玉の輿に暗殺未遂、預言者と波乱万丈の人生を送ったムハンマドってどんな人生だった?

仏教やキリスト教は身近な存在ですが、イスラム教といったらなんだかとっつきにくく感じますよね。その「イスラム教を創始した預言者ムハンマドという人は、どんな人生を送ってきたんだろう?」って思いませんか?波乱万丈でちょっと面白かったので、少しだけ紐解いてみたいと思います。

ムハンマドってどんな人?

ムハンマドってどんな人?

image by iStockphoto

ムハンマドは、570年にアラビア半島のメッカの名門クライシュ族のハーシム家に生まれました。
この男の子が、将来人類史を大きく変えることになるんです。
有名な商人だった親と死に別れ羊飼いや商隊として働きながら、親戚のもとで育ちました。
父とは生まれてすぐに、母とは6歳で死に別れています。
身長は標準で中肉中背でした。
でも、意外とマッチョマンで、まつ毛が長く目は黒く大きかったとか。

彼は、24歳の時に、40歳の女商人のハディージャと結婚しました。
商人として色々な土地を周り、その後メッカの商人と喧嘩別れしメディナに逃れました。
後に、仲間を引き連れて、再びメッカを襲い征服しています。
晩年、白髪交じりになったころも、すこしも奢侈に渡ることはなく質素でした。
でも、武器は高性能なものを欲していたようです。

ムハンマドの結婚

ムハンマドの結婚

image by iStockphoto

ムハンマドの結婚は、とっても幸せなものでした。
彼が25歳の時に、40歳とかなり年上の富裕な女商人ハディージャに見初められ結婚しました。
彼女は、ムハンマドと結婚するまでに、2人の男性と結婚し、莫大な遺産を持っていました。
彼は、名門に生まれるも孤児となってしまい、叔父アブー・ターリブに育てられたとか、親戚中をたらい回しにされたとの説もあり、かなりの逆玉だったんです。
ムハンマドの祖父と妻の父は、はとこだったとの説もあります。

その後、2男4女を儲けますが、残念なことに2人は男子が20歳になるまでに亡くなっています。
4人の娘もあまり長くは生きていないようです。
2人の馴れ初めは、ハディージャがムハンマドの交易代理人として働く誠実な姿にほれ込みました。
ムハンマドは、彼女が死ぬまで他に妻を持たなかったようです。
よっぽど2人は愛し合っていたんでしょうね。

御神託下る

御神託下る

image by iStockphoto

結婚したころから、ムハンマドはメッカ近郊のヒラー山の麓にある洞窟で瞑想するようになります。
610年8月10日の40歳の時に、いつものように彼が洞窟にこもり瞑想していると、突然目の前がパッと明るくなりました。
現れたのは、美しい天使の羽を羽ばたかせた、アッラー(神)の大天使ジブリールでした。

アッラーの意志を伝えるためにムハンマドの前に現れ、啓示を誦めと命じたのです。
これがイスラムの創始といわれています。
突然、神の啓示を受けることになったムハンマドは、困惑しながら愛妻ハディージャのもとに帰りました。
彼女は、ムハンマドが先ほどの不思議な体験は悪魔の仕業だったのではと困惑する様を見て「あなたの前に現れたのは、本物の天使です」と励ましています。
ムハンマドもはじめは布教活動をしませんでした。
もちろん彼女は、初の入信者になりました。
その後も何度か啓示が続き、『コーラン』に纏められました。

布教活動を始めるムハンマド

布教活動を始めるムハンマド

image by iStockphoto

614年ごろから彼は少しずつ布教活動をはじめました。
しかし、啓示を受けてから約4年間は、妻と親戚の4人しか信者はいませんでした。
己を預言者と自覚したムハンマドは、覚悟を決め本格的に動き出し、町へ出ては辻説法をするようになりました。
多神を信じることは神への冒涜で、地獄の業火に焼かれることとなると伝えました。
全てのアラビア人の信仰の中枢であるメッカでは、受け入れられることはありません。

image by PIXTA / 14253315

それは当たり前ですよね、だってメッカのど真ん中で、「お前たちの信仰する神は邪神だ!こんなもん信じたら地獄に落ちるぞ!我が神を信じろ」と連日訴えているようなものですもんね。
周りの人から疎まれるようになり、「危険人物」と扱われるようになりました。
ムハンマドの神が真実であろうと、メッカの人には関係ないことですもの。

命を狙われるようになったムハンマド

命を狙われるようになったムハンマド

image by iStockphoto

しかも、ここで今まで信じられてきたカーバの神々を侮辱することは「営業妨害」とも取れる行為で、いつしか「ムハンマドを殺せ!」と叫ぶものまで出てくるようになったのです。
人々の憎しみの対象となったムハンマドは、度々命を狙われるようになりました。

自宅には石や家畜の死骸が投げ込まれるのは、まだまだ序の口。
演説をしていると、突然大勢の人々に押さえつけられラクダの血と糞を詰めた胃袋を、首まですっぽりかぶせて窒息させようとしたり、井戸に毒を入れられ危うく殺されそうになるほどでした。

弱り目に祟り目で、619年には、愛妻のハディージャとムハンマドを信じ保護し続けたハーシム家の代表伯父アブー・ターリブが死んでしまい、メッカでの布教活動に限界を感じたころ、クライシュ部族の大商人は、多神教との立場からムハンマドをメッカから追い出しました。

命からがらに亡命するムハンマド

命からがらに亡命するムハンマド

image by iStockphoto

メッカを追われたムハンマドは、400km先に位置するヤスリブに亡命しました。
この行為は「聖遷(ヒジユラ)」といわれていますが、命からがらの逃避行でした。
やっと、たどり着いたヤスリブを「預言者の街」と改名しました。
ここに、教団国家を建設し、史上初めてのイスラム国家が誕生したのです。
これは、西暦622年7月16日のことで、イスラム暦元年正月元日と定めています。

イスラム教はこの聖遷を拠点とし、メッカと小競り合いを繰り返しながら、力を蓄えていたのです。
8年の年月が過ぎ、630年にメッカとマディーナで小競り合いがあり、ムハンマドは、約1万の大軍を率いて侵攻し、アラビア半島で一番大きな都市のメッカを征服しました。
この時カーバ神殿にあった数百体の神像・聖像も破壊しました。
ムハンマドは、これまで敵対してきた者たちをほぼ全員許すという寛大な態度で接しています。

領土の拡大

領土の拡大

image by iStockphoto

その後も、メッカを拠点にわずか2年で、人類史上初めてアラビア半島を統一することに成功しています。
その後、まだまだ領土は広がっていき、メソポタミア、シリア、パレスチナ、エジプト、イランまで手中に収めたのです。
ここまで領土を広げることができたのは、イスラムの信者たちが宗教的情熱に燃えた、命知らずの兵どもだからだったのではないでしょうか?でも、残念なことに東ローマ帝国への大規模な遠征をしましたが、失敗に終わっています。

イスラムが発展できた理由

イスラムが発展できた理由

image by iStockphoto

ムハンマドが「アッラーの言葉を伝える預言者」となり、あらゆる困難を乗り越えて多くの信者を得ることができたことが最大の功績でした。
そして、集まった信者たちは、一糸乱れぬ組織に成長することとなり、命知らずの兵となっていったのでした。

イスラムの教えの中には、六信五行という義務が課せられています。
一つの国に統一されたことで、アラビア人同士のビザンツ陣営・サーサーン陣営に分かれて憎しみ合う悲劇がなくなり、貧富の差もコーランの教えのお陰で解消されました。

起きてはいけないムハンマドの死

起きてはいけないムハンマドの死

image by iStockphoto

急激に大きくなった国の宿命というべきか、急成長した組織は必ず破壊するといった具合に、イスラムも危機的な状態に陥っていました。
そんな時に、とうとうこの日が訪れました。
ムハンマドの死です。

632年2月に、メッカ大祭に、ムハンマドは4万人もの大衆を引き連れ、メディナを出発。
そして、大祭の指示にあたりました。
これが、ムハンマドのメッカでの最後の姿となったのです。
メッカでの大仕事を終えメディナに帰ってきたムハンマドは、安心したからかメディナに戻ってすぐに、容態が悪化し頭痛に襲われ、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
晩年、ムハンマドは幼い妻アイーシャをめとっており、彼女によって看取られ、そのままその部屋の床を掘って埋葬されました。

イスラムを創始したムハンマドの人生は、かなり壮絶なものでした

ムハンマドが残した後、言行録がコーランとして纏められ、イスラム教の経典となりました。
ムハンマドの後継者にはカリフが選ばれました。
アッラーへの信仰が国家統治へとつながったイスラム国家は、拡大し周辺国家の一部を支配下にし、イスラム帝国に発展していきます。
photo by PIXTA and iStock