鎖国の終わりを告げる「日米和親条約」締結への道のり・その後に起こった出来事とは?

江戸時代後期に結ばれた「日米和親条約(にちべいわしんじょうやく」。江戸幕府3代将軍・家光時代から200年以上続いた「鎖国時代」を終わらせたこの条約は「開国」へと向かわせた条約として知られますが、この条約締結に至るまではどのような流れをたどったのでしょうか。今回は鎖国に終わりを告げた「日米和親条約」について、前後に発生した出来事、国内情勢の点も含めて見てみましょう。

条約締結に至るまでの出来事

開国へのきっかけ「ラクスマン来航」

開国へのきっかけ「ラクスマン来航」

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開国へ最初のきっかけを作ったのは、1792年に来航したアダム・ラクスマンを乗せたロシア船でした。
ラクスマンはフィンランド出身の博物学者キリル・ラクスマンを父に持ち、ロシア帝国(ロマノフ朝)の陸軍中尉を務めていた人物。
当時の皇帝・エカテリーナ2世の命を受け、江戸に向かう途中で漂流した大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)らの送還、日本との国交を持つために日本へ向かいます。

根室(北海道)に到着したラクスマンは幕府と交渉しようとしますが通称は拒否、長崎へ行くよう指示されます。
その後ラクスマン一行は松前に向かいますが、ここでも幕府は国書の受け取りを拒否。
ラクスマン一行は漂流民の送還のみ終わるとオホーツクに帰港しますが、これは欧米諸国が江戸幕府に初めて開国を要求した瞬間となりました。

このときラクスマンは「信牌(しんぱい、長崎への入港許可証)」を受け取って帰国することになります。
このときは「これで通商への道が開けるかも」とラクスマンは考えていたかもしれませんが、事はうまく運んでいきません。
ラクスマンが受け取った「信牌」は12年後に大きな影響を及ぼすことになるのです。

レザノフ来航・襲撃事件への発展

ラクスマンが来航してから12年後、次に日本へやってきたのはロシア帝国の外交官であったニコライ・レザノフという男でした。
レザノフはラクスマンが来航時に受け取っていた「信牌(しんぱい、長崎への入港許可証)」を携えて出島に来航。
ラクスマンのときに果たせなかった通商を求めて長崎で交渉を試みます。

しかし交渉で意見が変わるほど幕府の考えは柔軟ではありません。
幕府側は「鎖国制度を変えることはできない」として通商を拒否、このときレザノフは半年以上待たされた後に通商拒否を言い渡されることとなり、これが彼の怒りに火をつけることに。

怒ったレザノフは日本側の領土を攻撃することを決めます。
部下に攻撃を命じたレザノフは樺太(からふと、ロシア連邦サハリン州の島)や択捉島を攻撃させ、幕府側も松前奉行(蝦夷地(現在の北海道)の防衛などを行う役職)や庄内藩(現在の山形県鶴岡市を本拠地とした藩)を警備にあたらせ対抗。
この事件は文化露寇(ぶんかろこう)、ロシア側では攻撃を行った部下ニコライ・フヴォストフの名前から「フヴォストフ事件」とも呼ばれ、1808年(文化5年)にロシア軍が撤退するまで続きました。

イギリス船が入港した「フェートン号事件」

イギリス船が入港した「フェートン号事件」

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続いても長崎に訪れた船に関する事件が発生します。
1808年(文化5年)に長崎・出島を訪れた船はオランダの国旗を掲げて入港してきましたが、これはイギリスの船。
実はイギリスの船がオランダの船を乗っ取り、オランダの旗を掲げて入港してきたのでした。

当時オランダとは「キリスト教徒貿易を切り離して交易できる」ということから交流を続けていましたが、この船がイギリス船であることに気づかない幕府側は入港を許可。
するとイギリス船員たちは人質を取り、食糧と燃料などを要求。
幕府側は交渉を試みますが、このとき出島側の警備は人員を削減しており手薄な状態。
まともに戦えば相手側の攻撃態勢にとてもかなわないのは明らかでした。
それを悟った出島側はイギリス側の要求を受け入れ、食糧と燃料を渡して引き返させることに。
人質も無事に解放され被害は出ませんでした。

しかしこれは幕府にとって大きな屈辱でした。
巨大戦艦を相手に何もできず、物を手渡して解決させたのは「力の足りなさ」を見せつけられたようなものですからね。
この事件の跡奉行は責任を取って切腹、幕府にとって小さくない痛手を負う出来事でした。

間宮林蔵の調査による「樺太発見」

外国船が頻繁に出入りするようになった日本では、周辺環境の調査に力を入れ始めます。
その中で有名なものが間宮林蔵による「樺太」調査でした。
1780年(安永9年)に常陸国(ひたちのくに、現在の茨城県)筑波郡上平柳村に生まれた間宮は普請役(ふしんやく、建築物の築造・土木工事などを行う人)として幕府に出仕、日本地図を完成させた伊能忠敬(いのうただたか)の弟子も務めていました。

伊能の下で測量法を学んだ間宮は1803年(享和3年)から西蝦夷地(日本海岸およびオホーツク海岸)を測量し、ウルップ島(得撫島(うるっぷとう)とも呼ぶ。
千島列島にある島)までの地図を作成。
1808年(文化5年)からは幕府の命により樺太探検を開始、翌1809年(文化6年)にはロシア・アムール川下流を調査し、樺太が大陸から全くかけ離れた位置にある島であることを発見。
この海峡は彼の名前をとって「間宮海峡」と名付けられることに。

調査を終えた間宮は1811年(文化8年)に「ゴローニン事件(千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニンらが国後島で松前奉行配下の役人に拘留された)」調査のため松前に派遣されるなど活躍。
伊能の日本地図作成時には蝦夷地の部分を担当し、その後の地図完成に大きく貢献しています。

ドイツ人医師による「シーボルト事件」

ドイツ人医師による「シーボルト事件」

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1828年(文政11年)には日本に来ていた外国人医師による事件が発生。
それはドイツ人の医師フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによる「シーボルト事件」です。

もとから日本に興味を持っていたシーボルトは日本に渡ることを希望しますが、「ドイツ人」であるシーボルトは正規のやり方では日本には来られません。
そこでシーボルトはオランダの東インド会社総督に頼み込むと来航が可能になり、長崎の出島の「オランダ商館医」となることに。
ドイツ人であるシーボルトはオランダ人に「なりすます」ことで日本行きを実現させたのです。

晴れて日本行きを果たしたシーボルトは1824年(文政7年)に「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を長崎郊外に開講。
集まった医学生に対して西洋医学、自然科学などを教授し蘭学者・高野長英(たかのちょうえい)などの人材がここから生まれました。

そんなシーボルトは4年間塾で教授したのち帰国することになりますが、このときに国外に持ち出すことを禁止されていた「日本地図」を持ち出したことが発覚。
地図を渡した天文学者・高橋景保(たかはしかげやす)は投獄、シーボルト本人も翌年に国外追放処分を受けることに。
地図を持っていただけで処罰とは現代では考えられないものですが、鎖国当時の幕府にとっては「重要な国家機密」であったのですね。

この事件は幕府にとって衝撃的なもので、これ以降幕府側は洋学に対する締め付けをより一層強めていくことになりました。

打払令の実行・幕府への批判

打払令の実行が「モリソン号事件」に発展

打払令の実行が「モリソン号事件」に発展

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1808年(文化5年)の「フェートン号事件」に衝撃を受けた幕府は新たな外国船対策を打ち出すことに。
それが1825年(文政8年)に発布された「異国船打払令」です。

この令はその名の通り「異国船の存在を認めたら、問答無用で迎撃しても良い」ことを法的に認めるもので、「外国人が日本に上陸してきた場合は殺して構わない」ものでもありました。
内容を考えれば非常に危険な法であり反対するものも多くいましたが、鎖国を守ろうと必死な幕府にその声は届きません。

この令が大きく関わることになる事件は1837年(天保8年)に鹿児島湾・浦賀沖で発生します。
この年アメリカの商船「モリソン号」はマカオで保護された日本人漂流民の7人の送還、日本との通商を行う予定で上陸しますが、幕府側は打払令に従って船を襲撃。

非武装状態の船を攻撃した時点で大きな問題がありますが、船の来航目的が1年後に判明すると問題はさらに大きくなることに。
幕府からすれば「令に従っただけ」でしょうが、この強硬策が世論の大きな批判を浴びることになると、対応を批判する書物を発表する作家も次々に登場することになります。

過激な幕府批判に挑んだ「渡辺崋山」

幕府が強硬策を取った「モリソン号事件」による「異国船打払い」を批判する声は次第に高まりますが、その中では有名作家による幕府批判の私文書が書かれていました。

三河国田原藩(現在の愛知県・渥美半島)で家老(武家に仕える「家臣団」の最高職)を務めていた渡辺崋山(わたなべかざん)は1838年(天保9年)に幕府を批判する「慎機論(しんきろん)」を執筆。
その内容は「我が田原は三州渥美郡の南隅にありて」という文から始まり、「外国船の意向を聞きもせず打ち払うことは仁義に反しており、ヨーロッパと外交を持たないのは日本ぐらいである」と日本の外交政策を痛烈に批判。
この作品は崋山自身が「過激すぎる」と考えて未完成のままとなっており、それだけ激しい感情を込めて書いていたのでしょう。

崋山が幕府に関わる人物であることから作品が世に出ることはありませんでしたが、翌年に発生した言論弾圧事件「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」の際に幕府が崋山の自宅を調べたところこれが発見、これが当時はご法度とされていた「幕府批判」の証拠に。
崋山は「蟄居(ちっきょ、自宅の一室に謹慎させられる)」に処され、その後1841年(天保12年)に自ら命を絶つことになります。

幕府批判に挑んだ男はもう一人いた

幕府批判に挑んだ男はもう一人いた

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この時代は崋山以外にも「ご法度」に挑んだ男がいました。
それが陸奥国仙台藩(現在の宮城県仙台市)の一門に生まれた高野長英(たかのちょうえい)です。
1838年(天保9年)に彼が著した「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」は数十人の学者が「モリソン号事件」を論じる設定で展開され、その中でイギリスが強力であること(イギリス船と勘違いされていた)、幕府のやり方が無謀であることなどを述べて幕府を批判。

この書は匿名で発表されましたがその内容は大きな反響を呼び、転写され写本として広まると『夢々物語』や『夢物語評』など作品内容に意見を唱える作品も登場。
人々にとっても大きな衝撃であったのでしょう。

こうした批判が広まってしまえば、それを幕府が知らないわけがありません。
崋山と同じく「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」で捕らえられた高野は「永牢(えいろう、終身刑)」に処され脱獄しますが、1850年(嘉永3年)に潜伏先で発見。
発見された高野はここで力尽き、自ら命を絶ちます。
崋山とともに命を懸けた幕府批判でしたが、その反抗むなしく命を絶つことになってしまいました。
彼らが処分されたこの経緯を見ていくと、どれだけ幕府批判が脅威であったことを表していますね。

日米和親条約の締結・鎖国の終焉

巨大艦隊・黒船が一度目の来航

巨大艦隊・黒船が一度目の来航

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大規模な言論弾圧などを繰り広げながら「鎖国」を貫く幕府ですが、その幕府に大きな衝撃が走ります。
それがアメリカからやってきた「黒船」の来航でした。

1853年(嘉永5年)7月8日に浦賀(神奈川県横須賀市にある地域)へ来航したアメリカ海軍の軍人マシュー・ペリーは、日本に対して捕鯨船の燃料として使う薪と食糧を要求。
これは世界中で行っていた捕鯨活動が長期に及ぶものであり、その活動時に太平洋で補給する際の拠点を求めていたのです。

ペリーは来航に際し開国・貿易を求める大統領からの「親書」を所持してきており、この親書を将軍・徳川家慶(いえのぶ)に渡すように要求。
この要求に幕府は当初拒否する姿勢を見せますが、そこでひるむほどペリーは軟弱ではありません。
位の高い役人を差し出さなければ「直接将軍に手渡しに行く」と幕府を揺さぶり、親書を受け取らせることに成功。
幕府が「将軍が病気のためすぐ判断は不可」として交渉は翌年へ持ち越しとなりますが、ペリーにとっては十分な結果でした。

翌年までに結論を出さなければならなくなった幕府は大慌て。
老中は大名から旗本まで幅広い人々から意見を募り、決断を急ぐようになります。
その国内の混乱は庶民にも伝わることとなり、「泰平の 眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん) たつた四杯で 夜も眠れず」という狂歌は「宇治の高級茶・上喜撰を4杯飲んで眠れなくなった」と「たった4隻の蒸気船が来ただけでおののく幕府」を皮肉った両方の意味で読まれ流行しました。

日米和親条約の締結・鎖国の終わり

決断を迫られてから1年で国の未来を決断しなければならない幕府でしたが、そのときは1年より早くやってきました。
半年後にペリーはやってくることになり、しかも艦隊の数は前回より多い7隻でやってくるのです。

前回の数でも相当な脅威を感じていた幕府ですが、そこから数を増やされてはもう対抗するすべはありません。
完全なペリーの作戦勝ちでしょう。
約1か月にわたった協議ののち、アメリカの開国要求を受け入れた幕府は1854年(嘉永7年)3月31日に条約を結びますが、この条約が「日米和親条約」です。

この条約には日本に不利な条項が盛り込まれていますが、それが「最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)」と呼ばれるもの。
これはアメリカより有利な条約を他国と結んだ際に、その条件をアメリカにも適用させるというものであり、貿易で言えば「アメリカからの輸入品に一定税率をかけた条約を結び、その後に他国と税率をかけない条約を結ぶと、それがアメリカにも適用される」ことです。

この条項が日米両国に認められれば良いですが、この条約ではアメリカにしか認められず、日本は適用できないようになっていました。
日本にとっては開国させられたうえ、不利な条項を飲まされることになります。

日本に不利な「日米修好通商条約」

日本に不利な「日米修好通商条約」

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鎖国時代が「日米和親条約」によって終わりを迎えた日本には、アメリカの外交官タウンゼント・ハリスが新たな条約を結ぼうとやってきます。

開港された下田(静岡県下田市)に入ったハリスは大老・井伊直弼の調印により「日米修好通商条約」を締結、鎖国時代が完全終焉を迎えることに。
このとき井伊は天皇の勅許(ちょっきょ、天皇による命令)を得ずに調印に臨んでいましたが、これは当時将軍の跡取りを巡って幕府が争っており、さらに天皇本人が尊王攘夷派(天皇を尊び、外国を排除する考え方)であったことから得られるめどが立たず。
その中で決断を迫られていた井伊は「勅許なしに調印するのは考えもの」と思いながらも調印に至ったのです。

さらにこの条約の内容でも大きな波紋を呼ぶことに。
この条約には日本に不利となる条項が盛り込まれていましたが、輸入する製品に「関税」と呼ばれる税金を加える「関税自主権」の撤廃、日本で犯罪を起こした外国人を日本の法で裁くことができない「治外法権」は特に有名なもの。
この2つの条約改正は明治に時代が変わるまで持ち越されることになり、調印した井伊はこのあと周囲から大きな批判を受けることになります。

開国に伴う混乱・発生した事件

流通経路の変化・価格高騰による混乱

流通経路の変化・価格高騰による混乱

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アメリカの迫力に押され開国、長い「鎖国時代」に終わりを告げた日本でしたが、開国後には経済面で大きな混乱が発生します。

鎖国時代は商品流通が国内で済んでおり、商品は大坂、江戸の問屋に集められたのち各地に送られていました。
しかし横浜で開港し自由貿易が行われるようになると、問屋へ入るはずの商品は直接横浜へ持ち越されるように。
こうなれば「問屋を通して商品が流通する」仕組みは壊れてしまいますね。
このような流通経路の変化が起こると、問屋へ入らない商品は品薄状態となり価格は高騰。

このほか生糸や茶などは大量輸出により国内で品不足になり、生産が追い付かない「輸出超過」の状態になってしまいます。
この事態に対し幕府は1860年(万延元年)に「五品江戸廻送令」を発布、生活必需品の「生糸・雑穀・蝋・水油・呉服」については江戸にまず送るよう通達しますがこれは効果なし。
横浜で取引できるようになった地方商人と外国商人にとっては利点がありませんからね。

このほかでは日本国内外で価値が逆となっていた金と銀(国内では銀より金、海外では逆であった)の差額を狙って外国の銀と日本の銀を交換するように。
このあと国内で銀を金に、その金を外国の銀に交換したため国内の銀が流出し価格が下落。
これに対し幕府が質を落とした金を流通させて逆に価格が高騰してしまう事態も発生しています。

条約への反対論が「安政の大獄」に発展

国内で大きな経済混乱が巻き起こる中、開国への一歩となった「日米修好通商条約」を結んだ大老・井伊直弼に対しては大きな批判が集まっていました。
1858年(安政5年)に一橋派の徳川斉昭(なりあき)、松平慶永(よしなが)らは調印の責任を問うため江戸城に不時登城(定式登城日以外の登城)。
このとき朝廷も「井伊が悪い」として水戸藩へ「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」と呼ばれる勅書(天皇の命令を伝える文書)を作成、井伊に責任を問うことに。
「尊王攘夷運動(そんのうじょういうんどう)」が広まっていくことになります。

これを知った直弼にしてみれば「天皇から勅書を受け取れない、さらに自分だけ責任取らされる何事だ」という気持ちでしょう。
「幕府の力を示すには、攘夷派を片付けてやるしか手はない」と決断した直弼は、自分の反対派を次々に処罰していくことに。
吉田松陰(よしだしょういん)、橋本左内(はしもとさない)は処刑、後の将軍・一橋慶喜らは謹慎刑となり、この事件は「安政の大獄」と呼ばれる歴史に残る大処刑に。

これで反対派の処分に成功した直弼ですが、こうした強硬姿勢には当然反対派がいます。
そうした反対派は1860年(安政7年)に江戸城桜田門外で直弼を暗殺する「桜田門外の変」で井伊を暗殺。
井伊が暗殺されると、実権を握るには老中・安藤信正が就任、幕府と調停を合体させる「公武合体策」による再建の道を模索しますが、1862年(文久2年)の「坂下門外の変」で信正は襲撃を受け老中の座を失うことに、これ以降幕府の力は大きく揺らいでいくことになります。

海外文化に触れる「使節団」の派遣

海外文化に触れる「使節団」の派遣

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開国して外国の進んだ文化に衝撃を受けた人々は多く、その進んだ文化を「自分の目で確かめよう」と考える人も登場。
そうしたなかで船「咸臨丸(かんりんまる)」が浦賀から出発したのは1860年(安政7年)。

日本人90人の中には「日米修好通商条約」の批准書交換を目的に派遣された「万延元年遣米使節(まんえんがんねんけんべいしせつ)」と呼ばれる使節団が含まれており、そこには乗った福沢諭吉、勝海舟らは、この旅で一行はアメリカの進んだ文化を肌で感じ取ることに。
これが日本人としては津太夫(つだゆう、江戸時代後期の水主(かこ)であった)以来となる日本人2度目の世界一周となります。

幕府は1862年(文久元年)に今度はヨーロッパへ「文久遣欧使節(ぶんきゅうけんおうしせつ)」を派遣。
福沢はここにも同行することになり、フランス、イギリス、オランダ、プロイセン(ドイツ北東部、バルト海南岸の大部分を占める地方)、ロシア、ポルトガルを回り、イギリス滞在時には「ロンドン万国博覧会」を見学。
福沢はのちにこのたびの様子を著書「西洋事情」で紹介しており、それだけ大きな経験になっていたのですね。

こうして少しずつ日本は海外へ目を向けるようになってきましたが、国内では別の混乱が発生、沈静化にはさらに時間がかかるのでした。

薩摩藩による文久の改革・寺田屋事件

使節団の派遣などで海外に目を向け始めた日本ですが、国内では開国への混乱は収まらずにいました。
1862年(文久元年)に江戸に向かった薩摩藩(現在の鹿児島県)の島津久光(しまづひさみつ)は幕府改革を実施。
島津は「公武合体策(朝廷と幕府を合致させる)」を推し進め、安政の大獄により政治の中心を外された一橋派の松平慶永(よしなが)を政事総裁職(せいじそうさいしょく、将軍後見職・京都守護職と並ぶ江戸幕府三要職)に、さらに参勤交代を3年に1度へ変更するなどの改革を実施。

しかし「公武合体策」を進める久光を悩ませる出来事が発生します。
この年山城国紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)の旅館・寺田屋に有馬新七(ありましんしち)ら討幕を計画する武士たちが集まっていました。
久光としては幕府を倒すという考えはこの時点では全くありませんでしたが、彼らは違ったのです。

この情報を聞いた久光は側近らに説得を命じますが失敗。
久光は「主君の命令に反した」として粛清を決意、寺田屋での激しい斬り合いになる「寺田屋事件」に発展。
同じ薩摩藩で「改革しよう」という考えは同じながら、考えの「すれ違い」があったために起こってしまったのですね。

薩摩とイギリスが手を結び始める「薩英戦争」

薩摩とイギリスが手を結び始める「薩英戦争」

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寺田屋事件が発生したこの年には外国人が絡む事件も発生。
武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)を通っていた島津久光一行の前を馬に乗ったイギリス人の一行が横切って行こうとすると、1人の藩士が切りかかります。
彼らにしてみればただ道を通っただけでしたが、藩士たちにとっては「大名行列を横切って行くとは何事だ」として無礼と判断したのでしょう。
最終的に事件ではイギリス人1人が亡くなり、2人が重傷を負うことになります。

尊王攘夷運動が高まる中で発生したこの事件は大きな問題となり、イギリス側は薩摩藩に対し犯人引き渡し、賠償金支払いを要求しますが藩側は拒否。
これに反応したイギリス側は薩摩藩に対する報復を実行することとし、翌1863年(文久2年)7月2日に薩摩湾へ艦隊を派遣、これがイギリス側に63人の死者が出る「薩英戦争」に発展します。
戦争は両者に大きな被害が出たのち、11月に和議が成立すると終結。

この戦争が終わると薩摩藩は「軍事設備の近代化が必要」との考えを持ち、イギリス側も「薩摩藩は良い実力を持っている」と認め合うことに。
薩摩藩はここからイギリスと友好関係を築くようになると考えも「攘夷」から「開国」へ改め、その後の「明治維新」につなげていくことになります。

江戸幕府の終焉・新政府の発足へ

薩摩藩が「開国論」へ考えを改めたころ、長州藩(現在の山口県)では下関海峡において外国船を砲撃する「下関戦争」が勃発します。

イギリス、フランス、アメリカ、オランダの艦隊が下関砲台を攻撃、砲台は大きな被害を受けることに。
この戦争は幕府が朝廷からの要望で実施したもので、長州藩からすれば「幕府から指示があったために行った、そのため責任は幕府で取ってもらう」と考え、この戦争の全責任は幕府が追うことに。
長州藩はそれまで攘夷派の考えでしたが、戦争を終えた「力では及ばない、口だけで攘夷を唱えるのはもう限界」と考え、次第に開国・討幕へと考えを変えていきます。

その後1866年(文久6年)には関係を深めた薩摩藩と長州藩の間で「薩長同盟」に同意、その後1867年(慶応3年)には土佐藩(現在の高知県)の間で討幕のための軍事同盟「薩土密約(さっとみつやく)」も締結され、討幕への準備は整っていきます。
勢いをつけた討幕派は第15代将軍・徳川慶喜に政権を朝廷に返すことを提案、これを受け入れた慶喜によって「大政奉還」が行われ、約260年続いた江戸幕府に終止符が打たれました。

討幕を果たした討幕派は「天皇中心の政治で行く」と宣言した「王政復古の大号令」を発布し、慶喜に対しては「すべての位、領地を返還する」ことを要求。
しかしこれには徳川家が反対、ここから新政府軍と旧幕府軍による「戊辰戦争(ぼしんせんそう)」を経て新しい「明治時代」が始まっていきます。

鎖国は終わる運命にあった

徹底した言論弾圧に過激な外国船打ち払いなど、あらゆる手を尽くして守られ続けてきた「鎖国」はアメリカによってあっさりと終わりを迎えることになりました。
条約を結び「鎖国」を終わらせる判断については「弱腰」との批判も多く聞かれたようですが、仮に開国を拒否していれば武力による攻撃で開国を迫られる予定であったわけですから、どちらにしても近い将来鎖国は終わらせる運命にあったのでしょうね。
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