確かにそのイメージも間違ってはいませんが、それに至るまでのプロセス、また、国王夫妻の死後も続いた革命の様子とその終わりについては、いかがでしょうか。王権を打倒して平和が訪れたかと言えば、そうでもなかったんですよ。その頃のフランスの混乱の様子を、今回は主な登場人物と共にご紹介しましょう。フランス革命の成果とその陰の悲劇を知っていただければと思います。
フランス革命以前の状況
フランスを支配していたのはブルボン朝という王家で、太陽王と呼ばれ、強大な王権の元に絶対王政という体制を敷いていたルイ14世の頃に全盛を迎えていました。
ルイ16世はルイ14世の曾孫・ルイ15世のさらに孫に当たります。
しかし、ルイ16世が即位した18世紀末になると、絶対王政の流れが少しずつ崩れていきます。
まず、1776年にアメリカが独立革命でイギリス支配から独立しました。
市民が自分たちの手で自由を勝ち取ったのです。
加えて、ルソーやヴォルテールといった思想家たちによる啓蒙思想が広まっていきました。
啓蒙思想とは、支配者(王)と被支配者(臣下、民衆など)の関係を否定し、人は平等であるという考えが根底にありました。
そして、人々が自分たちで社会を作ろうと目覚め始めていたのです。
当時のフランスの社会体制は、「アンシャン・レジーム」と呼ばれ、3つの身分に分かれていました。
第一身分が聖職者、第二身分が貴族、そして第三身分が市民や農民だったんです。
日本でも士農工商なんてありましたよね。
けれど、それよりももっと厳格なものだったんです。
そのため、第三身分の人々の不満は蓄積していったのでした。
そこへ、アメリカ市民が革命を起こして自由な国を造ったというのですから、影響されないわけがありません。
フランス革命の背景
ルイ16世の頃のフランスは、実は超赤字で国家がとても困窮していました。
というのも、ルイ14世やルイ15世が戦争をしまくったり贅沢をしすぎたりしたせいで、お金が無くなってしまったんです。
増税しようにも、もう民衆からは取りすぎていたほどだったので、さすがにそれは無理でした。
そこで、ルイ16世は、免税特権のあった第一・二身分にも税を課そうとしたんです。
ところが、それまでの特権を無くしたくない第一・二身分は猛反発。
このプランは頓挫していまいました。
加えて、この頃にアイスランドのラキ火山の大噴火がヨーロッパ中の天気に深刻な影響を与えていました。
噴煙で日照量が減り、農作物が不作となって飢饉が起きてしまったんです。
とにかく収入をどうにかしなくては…と考えたルイ16世は、すべての身分の代表からなる議会「三部会」を招集して課税の賛否を決めることにしました。
ところが、これが40日経っても結論が出ません。
特権階級と第三身分の議論は全然かみ合わなかったのです。
球戯場の誓い、新たな議会の発足
そこで、第三身分の代表たちはヴェルサイユ宮殿内の球戯場に集まり、新たな議会「国民議会」の発足を宣言しました。
これが「球戯場の誓い」と呼ばれるものです。
ちなみに、テニスコートの誓いと呼ばれることもありましたが、これは誤訳だとも言われていますよ。
ルイ16世は混乱を収拾するため、やむなく国民議会の成立を認めます。
しかし黙っていないのが第一・二身分の人たち。
彼らは、第三身分に圧力をかけようと、王に軍隊の招集を求めました。
そして、パリに向かって2万もの兵が集まってきます。
危機感と不満が頂点に達した民衆たちは、ついに行動を起こしたのでした。
革命の始まり、バスティーユ牢獄襲撃
国の財政改革のため、ルイ16世は財務長官に民衆からの人気が高いネッケルを任命していました。
しかし彼が罷免されたことで、民衆の怒りにさらに火がついたんですね。
そして、1789年7月14日、民衆はパリのバスティーユ牢獄を襲撃しました。
これがフランス革命の始まりです。
ちなみにこのバスティーユ牢獄、政治犯や精神病者を収容する施設でした。
あのサド侯爵も、革命の直前までここにいたそうです。
パリの人々が立ち上がったことで、地方にもこの動きが波及し、農民は領主を襲って財産を奪いました。
ここで、国民議会は封建的特権の廃止を宣言して領主と農奴の身分関係を無くし、フランス人権宣言を発表したのです。
この人権宣言の基本原則は、現在の各国の憲法にも通じます。
人間の自由と平等、人民主権、言論の自由、立法・司法・行政の三権分立などですね。
王が主体となって政治を行ってきた時代から、一歩前に進み出したというわけです。
ところが、国民議会の宣言をルイ16世は認めませんでした。
というのも、王妃マリー・アントワネットら特権階級の保守派は第三身分を見下しており、そうした声を王は止められなかったんです。
王が弱かったのか、保守派が強すぎたのか…。
そんな現状に立ち上がったのは第三身分の男たちだけではありません。
次に声を挙げたのは、女性たちでした。
女性は強し!ヴェルサイユ行進
ラキ火山の噴火の影響での凶作や、政情不安定によって物価は上昇し、特にパンの原料となる穀物類の価格の急騰は、人々の家計を直撃していました。
そんな中でも、王侯貴族は豊かな生活を送っていたのですから、一般市民には認められるわけがありません。
そして、家を守る主婦たちをはじめとした数千人が、「パンをよこせ!」と叫びながら、王のいるヴェルサイユ宮殿へと行進を開始したんです。
この一部が暴徒化したため、慌てたルイ16世は人権宣言を承認しました。
そして、怒りに燃えた民衆によって、国王一家はパリのテュイルリー宮殿(現在のルーヴル美術館の隣にあった宮殿)へ連行され、監視下に置かれることとなったのです。
これが1790年のことで、この時に現在のフランス国旗が革命の旗となったんですよ。
赤と青は革命軍が帽子につけていたバッジの色で、白はブルボン朝のシンボル・白百合の色でした。
一応は、まだこの時は王家も支持されていたわけです。
王が逃亡!?ヴァレンヌ事件
革命が起き始めたとはいえ、すべての人が王を否定しているわけではありませんでした。
球戯場の誓いの中心人物でもあったラファイエットやミラボーたちは、王を立てて憲法のもとに政治を行う立憲王政派で、特にミラボーなどは王政の存続のため、急進派との調整役を担っており、王にも信頼されていたんです。
しかしそのミラボーが急死してしまったので、ルイ16世は他の革命派を信用できず、密かに反革命の思いを抱き始めていました。
そこで、マリー・アントワネットが実家のオーストリアへの亡命をすすめてきたんですよ。
つまりは、当時ヨーロッパで絶大な力を誇ったオーストリア・ハプスブルク家の力で、革命をつぶしてしまえということだったんです。
ベルばらにも登場する彼女の愛人であるスウェーデン貴族フェルセンの献身的な協力もあり、亡命計画は着々と進んでいました。
しかし、そこはマリー・アントワネット。
馬車や服を新調すると言いだし、計画の実行は1ヶ月以上も遅れてしまいました。
1791年6月20日の深夜、ようやく国王一家は変装してテュイルリー宮殿を抜け出しました。
翌朝には気づかれ、捜索隊が彼らを追います。
早く逃げればいいものを、国王一行はゆっくりと優雅に食事しながらの道中でした。
しかも馬車が豪華すぎて目立ちまくり、誰がどうみても王様だとバレバレだったんです。
当たり前ですが、さっさと捕まり、パリへ連れ戻されてしまいました。
これがヴァレンヌという場所だったので、ヴァレンヌ事件と呼ばれます。
これは、単なる国王逃亡未遂事件ではすまされませんでした。
王が逃げ、外国の力を借りて攻め込んでくるという認識を民衆に持たせてしまったんですね。
つまりは、王は市民の敵ということになったんです。
そして、今まで王を支持する王党派だった人々までが、態度を翻してしまったのでした。
王を幽閉、8月10日事件
フランス革命を聞きつけた周辺諸国、絶対王政の国であるオーストリアやプロイセン(現ドイツ~ポーランド付近)は、フランスへ攻め込んできます。
一応、フランス国内でも1791年憲法というものが制定され、立憲君主制となりましたが、これは形ばかりのものでした。
1792年、ついにオーストリア・プロイセン連合とフランス革命戦争が起こります。
フランス軍は負けまくりました。
指揮官が貴族(つまり特権階級)だったので、あまりやる気がなかったのと、マリー・アントワネットが情報を敵側に漏らしていたためです。
パリ陥落の危機に瀕した革命軍ですが、各地に祖国を守ろうと檄を飛ばすと、続々と義勇兵が集まってきました。
その時、マルセイユの義勇兵が歌っていた「ラ・マルセイエーズ」こそが、現在のフランス国家なんですよ。
パリに集まった義勇兵たちや市民は、革命軍が負け続けるのは王と王妃のせいだと怒りに燃えていました。
そして、8月10日にテュイルリー宮殿を襲い、王権を停止し、国王一家をタンプル塔に幽閉してしまったのです。
これを8月10日事件と言います。
王と王妃を処刑!歓喜に沸く民衆
9月になると、革命軍は盛り返して敵国軍を押し戻し始めました。
それに伴い、義勇兵に多かった下層民の発言権が増していきます。
彼らは急進左派のジャコバン派を支持しており、その中心人物でもあるロベスピエールやマラー、ダントンらが政権の舵取りとなっていきました。
そして、男性普通選挙によって新たな議会「国民公会」が成立すると、9月21日に王政の廃止が決定し、第一共和政が成立となります。
これによってルイ16世はルイ・カペーという一般人となってしまいました。
それからすぐ、共和政府は前国王に死刑判決を下し、1793年1月21日、ルイ16世はパリ革命広場(現コンコルド広場)でギロチンによって処刑されたのです。
その後、10月6日にはマリー・アントワネットも同様にギロチンにかけられました。
王政を倒したと、人々は歓喜に沸きました。
しかし、革命はまだ終わっていなかったんです…。
ジャコバン派の独裁と恐怖政治
国民公会で力を握ったジャコバン派、特にロベスピエールは、権力を掌握すると反対派を徹底的に排除し始めました。
王党派に属した革命の初期の中心人物ラファイエットはベルギーに逃亡し、同じジャコバン派内でも意見が違ったりすればみな処刑されてしまったんです。
ロベスピエールらは公安委員会や革命裁判所などをつくり、弁護人や証人なしの裁判をどんどん行い、反対派を次々にギロチンへ送りました。
これを恐怖政治と呼びます。
フランス語では「Tereur(テルール)」といい、「テロ」の語源となったほどなんですよ。
自分たちの理想とする急進的な共和政を成就させるために、手段を選ばない彼らのやり方には、やがて反発が積もっていったのでした。
そして、再び革命が起きたんです。
テルミドールのクーデタ
恐怖政治を続けるロベスピエールらに対し、同じジャコバン派内でも反発は高まっていきました。
あまりに厳しいやり方は、正直、戦時下の日本と同じようなものだったんですよ。
これでは人心も離れていきますよね。
1794年7月27日、フランス革命暦テルミドール9日、国民公会でロベスピエール逮捕の決議が通りました。
そして翌日、彼を含む22人が逮捕され、即座に処刑されたのです。
恐怖政治は終焉を迎えました。
何事も、行き過ぎればその反動が来るという典型的なパターンです。
その後、1795年に穏健派による総裁政府が樹立され、5人の総裁がトップに立って政治を運営することになりました。
財産資格に基づく制限選挙(国民公会の時は無制限でした)を採用しましたが、これは、穏健派にはそれなりの資産を持つブルジョワが多かったためです。
それは同時に、急進的なジャコバン派の再来や、極右となる王政復活を阻止する両方の意味を持っていました。
とはいっても、右寄りの王党派や超左派など反対派の動きもあり、政情はいまだ不安定だったんです。
そこに現れたのが、ナポレオン・ボナパルトでした。
ナポレオンの登場
軍人だったナポレオンは、王党派の蜂起を鎮圧したり、イタリアやエジプト遠征で大きな成果を挙げたりしており、民衆からの人気は絶大でした。
情勢が安定しない時、人々は強い指導者を望むものですよね。
ナポレオンは、人々のまさに望んだヒーローだったんです。
彼は1799年にブリュメールのクーデタによって総裁政府を倒し、自らを第一統領とする統領政府を打ち立てました。
ここで、フランス革命は完全に終わったのです。
この5年後、1804年、ナポレオンは皇帝となります。
そしてフランスに帝政が訪れたのでした。
さて、フランス革命の話はここまでです。
ナポレオンもまた帝位を追われることとなりますが、それはフランス革命とは別の話題ですので、また別の機会に。
次からは、フランス革命を彩った人々についてご紹介しましょう。
ルイ16世:前途多難の船出
フランス革命によって王位を追われ、処刑されたルイ16世は、1770年、16歳の時にオーストリアの王女マリー・アントワネットと結婚します。
フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家は長年敵対していましたが、それを解消するための政略結婚でした。
しかし、夫婦仲は悪くなかったようで、彼女との間には2男2女が生まれています。
1774年、20歳になった彼は国王ルイ16世となりました。
ルイ14・15世のおかげで財政が破綻寸前だった国を背負い、かなり大変な未来が待っていることは明白でした。
フランス革命のイメージからすると、彼は軟弱で愚かな印象がありますよね。
しかし、財政改革を行ったり(三部会の招集はその一環)、人権思想に基づいて拷問を廃止したりと、王らしいことはやっていたんです。
しかし、すべてがあまりに遅すぎたんですね。
運にも恵まれませんでした。
実はルイ16世はアメリカ独立戦争でアメリカを支援しており、そちらでは王を尊崇する人たちもいたんですよ。
しかしこうした支援も財政悪化を招き、結果、1789年にバスティーユ牢獄襲撃を発端としたフランス革命の勃発を招いてしまったんです。
そして亡命にも失敗した後は、家族と引き離され、そのまま処刑されてしまったのでした。
実はそんなに憎まれてもいなかった
処刑直前、ルイ16世の処遇を巡っては、実は議会はもめにもめていたんです。
死刑に関する投票の結果も、賛成387、反対334と僅差だったのでした。
王妃マリー・アントワネットの数々のスキャンダルにもかかわらず、ヴァレンヌ逃亡事件までは、彼は王としてけっこう尊敬されていたんです。
科学や地理にも理解を示し、積極的に支援もしていました。
最後に残した言葉は、「私は、私の死をつくり出した者を許す。
私の血が2度とフランスに落ちることのないよう、神に祈りたい」ということでした。
王の遺体は、王党派の地権者がひそかに埋葬場所に目印をつけておいたため、後に発見されています。
そして、1815年、マリー・アントワネットと共に、歴代国王の廟であるサン・ドニ大聖堂へ改葬されました。
フランスがここまで逼迫した状況でなければ、平和な時代の王としてそれなりにやれたと思います。
しかし、歴史というものは誰にも流れは予測できませんね。
ベルサイユのばら:マリー・アントワネット
ルイ16世に続いて、ギロチンで処刑された王妃マリー・アントワネットは、1755年にオーストリア女帝マリア・テレジアの11女として生まれました。
女帝に最も可愛がられた娘であり、幼い頃には女帝一家の前で演奏した幼いモーツァルトにプロポーズを受けたというエピソードもあるんですよ。
マリア・テレジアがフランスとの同盟関係を築こうとし、彼女がルイ16世に嫁ぐこととなりました。
14歳という年齢で、異国の宮廷に入ったのです。
彼女と言えば、「贅沢」。
このイメージですよね。
確かに、宮廷のトレンドセッターとして、常に最新のファッションに身を包んでいた彼女が使ったお金は莫大なものでした。
入浴の習慣をフランスに持ち込み、香水のトレンドまで変えてしまったり、奇抜なヘアスタイルで周囲の度肝を抜いたりしました。
また、仮面舞踏会で出会った愛人フェルセンとの関係や、彼女の名を騙った巨大詐欺事件(首飾り事件)などもあり、彼女の印象はより悪く民衆に伝わっていったんです。
彼女を良く思わない貴族たちによる中傷が、一般市民の感情にもより影響してしまったのが、彼女の運の悪かったところでもありました。
確かに、第三身分を下に見ていたり、敵国に革命軍の情報を流したり、民衆からすれば敵だったのかもしれません。
しかし、彼女はそれだけの女性ではなかったんですよ。
贅沢王妃の別の一面
マリー・アントワネットは贅沢をしていただけではありませんでした。
実は、飢饉の時には貧しい人々のために寄付金を集めたり、子供たちにおもちゃを買わせるのを我慢させたりもしていたんです。
また、旧態依然のヴェルサイユでの儀式を簡素化させたりもし、子供を愛する母として、プチ・トリアノンという田舎風の場所で過ごすことを好んでいました。
革命勃発の際、「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」と発言したとされていますが、実はこれも違うんですよ。
1789年以前の書物で別の高貴な女性が言ったものが、アントワネット憎さに彼女の言葉とされてしまったんです。
美しい肌を持ち、エレガントな所作で周りを魅了したマリー・アントワネット。
遺書で、彼女はこう述べています。
「犯罪者にとって死刑は恥ずべきもの。
しかし、無実の罪で断頭台に送られるならば、恥ずべきものではありません」
犯罪ではなかったかもしれませんが、その時の民衆にとっては彼女は敵でしかなかったんですよね…。
恐怖政治の申し子・ロベスピエール
マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(長いです)は、1758年に第三身分に生まれました。
苦学生でしたが秀才で、後に弁護士となり30歳で政治の世界に身を投じます。
ジャコバン派の中心として、穏健派を追放し、国民公会を創設した後は恐怖政治に走った彼には、共和主義者のみによって運営される小さな社会というものが理想にありました。
そのため、少しでもそれに反対するものは次々と粛清していったんです。
そして、テルミドールのクーデタによって捕らえられ、弟と共にすぐさま処刑されました。
過激なイメージのある彼ですが、生活は質素でありとてもジェントルマンだったと伝わっています。
独身だったため女性にも人気があり、彼の演説には女性がたくさん集まったそうですよ。
実は、革命以前の1775年、ルイ16世が彼の学校を訪問した折には学生代表として祝辞を述べています。
まさかそれから20年も経たないうちに、王を断頭台に送ることになろうとは、その場にいた誰が予測できたでしょうか。
ルイ16世とマリー・アントワネットの子供たち
ルイ16世とマリー・アントワネットには2男2女の子供たちがいました。
あまり知られていませんが、彼らは革命の最中にどうなっていったのでしょうか。
長男のルイ・ジョゼフは1789年、7歳半で亡くなり、二女のマリー・ソフィー・ベアトリスも1歳で亡くなっています。
ここでは、残された2人:二男ルイ17世と長女マリー・テレーズについてぜひご紹介したいと思います。
悲劇の王子:ルイ17世
ルイ17世(ルイ=シャルル)は、6歳の時に家族と共にタンプル塔へ幽閉されます。
父ルイ16世が処刑されると名目上の王とされたため、ルイ17世となっているんですね。
最初はまあまあの生活ができていましたが、次第に待遇は悪化し、家族とも引き離されてしまいます。
後見人には一介の市民が付けられ、彼らから虐待を受けながら育てられていきました。
両親を否定する考えを植え付けられ、わいせつな言葉ばかりを教え込まれていったのです。
やがて、トイレもないような部屋へ押し込まれたルイ17世は、病気のために歩けなくなってしまいます。
しかし彼を助ける人もなく、ノミとシラミだらけの不潔極まりない部屋で、粗末な食事と罵りの言葉だけを受けながら、ただ横になって過ごす日々が続いていきました。
誰も彼を人として扱うことはなくなっていたんです。
ロベスピエールが処刑された後、ようやく彼は助け出されました。
しかし衰弱がひどく、1795年にわずか10歳で亡くなります。
母や叔母の死も知らないままでした。
復讐に燃えた王女・マリー・テレーズ
ルイ16世の子供たちの中で、唯一天寿を全うしたのが、長女マリー・テレーズです。
国王夫妻の最初の子供として1778年に生まれました。
タンプル塔に幽閉されると、両親や弟と引き離されてしまいます。
この頃にはある程度の年齢にはなっていたので、おそらく状況も理解できていたでしょう。
そのためか、彼女は終生、革命を起こした側を恨み続けていくこととなるのです。
1795年、母の実家でもあるオーストリアへ引き取られたマリー・テレーズは、ブルボン家の再興に努力し始めます。
結婚相手に選んだのは父方のいとこ、アングレーム公ルイ・アントワーヌでした。
彼はルイ16世の弟アルトワ伯(後のシャルル10世)の息子で、彼と結婚することでブルボン家の血が保たれていくと踏んだのかもしれません。
とはいえ、二人は仲睦まじい夫婦でした。
しかし、フランスを追われたブルボン王家の一員だった彼女にはなかなか定まった居場所が見つかりませんでした。
ウィーン→ロシア→ワルシャワ→ロンドンと、流転の日々が続きます。
そんな中、ブルボン家のためにと、彼女は亡命先で再会した叔父・ルイ18世を支え続けました。
生活に困れば、自分の宝石を売り払って生活費の足しにしたんです。
この間夫とは離れ離れの生活を送っていました。
2度目の革命に直面
苦労に苦労を重ねた生活のためか、マリー・テレーズは、母マリー・アントワネットとは真逆の性格となっていきました。
服装は地味で倹約家、そしてちょっと気難しく敬遠されがちだったそうですよ。
しかし、叔父ルイ18世を支え続けた姿勢は高く評価されていました。
ナポレオン失脚後、ルイ18世が王政復古を果たし、その後は義父シャルル10世が王となり、マリー・テレーズは王太子妃となります。
彼女の望んだブルボン家の復興は成功したかに見えました。
しかしルイ18世とシャルル10世はフランス革命前の特権階級優遇の政策を取り、1830年、再び革命が起きて王家は転覆します。
これが7月革命で、ブルボン家の直系の王はここで途絶えることとなりました。
シャルル10世や夫と共に、マリー・テレーズはイギリスへ亡命します。
やがて再びオーストリアの庇護下へ移り、甥と姪を育て、73歳の生涯を終えました。
夫との間には子はなく、彼女の死によってブルボン家の直系の血筋は絶えることとなったのです。
ブルボン家唯一の「男子」
彼女は父ルイ16世から「憎しみを捨てよ」と諭されていましたが、それは結局できずじまいでした。
父の処刑に賛成票を投じた王族の面会を拒み、ナポレオンを「犯罪者」と呼んだのです。
ナポレオンの100日天下の時には、反ナポレオンの演説の先頭に立ち、その勇壮さに、ナポレオン自身から「ブルボン家唯一の男子だ」と言われたほどでした。
人々から「復讐の王女」と呼ばれたマリー・テレーズですが、一方で慈善事業も行うなど、王族としてふさわしい行動もしていました。
また、反ナポレオンの演説や叔父への献身など、評価される部分も多かったのです。
彼女と弟ルイ17世ほど、フランス革命の犠牲者と呼ぶべき存在は、他にいないのではないでしょうか。
この革命のすべてが、今のフランスの礎となっている
いかがでしたか?フランス革命は、単に国王夫妻が処刑されただけで終わりを告げたわけではありませんでした。
それ以降も血が流れ続け、不安定な状況の中で人々の考えも揺れ動いていたんですね。
しかし、この時の多くの犠牲が、現在のフランスの礎となったわけです。
機会があれば、ぜひフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の歌詞を読んでみて下さい。
驚くほどの勇壮さと時に過激とさえ思える内容に、フランス革命の熱を感じることができると思いますよ。