ローマの歴史おさらいできる厳選観光スポット8選

ローマってたくさん観るとこあるけど、何を見たらいいの?!ローマに3度訪れても全部を観ることができないほどの広さと歴史が長く、見どころが多いローマではこんなお困りごともあるのではないでしょうか。ショッピング街も充実してるから買い物もしたいし、おいしいものも食べたい。時間はいくらあっても足りない街がローマです。せっかく歴史ある街ローマに行くのですから、買い物と食事だけで終わらないためにも、歴史を感じることができるスポットをいくつか押さえておきたいですよね。今回はすべてを周ると簡単なローマの街の歴史がわかりますが、一部だけを観ても面白い個所をピックアップしました。
さあ、2600年の歴史を持つローマを歩いてみましょう!

一気に2000年前にタイムスリップできる!フォロ・ロマーノ

一気に2000年前にタイムスリップできる!フォロ・ロマーノ

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まずはローマがまだ大きな帝国になる以前の政治の中心地となっていた場所に行ってみましょう。

フォロ・ロマーノは「フォロ(広場)」「ロマーノ(ローマの)」という意味です。

この場所は建国当時は沼地で人が住む場所ではありませんでした。

紀元前6世紀に大規模な下水工事が行われ、沼地の水をテヴェレ川へ排水することに成功し、川から近いこともあり、物資の集まる商業と政治の中心地となったのです。

ローマ共和政時代の初めには、政治機関の元老院や裁判所、政治討論する演題などがあり、政治がこの場所で行われていました。
市民の公共生活の中心としてフォロは発展して反映していきます。

帝政が敷かれてからは、皇帝たちのフォロが周囲にできたことから民主政治の中心としての役割はなくなり、ローマの偉大さを示すシンボルのフォロへと変わっていきます。

ローマ帝国が東西に分かれ、蛮族の侵入が繰り返され、ついにローマにも西ゴート族が侵入し、水道橋や神殿などが破壊されました。
中世になると建築資材調達の場所として少しずつ建物が破壊されて行きました。
19世紀に考古学の発掘ブームによってその全貌が明らかになり、古代ローマの中心であったことがわかるまで、人々から忘れさられていたのです。

肌でフォロ・ロマーノの大きさを感じてみましょう

肌でフォロ・ロマーノの大きさを感じてみましょう

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フォロ・ロマーノの良いところは、その建築物の大きさやフォロの規模を間近で体感できるところです。

写真でいくら見てもその規模や大きさを感じるのは難しいもの。

フォロ・ロマーノに入れば、間近で残された柱を仰ぎみたり、古代の石畳を歩いてその感触とフォロの広さを感じることができます。

凱旋門に挟まれた大きな通りが「聖なる道」で古代の英雄たちが凱旋したり、勝利を祈るために戦いの神を祀った神殿へ向かった道でした。

セヴェルスの凱旋門から、コロッセオへ向かって左側には元老院があり、その奥には紀元前179年に作られた会堂のエミリアのバジリカがあります。
また、右手にはカエサルも演説した演題がちょうどフォロの中心にあり、その奥にはカエサルが作ったユリウスのバジリカがあります。

さらにコロッセオ側に聖なる道を進むと、ローマに勝利をもたらした双子神「カストルとポルックスの神殿」があり、続いてかまどの女神に捧げられた「ヴェスタの神殿」の柱が現れます。

円形の神殿で、20本の柱で囲まれ、その中には聖火だけが祀られていたといわれています。

このヴェスタの神殿には「聖なる火」を守っていた4人の巫女が仕えていました。

その神殿のすぐそばには彼女たちの住まいがあり、居住の部屋や浴室、式典に使うパンを作るための臼が残されています。

さらに進むと左側に「マクセンティウスのバジリカ」が現れます。
306年にマクセンティウス帝が建て始め、コンスタンティヌス帝によって完成された会堂です。

屋根の一部が残っていることから建物の大きさを感じることができて、その大きさに驚きます。

フォロ・ロマーノの南側にはパラティーノの丘があり、かつての皇帝や貴族たちが住んでいた地域です。
フォロ・ロマーノから見えるその丘の上にある建物たちを古代のローマ市民たちも仰ぎ見たことでしょう。

古代ローマに囲まれた通り フォーリ・インペリアーリ

古代ローマに囲まれた通り フォーリ・インペリアーリ

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続いてはフォロ・ロマーノに沿ってヴェネツィア広場からコロッセオに延びる通りを歩いてみましょう。

「フォーリ・インペリアーリ」は「諸皇帝のフォロ(広場)」の意味で、フォーリ・インペリアーリ通りに沿って左右に皇帝たちが住んだ宮殿やフォロがたくさんあることからつけられました。

ローマが発展していくと人口が増加し、フォロ・ロマーノでは狭くなり、カエサルをはじめ皇帝たちがフォロを広げていったのです。

中世の時代には土に埋まっていたのですが、1800年代に発掘が始まり、古代の姿があらわになっていきました。
しかし、1936年にムッソリーニが「帝国の首都にふさわしい通りに」とフォーリ・インペリアーリ通りを作ったため、その大部分を再度埋め戻して今の姿になっています。

この通りの下には古代ローマの遺跡がまだ眠っているのです。

そぞろ歩きで皇帝たちのフォロを楽しめる

この通りがお勧めなのは、この通りを歩くだけで、古代の遺跡やその広く発展した様子を無料で見ることができるのです。

ヴェネツィア広場を背に、コロッセオに向かって歩いて行くと、右側にフォロ・ロマーノとカピトリーニの丘の間にカエサルのフォロがあり、左側に大きなダキアの戦勝を描いた「トラヤヌスの記念柱」があり、続いてトラヤヌスのフォロとマーケット、そして初代皇帝アウグストゥスのフォロが並びます。

そして、フォロ・ロマーノの全貌を見ることもできるので、フォロ・ロマーノを見学した後にこの通りから見ると違った角度で楽しむことができます。

建ち並ぶフォロの遺跡に飽きてきたなら、発掘された皇帝たちのフォロの向こうにある、カンピドーリオの丘の上に立つカピトリーニ美術館を見てみてください。

この美術館は古代ローマの遺跡の上に立っており、その遺跡を活かしつつその上にルネッサンス様式の館が建てられています。

ちょうど、この通りからその壁面の層をはっきりと見ることができます。

積み重なるローマの歴史が目で見てわかるスポットです。

歴史が大きく変わった場所 アレア・サクラ

歴史が大きく変わった場所 アレア・サクラ

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ヴェネツィア広場からヴァチカン方面に延びる、V.エマヌエーレ2世通りを東に進んでみましょう。

大きな通りで、交通量も多いこの通りを歩いていると突然左側に現れる遺跡がアレア・サクラ。

「神域」と言う名前の遺跡ですが、これはこの地域が軍神マルスの野原といわれ、練兵場として使われていた軍神マルスの神殿があった場所だったからです。

共和政時代の4つの神殿が残っており、周囲にはポンペイウス劇場やアグリッパの浴場などもある共和政末期の新中心地ともいえる場所でした。

紀元前44年3月15日、ここでユリウス・カエサルがブルータスらに暗殺された場所でもあります。

まるでドラマのようなカエサル暗殺

紀元前44年、カエサルは共和政のローマでは異例の終身独裁官に就任し、パルティアに遠征に行く最後の元老院会議に臨みました。

終身独裁官というひとりの人間に決定権を与えた状況を快く思っていなかった共和政治派の元老院委員がカエサルを暗殺することで、共和政を守ろうとしたのです。

当時、フォロ・ロマーノの元老院は手狭になっており、どこで元老院を開くのかは都度決めていました。
3月15日の開催はポンペイウス劇場の東側回廊で行われることになりました。

フォロ・ロマーノの公邸からポンペイウス劇場まで、出席者は徒歩で向かうことになります。

通常終身の公人には警備が付きますが、カエサルは元老院との契約の元、警備を解除しており、腹心の部下で剣闘士並みの武力を持つアントニウスは暗殺者の一味に声をかけられ引き離されました。

そして元老院会議に参加する者は武器の持ち込みを禁止されているため、無防備であったカエサルを14人の実行犯が23箇所の傷を付けて殺害しました。
致命傷は2刃目の胸の傷でした。

カエサルは自分が助からないと察し、自分でトーガの裾を巻きつけて死に姿を隠したと言われています。

この暗殺から内戦がおこり、結果的にはカエサルの養子であったアウグストゥスが帝政へ移行し、以降はローマ帝国として繁栄していくことになります。

この大きな歴史の分岐点となる事件が起こった場所は現在は猫のすみかとなっており、遺跡を囲んでいる柵からは神殿の柱などとともに猫がくつろいでいる姿を見ることができます。

これもまたローマらしい風景ではないでしょうか。

永遠の都の象徴 コロッセオ

永遠の都の象徴 コロッセオ

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ローマ観光の大定番と言えば、コロッセオ。

この大きな闘技場は「コロッセオがある限りローマは存在する」と言われるほどローマの象徴として2000年近くあり続けています。

コロッセオはヴェスパシアヌス帝の命令で72年に建設がはじめられ、その息子のティトゥス帝の時代に完成しました。

皇帝一族の名前を取って正式名称は「フラウィウス円形闘技場」といいます。

建設を始めたころのローマは64年に起こったローマの大火や68年に起こったローマ内戦で街全体が被害を受けていました。

さらに皇帝ネロが浪費した財政は回復しておらず、緊縮政策をとらざるを得ないという市民からの反発必須な状況。

そこで市民たちの不満を解消するため、市民たちに人気だった剣闘士の試合ができる円形闘技場を建設することにしたのです。

コロッセオが建てられている場所は、皇帝ネロの黄金宮殿の庭園一角にあった人工池の跡地でした。

池だったのですでに10メートルほど掘り下げられており、固い岩盤の上にあったことから、基礎工事に労力も費用も抑えられると考えられて選ばれたました。

その後、剣闘士の試合などで使われるだけでなく、当時は異教であったキリスト教徒の公開処刑の場としても使われました。
時代が変わりキリスト教が国教となると次第に剣闘士の試合は減ったようです。

後年、キリスト教徒の殉教者を慰霊するため、コロッセオは教会から保護されましたが、建築資材を調達する場所として表面の大理石などは崩されていきました。
その大理石の一部はヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の建築にも使われたと言われています。

こけら落としは100日間 海戦ショーでも大盛り上がり

こけら落としは100日間 海戦ショーでも大盛り上がり

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コロッセオのこけら落としは100日続いたと言われており、そのショーの中には剣闘士同士や猛獣と剣闘士の試合もありましたが、一面に水を張って摸擬海戦も披露されました。

闘技フロアに水を張る技術や演出力は現代をもしのぐものです。

この100日間の催しで殺された猛獣は9000頭で剣闘士は3000人が亡くなったとも言われています。

コロッセオは4階建ての客席で構成されており、一番下が皇帝と元老院、2階が貴族、3階はローマ市民、4階の狭くて勾配のきつい個所はローマ市民権のない者と女性の席でした。

そして、一番上の階にはポールがいくつも建てられた跡があり、そこから革の幕をはり、全天候に対応できるようになっていました。

どの席も20分以上直射日光が当たらないように設計されていたそうです。

地下では剣闘士や猛獣たちが出番を待っていました。

闘技フロアにいくつもの四角い小さながゲートが今もありますが、ここは地下から人力エレベーターで持ち上げられた猛獣が飛び出す場所でした。
また、フロアの床がせりあがって剣闘士が登場する演出もされました。

今のエンターテイメントとあまり変わらない演出がされていたことが伺えます。

この設備や5万人の人を受け入れることができるコロッセオの建築技術は大変高く、たび重なる地震でも崩れることがありませんでした。

その秘密は天然の火山灰を使ったローマンコンクリートでできており、大変頑丈な作りだったことと、円形のアーチによる分散と設計が安定しているからだと言われています。

どうしても残酷な剣闘士の試合などをクロースアップして紹介されがちなコロッセオですが、後年の人が真似をしても同じ強度のコンクリートを作りだすことができなかったと言われているローマンコンクリートの建築技術を感じることもできる建物なのです。

完璧な古代ローマ建築をみよう パンテオン

完璧な古代ローマ建築をみよう パンテオン

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丸いドーム状の屋根がとても印象的なパンテオン。

パンテオンは古代ローマ建築を最も完全な形で残している建物で、世界最大の石造りの建物です。

その広さや大きさ、建築技術の高さ、そして1900年もの時の流れを見続けていたということも感嘆に値する建物でもあります。

「パンテオン」とは「万物の神々」という意味で、すべての神様へ捧げられた神殿でした。

最初は正面の入口にも記載されているように、初代ローマ皇帝アウグストゥスの右腕であったアグリッパが紀元前27年に建築したものでした。

しかし80年に火事で焼失し、その後118年にハドリアヌス帝が立て直したものが現存しています。

ほかの遺跡のように蛮族による破壊の対象にならなかったため、今もその姿を残しています。
大きなドームに包まれた神秘的な建物だったので蛮族も手を出さなかったとも、キリスト教会にローマ皇帝が譲ったためられたのだとも言われています。

第二次大戦中もナチスはローマ帝国への尊敬を表し、パンテオンを破壊する行為には至らなかったといわれています。

現在はキリスト教の教会として使われており、ラファエロの墓やイタリア国王の墓がおさめられています。

古代の人々の知恵に脱帽

パンテオンは直径43.3メートルのクーポラと呼ばれる丸天井で覆われており、その天井を支える壁は厚さ6.2メートル。

土台はローマンコンクリートで作られており、天井は凝灰岩と軽石の素材で軽く作られています。

ドーム内の唯一の光源である9メートルの天窓が真上に開いており、ここからさす光がドーム内を時間ごとに移動していく様は神秘的

天井が9メートルも開いていると、雨の日はどうなるのかと思いませんか?
それが、この天窓からはあまり雨が入ってはきません。

大きなドーム内に対して小さな穴があいているので、部屋からの空気圧で上昇気流が起こっており、雨が入りにくくなっているのです。

土砂降りの時には入ってくるでしょうが、ほぼ普通の雨は入らないそう。

そして、毎年4月21日の正午には天窓の光が入口を照らすことが最近の研究で分かっています。
4月21日はローマの建国記念日と言われています。
正確に彼らは天文学の知識を使ってこの建物を建てたことが分かります。

本当に古代の人々の知恵にただただ、脱帽です。

サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂

サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂

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コロッセオから東に延びる通りをまっすぐ行くと、白いネオクラシック様式の建物が現れます。

このサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂はローマの4大聖堂のひとつで、「救世主大聖堂」と呼ばれ、ローマの教会の中でも最上位に値する教会です。
またローマ司教でもある法王の司教座聖堂(カテドラル)でもあることから、全カトリック教会の司教座聖堂でもあります。

大聖堂の始まりは、コンスタンティヌス帝がキリスト教を公認し、聖堂を建てるようにとローマ貴族のラテラーノ一族の邸宅を時の法王に与えたことからでした。

邸宅内のバジリカが教会として整備され、洗礼者ヨハネと福音者ヨハネを祀るようになりました。

その横の邸宅はラテラノ宮殿と言われ、歴代の法王の住まいとして整備されました。

1306年にフランス人教皇クレメンス5世がアヴィニョンへ法王座を移すまでの1000年間、この大聖堂がローマのキリスト教会の中心でした。

今なおヴァチカンよりも最上位の聖堂

アヴィニョンに法王座があった間、ラテラノ大聖堂は2度の火事にあい、かつての姿ではなくなっていました。

法王を迎え入れて、祈る場所ではなくなっていたため、法王は現在のヴァチカンにあるサン・ピエトロ大聖堂へ移ることになりました。

以降、法王はサン・ピエトロ大聖堂とその横の法王宮殿に現在まで住んでいます。

17世紀になってから本格的に修復をされるようになり、フランチェスコ・ボッロミーニが手掛け、できる限り残っている時代様式などを活かして現在の姿になっています。

また、この聖堂の横には「聖なる階段」のある建物があります。

言い伝えによると、キリストが十字架を背負って登ったピラトの宮殿の階段がここに移されたということです。

実際にはかつてここにあった宮殿のものを15世紀に移したものなのですが、信仰の対象としてこの28段の階段をひざまづいて登る信者の姿は後をたちません。

すっかり近代の顔を持つようになったサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂ですが、その歴史と伝統の長さは今もなお健在。

現代でもローマ司教座はこの聖堂にあり、この聖堂は離れていますがヴァチカン市国の領内に所属しています。

法王は選出されて一番に訪れるのはこのサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂なのです。

ローマルネサンスの集大成 サン・ピエトロ大聖堂

ローマルネサンスの集大成 サン・ピエトロ大聖堂

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カトリック教会の総本山と言われているサン・ピエトロ大聖堂はローマ時代には城壁外の共同墓地だった場所でした。

64年ごろ、この辺りで皇帝ネロによって聖ペテロが処刑され、その殉教した場所の上に聖堂が建てられました。

キリスト教を公認したコンスタンティヌス帝が315年に聖堂を建てるように指示し、共同墓地から聖ペテロの遺体を聖堂地下の墓に埋葬し直しました。

聖ペテロへの巡礼地として聖堂が作られたため、正式な教会建築として建てられていませんでした。
そのため本来西向きに建てられる教会が現在も東を向いているのです。

法王のアヴィニョン捕囚からの帰還後、法王はサン・ピエトロ大聖堂に住まうことになります。

どこ見ても一級品の装飾と絵画と彫刻たち

最初の聖堂は今と同じ大きさのものでしたが、古くなっており倒壊の危険もあったため、ユリウス2世が建築家ブラマンテに命じ、1506年に教会再建に着手しました。

ブラマンテはクーポラの支柱4本とその上のアーチを作った時点で亡くなってしまい、その後ラファエロをはじめとする何人かが着手しますが、1546年にミケランジェロが引き継ぎ、ブラマンテが当初設計したプランを元に現在見られる聖堂の中心に大きなクーポラをのせるプランを建てました。

ミケランジェロの死後はまた当代の建築家に引き継がれ、1626年に現在の形になりました。

内外ともにローマのルネサンスとバロックの作品がいたるところにあり、その素晴らしい意匠に目がくらむほど。

その中でもぜひ押さえておきたいのは、入って右側の祭壇にある「ピエタ」。
これはミケランジェロ25歳のころの作品。
とてもきれいなマリア様が印象的です。

また、中央奥のねじれた柱で囲まれた「ブロンズの天蓋」はベルニーニよるもので、この下に聖ペテロのお墓があります。

豪華絢爛な大聖堂の中をゆっくりと回ると当時の教会の権力に圧倒されてしまいますね。

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂

ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂

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最後は近代イタリアの歴史を感じることのできる建物をご紹介しましょう。

フォーリ・インペリアーリ通りが始まるヴェネツィア広場に面した場所に大変大きな白い建物があります。

これはヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂で、ローマっ子からは「ヴィットリアーノ」と呼ばれています。

1870年にイタリアを統一した初代国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世の偉業をたたえて建設されました。

コンペで223の応募の中から選ばれたプランで、1885年に着工され1911年に完成しました。

しかし、この建物は古代ローマの遺跡群の中に建てられたため、真っ白な建物が景観になじまないと不評でした。
「インク壺」「ハーモニカ」はたまた「入れ歯」などと言われ、当初は市民の評判は悪かったようです。

ローマを見下ろすビュースポット

正面にはヴィットリオ・エマヌエーレ2世の騎馬像があり、台座や建物の壁面には諸都市の寓意像が埋め込まれています。

1921年には「祖国の祭壇」が作られ、第一次世界大戦で亡くなった無名戦士が祀られていて、常時儀仗兵が守っています。

この建物は上に登ることができます。
パノラマエレベーターで一気に上に登ると、すぐ眼の下には皇帝たちのフォロやコロッセオ、ショッピング街のコルソ通りなど、ローマの街を一望することができます。

大きな街なので、観光する前に登って位置関係をみるにもピッタリな場所です。

永遠の都・ローマを感じる旅へ

古代ローマ建国から2600年以上たってもその偉大さや技術に圧倒され、キリスト教の教会の影響力やその豪華さに目がくらみます。

全世界の中で「花の都」と呼ばれる街はいくつかありますが、「永遠の都」と呼ばれるのはローマだけ。

永遠の都には今なおたくさんの人が訪れ、その幾層にも重なる歴史に魅了されています。

見どころスポットが星の数ほどあるローマの中で、歴史を感じることができるスポットを今回は8つほどピックアップしました。

古代ローマとルネサンス、近代国家イタリアと大雑把な歴史の流れを感じられるスポットですので、ご興味を持てたところだけでも訪れてもらえるととてもうれしく思います。

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