仰の中心になっていました。

ギリシアのポリスは、民主主義の発祥だった

ギリシアのポリスは、民主主義の発祥だった

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ポリスが色々なところに作られていたことはお話ししました。
ポリスたちは、対立することもありましたが、ギリシア語を共通語とする者同士を尊重し合い、異民族を「バルバロイ(野蛮人)」と呼び軽蔑していたのです。
また、ポリスは民主主義発祥の地といわれており、最高決議機関の「民会」が出来上がっていました。

こんな時代から凄く発展していたんですね。
民会は、市民全員が参加する直接民主制で、18歳以上の成年男子は参加できました。
しかし、なんせこの時代、まだまだ女性蔑視があり、奴隷なども参加できませんでした。

ゾウと蟻ではなく、ゾウ同士の争いだった

ゾウと蟻ではなく、ゾウ同士の争いだった

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かつて歴史の父といわれるヘロドトスによると、ペルシア戦争は自由な市民たちから造られたポリスの集団が、専制政治のアケメネス朝ペルシアという大国相手に2度も勝利し、独立を勝ち取ったという素敵な見方をしています。

でも、ギリシア・ポリスという2つの帝国主義的な勢力争いといった方が正しいのではないかと思います。
先ほども書きましたが、ギリシア・ポリスって数百もあったんですもの。
大国と小国の争いではなく、帝国ほど大きな2国の覇権争い的な背景があったのではないでしょうか?チリも積もれば…でしょうか?

アケメネス朝ペルシアってどんな国?

アケメネス朝ペルシアってどんな国?

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当時ペルシアは絶頂期にありました。
この王朝を建国したのは小王国アンシャンの第7代の王キュロス二世だったといわれています。
彼は、才覚の持ち主で、現在のイラン北西部を中心に広がっていたメディアと小アジアで一番の強国リディア王国を併合し、新バビロニアを滅ぼしました。
そこで、ユダヤ人を捕虜から解放しています。
その後、カンビュセス二世が、エジプトを併合しオリエントを統一した大帝国でした。
こうやって見ると、やっぱりアケメネス朝ペルシアって大きな国だったんですね。

ペルシア戦争の原因

ペルシア戦争の原因

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ペルシア戦争が起こってしまった経過にはいろいろな説がありますが、直接の原因はこのアケメネス朝ペルシアに、イオニア地方のポリスたちが反乱を起こしたからでした。
彼らは、アケメネス朝ペルシアから、支配を受け重税など様々な圧力を受けていたことで一気に爆発したのです。
実は、そのポリスの中でもミレトスという町への圧力が特に強かったとか。
このミレトスが中心となって反乱を起こしています。

ペルシアにしてみれば、ミレトスはギリシアで強い勢力を持っていたアテネと仲良しだったことが気に入らなかったようです。
子供じみていますね…。
でも、ペルシアとしても、地中海や黒海での商業圏を巡り対立していたため、ギリシアを抑えておく必要性がありました。
内心イライラモードになるのも仕方がなかったのかもしれません。
しかも、この反乱にはアテネが後ろ盾になっていたんですもん。

1回目のペルシア戦争

1回目のペルシア戦争

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反乱を後ろから擁護する、アテネにブチ切れたペルシアはとうとう戦争へと突入すべく、ダレイオス1世はアテネに対して軍を派遣するよう命をくだしました。
でも、反乱への報復というのは建前だったという説もあります。
実は、ギリシア全域を手中に収めようとの目論見があったのだというのです。
この時の遠征軍は小規模隊で、今回の戦いで決める意志はなく、彼らがどれだけの力を持っていたかを試したかったとか。

しかし、エーゲ海を進みタソス島を制圧後、暴風に遭い撤退しました。
小規模隊だったとはいえ、損害は甚大なものだったようです。

2回目のペルシア戦争(マラトンの戦い)

2回目のペルシア戦争(マラトンの戦い)

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ペルシアも大損害を被ったなら一端戻って体制を整えればよかったのに、「負けてなるものか!」とエーゲ海の島々を制圧し、アテネ近郊のマラトンに上陸したのです。
でも、アテネ軍もスパルタに援軍を要請すると同時に、奴隷たちを連れてマラトンに向かいました。

途中プラタイアからの援軍も仲間入りし、ミルティアデス将軍率いるアテネとプラタイア連合軍の重装歩兵が、マラトンでペルシア軍を討ち破ったのです。
意気盛んなアテネ市民軍にしてみたら、やったぞーペルシアの大軍に勝っちゃった!ってところでしょうか?

42.195kmのマラソンはペルシア戦争が起源

42.195kmのマラソンはペルシア戦争が起源

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ちょっとだけ悲しいお話を。
ペルシア軍に勝ったことを王に知らせたかった兵士のエウクレスは、マラトンからアテネまで約46kmを必死に走り、アテネの城門で力尽きて亡くなってしまいました。
でも、ちゃんと勝ったことは伝えたようです。

戦争に参加した後にマラソンを走るなんて狂人的ですよね。
でも、死んじゃったら何にもなりませんよね。
でも、アテネの兵士たちがどれだけ嬉しかったかだけは伝わってくるお話ですね。

3回目のペルシア戦争

負けて悔しかったペルシア軍は、3回目の奇襲攻撃をかけました。
今度は、体制を整えて10万の兵士を引き連れて登場したのです。
テルモピュライの戦いでは、当時最高の戦力があったといわれるスパルタ軍を破りました。
とはいってもスパルタ軍はたった300人で、ペルシアに突っ込んで全滅してしまったのです。
次は、サラミスの海戦に突入。
アテネは200隻、ギリシア連合軍は400隻の戦艦を出しました。
一方、ペルシアは700隻でした。
ここでスパルタの恨みを晴らすべくアテネが勝利しました。

海戦で勝利したギリシア連合軍の勢いは止まりません。
陸上戦にもつれ込み、プラタイアイの戦いでも勝利し、また、ミカレ岬の戦いにも勝ってしまったのです。
一般には紀元前449年にカリアスの和約が成立し、これ以降ペルシアがギリシアを襲うことはなかったとされていますが、実は和約は交わされていなかったともいわれています。
ペルシア戦争はいつ終わったのかは不明とか。
この後も、にらみ合いが続き、終わる気配は見せなかったとの説もあります。

ペルシア戦争の終焉は意外

ペルシア戦争の終焉は意外

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これが終わったのは、皆さんもご存知アレクサンドロス大王が、紀元前330年にアケメネス朝ペルシアを滅ぼし、その後ギリシア・ポリスも根絶したのです。
これにて終焉となりました。
なんだか、なんのこっちゃですね。
でも、実はアケメネス朝ペルシアという大帝国にとっては、西の端でちょこっと起こった火遊びに過ぎなかったのです。

でも、ヨーロッパにおいて、この戦争のインパクトは相当なものでした。
だって当時、オリエント全域を支配する大国なんですもの。
自由のために大帝国と戦った勇姿はギリシアにとってもヨーロッパにとっても誇り高いことだと思います。
ギリシアやヨーロッパにとっては、アリの集団がゾウを倒したという事実が何よりも大切だったのではないでしょうか?

ペルシア戦争は、ヨーロッパの優越という結果で終わったといえるのではないでしょうか?

事実上この戦いで、ペルシアは一時的にギリシアを襲うことはなくなりました。
アテネもギリシアのリーダー的存在となり、大きく飛躍しています。
強大なアケメネス朝ペルシアにとっては小さな戦争ですが、ギリシアにとっては大きな功績だったことは間違いありません。
現代人にとってマラソンというスポーツができたことでも、意義があったのかもしれませんね。
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