将軍以外は入れなかった女の園!大奥の歴史は女同士の対立の連続だった

大奥は、将軍のお子をなす場として、重要な役割を持つ場所でした。ドラマや映画で脚光を浴びた「大奥」や大河ドラマの「篤姫」が放送され、ちょっとしたブームを巻き起こした大奥は、どんな歴史を持っているのか気になりませんか?今回は、江戸城に作られた女の園、大奥の歴史に少しだけ触れてみたいと思います。

大奥ってどんなところ?

1603年に征夷大将軍になった徳川家康が、江戸城と城下町を大改修したのは有名ですね。
その生まれ変わった本丸には、政治を行う幕府政庁の「表」、将軍が執務をする「中奧」、そして、将軍の私的な生活の場として「大奥」が造られました。
表と中奧は続きでしたが、大奥は重厚な銅塀で遮られ、中奧と大奥の間には「御鈴廊下」が造られていました。

大奥の面積は6000坪あり、部屋数は約600部屋あったようで、その中で働いていた女中の数は最大で約2000人もいたとか。
大奥では年間に160億円ものお金が投資され、これは江戸城の予算の25%に及んだそうです。
この大奥で、権威を奮った春日局や大奥で後世まで伝わる大スキャンダルの「絵島・生島事件」など、さまざまなドラマが繰り広げられました。

統制のとれなかった初期の大奥

 

実は、初代将軍の徳川家康は、天正7(1579)年に正室の築山殿を亡くしていました。
ということは、大奥には取りまとめ役の御代所がいなかったのです。
家康自身が忙しく手が回らなかったため、表と奧の2つしかありませんでした。
元和4(1618)年に2代将軍秀忠が先ほどお話しした、表、中奧、大奥の3つに分けました。

やはり、女の園を大改革するのには男性では役不足。
大将軍家光の乳母「春日局」の登場です。
春日局といえば、家光を育てる際に、秀忠の正室「お江の方」との後継ぎ争いにおける確執は有名な話ですね。
竹千代(後の家光)は、幼い頃吃音であまり格好よい方ではありませんでした。
大奥では、子供は乳母が育てることになっており、千代松はお福(春日局)に育てられました。
後に、家康直々に千代松が世継ぎだということを、皆の前で証明させ、お江の方が溺愛した神童の次男「国松」を後継ぎから退けました。

春日局が作った大奥

 


春日局は、家康を動かすほどの破天荒なことができる人物だったようです。
元和4(1618)年にはじめて、「大奥法度」を定めました。
寛永3(1626)年にお江の方が亡くなると、それまではお江の方が治めていた大奥を、お福(春日局)が取り締まることになりました。
女性を中心とした、秩序と独特の文化、慣習や年中行事など、大奥における体制の礎を築いたのです。

お福は、自分が育てた家光のために、楚々とした女性を何人も大奥入りさせました。
しかも、老中をはじめ誰一人お福に大奥のことで口出しすることは、ご法度いう暗黙の了解があったほどです。
そんな実力の持ち主のお福の名は朝廷にまで知れることとなり、寛永6(1629)年に後水尾天皇(ごみずのお)から、「春日局」との名前が与えられました。
でも、お福が千代松の乳母になったのは、教養に優れていたので家康が自ら選んだといわれており、もともと信頼関係があったようです。

大奥で起こっていた対立

 

大奥で起こっていた対立

将軍家を大奥から支えていた、ゴッドマザー的な存在の春日局をはじめ、大奥ではさまざまな対立が起こっていました。
先ほどお話しした、家康に長男の竹千代を世継ぎにと進言し、江戸城で竹千代を上段に、国松を下段に座らせ、後継ぎとそうでないものと諭しました。
お福とお江の方の対立は先ほどお話しした通り、お福の勝利でした。

家康が亡くなり、兄弟共に17歳と15歳で元服、20歳になった家光(竹千代)は元和9(1623)年に三代目将軍になりました。
でも、この兄弟の仲は険悪でした。
でも、20歳になった家光は、勇猛で聡明な名君へと成長していました。
でも、幼いころから母親に可愛がられなかった家光は、凶暴な一面も持っており、寛永8(1631)年に忠長の乱行を理由に甲府へ蟄居を命じています。
たぶん、母親の愛情を独り占めしたかった忠長が、憎らしかったのでしょう。

大奥のもう一つの対立

 

時代は変わり、正徳2(1712)年に6代将軍家宣の正室の「天英院」と後継ぎ家継の生母「月光院」の二人の勢力争いがはじまったのです。
前将軍の正室派と新将軍の生母派に、大奥は分かれました。
大奥内は連日火花が飛び散る状態で、「天英院の次に月光院を崇め尊ぶべし」とお布告が出されています。

家継は4歳という幼い将軍だったので、側用人の間部詮房が仕切ったようです。
大奥で暮らす家継に会うため、大奥での出入りが許されていました。
でも、嫉妬が渦巻く大奥では、月光院と「男女の仲」だと噂が広まったようです。
この対立は、表の政治にも影響を及ぼしました。
当時、天英院派は劣勢だったのですが、新将軍派の間部や新井白石らが握っている権力を、我が物にしたい老中の秋元高知などが天英院派についたのです。

大奥の対立から、事件へと発展

 

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絵島の鷺 Le héron de Eshima

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絵島・生島事件は、月光院と側室左京の局に使えていた御年寄りで権力のある絵島と、歌舞伎役者生島新五郎の恋愛沙汰が露見し罪に問われた事件です。
この事件は、絵島一行が代参帰りの芝居見物にでかけ、2泊もしたことなどが問題になりました。
老中の秋元高知は、咎め関係者を処罰しました。
絵島は遠流になるところを月光院に助けられ親戚預りになり、他67人もの女中が大奥を去りました。
絵島の兄は、死罪になるという悲しい結末もありました。
一方、生島は三宅島に流罪になり、絵島が亡くなった後で江戸へ戻されたそうです。

元々体の弱い家継は、8歳で亡くなりました。
その後、紀伊藩主の徳川吉宗が8代将軍となりました。
大奥は月光院がそのまま残り、月光院のために御殿を新築し、そこに住まわせました。
二人は、大奥での影響力を失うことはありませんでした。
吉宗は、「美女ならば大奥を出ても、きっと良縁に恵まれるはず」と、50人もの美人女中をリストラした逸話が残っています。

大奥最後の対決

 

大奥最後の対決

江戸幕府最後の対決といえば、天璋院篤姫と静寛院和宮ですよね。
和宮が大奥入りしたとき、仕切っていたのが篤姫です。
輿入れして1年半で将軍家定に先立たれた篤姫には、後継ぎがいませんでした。
紀伊藩主徳川慶福は家茂として14代将軍になり、養母は23歳の天璋院篤姫でした。

家茂に輿入れした和宮は、御所風にこだわる生活から脱することができず、二人の対決がはじまりました。
安政の大獄の真っただ中で、弾圧を断行し井伊大老が、桜田門外で暗殺された時代。
この弾圧が、朝廷と幕府に溝を作ってしまったのです。
そんな時代に輿入れした和宮が、幕府を見下し御所風にこだわると自然と軋轢が出ちゃうのは当然ですよね。
しかも、大奥では、御所風だの武家風だので、頻繁に対決が起こっていたそうです。

二人の不仲説は、まだまだあります。
勝海舟によると、和宮のお土産の包み紙に「天璋院へ」と書いており、姑を書き捨てとは何事!と怒りを買ったとか。
オシドリ夫婦といわれた家茂と和宮ですが、実は仲が悪くここから、嫁姑戦争が勃発したとの説もあります。

江戸城の無血開城

 

でも、家持が長州再征の時、大阪城で亡くなりました。
時をほぼ同じくして孝明天皇が崩御し、新政府は江戸幕府を潰そうと立ち上がりました。
討幕の機運が高まり、とうとう大政奉還するも、徳川家を潰すための攻撃はやみませんでした。
立派だったのは、対立していた二人。
襲ってくる朝廷と薩摩藩の陣中に、それぞれ「徳川の女」として、救済の嘆願書を送りました。

もともと、西郷隆盛が敬愛する島津斉彬の養女だった篤姫の存在があってこそですが、二人の嘆願書が西郷隆盛の心を動かしたようです。
勝海舟との間で会談により、江戸城攻撃を阻止することができました。
江戸城は最終的に無血開城という最期を迎えました。
対立し合っていた二人が一つになって、徳川家を救う結果となったのです。

大奥最後の時

 

和宮降嫁のためなどの費用がたたり、江戸幕府の財布事情は逼迫しました。
慶喜が自ら大奥に対して細かく指示し、徹底的な倹約をするほど落ちぶれていたとか。
江戸城の破壊は免れたものの、大奥にも立ち退きの沙汰が下りました。
静寛院は田安邸へ身を寄せ、後に京都に帰ります。
天璋院は一橋家へ着の身着のまま向かい、その後は質素な生活をしながら、徳川家を相続し家達の教育をしながら生涯を終えています。

最後の将軍・徳川慶喜は、一度も大奥に訪れることはありませんでした。

春日局が作った大奥は、江戸時代の女性の憧れた職場だった

 

260年間続いた大奥は、雅な江戸の生活を象徴する女の園です。
江戸幕府がつぶれ、多くの女中たちは里に帰ったようですが、多くの奥女中や大名女中などは江戸で暮らしました。
でも、浮世離れの人生を送った女中たちはなかなか普通の暮らしはできなかったようです。
中には、奥女中時代に覚えた、茶道や生け花を教えながら暮らしをたてる者もおり、明治時代になっても奧女中たちは庶民の尊敬の的でした。